ナチス思想批判 蓑田胸喜 ------------------------------------------------------- -------------------------------------------------------   序=批判の見地  七月二十日のドイチエ・アルゲマイネ・ツアイツング紙上に「精神が勝利を得た」と題して、ドイツの勝因とフランスの敗因とを論じた外國新聞の記事を紹介しつゝ、「フユーラーは魂を有しドイツ青年の精力を完全に掌握して居つた」といひ、「ドイツの勝利は實際に於いて一つの信仰から生れたものである」と、この「信仰」「精神」を特に反覆強調してゐる。  評論家の小林秀雄氏が最近『マイン・カムプ』を讀み『東朝』九月十二日紙に發表した感想文に「それは組織とか制度とか言ふ樣なものではない。」「ユダヤ人排斥の報を聞いてナチのヴアンダリズムを考へたり、ドイツの快勝を聞いて、その科學的精神を言つて見たり、みんな根も葉もない、たは言だといふことが解つた。形式だけ輸入されたナチの政治政策なぞ、反故同然だといふ事が解つた。ヒツトラーといふ男の方法は、他人の模倣など全く許さない」といつたのは、粗雜不正確ながらナチスのこの「信仰」「精神」に觸れたものであつた。  全體主義、科學的精神、統制經濟、機構、組織、指導者原理を云々する現日本の學者、官僚、政治家、また日本の政治外交の自主獨自性を呼號する人々の間にも、ナチス思想の眞價に對する研究批判が正鵠を得てゐるのは稀有である。  著者は自己の研究を元より完全無缺のものといふものではないが、著者は十餘年前『獨露の思想文化とマルクス・レニン主義』また『學術維新原理日本』に於いてカント哲學、マルキシズムに對して根源的綜合的批判を加へた同じ學術原理をナチス思想に對しても適用して、その長所を闡明すると共に、その缺陷を明確に指摘し批判したのである。  今日に至つてはマルクス共産主義の信奉者らも時勢の變轉により所謂「人民戰線戰術」からナチスの全體主義、指導者原理に表面批判を粧ひつゝ實際に於いては思想的に之に追隨して謀略的意圖から之を利用するに至つてゐる。昭和研究會の『新日本の思想原理』『協同主義の哲學的基礎』の如きはその顯著なる實例であつて、最近各方面から提出された「新體制」の私案や記事論文の上に、日本臣民として君臣の大義を遺忘して、このナチス的「指導者原理」に幻を拔しつゝある爲態を見るのは、往年のデモクラシー、マルキシズムの流行現象と何等擇ぶところはない。  著者はこの點に就いては本冊子と同時に公刊した『昭和研究會の言語魔術』中に細論しておいたから今これ以上觸れないが、『マイン・カムプ』中のアリアン人種優越論や日本文化誹謗論の如き、またローゼンベルクの『二十世紀の神話』の所論に對しても、ゲルマン神話の根源に遡つて嚴密の批判を加へ、前者に就いては昨夏駐日ドイツ大使を通じてその改訂を促したことを附言しておく。  かくして著者はナチスの「世界觀の戰ひ」を紹介しつゝ、これに對する日本人としての「世界觀の戰ひ」を學術的形式に於いて表現したのである。本書は日本學生協會發行の『世界觀の戰ひ』また原理日本社發行の『ナチス精神と日本精神』に若干増訂を加へたものである。猶こゝに盡さなかつた點に就いては、『原理日本』昭和十四年六月號『「二十世紀の神話」を讀む』及び同年七月號『ナチス精神と日本精神』またマルキシズムとの關聯に就いては前記拙著『獨露の思想文化とマルクス・レニン主義』の參照を望む。  