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● 二〇〇六年二月二十三日(木曜)――「アンフェア」と「推理小説」


先月から始まった篠原涼子主演の刑事ドラマ「アンフェア」が、面白いことになっている。

これは、メタミステリ的な秦建日子氏の原作「推理小説」が、まずあり、それを佐藤嗣麻子氏が脚色している(関西テレビ放送制作、フジテレビ系列で、二〇〇六年一月十日〜三月二十一日放映)。で、一応、文庫に落ちた原作は買っていたが、ドラマを見る前に読んでしまうと感興を殺ぐので、最初の4話が終わるまで、読むのは控えていた。

ところが、原作では、ドラマの4話までしか、ない(4話が終わってから、原作は読んだ)。
その後、ドラマは勝手に展開しており、第1話から始まる劇場型犯罪は、原作での「予告殺人を描いた小説を落札させる」というネタから、さらに、誘拐した少女の身代金を、一人十円ずつの募金によって集める、という奇想天外なものに発展している。
犯人側の怨恨がらみで、ある特定の企業の株を、その身代金で買収し、仕手戦をしかける、という発想は、シナリオ執筆時点では、その逮捕までは見通してはいなかったかも知れないが、当のフジテレビが巻き込まれたホリエモンなどの一連のお騒がせ事件を射程に入れての、時事的にホットなネタである。
だが、繰り返すが、こんな展開は原作にないのだ。

うーむ。
これは、一体、どーなっているのか。
シナリオの佐藤嗣麻子氏が勝手に足したのか、それとも、原作者が、ある程度の原案を出しているのか(原作者は、同じヒロインのシリーズ化を考えている由だから、この時点で、原案があっても、可怪しくはない)。

原作者はブログを書いており、それをザッと読んだ限りでは、どうもドラマ化には、あまり深くタッチしてないように見えるのだが、しかーし、ミステリ作家の(特に、「推理小説」と題する如きメタミステリを書いたような確信犯的な作家の)日記など、信用する方がオカシイので(笑)、当てにはならない。
ちなみに、原作者は、小説はこれが初めてらしいが、TVドラマのシナリオ作家としてのキャリアは長い。業界を充分、知っているわけだから、ますます信用できん(笑)。
どっちにせよ、非常に興味深いところである。

嗣麻子ちゃんとは、一応、面識があるから、直接、聞いてもいいのだが、未完のドラマの途中で、それは、ちょっと同業者としても、憚られる。というか、インサイド情報を得られたとして、この先、ドラマを見るのが面白くなくなるだろう。それは避けたい。
こーゆー話は虚心にファンとして楽しみたいじゃんか(笑)。

シリーズは全十一話で、3つくらいのストーリー(つまり事件=山場)があって、それらが最終的に絡まりあって、ラストで結着がつく、という(公式サイトの情報)。

しかし、原作では、まるっきり無かった話を展開させて、しかも、それが、人の虚を衝くような意外性で、ミステリとしても上質な部類に入る。むろん、ヒロインの篠原涼子のイメージも相まって、ドラマの価値はあるのだが、なによりも、脚本がしっかりしているのだ。

4話までは、まあ、常套的に見えたミスディレクションを、さらに二重に裏切って、誘拐犯の意外性を露わにする手つきは、かなりのミステリ通でも、うならせる強靱さがある。

このままの品質を保って(それに見合った、意外な結末を含んで)、完結したら、ドラマとしても、ミステリとしても、傑作になるだろう。
うー、楽しみ、楽しみ。

付言しておくと、このドラマは、時代のリアリティはあるが、アクテュアリティはない。実際に、このような事件が発生したとして、現実の捜査活動において、ヒロインが取るような行動は不可能である。
だが、それは作品の瑕疵とはならないだろう。
<この作品世界では、そのようになっている>からだ。
脚本家は、現実の捜査活動や警察の実態を、ある程度、知っており、その上で、この、いささか荒唐無稽なストーリーを展開させている、と判断すべきだ、と思う。 「これ、ありえねーだろ(笑)」といったツッコミは、だから、無粋だと思われる。


● 二〇〇六年三月一日(水曜)――推理日記とミステリとアンフェアについて



先日、ドラマの「アンフェア」のことを書いたが、その連想で……。

ミステリにおいて、特に本格ミステリ作品において、フェアかアンフェアか、というのは重大事である。その名も「推理小説」という挑発的な「アンフェア」の原作は、そのことを充分、承知して書かれている。

だが――。
このことは、いわば業界内の「掟」のようなものであり、一般の読者が、どれだけ、そのことに注意を払っているか、よく判らない。他方、トラベルミステリーなどの名で読み捨てにされるようなノベルスや、さらにそれを原作にしたTVドラマ(火サスとか土ワイとか)などになると、もう、そのような〈フェアネス〉への配慮などは、無いに等しい。
云っては悪いが、そのように頽落した作品に慣れた客が、厳密なフェアネスを求めるとは、思えないのだ。

しかしながら、業界内において、いまだにそれが風化していない、ということは事実である。そして、その理由は、ほとんど、佐野洋氏という個人の、あしかけ数十年にわたる、営々孜々とした努力と提言があってのことだ。
このことは、もっと公言されていいと思う。

去年の暮れごろ買った(出たのは、秋口だったと思う)「推理日記」パート10 を読んで、そのことを痛感した。

佐野洋氏は、EQMM(今のハヤカワミステリマガジンの前身)時代から、ミステリのフェアネスと視点の問題について、何度も取り上げてきた。
ミステリが、かつて探偵小説と呼ばれていた時代から、推理小説となり、市民権を得て、世間的に認知されるようになった時代を生き、そのことも射程に入れて、強く、訴え続けてきたのだ。

双葉社のミステリ誌「小説推理」創刊号から現在にいたるまで、一度も休むことなく連載されている「推理日記」は、その時々の作品を主に、ミステリを取り巻く、あるいはミステリが内在している問題について触れたエッセイだが、全く遠慮会釈なく、同業者の作品でも、フェアネスに関して問題がある、と思えば、穏やかな口調ではあるが、指摘している。時には、書かれた作者から反論があることもあり、誌面で活況を呈することもあるが、なんというか、ミステリ界は「大人」の世界であり、SF界のように、その論争によって、勝つか負けるか、などといった死活的論争などには、ならない。

SF界にも、佐野洋氏のような存在があったら、と残念に思うこともあるのだが、しかし、これ、やられたら、実作者としては、相当、こたえるだろう(笑)。ミステリのフェアネスに相当するのは、SFでは論理性とかだろうから、やはり、致命的な欠陥として、指摘されるわけで、まぁ、佐野氏のような存在がなかったのは、SF界にとって不幸だったかも知れないが、いれば、いたで、うざったい存在には違いないわけだから、実作者としては、痛し痒しである(笑)。

ところで、私がミクシーで参加している「悪党パーカー」のコミュというのがあり、そこで一度、トピックとして、ミステリにおける「視点の問題」を出したことがある。
途中で、こちら側の心身的な衰弱もあり、投げてしまったのは、申し訳なかったと思うのだが、なんというか、視点の問題は、それを、一般読者に理解してもらうのが、まず、大変なのだ(これは、途中で気が付いた)。

