江戸時代に構想され、今も印南野(いなみの)台地を潤す「淡河(おうご)川山田川疏水」(淡山(たんざん)疏水)の重要文化財指定に向けた取り組みが始まった。県を中心にした、いなみ野ため池ミュージアム運営協議会の「近代化を支えた『水の路』再発見プロジェクト」。秋までには事業のひとつの記録誌がまとめられる。
同疏水事業は江戸中期(1770年代)の発意とされる。淡河川疏水(神戸市北区-稲美町、延長26・3キロ)は1888(明治21)年になってようやく着工し、1891年完成した。また、神戸市北区から淡河川疏水との合流点までの山田川疏水(延長10・5キロ)は1911年に着工し、1919(大正8)年に完成。淡山疏水は構想から約150年かけた大事業だった。
開国、廃藩置県、地租改正と日本が近代化に向けて大きく変化する中での事業で、開発は多くの人々の苦闘の歴史とされる。疏水事業のため租税額の減免や納租運動を進めたり収入を求め国営葡萄(ぶどう)園を誘致するなどした初代加古郡長の北條直正▽山田川疏水開発のため私費で測量をした魚住完治▽川を横断して送水する御坂サイホン(三木市志染町御坂)などサイホン工の技術をもたらした英国陸軍少将のヘンリー・スペンサー・パーマー--らの名が挙げられる。
記録誌は、ミュージアム運営協議会の記録誌編集会議(委員長・池本廣兵庫大教授、9人)が製作。事業の背景や歴史▽技術▽実現に尽くした人々▽事業への評価--などを網らする。東播磨県民局は「疏水事業と地域や人間とのかかわりを浮き彫りにし、水辺の地域づくりに役立てたい」としている。【成島頼一】
〔播磨・姫路版〕
毎日新聞 2009年6月1日 地方版