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2009 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 |
2009-06-08
私が所属する大学の写真部がビッグシティー東京のビッグタウン渋谷で展示をします。
期間: 2F・・・6月9日〜6月14日
3F・・・6月12〜6月14日
場所: Gallery LE DECO
時間: 11:00〜19:00
(最終日のみ〜17:00)
去年の秋に部は引退したのだけれど図々しく9日から14日まで展示させてもらうことになりました。
とは言うものの、モノクロは暗室に一度入ったのみなので、焼き直しすることもなく、満足のいく出来ではないのだけれど。
「モラトリアム」「ミドル・オブ・ノーウェア」「卵白でオムレツを」「粒子と記憶」というタイトルで出しています。
まあ、真剣に写真やってる人が数人いるので、見応えはあると思います。
はてなのあの子も展示してるよ。
お近くにお越しの際はぜひ覗いてみてください。
2009-06-06
■[日々のあわ]
高校を卒業してすぐから大学1年の終わりまでの1年、山本宇一さんプロデュースのカッフェーでアルバイトをしていていて、閉店時間が遅いし場所が下北沢なので私は辞めてからもお客さんとしてたまに足を運んでいるのだけれど、そこで5年間働き続けた社員さんがこの度辞めることと相成ったので、5月の終わりの彼女の働く最後の日に、お祝いに行った。
同じ頃働いていた4つ年上のキッチンの人と、5つ年上のホールの人とプレゼントを買って18時に入店。
それから一緒に働いていた人や御馴染の常連さんが入れ替わり立ち替わり来て、みんなでシャンパンとケーキで乾杯したり、辞める社員さんのお得意料理を食べたり、わいわいわいわい騒いで、気づけば半日飲み食いしていたのでぞっとした。
その、色んな人と次々に話すもんだから、出てくる話題はほとんど一緒で、今なにしてるのかだとか、ヒョロリくんとはまだ付き合ってるのだとか、何度も何度も話すのにはうんざりしたけれど、それでもみんなに久しぶりに会えてよかった。
たとえばある男の子は当時から付き合っていた9つ年上の超美人彼女と婚約していたり、ある女の子は看護師さんになっていたり、ある女の子は幼稚園の先生になっていたり、私の大好きだった年上の男の子が実は一緒に働いていた女の子と付き合っていると聞いてショック受けたり、私が辞める日にポリス・ヴィアンの「日々の泡」の単行本をくれた常連さんのカールはフランスに帰っただとか、超絶おしゃれでクールな犬連れのおじさんは最近あんまり来なくなっただとか。
みんな変わっていくんだなあと思っていたら、常連さんのカップルに会って、彼らとは彼らがフェスでフードのお店を出している時に会ったり、タイフェスで会ったりはしていたのだけれど、なんだか二人とも全然変わっていなくて、嗚呼みんなどんどん変わっているけれど、この人達は全然変わってないなあと思って涙が出そうになった。
変わらないものというのは、揺るがない芯みたいなものを持っている感じがして、だから美しい感じがして、私はやっぱり憧れてしまうよ。
写真を、習うことになった。
写真は習うものではないと思っていたし、教えてくれる人の感性に良くも悪くも影響されて自分らしさがなくなるんじゃないかとか思っていたけれど、野放しで教育してあげると言ってもらえたから、信じてみるのもありかと思ったのだ。
正確には写真を習うというより、どちらかというと暗室でのテクニックだとかフィルムをどういう構図でどういう風に印画紙に焼いて第三者に見せるべきかとかそういう話、つまりはモノクロ写真についてなのだけれど、それだけじゃなくてとにかくもう写真というものについてありとあらゆることを知っているその道のプロに教えてもらえることになったので、嗚呼、もう、ウルトラミラクルハッピーだ。
ただ怖いのは、今まで狭い環境の中、馴れ合いの中、手放しで褒められてやってきた私が、本職の人にどれだけ打ちのめされるんだろうかということ。
ひゃん。こわいこわい。
2009-05-30
■[日々のあわ]
姉先輩とアリス先輩とおそらく卒業式ぶりに三人で会って、いつものベトナム料理屋さんまで夜ごはんを食べに行った。
相も変わらず美味しい料理といつものハチミツレモンソーダ。
