メディアとつきあうツール  更新:2004-06-28
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>
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「久米宏」論

≪あとからのまえがき≫
テレビ朝日「ニュースステーション」の司会者・久米宏。
人びとの好き嫌いはハッキリ分かれ、とくに新聞・雑誌など活字メディア(2ちゃんも)は、まずホメない。
しかし、私は久米宏を、日本のテレビが生んだ最大の「タレント=才人」の一人だと思う。
放送制度や放送史を研究するマスコミ学者は腐るほどいても、久米宏を研究しているという人には会わない。
だが、本当にテレビにとって大切なことを考えるなら、「久米宏」は決して避けて通ることができないテーマではないか。
以下の論考は、「放送文化」の1994年01月ころに作られた創刊準備号(いわゆる創刊ゼロ号)に掲載した。
古いが、とくに付け加えることもない。
なお、掲載誌は市販されず、筆者の手元にも残っていないため、見出しは発表当時と異なっている。

見出し1

 わが国のテレビが、今日ほど政治的な影響力を発揮したことは、いまだかつてない。

 たとえば、田原総一朗による宮沢喜一・前首相インタビューは、宮沢から「政治改革は絶対やる。私は嘘はつかない」との発言を引き出した。そのVTRは各局のニュースで繰り返し放映され、政治改革ができなかった宮沢を結果的に「嘘つき」にし、前政権崩壊の大きなきっかけをつくった。

 朝・毎・読・産経・日経の五大新聞合わせて政治部記者が何人いるか知らないが、田原のやったことは、彼らが束になってもできなかったことである。

 また、テレビ出演した政治家の発言が「日曜午前に放映された民放テレビ番組で……」と、新聞の政治欄にダイレクトに引用されるようになった。政治討論番組のなかで、政治家が政治的決断を迫られ、所信を決するという場面も、たびたび見られた。ワイドショーまでが芸能人を追うような感覚で政治家の選挙運動を追い、特定の候補者がテレビ画面に露出し続けた。

 こうした傾向を「政治のテレビ化」と呼ぶとすれば、政治のテレビ化現象を主導したパイオニア的な番組のひとつとして、テレビ朝日の「ニュースステーション」を忘れるわけにはいかない。同番組の久米宏というキャラクターもまた、政治のテレビ化現象――テレビの現在――を象徴する存在として、論じられるべきだろう。

 自民独裁政権の崩壊というお祭り騒ぎのなかで、ほとんど語られなかった政治のテレビ化現象は、テレビ朝日・椿前取締役報道局長のいわゆる「椿発言」によって初めて俎上に載せられることになった。椿発言は、政治とテレビの関係はどうあるべきかという極めて重大なテーマを私たちに突きつけた、いいタイミングの問題提起だったといえる。しかしその問題提起も、メディア間や系列間の足の引っ張り合い、さらには政治や行政の介入によって、茶番劇の幕開きにしかならなかったという印象が強い。

 そこで、改めて「ニュースステーション」の過去9年間の奇跡をたどり、番組の果たした役割を検証すると同時に、久米宏というキャラクターにも光を当てて、テレビの現在を論じたい。そのことによって、「政治のテレビ化」現象をめぐる議論が少しでも深まればと思う。

見出し2

 テレビ朝日に「ニュースステーション」のためのプロジェクトチームができたのは1985年(昭和60年)4月。番組放映開始が同年10月7日である。

 いまでこそテレビ朝日の一大看板のニュースステーションだが、はじめ久米宏の出身局のTBSに持ち込まれ、没にされた番組企画だったという話がある。こんな話が流れたわけは、番組が久米宏の所属する大手制作プロダクション「オフィス・トゥー・ワン」の持ち込み企画だったからだ。

 同社の海老名俊則社長は「別冊宝島」88年11月号で、
「久米さんの報道番組企画については、電通と組んで、企画書をもって民放キー局を全局回ったんです。TBSにも行きましたよ、断られましたけど」
 と、番組スタート前のエピソードを語っている。

 当時――80年代半ばといえば、日本が世界最大の債権国としての地位を確立し、世界一の赤字国アメリカとの付き合い方が、「国際化」という言葉で盛んに議論されていた時期である。カネ余りが定着し、中曽根内閣の民活路線もスタートするなど、バブル経済への離陸期でもあった。