昭和十五年九月十四日      著者     目次  序、批判の見地        ――――――――――――――――――――――  一、民族生活悲喜交錯の時  二、デユルクハイム及びクリークの獨逸精神論  三、『世界觀の戰』――ヒツトラー總統の言葉  四、ローゼンベルクの『二十世紀の神話』――國民主義の新宗教  五、カント、エツクハルト、ビスマルク、モルトケ、ゲーテ  六、祖國愛と神の信仰  七、『マイン・カムプ』のアリアン人種優越論批判  八、『二十世紀の神話』と『古事記』の永久生命  九、『マイン・カムプ』の日本民族論批判 一〇、ナチス精神と日本精神 一一、ゲルマン神話と現獨逸 一二、ナチス精神の選民的鬪爭思想と『八紘一宇』の日本精神 一三、一ドイツ學者の日本精神論 一四、世の人のまことのみち    ナチス思想批判     一、民族生活悲喜交錯の時 [#ここから1字下げ] 『一民族の全生活史には、民族がその失神状態から覺醒する最も神聖なる秋がある……喜びと愛とを以つて自己の民族の永遠性を把握する民族は、如何なる時に於いても再生の祝祭と復活の日とを言祝ぐことが出來る。』 [#ここで字下げ終わり]  この一文は、アルフレツト・ローゼンベルクが『二十世紀の神話』の第三篇『來るべき國』の題辭の下に掲げた、ドイツの一愛國思想家の言葉である。これはローゼンベルクが十五年前祖國獨逸の亡國的慘状のうちにあつて祖國の復活を確信しつゝ今日を翹望した當時、彼の心を強く捉へたものであらうが、いまこの言葉はオランダ人、ベルギー人、フランス人、其他現に亡國破局の運命に沈淪呻吟しつゝある各國民の魂に等しく愬ふるであらう普遍的眞理の表現である。 [#ここから1字下げ] 『すべてこの世界における最高の行爲なるものは、數百萬人の心の中に、長い間抱かれてゐた欲求の體現に外ならない。數百年の間、堪へがたき状態の下に惱み苦しめられ、その除去を心から欲求しながらも、猶且つ長い間それが取り除かれずにゐるやうなことが屡々あり得るのである。』 [#ここで字下げ終わり] といふのはヒツトラー總統『マイン・カムプ』の一節である。かくの如きは決して所謂政治家の言葉ではない。人生の祕奧、人類思想史文化史の根柢に徹した言葉である。ヒツトラー總統はまた同書中、前歐洲大戰に於ける英國の宣傳戰の威力を回顧して [#ここから1字下げ] 『宣傳なるものは武器以上でもなければ、それ以下でもない――もし宣傳なるものゝ性質を眞に會得した人の手にかゝつたら、實に恐るべき武器である。』 『かくて英國人は、この武器が引續き大衆に對して使用し得るのみならず、いくら費用をかけても、その費用ぐらゐ充分に償つて餘りある程價値あるものであることをはつきりと悟つた。』 [#ここで字下げ終わり] といひ、之に對する自國の宣傳戰の無力を悲歎して [#ここから1字下げ] 『宣傳が英國においては第一級の武器として利用されたのに反して、わが國においては失業政治家の飯の種としてか、或はせいぜい内氣な英雄達の部屋代稼ぎとして利用されたに過ぎなかつた。結局われにおいてはその效果は零に等しかつたのである。』(原著一九三―二〇四頁參照) [#ここで字下げ終わり] といつてゐる。主客全く地位を顛倒するに至つた今日、この言葉は、ローゼンベルクの前掲の言葉と共に深甚の意義をわれらに感ぜしむるのであるが、眞の宣傳戰はいふまでもなく思想戰――原論靈戰であつて、それは所謂宣傳技術の問題ではなく、古來の大宗教の開創宣布の歴史に徴しても思想精神――信仰の問題である。     二、デユルクハイム及びクリークの獨逸精神論  ヒツトラー總統の特命を受けて來朝中のデユルクハイムは『改造』昭和十五年六月號に寄稿した『歐羅巴精神と獨逸精神』の冒頭に、今日日本と接觸關係をもつ歐羅巴人の多くが受ける印象は日本人は外國人から科學と技術のあらゆる利器を以て列強諸國に比肩し得る近代國家だといふ事を認めて貰ひたいと腐心してゐるといふ印象を受ける、『日本のこの方面の發展を十分に認めてやらないと、日本人は侮辱されたやうな氣がするのだと我々歐羅巴人は時々感じされられる』といひ、之に對して歐羅巴人ことに獨逸人としての自己の立場を逆襲的に表明して [#ここから1字下げ] 『歐羅巴人としては今日單に文明上の業績の點だけから見て貰ふのは難有迷惑だ、もう少し他の方面も見て貰ひたいといふ要求があるのだが、これは上述した日本人の歐羅巴觀から見れば、或ひは意外なことかも知れない。我々歐羅巴人は歐羅巴が單に科學と技術、機械と組織の世界でなく、特に最も深い意味で古き「文化」の世界であるといふことを、日本人に理解して貰ふ必要を寧ろ益々痛感してゐる。』 [#ここで字下げ終わり] といつてゐる。いふまでもなくこれは當然の言ひ分で、歐羅巴發生のものはすべて物質的、合理的のもののみだといふ斷定は誤りである。氏は、日本人の間にこの點に對して正しい批判力を有するものは『少數の知識人に限られてゐる』といひ、日本人の間における上記の如き歐羅巴觀の發生要件を分析して、それは外國人たる日本人に最初に目に付く歐羅巴の特徴はその技術的合理的方面であり、而も日本が接觸し始めた當時の歐羅巴は恰もさういふ方面が畸形的變質的に尨雜化しつゝあつた十九世紀の末葉であり、而してかゝる傾向がそれに基く自由主義的個人主義的世界觀を伴つて日本に移入せられ、日本そのものを物質的には富強化したが、その精神的文化傳統を茶毒し破壞した事實が確にあつたからであるといつてゐる。  かくの如き見地からデユルクハイムは [#ここから1字下げ] 『人間は個人たると同時に常に高次の生活共同體、就中家族及び民族の一員でもある。人間がこの自覺を失ふとき生活共同體は解體し、同時に天地創造の神慮のまゝに榮ゆべき人間自身の地磐も消え失せてしまふのだ。即ち共同體は崩壞し、人間は墮落するのである。』 『科學と技術とは元來それ自體としては生活と矛盾したものではない。けれども科學と技術とが獨立し、之を産み出す悟性能力が孤立して指導權或ひは獨裁權を要求するに至れば、またそれだけ生活を危くするわけである。』 『かくの如き危險に陷つてしまつたといふ點に歐羅巴精神の悲哀がある。十九世紀の末葉、即ち恰も日本が歐羅巴と密接な交渉をもつに至つた頃、かゝる危險な事態の進展が云はゞ頂點に達したのであつた。法則認識の能力即ち自然界の現象及び過程の形式を認識する能力が自己の絶對性を主張し、人間の生活全體より離脱し獨立化してゐたのであつた。歐羅巴人はおのが自然科學的悟性の發明と業績とに眩惑陶醉し、悟性の把握し得るもののみが眞に實在的なもの即ち客觀的に實在せるものと認むる邪道に陷つたのであつた。從つて之に對して傳統によつて神聖視された秩序や感情の中に躍動せる信仰上の價値は單に主觀的なものだと考へて、他の方面に於て赫々たる成果を收めた悟性を頼みとして傳統的秩序や信仰的價値に疑惑を抱き、これを否定するの僭越を敢てしたのである。』 [#ここで字下げ終わり] といつてゐる。これは近代歐羅巴文明に對する正しい反省を示したものといはなければならない。それ故デユルクハイムが [#ここから1字下げ] 『併し歐羅巴人の有する、かゝる悟性の能力のみに着眼して之を補ふ神祕把握の能力を看過するならば、歐羅巴人に對して正しい判斷を下すことは出來ないであらう。説明的認識の能力のほかに了解的認識の能力がある。了解的認識の能力は悟性から生れたものではなく本能から生じたものであり、我々の心情に訴へて自然法則ならぬ神々の言葉を了解する能力である。この能力は個人のうちより生れ出づるものではなく、民族の魂のうちより個人に賦與せられるものである。』 [#ここで字下げ終わり] といふ世界觀の、『天地創造の神慮のまゝに榮ゆべき人間自身の地磐』といひ『自然法則ならぬ神々の言葉を了解する能力』といふ如き表現に注目すべく、かくして彼が [#ここから1字下げ] 『獨逸の未來を思ふとき、我々獨逸人の頼みとする所は、詩人と軍人との人格的統一であり、民族的活力と國家形成力との一致であり、技術的能力と生ける信仰との融合である。この樣な統一の實體と發展力とが現代の獨逸人にとつては「ナチス獨逸」として體現され保證されてゐるのである。』 [#ここで字下げ終わり]  ハイデルベルヒ大學總長としてナチスの代表哲學者たるエルンスト・クリークは近著『世界觀の原理としての生命と科學の問題』に於いて [#ここから1字下げ] 『吾々は既に舊約及び新約の東洋的神話を脱落した。然しながら吾々獨逸人はまたデモクリトス、プラトー及びアリストテレスの精神にも今後戀々たるを得ないであらう。あらゆる親近性にも拘らず、希臘神話はゲルマン神話ではない。