このことは、以前、中島梓氏がJUNEの「小説道場」で、具体例を挙げて、詳述していらしたが、目下、書籍流の彼方(笑)なので、引用を再現できない。

ともあれ、一人称一視点(オレとかワタシで語られるナラティヴの)作品――ハードボイルドなどに多い――は、誰でも判るだろう。一つだから、乱れようがない。
二人称は、実験作以外には、あまりないので、これは略。
三人称、これが問題だ。
三人称でも、一視点か多視点かで、ナラティヴは変わってくる。

ハードボイルドでも、三人称一視点の叙述作品はあり、これは、ほぼ一人称一視点と変わらない。だが、多視点となると、話が異なる。ことにミステリにおいて、三人称多視点は、ややもすると、アンフェアのそしりを免れない場合もあるのだ(多視点は、多元描写とも呼ばれる)。

さらに云えば、いわゆる〈神の視点〉と呼ばれる究極の三人称多視点描写は、書きやすいこともあるので、私も多く書いてるし、一番、判りやすいだろう。この場合、三人称(彼とか彼女とか)で見た目の光景や心理だけでなく、その人間が、まわりから、どう見えるか、まで書くことが可能な(ある意味、便利重宝な)方法なのである。
だが、安易に使うと、ミステリではフェアでなくなる場合もあるのだ。

例えば――、
「彼は退屈そうにTV番組を見ていた」
――とあった場合、視点は誰にあるのか?
「彼」にあるだろう、と思うかも知れないが、実はそうではない。
ここでは、視点は「神=他者」にあるのだ。

なんとなれば、「退屈そう」というのは、「彼」自身には見えないからである。周囲からの、彼の顔色などからの、それは判断である。ちなみに、本人が真に「退屈だ」と思っているかどうかは、この際、関係ない。はたから見て、「退屈そうに」見える、ということなのである。
しかも、厳密に云えば、「TVを見ていた」かどうかは、はたから見ていても実際には判らない。ぼんやりとTVの方を眺めていただけかも知れず、上の空で、内容は全然、見てない可能性だってある。その場合、正確には、番組など「見て」はいないわけだ。

ゆえに、このような書き方(叙述)は、「神の視点」だと云える。

では、三人称多視点で、「神の視点」でない書き方だと、どうか。
「彼はTVを見ていた。退屈な番組だった」
あるいは、
「彼は実に退屈なTV番組を見ていた」
これでも、まだ正確に三人称一視点での書き方としては不十分だ。

戸惑われるかも知れない。
こうしたことは、おそらく、実作者以外には関心がないだろうし、さらにミステリ以外の関係者にとっては、あまり意味を見いだせないかも知れない。

だが、しかし、ミステリに取っては、これは大きな問題なのである。フェアかアンフェアかが、その書き方に対しても、問われるからだ。

具体例を挙げれば簡単なのだが、それをやるとネタバレになりかねない(というか、なる可能性が高い)ので、やりたくない。抽象的になるが、致し方あるまい。

例えば――、
三人称一視点で書かれたミステリで、その叙述者(ナレータ)が、実は犯人だった、という話があるとする(実際にあったし、しかも、その最初のは超有名な作品である)。
当然のことながら、読者から「アンフェアだ」との抗議が殺到する。

実際にあった某作品でも、その作者は、すでに当時、ミステリ界(世界水準で)の大御所と云われる人だったが、やはり抗議は殺到した。しかし、現在では、その作品は、古典的名作とされ、ぎりぎりアンフェアではない、ということになっている。つまり、作者も、十二分にそのことを判った上で挑戦した結果であり、その叙述方法には、特に念入りに留意しているので、フェアネスの限度いっぱいだ、という判定が下されたわけである。
ついでに云えば、その後、フランスのある作家がこれに挑戦した。これまた、今では、古典的名作となっている(だが、最初の方の作品ほど、上手くはいってない。途中で、すれた読み手によって、バレることが多かったのだ(笑))。

だが、同じことを今、別な人がやろうとすると、相当な苦労が予想されるだろう。まず、その古典的名作と、どうしても比較されるし、その上で、読者を上手く最後まで騙せるかどうか、そして、騙せたとしても、それがフェアなのか、どうかが厳しく問われるからだ。
よくも悪くもミステリとはそういう世界だから、これはしょうがない。

最近の例だと、映画化にもなった、ある新人作家の作品(日本)があり、それは、もう、ぎりぎりであったが、フェアネスの領域に止まり、美事だった。多重人格やジェンダーパニックまで援用しての、「はなれ技」であった。その作家は、それ一作で驍名を馳せたが、それくらい、難易度が高いプレイだと云える。

しかしながら、作者にとっても、これは、容易ならぬことであり、常に、フェアかアンフェアか、問い続け、問われ続けて、試行錯誤しているようなものなのだ。
ミステリ作家で、年季の入った人でも、例外ではない。

こうしたことを、およそ三十年以上、視つめ続け、折々につけ、警鐘を鳴らしてきたのが、前述の佐野洋氏なのである。

例えば、その逝去にともない、故人の思い出話を書いている章で、EQMM時代からの盟友とも云うべき(当時の編集長だった)生島次郎氏の出世作「黄土の奔流」を、佐野氏は、当時、誉めて、すぐに架電するのだが、その時でさえ、視点の乱れを指摘している(「推理日記」パート10 所収)。

佐野氏が問題にしたのは次のような文言である。
「しかし、真吾はがっかりした様子も見せず、さっそく一人ずつ別室に呼んで面接を始めた」
この描写について、佐野氏は――、
「がっかりした様子も見せず」というのは、真吾(主人公)以外の目で見て初めて言いえることではないか。
――と論難を加えたのである。
これに対して、負けん気の強い生島氏も反論するのだが、理は佐野氏にあると云えよう。

その後、生島氏は別な対談で、佐野氏は「透明な文体」を目指しているようだが、自分はむしろ、「語り」によって広汎な読者を獲得したいのだ、という趣旨の発言をしている。佐野氏は、その意見は認めるのだが、同意はしていない。

こと視点の問題に関して、佐野氏は、徹底している。
講談社文庫に落ちた「推理日記」第一弾には、ある作品をめぐって、何ヶ月にもわたる考察が続いており、それには、実は、私の親父まで登場するのだが(彼は、ミステリライターで、佐野氏と親しかった)、最終的に佐野氏が行った発言は、非常に厳格なものであった。

ごく簡単に云うと――、
「彼は景色を見た」は、三人称一視点での客観描写だが、
「彼は景色を美しいと思った」は、心理描写である、と。
それだけではない。
さらに、佐野氏は、前者の「彼は景色を見た」も、厳密には「心理描写」であって、客観描写とは云えない、と云うのだ。
これは、佐野氏は大学で知覚心理学を専攻しており、心理学においては、人は見ているようで、何も見ていなかったりするものだ、人の認知能力は過っていることもあり、記憶はさらに当てにはならない、ということを実地検証している、という背景がある。