 経済の水膨れが目立ってきたこの頃、テレビ界でも「成熟化」とか「飽和市場」という言葉がささやかれていた。ホームドラマはしだいに飽きられ、代わってお笑いや2Hドラマが視聴率を取っていたが、番組はマンネリ気味。一方、84年末にはVTRの世帯普及率が30%を越え、普及が一気に進む加速期に入った。NHKの衛星放送(84年5月)、キャプテン(84年11月)、文字多重放送(85年末)などニューメディアも相次いでスタートを切っている。JSBが設立されたのも84年末のことである。

 低成長や成熟化というマクロ状況と、ニューメディアの台頭による多チャンネル化への危機感が、テレビを活性化させる新しい試みをうながしつつあった。

 そのひとつの試みは80年代に入って定着が進んだドラマ、スポーツ、ドキュメンタリーなどの大型スペシャル編成だろう。もうひとつは報道・情報系番組の拡充である。「国際化」という時代が要請する衛星中継時間の増大、小型ビデオカメラと携帯用VTRによるENG(エレクトリック・ニューズ・ギャザリング)システムの活用などによって、ニュースの可能性は大きく広がっていた。その可能性を、もっとも鮮やかに示した試みのひとつが、ニュースステーションだった。

 テレビは――とりわけ新しいジャンルを開拓し、一番乗りを果たしたテレビは、「時代を映す鏡」である。夜10時から1時間15分、月曜から金曜までぶっ通しのニュースショーという新ジャンルを開拓したニュースステーションも、適確に時代を映した鏡であったといえるだろう。

見出し3

 「ニュースステーション」は、プロダクション(オフィス・トゥー・ワン)、広告会社(電通)、放送局(テレビ朝日)という三者のベクトルがピタリ一致した稀有な例であるという見方もできる。

 企画の出所はオフィス・トゥー・ワン。本人の希望も強かったようだが、プロダクションとして、アメリカのニュースショーのような番組に久米を起用したいという思惑が、まずあった。もちろん、同社が番組制作に深く関与することが前提である。

 これに乗ったのが電通。広告マーケットが飽和状態に近づくなか、「提供したい番組がない」というスポンサーの声を背にした電通もまた、市場を活性化する大型企画を求めていた。当時の電通ラジオ・テレビ局の桂田局長は、ニュースをワイドで、しかもゴールデンタイムで、本格的にやりたいと考えていた。

 そこで、両者は冒頭に書いたようにTBSも含めて各局を回った。しかし10時台といえば各局ともドル箱の時間帯。そこを1時間以上ぶち抜くとなると、おいそれとはいかない。この企画に乗ったのが、民放4番手を走るテレビ朝日だった。

 テレビ朝日の担当は小田久栄門・報道局次長(86年に編成局長。89年に取締役)。小田は当時を振り返り、次のように語っている。

「当時は報道とか情報は主流からはずれておりまして、金食い虫だ、排他主義だと嫌われておりました。私はちょうど、編成部長から報道の局次長になって、それは違う、テレビが本来持っている機能からいっても必ずニュースが主流を埋めなきゃならない時代が来るだろうと考え、当時一五、六%あったドラマをぶっ飛ばして、ああいう編成を組んだ。その時の反発たるや、だいたい九〇%がリスクを背負った冒険など好みません。バカげたことだと極めて非難を浴びました。社長(当時、田代氏)の一喝あって結果としては、予想したとおりの形で定着していった」(「放送批評」90年2月号)

 テレ朝で田代社長が陣頭指揮を取り、小田を特命直轄の部隊長として、ニュースステーションへの情熱を傾ければ、電通も異例ともいえるテコ入れを行っている。電通ラ・テ局のテレビ業務推進部は企画開発段階から特別スタッフを投入。視聴者のニーズや動向の分析からCMのはさみ方による視聴率シミュレーションまで実施、その結果に沿って基本構想がまとめられていった。

 番組スタート時の電通ラ・テ局長の小野岩男が、
「スタート当初でもまともにやれば六億円ぐらいの売り物。レギュラー番組で六億円っていうのは史上最大ですよね。そこまでやった以上はやっぱり電通も責任を持たなきゃいかん。……それで私も目つぶって全部売っちゃった。これはもうオリンピックセールみたいなもんですよ」(「放送批評」88年6月号)
 というように、枠はすべて電通が買い切り、一部コマ切れ状態ながらも、なんとか売り切ったのである。