ゲルマン神話にあつては、萬有は常にそのあらゆる部分に於いて一つの生命的なものであり、また自然的生命協同體の一體性が本來の所與である。』(原著二六頁) [#ここで字下げ終わり] といつてをる。希臘神話から轉成した希臘哲學が、一方に於いては自然と生命とに對する唯物的機械觀を生み、他方ではまた自然と生命とから遊離した唯心的觀念論を生むに至つたのを、宇宙人生の一元的生命觀に反する猶太神話の『造物主』的機械觀と併せ排撃するクリークの見地が、ローゼンベルクの『二十世紀の神話』のそれと共通するものなることはいふまでもない。かくしてクリークが [#ここから1字下げ] 『曾て心靈のない心理學があつたやうに、實證主義の時代以來自然のない自然科學、その對象を押し除けて自己自身をその代りに置いた一つの科學がある。』(同二七頁) [#ここで字下げ終わり] といつて、生命一元の世界觀を力説し、自然科學と精神科學とを内面的に統一する見地から、從來の宇宙觀人生觀を根本的に改訂すべきを論じてゐるのは、歐洲思想史上に於いては確かに世界觀の革命を以て目すべきものである。     三、『世界觀の戰』――ヒツトラー總統の言葉  『念々新易して作の相を見難し』(聖徳太子)。無相の相が精神の性格である。當初『戰鬪なき戰爭』などゝいはれた今次歐洲大戰は俄然獨逸の電撃作戰によつて世界史を革命する如き激變を示すに至つた。これは國内改革に『人間の再教育』としての『革命の革命』を成就したナチス精神の對外先生に於ける發現に外ならぬ。ナポレオンに於いて不可能であつた英國征服が可能視せらるゝに至つた獨逸の電撃作戰の神速勝利は全世界に大衝撃を與へ、英佛兩國民にその久しく忘れたりし『神助』『奇蹟』を祈願し希求せしめた程である。こゝに獨逸の統制經濟に就いてと共に、科學新兵器の性能や戰略戰術に學ぶところあるべきはいふまでもないけれども、眞に自主的創意的に我が總力戰備の擴充完璧を期せむとするものは、根源的綜合的見地から之を批判せねばならぬのである。  ヒツトラー總統は本年二月二十四日ミユンヘンに於ける黨綱領發布二十周年記念に因んで行つた演説中に『余は中途半端のことは嫌ひである。徹底的にやる。一九一四年とは違つてをる。今度こそは近代軍備完成のためには有らゆる犧牲を厭はなかつた。これがウソでないことはポーランド戰で實證された通りである。これは將來に於いて更に有力に實證せらるゝであらう』といつたことを實證したが、そのうちに [#ここから1字下げ] 『余の戰はヴエルサイユに對する戰である。しかしながらヴエルサイユ條約の文句に對する戰ではなく、それがそれから發したところの世界觀に對する戰である。』(『原理日本』本年五月號所載、得田世美氏『ヒツトラーの演説』參照) [#ここで字下げ終わり] といつた如く、根本的に重大なのは全體精神としての世界觀、國民的活力、國家の指導精神如何である。  即ちヒツトラー總統は『マイン・カムプ』のうちに [#ここから1字下げ] 『今試に國家を形成し維持する力は何であるかと問ふならば余は直ちに次の如く答ふることが出來る。即ち各個人が協同體のためにその有する能力と用意とを喜んで犧牲にすることこれである。この精神は經濟とは何の關係もない。何故なら人間は斷じて實業のために自己を犧牲に供することはない。換言すれば人は實業のためには死せず、唯理想のためにこそ身命を捧ぐるからである。』(原著一六七、一六八頁) 『一九一四年、獨逸國民が自分達は理想の爲めに戰つてゐると信じてゐた間は、獨逸はまだまだ不動の地磐の上に立つてゐたといへる。然るに彼等が日々のパンのために戰つてゐるに過ぎないといふことが解つた瞬間、彼等は進んで降伏したのである。』(同一六八頁) [#ここで字下げ終わり] といつてゐる。次にこの精神をローゼンベルクの『二十世紀の神話』を見よう。     四、ローゼンベルクの『二十世紀の神話』――國民主義の新宗教  『新しい生命の神話から新しい人間類型を創造する――これが吾々の世紀の任務である。』『眞の再生は決して權力政策だけのことではない。況んや、自負的な沒分曉漢が考へるやうな「經濟的建直し」の問題ではない。