だから、景色を見ている、というのは、自覚的に、その人間が「私は景色を見ている」として見ていない限り、ありえない、という立場なのだ。
云うまでもなく、三人称多視点の作品で、登場人物の心理描写を入れれば、それは限りなく〈神の視点〉に近くなる。ミステリの場合、それが(通常の客観描写と)混じり合えば、アンフェアに繋がる、と佐野氏は云うのである。

(追記)
この提言は、さすがに、うちの親父も驚いたらしく、触発され、後に「二十一人の視点」という作品を書いた。犯人を含む二十一人の人間の視点が、各章ごとに交替する(当然、そのうち一人は犯人の視点である)、という野心作だった。 しかし――、 こういう表明は、佐野氏の大学での専攻だけが理由ではないと思われる。
佐野氏は、東大文学部の出身で、当時、詩人の大岡信、日野啓三ら諸氏と文芸同人誌を作っていた。作家としては、後にエンターティンメントに転じたが、当時は、おそらく、純文学を書いていたと思しい。そして、その年代(氏は昭和三年生まれ)の文学青年としては、当たり前のことであるが、当時、文学とはまさしく「大文字の文学」だった。

新聞記者をへて、佐野氏が、純文学と決別し、いかにしてエンターティンメントを書くようになったのか、くわしく知らないが、それなりの葛藤はあったはずである。 似たような例として、SF界でも、小松左京氏などは、京大文学部で(日共のオルグなどもしながら)文学サークルに参加し、高橋和己氏らと同人活動を行っていたからだ。
小松さんの考える「大文字の文学」が、どのようなものかは、「拝啓、イワン・エフレーモフ様」(「日本SF論争史」巽孝之編所収)を見れば判る。
そこで「大文学」と呼ばれているものが、そうである。

SFの第一世代の、特に戦中派の人たちには、そういう共通了解があった。第二世代になると、もう、「大文字の文学」は失なわれて、形骸化した「文壇」が仮想敵になってしまっている(例:豊田有恒氏など)。さらに、我々、第三世代には、もはやブンガクそのものが、対峙する対象としては把えられていない。

だが、佐野氏の世代には、確実に、それは存在した。
同じ東大の、少し後になるが、大江健三郎や、大学は違うが石原慎太郎などにも、それは共有されていただろう。一九三〇年前後に生まれた彼らにとって、「文学」とは人生を賭けるほど重いものであり、その表現である「小説」は身を削る覚悟で書かれた自己表白だったのだ。
必然、その方法論も、自覚的ならざるをえない。
佐野氏の小説観の背後には、そうした事情があるだろう。

別な章で、佐野氏は――、
「作者が顔を出して説明するような作品は、小説ではない。講談だ」
と述べている。これは、非常に手厳しい意見である。

例えば――
「大衆小説を読んでいると、『このあと、太郎には過酷な運命が待ち受けているのだが、神ならぬ身の太郎は、知るよしもなかった』というような表現にぶつかることがあるけれど、そんな風に予言をするのも講談の特徴で、それが大衆小説界に伝染したのだ」
と書いておられる。
幼少時の思い出から「知るよしもない」という表現そのものが大嫌いだ、とも記している。筋金入りだ。
ちなみに、佐野氏はエンターティンメントという呼称にも拘っており、それは、「大衆小説」やその作家たちが、戦時中、(大政翼賛会などを通じて)悪質な戦争協力をした事実を踏まえてのことだ。これまた筋金入りなのだ。

だが、問題は「講談」である。
なぜ、講談の手法が問題になるか、というと、おそらく、東大時代にマジメに文学と対峙した佐野氏にとって、小説=文学であり、それは、張扇片手に弁じる講談とは違うものだ、という矜持があったからだろう。

この問題に関しては、ある賞の選考の際に、野坂昭如委員と論争となり、野坂氏は「むしろ衰退しつつある小説を、講談の力で賦活させることが必要だ」といった趣旨で、反論しているし、前述の生島氏の「語り」についての反論も同類だろう。
だが、佐野氏は納得していない。

「知るよしもない」という表現は、それまで作中人物に同化していた(感情移入していた)読者を、いきなり「神の視点」にまで引っさらってしまう行為であり、小説では、慎むべきだ、という信念があるからだ(講談を、一段低く、差別的に見ているとも思えるが、そうではなく、現時点から振り返った大過去を物語るのが講談であり、小説とは多くが、同時進行形か、近接過去を物語る性質であるために、そうした筆法は控えるべきだ、という意見である)。

少し、論旨が取っ散らかってしまったが、視点の問題だけでなく、佐野氏が、きわめて厳粛なる立場で(ご自分のも他人のも含めて)ミステリ作品に臨んでいることは、ご理解ねがえるだろう。

だが――、
あいにく、私は、佐野氏ほど厳密には、小説を把えていない(ブンガクを書こうとも考えていない(笑))。

視点の乱れは、これは、自戒として自分でも気をつけているし、以前、新人選考委員をやった時には、視点の乱れが目立つ応募作品に対して、かなり厳しく評価もした。本当に苛立つほど、視点が乱れている作品、というか、もう小説における視点ということが全然、判ってないとしか思えないような作品があったのだ。目があっち行ったり、こっち行ったりで落ち着かない。
自分では、基本的に、一シーン一視点の原則に基づいて書いている。
それ以上は、他人にも求めない。

だが、私は、今さら、ミステリを書こうとは思っていないのだが、それ以上に、講談のように「作者が顔を出して説明する」作品を、書いてはならない、とは思わない。現に、いくつか、そういうSFを書いている。自分の作風を「講談」調だと思ったことはないし、それがいけない、とも思ってはいない。
 作品のプレゼントタイムにおいて、その未来を予測させるような文章――たとえば、「その出来事が来たるべきカタストロフの第一歩だったことに、そこにいる誰も気づいた者はいなかったのである」式のもの――は、表現としてダサイとは思うが、必要ならば、あえてダサイ文章を作中に放り込むことに、ためらわない、というのが正確だろうか。

ただし、佐野氏の主張は判る。
そして、氏の三十年以上にわたっての、うまずたゆまぬ努力によって、日本のミステリ界が、間違いなく、よい方向へ進んだことは、いくら評価しても足りない、と思う。

視点やフェアネスだけではない。
現実の警察の捜査活動がどうなのか、細かい点まで氏の論考は及んでいる。
日本の警察機構の人事権や指揮系統からしいて、有り得ないような異動などは、厳しく指弾される。それは、ただ、無知ゆえに間違っていたとしても、指弾される理由は、単に間違っているからではなく、ミステリが本質的にフェアであるべきである以上、そうした無知による間違いですら、作者が仕掛けたトリックかも知れない、という読者の無用な勘ぐりを排除するため――なのだ。
あくまでも、フェアネスが根本原理なのである。