見出し4

 こうして1985年10月7日、「ニュースステーション」は始まった。メインキャスター久米宏の脇を固めたのは小宮悦子、朝日新聞編集委員の小林一喜、それに東京銀行のサラリーマンから転じた若林正人である。

 だが、スタート直後の視聴率は1ケタ台に終始。5%を切る日もあるほどの低迷ぶりだった。いま、「新番組が受けるかどうか、どのくらいで見極めがつくか」とテレビマンに聞くと、ほとんどの人が「1か月で必ずわかる」と答える。実際、ひと月でスポンサーに見放され打ち切りという番組は珍しくない。ニュースステーションが始まったのは、いまから8年以上前。当時の番組サイクルはかなりゆっくり回っていたはずだが、それでも視聴率1ケタが3か月も続けば、たいていの人は失敗の判定を下したのではないか。だが、番組に社運をかけたテレビ朝日は、簡単に撤退するわけにはいかなかった。

 最初の転機は、そろそろ4か月目に入ろうかという86年1月28日に訪れた。アメリカでスペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げ失敗事故が起こったのである。ニュースステーションはこれをトップに掲げ、過去最高の14・6%という視聴率を上げた。以後、番組はたびたび2ケタの視聴率を上げるようになる。

 ニュースステーションに視聴者の目が集中したもう一つの事件は、2月25日のフィリピン・マルコス政権の崩壊だった。夜のニュースでは、NHK「ニュースセンター9時」が激動するフィリピン情勢を伝え続けた。ところが同番組は10時まで延長したものの尻切れとんぼ。対して10時開始のニュースステーションは、日本時間10時のアキノ大統領の就任宣誓、10時5分のマルコス首都脱出、11時15分のシュルツ米国務長官による新大統領承認声明などを、刻一刻伝えることができた。この日の最高視聴率は19・3%。これをきっかけに、番組の視聴率は2ケタ台に落ち着き始めるようになる。

 ニュースステーションに視聴者を釘付けにした最初の二つの大事件が、いずれも海外発のニュースだったことは興味深い。それはテレビ報道の国際化の象徴であり、ハイテク化の象徴だった。さらに二つの事件とも、新聞や雑誌が絶対に真似できない、テレビならではの「報道の力」を見せつけてくれた。

 チャレンジャーの爆発は、当日朝刊の大ニュースだった。しかし、新聞がそれこそ一万行を費やしても、チャレンジャー打ち上げ直前の飛行士の笑顔に始まって秒読み、点火、上昇、大爆発の瞬間、そしてチャレンジャーを見上げて歓声を送っていた飛行士の家族の表情に至るまでのプロセスを、テレビのように劇的に描くことはできない。フィリピン政変も同じだ。いま現実に進行中の出来事を逐一伝えるという「プロセス報道」は、テレビ(とラジオ)にしかできない。新聞は翌日の朝刊で、整理された後追い記事と解説を書くほかはなかった。

 このようなニュースや報道ならば、夜10時から1時間15分という時間枠でも十分に客がつく。そのことを、ニュースステーションは数字ではっきり示したのである。これは番組が果たした最初の功績といってよかった。

見出し5

 ここまでならば、番組は「ニュースステーション」でなくてもよく、キャスターは久米宏でなくてもいいわけだ。だが、番組開始の夜10時ちょうどに革命の女闘士が大統領になり、その5分後に前大統領がヘリで宮殿から脱出するなどということは、めったにありそうにない。そうした大事件でたまたまニュースステーションに触れた視聴者が、また次の日も同じチャンネルに合わせるようになり、やがて平均視聴率が15%、さらに20%という番組に育っていったのはなぜなのか。

 ニュースステーションの番組企画書が書く「最新のテレビ機能をフル回転させ、迅速豊富な取材と平明・簡略な表現・テレビ手法によって『ニュース』を伝える」という方針が当たったのか。それとも、単純に久米宏の人気が番組を支えたというべきだろうか。

 まず、最新のテレビ機能、迅速豊富な取材という点だが、これについて、筆者はとくにニュースステーションが優れていると思ったことはない。NHKと民放の差や、民放においてのネットワークの差は感じることがあっても、その種のことがニュースステーションの高視聴率の理由にはなりえないと思う。