仲良しのお兄さんがいつもおまけに何か一品サービスしてくれるのだけれど、今回は海老が入ったモチモチの生地がまるっと揚げてあるよっていうのをミントや紫蘇なんかと一緒にサニーレタスに巻いてベトナムなますの入ったあのタレにつけて食べましょうっていうもので、なんだか目を瞑るとベトナムの屋台街でご飯を食べているようなそんな気分に陥るもので、嗚呼幸せ、食べることは醜い行為だけど、これだけは、ここのお料理だけは。
お店のお兄さんはガチムチ系なのにかっこうよくて、音楽の嗜好も合うのでわりとよく話すのだけれど、密かに格好いいなと思っていたのに同じお店で働く日本人とベトナム人のハーフのような女の子と17年も付き合っていてしかも先日結婚してそのうえ子供も生まれてとかで、わーおめでとうございます。
お子さんの名前に「雨」という字が入っていたのでその由来を聞いたら、奥さんとの思い出はいつも雨だから、と言っていて、嗚呼やっぱすてきだあああと泣きたくなる。愛に触れて。神聖すぎて。私とはほど遠くて。
お店に人が足りないと嘆いていて、私は就活うまくいきませんと嘆いていて、そうしたらぜひうちで働いてほしい、あまり知らない人を雇いたくないので貼り紙で募集したりしたくなくて、だから週に一日とかでもいいからぜひ、と言ってもらえた。
きゃぴーと思って、あのお店は何年も前から行ってるしお料理もおいしいしスタッフさんもみんないい人だしお店も可愛いし、だけどしかし、遠いんだ、家から。
家と言えば、その、家庭のことを諸々相談していて、そうしたら魚先輩と同棲している姉先輩が、「うち一部屋余ってるからとりあえず来れば?」と言ってくれたので、もちろんお金は納めるのですけれど、試しに一か月住まわせていただくことになるかもしれない。
同棲の家に転がり込むだなんて一般的に考えれば邪魔者以外の何者でもないのだろうけれど、二人の性格からして恐らく大丈夫な気がするし、何より魚先輩は忙しくて帰ってこなかったり、姉先輩はちょくちょく実家に帰ったりらしく、よし、じゃあ転がりこませてもらおう。
気がかりなのはただ一つ、こうした一連の私の行動がただ逃げている様に感じられることで、泣いたり惑っては生りませぬ立ったら強く進まなくては、の心境であることはあるのですけれど、嗚呼もうどうしたいの。強くなりたい。守られたい。矛盾。
しかし姉先輩が「家帰ってあずがいたらペットがいるみたいでいいなー」みたいなことを言ってくれて、嗚呼、そんな風に言ってくれてありがとう、ペットでもなんでもわたしを可愛がってくれるなら、私はどこまでも全力で屈託なく甘えるよ。
それにしても私のことをずっと名字を呼び捨てで呼んでいたアリス先輩はいつの間にかわたしを下の名前で呼ぶようになっていた。
姉先輩がそうだからそうなったのか、何れにしても会わない期間が長すぎてわたしをどう呼んでいたのか忘れたのかなと思ったらちょっとさみしくなった。
アリス先輩の、ばか。
大学の先輩というかOBさんが今仕事をしながら書き物をしているらしく、そのテーマが「球体」らしく、彼は在学中から私に「球体の世界の中に生きている」というイメージを抱いているらしく、その書き物をするにあたってイメージを膨らませるためにインタビュー的なものをしたいらしく、というわけでここ何週間かメールで質問を受けてそれについて私が思っている事感じている事を答えるという作業をしているのだけれど、これがまたおもしろいんだなあ。
ていうのはつまり、自分の考えることってある程度はこういうブログや私的な日記を通して文字になるけれど、彼の質問によって自分の隠されていた思考が明らかになるというか、嗚呼わたしこういう風に考えていたんだな、そういえばあれに対する思想はこうだからこれに対する思想と繋がるんだな、とか思うからで、自分という人間について新たな発見ができて、へえ。ふうん。
私は自分自身にとてもじゃないけれど自信なんか持てなくて、だからたとえばきみが必要なんだみたいな状況に置かれると絶対にその期待に答えたいみたいな感情はこれ当然抱くわけで、しかしながら、うーんなんか、自分でも役に立つことってあるのかしらん。知らん。
知らんけど、最近は頑張ろうみたいな感情が自分に相応しくないくらい沸き起こっていて、その情熱みたいなものを結構信じたいと思っている。
だけど悲しいかな文字だけだとやっぱり誤解が生じてしまうのが現実で、自分が何気なく指をパ・パ・パと動かして打った文章が相手の心をひどく暗い気分にさせたりすることが私には多くあるみたいで、そういう時私は文字の非力さというか、やっぱりフェイス・トゥー・フェイスって大事だねって思ってしまうけれど、まあフェイス・トゥー・フェイスでも感情がうまく言葉にならなければ無意味だし、つまるところ感情を体外に排出して他者にそれを正確に伝える/他者とそれを共有するっていうのは非常に難しいことで、でもしかしけれどだからこそ文字や言葉で自分の抱く感情の真意が伝わったらそれってすごいことじゃないのかしらん。