一部の現象を見て、日本の本格派とハードボイルド派は対立している、と思っている人もいるかも知れない(まぁ、当たっていなくもない(笑))。
しかし、そのハードボイルドの、紛れもなく若手の中心人物である大沢在昌氏にしても、佐野氏の教えを遵奉しているのだ。若くしてデビューした氏の、六本木時代の作品は、かなり荒唐無稽なものもあったが、作家としても成熟してから書いて成功した新宿鮫シリーズでは、非常に手のこんだ設定で、本来ならば設定自体に無理のある主人公を、出来る限り(そうした人物造形があってもおかしくない)と思わせるだけの努力や配慮をしている。あの作品の厚みは、そうした結果である。
佐野氏と親しく交わった大沢氏が、自然と陶冶された結果だろう。
本格と対極にある分野の人にして、こうである。影響力は大だ。

今年、喜寿を迎えられるはずだが、もっともっと長生きされて、今後も「推理日記」を続けられんことを、心から希う。



● 二〇〇六年三月十五日(水曜)――「アンフェア」第十話および総集編予告




ついに後一回となった――つまり次回が最終話となった「アンフェア」だが、昨夕、「ナースあおい」と抱き合わせながら、「アンフェア」の、これまでの粗筋と見所をふくめ、堂々と「視聴者への挑戦状」が番宣として組まれた。

うーん。これは珍しい。
体のいいダイジェストと、(その時点で)残り二話を、何話か見逃している人々でも、「今からでも遅くはない」(笑)という趣旨の番宣も兼ねているのだが、ミステリ的に云えば、これは「読者への挑戦状」に等しい。なかなか、ミステリのTV番組でも、これだけのことを仕組んだものは少なかろう。

すなわち、作り手側に、それだけの自信があるのが伺える。
今回、第十話のラストシーンまで見ても、それが果たして、見た通りのコトなのか、それとも、またしても手のこんだフェイク、ないしミスディレクションなのか、容易に判然としないので、なんとも云えない。作り手は、一般の視聴者のレヴェルではなく、明らかにミステリの読み巧者のレヴェルを念頭において、これまでのストーリーを展開しているからだ。
正直、今の段階で、私には、「真犯人」を明確なロジックの裏打ちによって、名指しできないんだよね(笑)。

口惜しいが、「あの二人」が繋がっていることの示唆としての「小道具」の明示性なんて、完全に見落としてたしなぁ。くそー。
まぁ、騙される快感、ということもある。
次週、最終回を大いに期待したい。

先日、SF大賞のパーティの二次会で、小谷真理も、私同様、「アンフェア」の第五話以降の脚本は、一体全体、佐藤嗣麻子ちゃんが、独自路線で展開しているのか、それとも原作者との打ち合わせでやっているのか、判らない、と云っていたし(彼女は、嗣麻子ちゃんとは、より親密だから、聞いてみたら教えて貰えるはずだが、当方と同じ心情で、控えたと思しい)。
とにかく、あの緻密な脚本には、ちょっと太刀打ちできない。

私が、映像作品で、それを脚本段階で傑作だ、と思うものは、けして多くない。むろん、チャチなホンから傑作が出来るはずもないのだが、総合芸術である映画は、ともすれば脚本の役割が忘れられがちなほど、監督の力量をはじめ、キャスティングその他の要素が左右するので、なかなか、これは、まず脚本が凄い、という作品には出会わないのである。

SF映画だと、即座に思いつくのは、「バックトゥザフューチャー」(第一部)、「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」くらいだろうか。

例えば、「仁義なき戦い」四部作の笠原和夫氏のホンは優れていたが、あの映画の成功は、やはり、深作監督の力量や俳優陣の快演も大いに加算されるので、脚本だけの勝利、と判定できない。その点、前者の二作は、脚本だけ読んだとしても、まず、大傑作であろう。
とにかく、ムダがない。あらゆる部分、あらゆる台辞が伏線となっている。小道具の使い方ひとつ、脇役の何気ない一言、全てが総動員されて、怒濤のクライマックスへと密接につながっている。
私は、そんな作品が大好きなのだが、そういう作品は、本当に少ないのだ。
 サスペンスだと、最近では「ダイハード」第一部が優れていた(映画の歴史は長いので、ヒチコックがやっと近代くらいの感覚なのである(笑))。

TV番組だと、もっともっと少ない。
当然、と云っては失礼だが、しょせん、CFのついでに見る(スポンサードの商業資本サイドから見たら、そうである)無料のTV番組と、木戸銭はらって観る映画とは異なるから、しようがない。
だからこそ、その稀少な例外は記憶に残る。

大昔だが、丹波哲郎(合掌)が主演していた「バーディ大作戦」の「刑事ボロンボ殺人事件」というパロディめいたタイトルの、一見、おふざけ調の作品などは、今でも忘れがたい(当時、「刑事コロンボ」が裏番組で高視聴率を取っていた)。

あるミステリ系シナリオ作家がいて、それが実際に人(女房だったか)を殺したがっている。それが、劇中劇のように(つまり作家の脳裏の妄想として)「刑事ボロンボ」なる映像が進行し、また、実際の作家の行動とダブる。さらに、バーディ私立探偵局では、画面の背後で、下っ端がその事件やその他の雑用に振り回されているのだが、前面では、バーディ探偵局長丹波哲郎と出入りしてる警部が、えんえんと、ヘタな将棋を指していて、丹波哲郎は、ことあるごとに、相手の局面や下手な打ち方を皮肉る台辞を吐くのだけれど、それが全部、殺人事件やその作家の秘密裡な殺人プラン、ないし、捜査の手がかりとして機能する(つまり、彼の台辞が、ことごとくダブルミーニングになっている)、という、猛烈に手の込んだホンであったのだ。
当時、録画も出来ず、脚本家が誰なのか、今もって不明だが、優れたホン屋であったと云えよう。TVの脚本には、もったいない、とすら思ったものである(つまり、それをミステリとして活字の本にすれば、瞠目すべき、ユーモアでくるんだ本格ミステリとなりうる骨格を持っていた、ということだ)。

 (あとでウェブで調べたら、ファンサイトがあり、この回の脚本家は池田雄一氏であった。さすがである。なお、ここで紹介されている粗筋は当方の記憶と若干、違いがあるのだが、まぁ、気にしないことにする(笑))

ミステリにおける「伏線」の妙は、見る側にも、あまり理解されていないことが多いように思える。
そのことは、ミステリ評論家を名乗る大勢の馬鹿野郎たちが、よく「詳しくは書けないが、このミステリのラストのどんでん返しには唸らされた」などと書いているのを見れば、明らかであろう。
おめーら、書いちゃってるじゃんかよ(笑)。
てんで、ミステリが判っちゃいないのである。

「どんでん返しがある作品」は、そう書かれたら、オシマイなのだ。
そう書いてあれば、そして、それを事前の知識として知っていれば、読者は、相当な低脳でも、ラスト近くで、それに気づくだろう。慣れた読者なら、そのための伏線にも、気づくはずだ。特に視覚に訴える映画で、「この作品のラストは、誰にも話さないで下さい」などと宣伝しているのがあるけれど、宣伝文句としてはどうだか知らないが、ミステリファンから見れば噴飯ものである。作り手の努力を無に帰する、心ないやり方と云わねばならぬ。