 一方、平明・簡略な表現・テレビ手法という点では、ニュースステーションは明らかに際立っていた。

 思いつくままに挙げてみよう。まず久米宏の語り、表現が平明・簡略である。久米は雑誌インタビューに応えて「ニュース原稿には自分でかなり手を入れる。まず文章を短くする。主語は頭に、形容詞はかかる言葉の直前にもってくる。耳に入りやすい論理の組み立て方に並べ変える」という意味のことを語っている。書き言葉や「さて」「ところで」というような決まり文句も使わず、話し言葉に徹している。

 また、たとえば「公定歩合」など、ちょっと難しそうな言葉には注釈がつく。国会や裁判の手続き、順序などについても、「ホントならAの次にBとなり、Cにいくはずなのに、Bのトコでもめている」というような短い解説をはさむ。レポーターのレポートを、自分の言葉で簡潔に言い直し、念押しする。出てきた数字をわかりやすいたとえで言い換え、単なる数字の羅列ではなくイメージで伝えようともする。「中学生にもわかるニュース番組を」が、スタート当初の久米の狙いだった。

 久米の語りだけではない。番組の問題提起の仕方などを見ても、平明・簡略な表現・テレビ手法は徹底している。論点をいくつかにしぼる。白か黒か、右か左かをはっきりさせる。それをわかりやすく、イメージ的・象徴的な映像と、テレビを横切る横断幕のような巨大文字とで伝える。あるキーワードをポンと出し、そこから解きほぐして一本のニュースをつくる。模型や地図、グラフなどを多用する。ときには人形まで登場させる。政治家を紹介するのに、コント仕立ての寸劇を使ったりもする。

 NHKニュースを硬派ニュースの代表とすれば、その対局にあるニュースステーションが平明・簡略な表現・テレビ手法を用いた軟派ニュース路線によって、新しいニュース視聴者を開拓したことは間違いない。これも番組の大きな功績のひとつである。

 それには、番組が久米の所属するオフィス・トゥー・ワンとテレビ朝日報道局との混成部隊によってつくられたという事情も大きく作用している。小田久栄門のいった「金食い虫」「排他主義」の報道エリート部隊だけでは、とてもこんなつくりはできなかったはずだからだ。だから、テレビ朝日がTBSのように強力な報道部隊をもたなかったことが、ニュースステーションを成功させた理由のひとつといえる。そして、番組の「平明・簡略な表現・テレビ手法」という点だけにしぼっても、久米宏の存在は極めて大きかった。

見出し6

 「ニュースステーション」の高視聴率はもっぱら久米宏の存在により、番組は久米人気でもっている、という説の裏付けになりそうな事実がある。ひとつは、88年7月に久米が3週間の休暇を取って番組を休んだとき、NHKの「ニュース・トゥデー」に視聴率で抜かれたことだ。

 もうひとつは、88年秋の番組改編でTBSの同じ時間帯に登場した森本毅郎の「ニュース22・プライムタイム」が、1年たたないうちに、ニュースステーションに大惨敗したことである。ニュースステーションの平均視聴率約15%に対して、プライムタイムは5%以下と、まったく勝負にならなかった。

 これは、この時間帯の視聴者がニュースだけを求めて見ているわけではないこと、そして視聴率を大きく左右し、ニュース戦争に決着をつけたのはキャスター人気であることを示唆しているように思われる。ニュースそのものの出来――取材力や報道の正確さで、JNNがテレ朝に大きく劣っていたとは思えない。

 89年の秋には、TBSは夜11時からの「築紫哲也ニュース23」で再びニュースステーションに挑戦した。といっても今度は時間をずらしたから、真っ向からの挑戦ではなかった。当然、視聴率では戦いにならない。この頃NHK「ニュース・トゥデー」が15%と健闘していたが、ニュースステーションは20%前後と、抜群の強さを誇っていた。

 この久米宏人気とは一体なんなのか。

 放送関係者や放送批評家といわれる人に久米の印象を聞いてまわると、好意的な感想をいわない人が多い。「ニュースを変え、新しい視聴者を開拓したことは評価するが、あまり好きではない」というようなことをつぶやく人が多いのだ。どうも年配の男性を中心に、作家の古山高麗雄による「久米宏『陰間』論」的な印象をもっている人が多いように思われる。古山はこんなことを書いて久米を批判した。

「久米氏の言い方は、軽口風直截な言い方、と言うより、陰間 (脚注) がシナをつくりながら、口先だけでペラペラとしゃべりまくっているようなものであった。政治や社会についてのしっかりした見識、などもとよりない。まさに、ジャリ・タレのトーク・ショーそのものであった」「(陰間とは、宴席に侍し男色を売った少年の意である)」(「新潮45」89年6月号)

