Sep
28

デング熱

 キューバ

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 デング熱(Dengue Fever)は、日本では耳慣れない名前だが、マラリアと同じく熱帯や亜熱帯地域の感染症である。しかも、マラリアと異なり、デング熱を媒介するネッタイシマカやヒトスジシマカは、空き缶や竹の切り株に溜まった水でも発生するため、都会で流行することも多く、ある意味ではマラリアよりも厄介といえる。

 死亡率は1%以下だが、病気にかかると38~40℃の高熱が続き、何もできなくなるほどの激しい頭痛や骨痛、筋肉痛におかされる。さらに、デング出血熱という重症疾患になると死亡率も10%と高くなり、とりわけ、子どもがかかりやすく、治療が遅れると40~50%が死亡する。

 キューバでは1944年以来、デング熱が発生したことがなかった。出血性デング熱は80年間も症例がなかった。ところが、1981年の5月から10月にかけ、キューバでは突然、30万件ものデング出血熱が大発生し、ピーク時には毎日1万件もの患者がでた。8月、キューバ政府は直ちにデング熱の媒介となる蚊の駆除作戦を展開した。通常の三倍半ものトンあたり5千ドルでマラチオン液を緊急輸入。病院だけでなく、寄宿施設を持つ学校の多くが隔離病棟にあてられた。だが、結果として158人が死に、うち101人は15歳末満のいたいけな子どもたちだったのである。

 この流行したデング熟は東南アジア発の特定のタイプ「DEN-2」であり、アメリカ大陸では、最初の大規模な伝染だった。では、なぜ、キューバでこのような奇妙な病気が大発生してしまったのであろうか。

(傍証1)
 最近、機密解除された政府文書によると、米国陸軍は1956年と1958年に、ジョージア州とフロリダ州で特別に育てた蚊の群を放ち、伝染病を媒介する虫が生物戦争の武器になるかどうか実験をしていた。この実験で使われたのはまさにデング熱を蝶介する「ネッタイシマカ」だった。

(傍証2)
 デング熱が流行した3年後の1984年、亡命キューバ人、エドゥアルド・アロセナ(Eduardo Arocena)が、ニューヨークでキューバ外交官を殺人した罪で裁判にかけられていた。アロセナは、反カストロ・テロリスト・グループ、「オメガ7」のリーダである。だが、このアロセロ公判中にうっかりと、1980年に「いくつかの細菌」を持ち込む任務でキューバを訪問した」と口を滑らしてしまったのだ。

「我々は、ソ連とキューバ経済に打撃を与えるため、生物攻撃を開始するつもりだった。だが、結果は、期待していたものとは違っていた。なぜなら、我々はそれがソ連軍に対して使われものだと思っていたのだが、実際には我々キューバ人に対して使われてしまったからだ。だったら、賛成できなかった」

 この証言は、デング熱がCIAによって、キューバに持ち込まれた容疑を色濃くするものである。

 1981年の7月26日の革命記念日で、カストロは「この病気がCIAによってもたらされた疑いがあり、殺虫剤の輸出を米国にもとめたが拒否された」と演説している。もちろん、翌7月27日、米国国務省は、直ちにデング熱流行に対するCIAの関与を否定している。

 だが、この不幸な事件は世界に大きな恩恵をもたらした。キューバの科学者たちは、デング熱が流行している間、バイオテクノロジーを駆使して、わずか6週間で治療薬、インターフェロンを作り出してしまったのである。キューバは奇しくも1981年5月に高品質インターフェロンの開発に初めて成功したのだが、デング熱に感染した子どもの死亡率を減少させるため、インターフェロンを活用したのである。そして、このインターフェロンの増産の成功は、1986年に遺伝子工学・バイオテクノロジー・センターが開設されることにつながった。現在、キューバは、さまざまな病気の治療薬として、インターフェロンを活用し、他国にも輸出している。皮肉なことだが、キューバのバイオテクノロジーの多くは、米国からのバイオテロに対抗するために進展したとも言えるのである。

 一方、1982年、米国国務省はキューバをテロリスト国家としてそのリストに掲載した。以来、007の映画「ダイ・アナザー・ディ」が象徴するように、キューバはテロリストを支援する危険なバイオテクノロジーの国家として描かれ続けている。