伏線は、さり気なく。結末=意外性は、誰もが驚愕するほどに。
これが、ミステリの要諦だ。

映像で明示的に示される作品では、それがさらに顕著かつ困難となる。そのような枠組みがあり、だからこそ、傑作は、ひときわ輝やくのだ。

こうした基本的なことが判った上で、エンタメとして、TVのワンクールの制約の下で、ミステリの見巧者をも引っ張る作品を創っている、佐藤嗣麻子氏以下の人々に、惜しみない拍手を送りたい。
(とは云え、最終話のラストで、私が憤激する畏れも、まだ皆無とは云えないのだが(笑)……)。



● 二〇〇六年三月二十二日(水曜)――「アンフェア」最終回




ついに終わった。いや、お見事。
やはり、前回のラストは、一種のミスディレクションでフェイクだった。

そこまでは読んでいたのだが、今ひとつ、具体的な確証がなかったので、真犯人を最後まで絞り込むことが出来なかったのは、ちと残念だったが、うん。いい出来でした。
本格ミステリとして、「フェア」であったし。作家の意気や、よし。

あと、もう一ひねりすれば、完璧だったとは思うが――、

前回までの時点では、「意外な真犯人」の候補は、ほぼ、三人くらいしか、いない。あまりにも憎々しげなヤツは、かえって「意外性」がないので、本格ミステリでは、ほとんど「執事が犯人だ」と云うのと同じで、それをやるほど、作家は厚顔無恥ではないはずだ。

そうなると――、やはり、候補は三人。
そのうち、三人目は、それが真犯人であっても、ヒロインにとって、それほど心的ダメージが大きくない。だとすると、あとは二人のうち、どちらか、あるいは、二人とも、という選択肢しか、ない。

結果的に、物語としては、「どちらか」を選択したのだが、もう一つヒネリ(ツィスト)を入れるとなると、本格ミステリとしては、表面上の真犯人が死亡した後で、もう一人の「裏の真犯人」がほくそえむ、ってな展開も可能なわけである。
その場合、ヒロインの父親が、なぜ殺されたか、という疑問も、解明される余地が出てくる。というか、そこまで踏み込まないと、この「真犯人」説は、説得力を失なうであろう。

しかし、まあ――、
あの尺で、そこまで求めるのは、ムリか。

もっとも、最終回の(クレジットが流れた後の)ラストシーンでは、犯人の死亡現場で、ヒロインが何かを視た、というような印象を与えるので(篠原涼子の「眼ぢから」が、そう見える(笑))、スペシャル編で、この続編を作り、もう一回、全体を引っくり返すことは可能だが、まぁね、そこまでは、やるまい。
やったら凄いだろうが、そうすると、TVドラマの枠組み自体を解体することになる。約束事、として、それがまた、「フェア」か「アンフェア」か、という問題にもなる。 「アンフェアなのは誰か」というのがテーマになっている、メタミステリ的作品だから、そこらへんの案配が難しい。構造そのものがアンフェアだと、この完結した世界が崩れるだろう。
ことほどさように、ミステリとは、面倒くさいものなのだ(笑)。

これが、海外の大部の長編小説だったら、もう一回くらいは、どんでん返し、やるかも知れないけど(あいつら、やっぱ肉食動物だから、くどいのが好きなのだな(笑))。
まぁ、ドラマでは妥当な線だと思います。
いやー、堪能した、堪能した。「引き」も上手いし。ワンクール、十一回、少しも、飽きさせなかった。これは、最近では、ドラマとしても、ミステリものとしても、珍しい。
それくらい、純粋に、「お客」として娯しめた。拍手。

あとは、このストーリー展開が、嗣麻子ちゃん独自のものなのか、そうでないのか、って謎だけであるが……。
どうであろうか?


追記
気づかなかったのだが、「アンフェア」の公式サイトにBBSがあった。
http://www.ktv.co.jp/unfair/
当然かも知れないが、更新は最終回の前日までで、いったん切れて、最終回が終わった後で、書き込めるようにしたようだ。掲示板は即時更新ではなく、管理人がチェックをして、時間差をおいて、表示されるシステムを採っている(らしい)。
昨日と今日、ザッと見ただけだが、面白かった。
ずいぶん前から、視聴者が熱い思いのたけを書き記しているのだ。
誰が真犯人か? という点でも盛り上がっている。

微笑ってしまったのは、本格ミステリのマニアなどが、犯人当てをやっているのだが、まぁ、まぐれで当たってるのもあるのはご愛敬としても、中には、かなり緻密に分析した挙げ句、ヒロインが二重人格で、全ての殺人は彼女がやっていたのだ、という説があった。

これは、「視点」問題からして、ムリがあるのだが(映像での「視点」も難しい問題だが、やはりフェアの壁は在る)――。

しかしながら、この作品には、かなり、フェア/アンフェアすれすれの、ミスディレクションは結構、多い。ホラーの方法論に近いサスペンスフルなカットバックで、二つの別なシーンを交互に繋げ、あたかもAのシーンにいる人物がBの場所にいるような手法が、多用されているので、ぎりぎり、ヒロインが殺人の現場に辿り着いたように見えるとき、実は、それより以前に着いていて、その殺人を行っていた、という仮説が成り立つ余地も、なくはないのだ。

だが、いくらなんでも、容疑者を連行中に、遠距離からライフルで狙撃された時、となりにいた(連行していた)ヒロインが、その犠牲者を殺せたはずはない。
共犯者の線は、ぬぐえないにせよ、これは全部、ヒロインの自作自演だ、という説だから、拳銃とライフルでは弾丸も旋条痕も異なるし、射角その他も違うだろう。まあ、着眼点はいいが、ちょっとミステリの読み過ぎによる、勇み足であったようだ。
(最近、この「多重人格」モノは、やたらと多いので、食傷気味であるが、中には、手垢のついたネタでも、逆手にとって傑作を書く人がいたりするので、油断はならない(笑))

ところで、この掲示板に、ヒロインの雪平夏美名義で、主演の篠原涼子が「ご祝儀的」書き込みを行なっている。
最後の書き込みは、三月十七日の内容で、二十日更新である。そこには――、
「実は一昨日、すべての撮影が終了となりました。(ギリギリ!)」
――とあって、さすがに驚いた。

放映の1週間より以内に、撮影やってた、というのは、本当だとしたら、非常にタイトなスケジュールである。編集は、大変だろう。
脚本は、役者にも先のほうは見せないで、撮っていたらしいのだが、香港映画じゃないんだから(笑)、よくまぁ、つじつまを合わせられるものである。



● 二〇〇六年十月四日(水曜)――「アンフェア」スペシャル(%1)




今年一月から三月にかけて放映されたTVドラマ「アンフェア」のスペシャル版が、昨夜、2時間の単発ドラマとして放送された。三月の時点で、まさか、そうはしないだろう、とか云っていたことが実現したのだ。快挙である。