 一方、女性の意見もと思い、手近な何人かに聞いてみると、どうやら古山のいう「ニュースのキャスターのコビやシナは、気色が悪い」という感じにはピンと来ないらしい。好意的な意見には「顔がいい」「オシャレ」「かわいい」「生活感がないのが新鮮」「皮肉っぽくクールな感じでいながら、明るい」といったアイドル系の答えと同時に、「おもしろいしわかりやすい」「映像と話のテンポが好き」「コメントやリアクションが楽しみ」など、久米のニュースの伝え方に関する反応が、思いのほか多いことが興味深かった。

 つまり、古山のいう「ジャリ・タレのトーク・ショー」と「ニュース映像と音声」が一緒になったものを、久米宏に案内されながら、驚いたり楽しんだり共感しながら見ているという感じなのだ。

 これ以外に、学生と若いサラリーマンから「久米宏のコメントに共感を覚える」「言いたいことを言ってくれる感じがする」という声も聞いた。たぶん、久米宏の人気というのは、こうした学生や、若い社会人や、主婦の声に代表される人気と考えても、そう大きくはずれることはないだろう。

 古山のような言い方が出るのもわかるし、久米宏を生理的に受け付けないという人は、女性や若い層にもかなりいるはずだと思う。ところが、久米は「そういう人はどうぞほかのチャンネルを見てください」と、喜んでいうだろう。自分の仕種がある人たちには「おかま」と映ることも、はっきり自覚しているだろう。

 久米はある雑誌で、
「これ、カンとしかいえないんですが、売れっこであり続けるためには、六割の人に好感をもたれ、四割の人から嫌われるというのがいちばんいいと思っています」
 と語っているが、本音のところはこうではあるまいか。
「100人中80人に嫌われても、残りが見てくれれば視聴率20%は取れる。85人に嫌われても15%は取れる」
 と。

 こうした発想は、過去のニュース番組のキャスターや司会者にはなかった。視聴率などハナから気にしないか、ニュースを読む時は自分の色をださないことが役割と信じていたからだ。そのニュースは万人にあまねく伝わるはずの客観であった。ところが、久米は「同業の誰とも違うやり方をする」といい放ち、独自性を追求する。自分を「ジャーナリストではなく、キャスターでもない」「あくまでニュース番組の司会者であって、番組進行のプロだ」と規定し、提供されたニュース素材をさばくエンターテイナーに徹する。自分のニュースを伝わる人間にしか伝えようとしない。このやり方が、ニュースステーションの視聴率20%をもたらしたと思われるのである。

見出し7

 「平明・簡略な表現・テレビ手法」についてはすでに触れたが、久米独自のやり方といえば、ニュースの合間にはさみ込まれるコメントを忘れるわけにはいかない。久米はこれについて次のように語る。

「僕がコメントすることで、テレビを見ている側に、何かリアクションが起きてくれればいいと思っているんです。黙って見ているだけじゃなくて。何をバカなこと言ってるんだとか、たかがタレントがこれだけ言うのだから自分ももっと発言していいはずだ、という人が出てきてほしい。特に政治的問題に関する発言についてはね」(「創」90年6月号)

 こういったあと久米は「アメリカと日本のテレビでは違いがあると思う」と述べ、「三大ネットが全国紙の代わりをしているアメリカでは、ダン・ラザーなどが新聞の一面のような顔をしてニュースを伝えなければならない。日本のテレビはもう少しフリーであっていいと思う」という意味のことを主張する。

 久米のコメントは、昼間のニュースを見ているころからぼんやり考えはじめ、7時の打ち合わせが始まる段階で固まる。中身については誰とも相談しない。もちろん、素材のVTRを見てから用意していたコメントをやめたり、本番中に変えてしまったりすることも珍しくないという。

 聞いていると内容はどうということはない感性的、感覚的なコメントが多いが、久米なりに視聴者や庶民の目を強く意識した発言であることは間違いない。そして、これが見ている者の腑《ふ》にストンと落ちる。「そうそう、その通り」という感じで、誰もが納得し安心する。そんなコメントである。おしまいに必ず駄洒落をいうキャスターがいるが、どうみてもあれよりは素直に受け入れられると思う。

