前回に引き続き「視点」の話です。
続きの前におさらいしておくと、「視点」とは文章の語り手。その文章が誰の感覚で語られているかということです。
「視」とは言うものの、目だけでなく感覚全てをさします。
三人称の文体では、本来なら作者の視点=神の視点で、自由自在に何でも語れますが、奔放すぎると読者がついてけないので、ある程度自制が必要になります。
前回はそんなことを語ったので、じゃあ実際にどういうふうに気をつけてるかとか具体的に。
前回、一人称の地の文で、綿菓子を知らない平安時代のキャラが「綿菓子のような雲」と形容するのは頂けない、と書きました。
じゃあ三人称ならそう書いても構わないかというと、それもやはり良くない場合が多いです。
完全にNGとは言えませんが、舞台が平安時代ならそれらしい雰囲気作りというものがあるし、それ以前に、登場人物の誰かの内面に入り込む文体で書いてる場合は、一人称と同様にNGです。
三人称の描写でも、誰かの意識を借りている時はその人物に感覚を合わせる必要がある。
感覚を借りるとか言われるだけじゃピンと来ないかもしれないので、ちょっと実際の文章で説明してみます。
「厨(くりや)の戸口に立つと、食欲をそそる料理の匂いにまじって、独特の薬香が鼻をついた。」
俺屍蔵書庫の「月光」の冒頭です。これは、しょっぱなから登場人物の視点にのりうつってます。
まだ誰とは書いてませんが、台所の入口に立って料理や薬の匂いを嗅いでる「誰か」が確実に存在する文章です。誰もいないならこういう表現はできない。だって少なくとも「鼻をつく」というからにはそこに鼻がないと。
誰の視点にも立ち入らないよう客観的に描写するなら、「厨の中には料理の匂いにまじって薬香が漂っていた」くらいでしょうか。
「食欲をそそる」とか「独特の」とかいう形容にも、厳密に言えばそう考える主体が必要です。前回の「いい天気」みたいに、この程度なら客観的形容と言っても通るレベルではありますが、煮物が嫌いな人にとってはその匂いは食欲をそそらないかもしれないから必ずしも普遍的とは言えない。
作者が考えてるんでいいじゃん、と思うかもしれませんが、普通の三人称小説では作者の考えは出さないのが基本です。不用意に作者が顔を出すと、物語がそいつのでっちあげた作り事だというのがアリアリで嘘くさくなり、読者の感情移入度が下がります。
「月光」に戻りますが。
嗅覚から登場人物に乗り移った視点は、続いてその誰かの目を通してイツ花の働きぶりを観察します。視点の主はまだ誰だか全然わかりませんが。
「忙しく立ち働く娘を戸口の柱に寄りかかって眺めていた彼は、しゃもじ片手に袖まくりする後ろ姿に声をかけた。」
ここで「彼」と主語が出てきて視点の主がとりあえず男だとわかる。
その後振り向いたイツ花が「あら、冬至様」と呼んで、ようやく視点の主が冬至だと判明すると。
こんなまだるっこしい書き方しないで、最初から「冬至が厨の戸口に立つと」って書いちゃえばいいんじゃないかと思うかもしれませんけど、まあそうなんですけど。
「冬至が」と書くと、読者は頭の中で、彼が戸口に立ってるところをまずイメージしちゃうと思うんですよね。
でもその後で、冬至の目線を借りて厨の中を描写するので、まだ彼自身には画面の中に入ってきてほしくなかったんです。それに、主語を省いておくと、読者自身が戸口に立って厨の匂いを嗅いでるような臨場感が出るかなと。
このへんは趣味の問題でもありますが。私は、あまり主語を明確に書かずにぼかすのが好きなんで。書いても「彼」とかが多い。登場人物の名前連呼するのが気恥ずかしいんで……
「くらのかみ」では稚早起をずっと「彼女」だけで押し通してますし、「夕間暮」や「雲路の果て」に至っては意図的に主語をなくしてます。名前どころか彼とも彼女とも言ってない。それでもわかるように書いてるつもりなんですがどうでしょうか。
逆にわかりやすいのは「陽だまりの詩」。冒頭はこう。
「……乃々花。起きて下さい、乃々花」
名を呼ぶ声と頬を叩く手のひらが、乃々花の意識を微睡みの岸から引きあげた。
はい、視点の主は乃々花です。最初から名前が出ててわかりやすい。彼女が、ほっぺたを叩かれて目を覚ますところから始まってます。
「月光」とかもそうですが、こういう「視点がキャラに乗り移ってる型の三人称」は、そのキャラを通して描写する必要があります。なので例えば、
かたわらにしゃがみこんだ当主がおかしそうに笑った。乃々花が一瞬母神と見紛えた、男にしては線の細い面に微笑を浮かべ、口の端を指でとんとんと叩いてみせる。
つられて自分の口元に手をやった乃々花は、そこについた涎のあとに気づき、顔を赤くして袖口で拭った。
乃々花の口元にヨダレがついてても、直接は書けないんです。自分の顔は自分で見られませんから。鏡を見るか、誰か(この場合冬至)に教えられるかしないと、気づけない。
その点では、乗り移り型の三人称は一人称と変わりありません。違うのは、一人称ほど主観的ではないということです。一応、自分を外側から見るだけの冷静さというか、客観性が残っている。
一人称の文章というのは、完全な主観です。「そいつがそう思ってるだけの世界」です。すべての描写は視点の主のフィルターを通しているので、相当歪んでいる可能性があります。それが一人称の面白さでもあるんですが。
あと、一人称は(少なくとも一人称の文体を取ってる限りは)視点が完全に固定されてしまいますが、乗り移り三人称の場合、いざという時は、そいつから抜け出して別の視点を使うことも出来ます。
出来るんですが。
やたらにそれをやると、視点がゴチャゴチャになって読者が混乱することになると。
という流れで「視点の統一」について語るのが本題だったんですが、それはまた次回……(ひっぱりすぎ)
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