むろん、主演・雪平夏見=篠原涼子ほか同じキャストで(死んだ安藤刑事も、回想シーンではなく登場し、一部の安藤ファンを喜ばせている(笑))、脚本の佐藤嗣麻子氏らスタッフも、ほぼ前回と同様。スペシャル版とはいえ、前回までの視聴者を対象に、積み残された謎を追う、という形で連続性があり、そういった意味合いでは、正確な単発ドラマとは云えない。
いや、それどころか――。

ところで、本編放送の頃から懸案だった、「原作ではドラマの四話分しかないが、その後の展開は、脚本家・佐藤嗣麻子氏のオリジナルなのか?」という疑問点を、先日、佐藤氏ご本人にメールで確認したばかりだ。
その返信によると――、
ドラマ五話以降は全て佐藤嗣麻子ほかスタッフのオリジナルである。
安藤が犯人であることは佐藤嗣麻子が提案し、原作者の承諾も得た。
スペシャル版、並びに映画版も全て佐藤嗣麻子ほかスタッフのオリジナルである。 ――とのことであった(つまり、原作者は映像化にタッチしていない)。
そう、この作品は、スピンオフして、来春、映画版が公開予定なのだ。
その準備のため、佐藤氏は、目下、修羅場ってるそうだが、ご多忙中、こちらのメンドな質問に快く応えて頂いたことには深く感謝する。
小谷真理の情報によれば、佐藤嗣麻子氏は、この作品で、「ザ・テレビジョン」誌の脚本賞を受賞されたそうであり、友人としては、心から、祝福したい。

また、私は、ドラマや映画の業界のことは何も知らないのだが、少なくとも、この作品に関しては、プロデューサー、脚本家、演出家などが合議の上でプロットを練っているようだ(原作者は、ご自身が脚本家であるためか、逆に、「お任せ」したと思しい)。佐藤氏は、当方あてのメールで最初に私が書いた記述(=全てが佐藤氏のオリジナルと誤認した)を訂正している。謙虚な方だ。原作者はこの時点で、別に雪平を主人公にした小説の第二弾を書いており、ドラマや映画にはノータッチの立場を貫いているし、他人の手柄を横取りするような人がいない現場なのだろう。彼らの未来に幸いあれ。

で、肝心のドラマ・スペシャル版なのだが……。

ううむ。
なんと云っていいやら(笑)。

まず、ドラマ本編の最終回の直前、および直後に、私が推理した犯人像は、ほぼ、当たっていた(これは、自慢するほど、大した想像力を必要としない。スレたミステリファンならば、大体、当てるであろう)。
ただし、ストーリーの根幹となる、公安内部の暗闘、といった部分は、当然のことながら、想定外であった。
だが、そんなことは、どうでもいい。問題は別にある。

一言で云えば、これは、映画版の壮大な予告編だったのだ(笑)。

フェアか、アンフェアか、ということで云うと、ギリギリでフェアかも知れないが、正直、いろんな意味で、騙されたぁ(笑)、という感じがしないでもない。

フジテレビは、このスペシャル版の放映に合わせて、先々週から、全十一話の再放送を行っており、かなりの意気込みである。平均視聴率も十五%以上あったと云うし、スピンオフ作品が映画化というのは、ヒットと云ってもいいのだろう。
TV業界のことは何も知らないのだが、この作品は、制作が関西テレビ・共同テレビ(プロデューサーは、そこの所属)で、ドラマ版の四人の演出家のうち二人が、各々スペシャル版、映画版の演出や監督を担当している。配給は東宝である。
フジとタイアップしての本格的な「シャシン」なのだ。

つまり、昨夜のスペシャル版は、この映画版の公開に向けてのプロジェクトの一環としてあり、これから、さまざまな媒体で、盛り上げてゆく予定なのだろうが(一時期、中断していたウェヴ公式サイトも再開され、すでに時間差BBSに多数の書き込みがある)、しかし、作品としては、「映画の予告編」という色彩から、やや中途半端になったのが惜しまれる。
事件は完全に「解決」しておらず、映画「アンフェア:最終章」で、未完の部分が解き明かされるであろうことを予感させる「作り」になっている。

この制約もあってか、スペシャル版は、毎回「引き」を必要条件としたドラマ版とは自ずと異なり、演出も、やや一本調子な印象は否めないが、二時間十八分、強引に見るものを引っ張ってゆく。だが……。
映画の予告編としては、申し分ないが、残念ながら、単発のドラマとしては、本編ほど高い評価は与えられない。なにぶんにも、未解決な部分が多すぎるので、どちらかと云えば、単独作品としての評価を、自ら拒否していると云っても過言ではないからである。

作品の評価は、だから、一応、措いておく。
雪平の父の死に、重大なヒントとなる、安藤が雪平に残した動画(=遺書)の後半部分を九ヶ月も知らずにヒロインが放っておいた、とか(安藤の死後にすぐ見ていれば、この事件は、そもそも起きていないだろう)、公安の組織の描写が曖昧だとか、いくつか瑕疵はあるのだが、それも、ひとまず措く。
ここでは、二つの問題点を指摘することにしよう。

一つは、こうしたドラマからスピンオフした映画のあり方について。
もう一つは、刑事ドラマの変遷(というか進化)についてである。

ドラマが成功して、映画版が作られる、というのは他にも例がある。

だが、映画ファンである私は、こうした時に、必ず、咄嗟に思い出すのだが、「踊る大捜査線:ザ・ムービー」が公開された時、キネマ旬報で、硬派というか生真面目な映画評論家である山根貞男氏が、これを定期コラムの時評で、さんざんに酷評したことがあった。

要するに、映画としては、焦点がボケてて、なんだか判らない、というような評価だったと思うが、これは、当たり前だ。おそらく、山根氏は(その時点で)TVドラマ版を見ていなかったと思しい。映画での人間関係などは、ドラマを見た人間が判れば、それでいい、というスタンスで製作されており、いちいち説明がない。だから、評判だけ聞いて、小屋に足を運んだ客は、山根氏と同様、やっぱり、なんだかよく判らない、といった印象を受けたはずである。

「踊る大捜査線」は、ドラマとしても成功して、スペシャル版も作られ、映画化もされ、ヒットした。さらにスピンオフして、主人公・青島(織田裕二)が登場しない番外編の映画まで公開された。
TVドラマとしては、異例の大ヒット作だと云えよう。

だが、この映画の作り方は、一面、非常な危険を孕んでいた。
おそらく、製作サイドは、その危険を計算ずみだっただろうが、彼ら(TV界での制作を出自とする人たち)が映画界全体に及ぼす影響を、どれだけ自覚していたかは、疑問だ。

すなわち、山根氏の酷評は、ある意味、正当なのである。
TVシリーズを見て、そこでの人間関係(アミーゴスのくすぐりなど)は、内輪の了解事項でしかない。だから、その説明を(TVでご覧の皆さんはお馴染みでしょう、として)省いた作品は、これは、単独の映画作品として評価できないのが当然なのだ。
ある程度、初見の客にも配慮はされていたが、映画版は明らかにTVドラマでのファンを対象に、ターゲティングしていた。