 コメントと並んで、久米には言葉にならないメッセージがある。古山高麗雄は「陰間のしなつくり」と一蹴したが、たとえば腕組みしたり、頭に手をやったり、ペンをもてあそんだりという仕種。あるいは、くすくす笑いや、アハハという高笑い。のけぞり、ずっこけ、くねらせ、天を仰ぐ動作。VTRに見入る際の体勢立て直し。カメラが自分に切り替わった瞬間の表情など。こうしたものは、もちろんその場その場の自然な反応なのだが、実はかなり計算されているというべきだろう。

 あるVTRが出て、視聴者もキャスターもそれに見入る。VTRが終わってカメラが久米のアップを映すと、久米が腕組みしてうーんといったり、何やってんだという薄笑いを浮かべたり、これはひどいと眉をしかめたりすることがある。これも計算されている。正確にいうと、いちいち計算してそういう表情をつくっているのではないが、ストレートに自分の反応を出せば当然それは視聴者にメッセージとして伝わるであろうことを、あらかじめ計算しているのである。

 久米は木村太郎との対談でいう。
「ぼくが自分を司会者だと言うのは、番組をいかに番組として成立させるかに九割の神経を注いで、あとの一割でニュースを考えているということなんです、正直に言うと。だから、カメラアングルとかフレームの大きさというのに非常にこだわるんです」(「SPA」88年6月9日号)

 別のところでは「原稿の手直しと同じくらいの精力を使ってネクタイを選ぶ」ともいっている。久米には、テレビに移るものすべてがメッセージなのだという確信があるように思われる。テレビを知るものにとっては当然の確信である。

見出し8

 さて、こうした久米のコメントや言外のメッセージは、次第にニュースステーションに対する政治的な批判へと結びついていく。というのは、久米はコメント――とりわけ政治的問題に関する発言に対する視聴者のリアクションを期待する。そして、以下に掲げた大下英治のインタビューに対する返答が、久米の政治的な「立場」である。

「ぼくは、社会党が政権を取ったら、アンチ社会党になりますから。これは間違いないです。共産党が政権取れば、アンチ共産党です。だいたいマスコミが政権と同じところに立ったら、めちゃくちゃですから、その国は。なぜ反自民かというと、政権を取っているからです。それ以外には、理由はないですね」(「アサヒ芸能」92年5月14日号)

 だから久米のコメントは、自民党の独裁が続く間は、自民党にとって耳障りなものとならざるをえない。そして、この久米のコメントや言外のメッセージが、ニュースステーションを「政治のテレビ化」現象を主導したパイオニア的な番組のひとつにする下地をつくっていった。

 1992年の7月、当時の自民党・山下徳夫厚相は、ある代議士の激励会で講演し、
「久米宏というのがいるが、あの連中が毎日いっているから、世論もPKOに悪い印象をもつようになる。番組のスポンサーの製品を買わないくらいのことを党としてもやる必要があるのではないか」
 という趣旨の発言をした。

 これは氷山の一角であって、ここ2〜3年、ニュースステーションやテレビ朝日に対する自民党筋の圧力は強まる一方だった。たとえば、自民党筋に社長が陳情に行く、あるいは別の記者が取材すると「お前のところのあれは何だ」という話になる。郵政省を通じて局に圧力をかけさせようとする。自民党としては当然の反応である。だが、久米宏はコメントを控えようとはしなかったし、ニュースステーションもそれまで通りの番組づくりを続けたようにみえた。

 今年(1993年)に入り、自民単独政権の崩壊の可能性がささやかれるようになると、ニュースステーションはいっそう「政治のテレビ化」を押し進める。論点をしぼり、白か黒かをはっきりさせた平明・簡潔なテレビ表現を旨とする番組が、政治を扱えば扱うほど、政治は「テレビ化」するのである。久米のコメントも相変わらずだった。6月29日に自民党の梶山静六幹事長が番組に登場すると、久米は「通産大臣のとき、自動車メーカーのトップを集めて、当番組のスポンサーを降りるよう求めたという報道は本当か」という質問をして、幹事長を激怒させた。

 こうして「政治のテレビ化」現象はエスカレートしていった。衆院選挙報道は過熱を極めた。ニュースステーションも政治報道をメインにすえた。そして93年8月7日に細川護煕を首班とする連立政権ができ、これは「久米・田原連立政権」だと評された。連日の選挙報道にもかかわらず投票率が伸び悩んだことで、テレビの力を過大評価すべきでないという意見も出されたが、テレビが政治家から本音を引き出したこと、密室の政治プロセスに光を当てたこと、何かが変わるかもしれないという気運を盛り上げたことは確かだった。