本など読んでいて結構感動したりすることがたまにあるけれど、それって本当に作者が読者に与えたかった感情なのか解釈なのか分からないし、けど、まあ解釈なんて読み手によるものなのかもしれない、あれ、じゃあ、って、嗚呼もうよく分からない。
だけどその、とにかく私は自分の文章の非力さみたいなものを痛感する日々であり、だから書くことをやめない、頑張る。
■[本]読了
- 作者: 桜庭一樹
- 出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング
- 発売日: 2009/03/25
- メディア: 文庫
この人の「私の男」も読んでいないのだけれど裕子の家にあったので借りてきたもの。
テーマとか文体とかは嫌いではないのになんだかイラッとくる。
どこか勿体ぶっているからなのか、文体にしろ随所随所の構成にしろ展開にしろ余りにも美を追求しすぎているからなのか。
愛が溢れてる。
藤代冥砂にしろめがねせんぱいにしろベトナム料理屋の兄ちゃんにしろ、こういう、男の人の恋人に対する好き好き大好き超愛してるみたいな静かな愛はもう本当に素晴らしいねと私は感動する。
そしてまさに地元だので超ご近所さんなのだなあ、そのうちスーパーとかで見かけたらいいのに。
2009-05-27
■[日々のあわ]
最近色んな人と恋愛について話す機会があって、当たり前なのだけれどひとりひとり顔の造りが異なるように恋愛観も異なっていて、こんなに様々な考えの人がいるのにこんなにたくさんカップルがいるのはどゆこと?と疑問に思って、まあ恋愛観など合わなくたって男と女は簡単に付き合えるのだろうけれど、それで問題が生じたりはしないんだろうか、それともみんなどこか妥協したりしてるんだろうかと思ったら、なんか恋愛を神聖なものに仕立て上げすぎているのかしらん私は、情けないやら悲しいやら、というか、え、好きってなんだっけ?だなんて青臭い思春期の少年少女みたいなことを考えたりしている。
恋人にしろ友達にしろ、好き好き→一緒にいたい→一緒にいる→慣れる→飽きる、という流れはうんざりで、綺麗事だけど私は相手のことを一点の曇りもなく好きでいたい。
たとえば恋人にするなら絶対的に人間として尊敬できる人でなければ厭だなあと最近は思うのだけれど、なぜならその、慣れやら飽きやらが来た時に二人の関係から恋愛感情をとってもきちんと崩れずにしゃんと成立させるためで、でも愛なんて恋なんて限りなく絶対に近く終わりが訪れるもので、そうした時に人間として尊敬できる貴重なその人を失うというのは本当に悲惨だと思うし、じゃあ尊敬できなくても恋愛感情をただ抱くことのできる人と付き合えばいいじゃんって、それはそれでうまくいかないのも目に見えていて。
だけど人間としてでも男の子としてでも「好きだなあ」と思ったらその人と一緒にいるために一番手っ取り早いのは付き合うという手段なわけで、でもそれで失うという結果を招くのは厭で、ということは即ち付かず離れずだけれどもいつでも手の届く距離にいるという関係を築くことの方が賢明なのか、ていうかその、好きだけど失わないために付き合いたくないっていうこの感情、なんなの?ていうかその、本当に、好きってなんなの?
どうしたらいいのか。どうしたいのか。どうするべきなのか。
これからどこへいくのか。いつまで生きるのか。その間私は何を思うのか。
あの人にもう一度会える日はくるのか。そもそも生きているのか。
分からないから悲しくなってためしに遺書をしたため様としたけれどうまく書けなくて、わたしの中の絶望は中途半端なまま未送信メールのフォルダに保存された。閉じ込められた。
漫画を読んだら私の言いたい台詞を頁の中の少女が呟いていて、耳元では「私が消えても世界は何も変わらないよ」みたいなことを女が永遠と歌い続けていて、いやんいやんってなっちゃったから半ベソかきながらロックンローラーの家に逃げて添い寝してもらって安心を覚えるも、家に帰ったらそれはそれで地獄みたいな状況で。
で、分かったのは、ぬくもりが欲しいんだって、そんな単純なこと。
となりを歩く男の子の手をつなぎたくなる癖を、目の前で俯く男の子の頭を撫ぜたくなる癖を、どうにかして直したい。
愛なんていらねえんだよ、まじで、初夏。