TVと映画は違う。スポンサードが資金を提供し、家庭でTVを点ければ無料で見られる作品と、木戸銭払って、小屋で観る作品が同じなわけはないのだ。
これは、別にTVを差別しているわけではない。映画関係者は、そういう見方をする人も多いが、こちらは単なる一ファンだから、そのような観点からは、個々の作品を見ない。
映画を「本編」などと云って、TVと区別(差別?)するといったことは、その業界内での問題であって、お金を払う観客には、本来、無関係である。

だが、やはり、「踊る大捜査線」映画版には、いろんな問題があった。
一つには、これが大ヒットしたこと自体にある。

そのことは、もとより慶賀すべきであろうが(特に、退潮著しい日本映画界にとって)、それが逆に、映画界の首を絞めるような風潮を招いた、とも云えるのだ。

TVシリーズを見ないで、この映画版を観ても、そこそこ楽しめるが、本当に面白くはない。
TVドラマとしての「踊る大捜査線」は非常に優れた出来映えで、当時、知り合いの編集は、「アニメ、特に、押井守演出のパトレイバーの演出方法が、実写ドラマに活かされた好例だ」と評していたが、炯眼であろう。
そうした新しい世代の感覚が、そこには確かにあった。
だが、観客のターゲティングを、TVドラマのファンに絞った戦略は、悪い前例を残したような気がするのだ。

最近の商業資本は、一見、広汎かつ大量な投資に見えても、実は、細かい区分化によって、その対象を選択的に一局集中して、絞っていることがある。
これは、コンビニエンスストアのエリアごとの(POS=データベースによる)客層の把握と、それに伴った商品展開の差などに明白に見られる現象だが、それが、映画といったカルチャーにまで波及しているとしたら、問題だろう。

すなわち、どれほど興行成績が巨額であっても、それを支えたメインの集客は、非常に狭いものだった、ということが有りうるし、現に「踊る」ではそうだっったはずだ。ディズニーやスピルバーグ、または「寅さん」とのヒットの有り様と、決定的に異なる点がそこだ。

「踊る大捜査線:ザ・ムービー」とそのヒットは、成功例である。
だが、当然、この方式は、失敗することも有りうる。

失敗例は、たぶん「エヴァンゲリオン」だった。
興行的には、どうだか知らないが、作品としては、公開後、毀誉褒貶あったのが象徴的に、あれは、まあ、失敗作だろう。

これは、TVアニメだが、TVにおいてすら、失敗作だったものを、ヒット=商業的成功によって、映画で、TV放映時に未解決だったものを、ムリヤリ解決しようとした。一時、社会現象化までした作品だから、勢いというか、それ自身が、制動を失なって、ゆくつくところまで行ってしまった観がある。「不幸な成功」というか。
そして、映画版でも、解決に成功したとは云えなかった。
二部に分けても、劇場版は意味不明であり、大半の謎は、謎のまま残り、むしろ謎が謎であることが作品の特異性として評価されるような種類のものになってしまった。
TVからスピンオフした作品としては、だから成功とは云えまい。

そして――、
この図式が、実は、「アンフェア」にも当てはまるのである。

云っては悪いが、「エヴァ」と違って、「アンフェア」の(佐藤氏の)脚本はしっかりしているから、「シト新生」や「まごころを、君に」と異なり、ドラマ版で未解決だった部分を、劇場版で、未消化で終わらせる、ということは、まず、ないだろう。
だが、図式的には、「踊る」よりも「エヴァ」に近いのだ。

TVドラマのあり方にも依るのだが、「踊る大捜査線」映画版は、たとえ、ドラマの何話かを見逃していたとしても、全体の空気を、ある程度、知っていれば、鑑賞に耐える。
むろん、全然、知らないと、キネ旬の批評のようになるが、漠然とした知識でもあれば、なんとかなるだろう。
 特に、映画ファンならば、ラスト近くのパートカラーの「映画的引用」が、誘拐ものの嚆矢たる「天国と地獄」であることに気づくだろうし、それは、作り手と受け手が同じ映画的な文化と教養を共有していることを意味するから、まるっきり理解不能な領域とは思わないはずである。

しかしながら、「エヴァ」は、まず、TVアニメ全話を見て、最終回に激怒したような(笑)ファンでないと、楽しめないであろうし、それにも関わらず、議論になったくらいだから、作品として、破綻していたのだが、問題は、エヴァ固有のものではない。 そうした製作のあり方にこそ、本当の問題はある。

TVシリーズが、全体的に謎に満ちており、それがTVドラマ内では解決されず、映画で解決される、という図式が、抜きがたい問題を孕んでいるのだ。

細分化され、階層エリアごとに顧客対象のターゲティングがなされた高度資本主義消費社会において、この図式は、あるいは、正しいのかも知れない。
そうした時代の精神を否定はしない。

だが、一個の作品として、評価する場合には、どうか。
少なくとも、山根貞男氏に代表されるような正統的な批評家は、そうした作品および製作態度を是認はしないだろうと思われる。

そうした問題を孕んだまま、「アンフェア」は存在しているのである。



● 二〇〇六年十月四日(水曜)――「アンフェア」スペシャル(%2)


(承前)
もう一つの問題は、TVドラマの刑事ものとしての進化である。

これまでに、刑事ドラマ内で描かれる組織の対立は、おおむね、三つの段階があった。

第一は、「太陽にほえろ」のレヴェルで、これは、例えば七曲署のような「所轄」と、「警視庁」(本庁などと呼ばれる)との対立の構造だ。登場する人物は、官僚的で、下っ端の犠牲の上に成り立ち、美味しいところだけ持っていく出世主義者、といった図式的な類型が、あらゆる刑事ドラマの中で、どれだけ描かれたきたことか。
その一端は当たっているのだろうが、まだまだ牧歌的だったと云える。

第二は、「踊る大捜査線」のレヴェルで、ここで初めて、全国に五百人しかいないキャリア組と、二十三万人だか二十七万人ものノンキャリアとの対立の構造が、作品のテーマとして前面に出てくる。
最早、牧歌的とは云えない。図式的ではあっても、より現実と、現実の腐敗(およびその源流)に即した事実に基づいた典型を描いている。

それでも、なお「踊る」では、「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ」という青島刑事のコトバに象徴されるよう、現場主義の理想と、その現場を理解するキャリアの存在を描いていた。

これは、映画版でも再現されるが、現在の青島刑事(織田裕二)と室井管理官(柳葉敏郎)との友情が、かつての和久刑事(いかりや長介)と副総監(神山繁)のそれとオーヴァラップすることで、次代へ継ぐもの、としての理想像のリレーが再確認される。

これによって、「絵空ごと」かも知れないが、まだTVの刑事ドラマとしての枠内で、「身も蓋もない現実」を打破しようとする人間もいるのだ、ということを示して、もって作品のスタンスともなっていた。
主演の織田に代表される、軽妙な人物造形と、こまやかな人間関係の描き方、そしてコミカルでハイテンポな演出が、そのテーマの重苦しさを救っていたとも云えるだろう。