 そんな興奮の冷めやらぬ9月21日、民放連の放送番組調査会にゲストとして呼ばれたテレビ朝日・椿前取締役報道局長が例の「椿発言」を漏らす。発言は、全体としてみれば飲み屋での大言壮語と同じレベルの与太話、愚劣な自慢話だった。だが、これに自民党の意趣返し、新聞のテレビに対する意趣返し、読売―日テレ系と朝日―テレ朝系のいがみあい、自民党と連立政権の政治取り引き、郵政のテレビ局に対する脅しなどが作用する。結果は、衆院政治改革特別委員会への椿の証人喚問という茶番劇だった。

見出し9

 「椿発言」によって火が着いた政治とテレビをめぐる議論は大変錯綜している。最大の問題は、限られた公共財である電波を使うテレビに、新聞と同じような言論報道の自由が認められるのか、という問題だろう。

 テレビ界にも日本テレビの氏家斉一社長のように「テレビに言論機能はなく、報道機能だけがある。これを遵守するのがイロハだ」とする意見がある。読売新聞も「活字ジャーナリズムにはほとんど無制限に出版、発行および言論、表現の自由が保障され、国民の側にも選択の自由がある。しかし放送は、極めて限られた公共財である電波を利用して、情報を直接、国民の茶の間に送りつけ、受け手側の聴視するか否かの選択の自由が限られている。両者の自由は異なるはずだ」と主張している。

 これは、筆者にもちょっと判断がつきかねるところがある。テレビに無制限な自由はありえないというのは、読売新聞の主張通りである。だが、現実に家庭で新聞がどんな読まれ方をしているかといえば、発行部数1000万部というような巨大新聞をトップに全国紙と呼ばれる数紙のなかから、まずどれか選ぶ。場合によりこれに地方紙か経済紙どちらかの2紙というのが一般的なパターンではないか。見方によっては選択支は一つか二つしかない。地方によっては新聞はさらに寡占化が進んでいる。また、活字に無制限の自由があるといっても、1000万部の新聞の言論の自由というのは、よほど慎重に行使されなければならないだろう。

 一方、テレビは東京で最低でも7局が視聴できる。さらに多チャンネル化が進行中で、CATVに加入すれば20局や30局は簡単に見ることができる。直径2〜3メートルのパラボラとチューナーがあれば、100局からのCS放送が受信できる世の中である。いやなら番組を切り替えればよいから、選択支はかなりあることになる。

 とすれば、「新聞は無制限の自由、放送は制限付き自由」という議論は、実態を無視した形式論にならないだろうか。現行の放送法には、政治的公平、報道は事実を曲げないですることといった規定がある。これを外して政治的な自由をなどというつもりは、さらさらない。だが、こうした守るべき精神的規定は残しつつも、テレビの言論の自由をある程度広げる方向を認めてもいいのではないかという気もする。

 たとえば「社説放送」の枠を認めるような方法が考えられないだろうか。現状でも、どうせ「××新聞ニュース」などという新聞を大写しにするだけの放送がまかり通っている(社説を大写しにすれば社説放送と同じ)し、系列による新聞のテレビ支配ははっきりしているのだから。

見出し10

 もうひとつ、考えてみたいのは、久米宏が「ニュースステーション」でニュースの合間に、ある時は捨て台詞のように、自分一人で考えたコメントを付け加えることは、どこまで許されるのかという問題である。

 ハナからダメだという議論は別にして、久米に対する批判は、たとえばこうなる。

「視聴率にこだわるあまり報道のショーアップ化と視聴者迎合が目立ち、キャスターと呼ばれる人たちの、もっともらしい安易なコメントがはんらんしている。しかも、それが、豊富な取材経験や豊かな知性に裏打ちされたものならまだしも、蛇足のようなコメントはニュースの信頼性を著しく損なう」

「(アメリカのテレビに対し、)日本のテレビはアンカーマンと呼ぶにふさわしいキャスターはほんの一握りで、ほとんど取材経験のないアナウンサーやタレントで占められている。ジャーナリストとしての経験もないキャスターが『私見』をニュースに織り込む最近の風潮は厳にいましめたい」(いずれも「読売新聞」93年10月15日付朝刊)