さうではなく、魂の一つの中心的な體驗、一つの最高價値の認定を意味する。この體驗が人から人へと幾百萬度繼續されるならば、遂に民族の合一された力がこの内的變化の前に顯現する。その時こそは世界の如何なる權力も獨逸の復活を抑止することは出來ないであらう』(吹田・上村邦譯『二十世紀の神話』序)と表現してゐる。  ローゼンベルクは『神話も性格も持たない十九世紀は議會政治、マルクス主義、要するにあらゆる破壞力に對して爲す所を知らなかつた』(同三九五頁)といひ、『希臘及びゴシツクの隆盛期藝術に共通なものは宗教的な根柢であつた。宗教的心情は往々言明されずに存在してゐるものであるが、かゝる場合でも矢張り一つの民族精神の全雰圍氣を啓示するものである。素材の拘束からの解脱や永遠なるものへの模索(かゝる氣分の示唆)は、吾々にとつて人間の精神的な、唯一の創造的な根源力が實際生きて働いてゐることの徴候である。聖者や偉大なる自然探求者や哲學者や道徳的價値の説教者や大藝術家はかゝる氣分から生み出されるものである。それ故若しもある個人または民族にかくの如き、未だ無形式ながら唯一の生産能力ある氣分が缺けてゐる場合には、偉大なる眞の藝術への前提が缺けてゐるのである』(二八八頁)といつてをる。これは二十世紀の現代にいよ/\その根源的生命威力を顯現し實證しつゝある藝術的人生宗教としての我がカンナガラノミチ・シキシマノミチの眞精神に對する概括的な然し全幅的な註脚と見るべきである。  ローゼンベルクは右の如き見地から、彼の求むるものを『有機的眞理』と呼んでゐる。それは生物の有機組織にあつては『形態』と『合目的性』とは全然同一物で、前者は直觀の方面からその本質を示し、後者は論理的認識の方面から之を表はすに過ぎないといひ [#ここから1字下げ] 『あらゆる人格は無限の統一である。これは哲學的一元論に對する宗教的意志である。』(三一〇頁) 『一つの信仰、一つの神話は、それが全人を捕へた時にのみ純粹である。』(四一四頁) 『それ故一つの世界觀は、それが童話や傳説や神祕説や藝術や哲學に、相互に切換へられて同じことを違つた方法で表現し、それらが同じ種質の内的價値を前提として持つやうになつた時、始めて「眞實」となるであらう。こゝに宗教的禮拜と政治的公明とは人間自身に依つて表示された神話として相互に結合せらるべきであらう。かうした事を何時か實現しようとするのが、吾々の時代の人種的文化理想の目標である。』(五四三頁) [#ここで字下げ終わり] といふ思想法は、苟くも統一的體系的思索を志すものならば何人も心絃共鳴せざるを得ざるところで、こゝに彼の人生觀上の全人主義、認識論上の全體主義が示されてゐるが、彼の未來に描く文化理想は日本にあつては肇國以來原理的に現成せられ來つてをる傳統的事實であることいふまでもない。かくして彼は『自然を靈視する』太古的神話精神、祭政一致の宗教的政治哲學を、ワグナーの『藝術的作品は生き生きと表現された宗教そのものである』といふ美的形成意志の藝術的人生觀と結合して、眞の思想は冥想的靜觀に於いてゞはなく行爲的實感に於いて『甘美にして聖なる偕調』を覺えしむるものでなければならぬといつてをる。  それ故ゲーテは、ダ・ヴインチ、ヘルダリン、バツハ、ワグナー等と共に彼の讚嘆するところで [#ここから1字下げ] 『ゲーテは今後數十年間は影が薄くなることゝ思はれる。蓋し彼は類型形成的理念の實力を憎んでゐたし、實生活に於ても文學に於ても、一つの思想の獨裁を認めることを欲しなかつたからである。然しながら一つの思想の獨裁なくしては民族は決して民族として存續するものではなく、また決して純粹な國家を創造することもないであらう』(四一〇頁) [#ここで字下げ終わり] といひつゝ [#ここから1字下げ] 『彼は寧ろ全存在の一般的豐饒化を意味してゐた。彼の言葉には普通であつたら隱れたまゝ恐らく溢れ出づることのなかつたやうな心の泉を湧出せしめたものが少くない。而も生のあらゆる領域に於てこれをなしたのである。ゲーテはフアウストのうちに吾々の本質を書きあらはした。