ともあれ、「踊る」では、それ以前の刑事ドラマで多用されていた(「デカ」だの「ホシ」だのといった)陳腐化した内輪のジャーゴンなども排し、より現実に即した(周到な取材やリサーチの成果と思われる)アクテュアリティで裏打ちされた、「現在のリアリティ」を確保していた。

第三が、「アンフェア」スペシャル版でのレヴェルだが、ここに至って、ついに日本の警察機構にとっての真の暗部、闇の中で活動する「公安警察」の存在に言及している。
小説では、すでに、大沢在昌氏の「新宿鮫」が、最新刊の「狼花」までで描きつくしているが、これは、キャリアとノンキャリの対立などといった水準の問題ではない。その組織の存在そのものが国家的機密事項であるような、秘密警察(サクラとか、チヨダと呼ばれる、公安内部でも、さらにその奥にあると云われる非公然組織)をテーマとしており、ここまで来ると、すでに娯楽としての作品のカテゴリーからも逸脱しているように思えてならない。

キャリアの問題は、明治時代に遡る日本の官僚機構そのものに根ざした悪弊であり、警察だけの問題ではない。組織の問題だけでなく、「天下り」やその渡り鳥といった、キャリア=高級官僚の世界は、世間の指弾を浴びつつも、過去百年変わらなかった歴史が、今後、百年も変わらないのではないか、と思われるが、「カラ出張」などによる「裏金作り」は、犯罪であっても、まだ、その存在自体は犯罪ではない。
キャリア制度は、レッキとした日本国家の組織論なのである。

だが、公安は違う。
特に「チヨダ」などは、それ自体、違法性が極めて高い。
七十年代頃には、過激派組織や極右団体などを追っていた公安警察は、オウム事件の失態(その存在や危険性さえも事前に掴めなかった)を機に、失地回復を焦っているようだが、要するに、それは、対象がなんであれ、国家によるスパイ活動である。
淵源すれば、戦前の内務省警保局特高にまでゆきつく、「警察国家」の手先であり、彼らが守るものは、国家の治安や国家体制そのものだ。個人の犯罪は無視されるが、同じく人間性も無視した捜査や偵諜活動がなされる。対象とする組織内にエス(スパイ)を作り、内部から自壊を招く。そして、その成果は、たとえ成功しても、陽の下に出ることはないのだ。

ちなみに、公安警察と、公安調査庁は異なる(ライバルだそうだが)。
前者は、警察庁警備局が全国の公安を指揮しており、特に首都東京では(東京都という自治地方内での)治安維持のため、二千名を擁する警視庁公安部を持つ。後者は、オウム失態で露呈したように、無駄飯喰らいの集団のようだが、ここでは関係ない。あと、内閣調査室とか、防衛庁情報本部(以前、陸幕二部別室とか調別とか云われていたものが編成換えで統合された由)などが、我が国の諜報機関ということになる。

外国のスパイに対する罰則規定がない日本では、国内での防諜組織に関する、明確な規定もないため、公安の捜査は、どうしても脱法的となる。法の不備ではあるが、それが現実だ。
その結果、「何をやっているか、全然、判らない」組織、ということになり、今回の「アンフェア」スペシャル版でも、同じ警視庁なのに、公安部に異動になったヒロイン雪平が、通常、そこで何の仕事をしているのか、判然としない。
おそらく、取材出来なかったのだろうと思われるが、ホンとしては、弱い点だ。

小説「新宿鮫」は、ふつうの常識では、およそ有りえないような異常な設定なのだが、ギリギリで主人公の造形に成功している。
だが、その背景には、「公安」の闇があるのだ。
むしろ、「公安」の存在が、新宿鮫のリアリティを保証している。だが、それは苦いリアルだ。
かつての「はみだし刑事」は、絵空ごとですむが、公安を出自にもつ鮫島警部の存在は、そして彼が敵対する公安がらみの「内なる敵」は、絵空ごとではすまないのである。

「アンフェア」スペシャル版は、その闇に挑戦している。
だが、公平に見て、あまり成功しているとは云いがたい。
特に、雪平の父親(彼もまた、公安にいた)の死にまつわる、公安出身の人間の、事件の真相である「犯罪」へのモティヴェーションが、あまりにも観念的なので、ラストでの一応の結末までもが、観念的に空疎な空回りに見えてしまい、全体的に、ツメが甘いと云わざるをえないのである。
しかし、それは設定のミスではない。
むしろ、公安を主題化した時点で折り込みずみの問題のはずだ。

個人的には、たとえば大沢氏の試みなどは高く評価するのだが、他方で、果たして、これが、娯楽作品が扱うテーマとして、どうなのか、というと、少しく疑問なのだ。公安警察内部で、真に日本の将来や、外国人による犯罪対策などを憂いている人物造形などを見ていると、これは為政者が課題とすべき問題であって、ハードボイルド作品の登場人物が関わる問題だろうか、と思ってしまう。
娯楽で扱うとしても、慎重な態度と入念なリサーチが不可欠だろう。
絶対に、半端な気持ちで挑んではならない対象だ。

あまりにも生々しく、危険な問題だからである。少なくとも、TVドラマで扱うには、重すぎると思われる。「アンフェア」スペシャル版では「クーデタ」ということばが使われていたが、そう簡単に断じてもらっても困る。内憂外患に関する、こうした国事犯を軽々に扱うことには、賛同しがたいものがある。

だが、ひとたび作品が出てしまえば、それが水準器となるだろう。
この先、もう、われわれは「太陽にほえろ」的な牧歌的な刑事ドラマは期待できまい。
たとえ、あったとしても、心のどこかで、それが明らさまな「嘘」であることが判っていて、なお面白い作品を期待するほうがムリである。
この「嘘」は、ドラマとしての「嘘」ではない。
それは、作品それ自体が存立する基盤としての「嘘」だからだ。

刑事ドラマは、困難な地点にまで来てしまった、という感じがする。
それを成長というには、あまりに苦く重いものを内包している。
そこには、取り締まるべき明白な犯罪もなく、悪の概念もない。
ゆえに、このテーマは断じて「水戸黄門」にはならないのである。
作り手もまた読み手も、それ(=善悪の彼岸)を了解すべきだろう。

来春に公開予定の映画「アンフェア」は、知り合いが深く関わっている、という以上に、この種の作品のファンとして、その成功を祈ってはいるが、さまざまな意味で、それが、大きなターニングポイント(ないし、ノーリターンポイント)であることを、製作サイドが真摯に理解していることを希ってもいる。

有り体に云えば、番長もののエスカレーション現象みたいに、目先のスケールアップから、より大きな「巨悪」を求めて、作品の本質を見失ってほしくないのだ。

スタッフ及びキャストの方々には、心から成功を祈る。せっかくヒットした作品である。大事にしてほしい。

佐藤嗣麻子さんには、ささやかながら、個人的なエールを。
雪平こと篠原涼子さんには、ミーハーな極私的声援を(笑)。
――ぜひ、頑張ってもらいたい。





初出:mixi 日記 二〇〇六年二月二十三日〜二〇〇六年十月四日に加筆訂正のうえ、
「科学魔界」 48号に収録

Last Updated: 2008.07.29