 この言い方は、経験を積んだ知性あふれるジャーナリストなら、久米と同じようなコメントをいっても許されるようにとれる。しかし、世の中には、田中角栄に家を建ててもらった新聞記者とか、金丸信の逮捕直前に金丸邸に出入りして麻雀や飲食に興じていた新聞記者もいる。熟練の放送記者にも似た話がいくらもある。彼らはそれなりに経験も知性も持ち合わているだろうが、アンカーマンにはふさわしくない。経験や知性の度合いは、なんの判断材料にならない。

 久米宏本人はどう考えているのだろうか。今回、テレ朝サイドの取材協力が一切得られなかったので、本人に確かめたわけではないが、もちろん、経験を積んだジャーナリストとスタジオに座っている司会者に、ニュースを扱う上での本質的な差は何もないと考えているのである。

 久米は、「テレビは嘘だらけ」「テレビで事実を伝えるなんて不可能だと思ってます」「真実を伝えるニュースって何なのか、いくら考えても、わからないですよ」という意味のことを繰り返し述べている。まったくその通りで、経験を積んだジャーナリストだろうがなんだろうが、神様ではないのだから純粋の客観報道などできない。それをさらにいくつものフィルターをかけてニュースにするとき、最初の事実が伝わっているはずがない。事実そのものが不確定なら、それを扱う人間の熟練度で事実の正確さが左右されるなどといっても意味はない。

 だったら、自分のコメントは事実に迫ることから出発するのではなく、まったく別の次元から出発しよう、その次元とは自分が考えた視聴者の意識だ、という発想がおそらく久米にはあるのだと思う。出したコメントも、ひとつの事実である。どうせ、事実なんてありはしないのだからというのが、久米の考え方ではないか。

 そして、その考え方をニュースステーションという新しい番組のなかで、コメントとしてすこしずつ、しかし明確に主張していったのが、久米宏の本当の新しさだったのではないかと思う。テレビニュースの新ジャンルを開拓したことよりも大きな、これが久米宏の「功績」かもしれない。久米宏以前にニュースを読んだキャスターは、これは事実だと思いながら読んだ。久米は嘘かもしれないとい思って読む。だから「ニュースを考えるのは比重は番組全体の1割」という言葉も出てくるのである。

 タイプも、見かけの印象もまったく対照的だが、こうした発想はたぶん田原総一朗の考え方にかなり近いと思う。その共通点があるから、テレビの政治化――テレビの現在を象徴するのが、この二人なのではないか。

 そして、久米宏の発想に危うさがあるとすれば、久米が想定している視聴者像と現実の視聴者意識のずれである。ずれは久米自身が少しずつ修正しているが、それが修正不能なまでに広がってしまえば、久米の時代は終わる。

 すべてを計算し尽くす「テレビ才人」久米宏は、その時のコメントを用意しているだろうか。

≪脚注≫
かげ‐ま【陰間・蔭間】
江戸時代、まだ舞台に出ない少年俳優の称。また、宴席に侍して男色を売った少年。陰舞(カゲマイ)。蔭子。男娼。なお「陰間」は景政の当て字、景政は鎌倉権五郎で片目ゆえ「めかけ」の意に用いたともいい、本来は男女に通用。(「広辞苑」第四版)
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久米 宏《プロフィール》
くめ・ひろし
1944年(昭和19年)7月14日、埼玉県浦和生まれ。1967年、早稲田大学政経学部を卒業しTBSに入社。同局アナウンサーとなる。1979年TBSを退社しフリー。その後の所属はオフィス・トゥー・ワン。1985年10月7日にスタートしたテレビ朝日系報道番組「ニュースステーション」(月〜金、夜9時54分〜11時)のキャスター。同番組は2004年3月26日に終了。テレビ朝日の屋台骨を支えた看板ニュース番組で、18年半の放送回数は4795回。そのほかの出演番組は、TBS75〜84年「ぴったしカンカン」、同78〜85年「ザ・ベストテン」、日本テレビ80〜87年「おしゃれ」、同83〜85年「久米宏のTVスクランブル」など。著書に、剄文社「シズルはいかが」、青春出版社「おしゃれ会話入門」「もう一度読む『おしゃれ会話入門』、集英社「最後の晩餐」、世界文化社「ミステリアスな結婚」(麗子夫人との共著)など。