吾々の魂の改鑄毎に新しい形の中に住まふ永遠なるものを書きあらはした。彼はこれによつて吾々の民族が二人と例を見ないほどに吾々の素質を保護し維持する人となつた。いつか激烈なる鬪爭の時代の過ぎた時がくれば、ゲーテも再び外面的に顯著な影響を及ぼし始めることであらう。』(四〇九・四一〇頁) [#ここで字下げ終わり] といつてをる。こゝにローゼンベルクが『美的意志』の章を設けて、その古今東西の民族殊に近代歐洲諸國民に於ける顯現樣式を巨細に吟味批判する所以が存するのである。  然しながら藝術は『孤立者、獨一者』の世界であつて、藝術品に宗教自體を見たワグナーも『然し宗教は藝術家が案出するものではない。それは民衆の内部から生れる』といひ、『象徴としての民衆藝術』に憧がれて『未來の宗教』を描いたが、これを創造することは出來なかつたといひ、こゝに登場した『社會詩人』や『勞働文學』者等の人生そのものとの對決に於ける敗北を指摘して、歐洲大戰の慘憺たる體驗により美的價値の背後から今や新しく興起した『超美的價値』――民族主義の新宗教を説いていふ―― [#ここから1字下げ] 『時代の困苦があらゆる獨逸人の胸に刻みつけたことは、大戰の犧牲者は如何に小さなものでも八千萬の同胞に對する献身を意味するといふこと、而もこれら八千萬の同胞は彼等のために献げられた犧牲の共通性といふ事實だけで既に、彼等の子孫や極めて遠い子孫をも併せて、永遠に一體であるといふことである。戰前にあつた「祖國」への抽象的な感激は、以前のあらゆる議會や政治家達の抗爭にも拘らず、今日では神話的現實的な體驗となりつゝあるのである。……今後政治生活が如何なる形態をとつて行くにしても、その時はまた大戰詩人誕生の時刻の報ぜらるゝ時である。彼はその時、他のすべての者と共に、二百萬の戰死した獨逸の英雄は現實に生きてゐる、彼等が生命を擲つたのは獨逸民族の名譽と自由のために外ならぬ、かゝる行爲のうちに吾々の精神的再生の唯一の源泉、またすべての獨逸人が無條件に跪伏することの出來る唯一の價値が存するといふことを知るのである。』(三六〇頁) 『現代の神話は二千年前の世代の諸形態と同樣に英雄的である。あらゆる世界で獨逸の理念のために斃れた二百萬の獨逸人は、突如として、彼等が十九世紀全體を放棄することを得たといふこと、最も單純な農民や極めて質素な勞働者の心の裡にも、曾つてアルプスを越えて進軍したゲルマン人と同じく、北方的人種魂の神話創造力が活きてをつたといふことを啓示したのである。』(五五三頁) 『若し吾々の魂と吾々の血液とがなかつたとしたら、吾々の崇拜する神もまたないであらう、といふのがマイスター・エツクハルトの如き人の現代に對する告白であるであらう。それ故吾々の宗教や法律や國家がなすべきことは、この魂とこの血液の名譽と自由とを保護し、強化し、貫徹するやうに萬事行ふことである。それ故獨逸の英雄達がかくの如き思想のために斃れた處は、すべて神聖な場所である。記念碑や記念物が彼等を想起せしむる處はすべて神聖な場所である。それからまたそのために彼等が曾つて最も熱情的に戰つた日は神聖な日である。而して獨逸人の神聖な時刻は、覺醒の象徴たる、高揚する生命の記號を持つた旗が帝國の唯一の支配的な信仰告白となつた時に現はれるであらう。』(五五四頁) [#ここで字下げ終わり]     五、カント・エツクハルト・ビスマルク・モルトケ・ゲーテ  次にローゼンベルクのカント批判を指摘しよう。彼はいふ―― [#ここから1字下げ] 『凡そ純粹理性の批判なるものは、各々の可能なる經驗の形式的前提を吾々に意識せしめ、そして人間の種々の活動的な力をば或る一定の、それらの力にのみ委ねられた範圍に制限すべき目的を持つてゐる。蓋し認識論的洞察の閑却はあらゆる領域に最も大なる混亂を齎したのである。こゝにカントの認識批判は、宗教的煩瑣的な、俗流自然主義派または憂鬱官能主義派の學説に廢頽し始めた時代の唯中に明確なる意識的覺醒を與へたのである。然しながら理性批判のかゝる最高の業績の認定に際して、形式的なるもの以上に出で、心靈的及び理性力の使用の内面的徹入の方法に就いては未だ何事もなされなかつた。換言すれば種々の文化及び世界觀の最も深奧なる本質の評價は考慮されてゐなかつたのである』(前掲八四頁參照) [#ここで字下げ終わり]  このカント批判は原理的に正しい。カントは『純粹理性批判』の第一版序文中に『形而上學の問題にして、本書中に解決されなかつた何物もない』といひつゝ、第二版の序文に於いては『余は信仰に餘地を與ふるためには知識を捨てなければならなかつた』と、形而上學の根本問題に就いて理性的認識の無力を自白せねばならなかつたのである。この意味に於いてローゼンベルクが [#ここから1字下げ] 『一人種、一國民の生活は論理的に發展する哲學でもなければ、また自然法則的に生起する過程でもなく、一つの神祕的綜合の成果である。それは理性の推及によつても更に因果の叙述によつても理解することの出來ない一つの心靈活動の成果である。それ故一つの文化を眞に内面的に理解することはその全き韻律を規定し、然しながらまた同時に人間的諸力の相互の關係及び序列を制約するところの、宗教的、道徳的、哲學的、科學的または美的最高價値を闡明することでなければならない。特に宗教的生活を持つ國民は、認識や美を好む國民とは別種の文化を生むであらう。要するにあらゆる哲學は形式的な理性批判を超出せむとする以上認識といふよりも信仰告白である、それは心靈的な且つ人種的な告白であり、性格價値に對する信仰告白に外ならない。』(八五頁) [#ここで字下げ終わり] といふのは、世界現勢における思想史的現實の立證するところである。かくしてローゼンベルクは [#ここから1字下げ] 『吾々は今日、吾々自身に就いて決然たる辨明を與ふること――即ちゲルマン的西洋の最高價値及び中核的理念を信奉するか、然らざれば心靈的且つ肉體的に吾々自身を棄却するか、何れか一つを義務として痛感するものである。――永久に。』(八七頁) [#ここで字下げ終わり] と宣言し、この『二十世紀の神話』の序文に於いて、『それ故前進せむとするものは、背後の橋をも燒き拂はねばならぬ』と背水の陣を敷いてをるのである。  こゝに『自己自身の根柢から』『働くために働く』といひ、『萬象は彼に恭々しく答へる、人間はあらゆる彼の善行の主である』といつて、心靈の全き自由を以て實證したマイスター・エツクハルトを讚嘆敬仰して已まぬローゼンベルクの人格觀、自由觀の背景を指摘したい。  『神を強ひて引きつける』とさへいつたエツクハルトは、それ故又『予は斷乎として主張する、汝が汝の善行を天國のために、神のために、或は汝の淨福のために、かくして外面から行ふならば汝は實際は正道を行つてゐないのである』といつた。これは全心全靈もて神人交通を實現せるものの魂の告白である。神は全であり、人は個である。これ實に個が全に合一せる大自由大自在の世界であつて、西歐精神史上における自由人格の最高典型と見るべきであらう。  自由主義個人主義に於ける人格の自由とは、畢竟小市民の心靈的不自由の反對物として外に描かれた無慚放逸の我執我慢に外ならない。かくしてこの『エツクハルトにおいて、北方的の魂は、始めて自己を十分に意識した。彼の人格に於いて、あらゆる吾々の後代の偉人が埋藏されてゐる』『エツクハルトの魂の偉大さを再び獲得し、そしてこの人物と鐵兜の出征軍人とは同一のものであることを體驗しなければならない』と繰返しまた繰返し叫ぶローゼンベルクの言葉はデユルクハイムが詩人と軍人との統一、技術的能力と生ける信仰との合致を説いた言葉と符節を合するものである。またヒツトラー總統が先に引用した如く『マイン・カムプ』の中に [#ここから1字下げ] 『今試みに、國家を形成し維持する力は何であるか、と問ふならば、余は直ちに次の如く答ふることが出來る。即ち各箇人がこの協同體のためにその有する能力と用意とを喜んで犧牲にすることこれである。これらの精神は經濟とは何の關係もない。何故なら人間は斷じて實業のために自己を犧牲に供することはない。換言すれば人は實業のためには死せず、唯理想のためにこそ身命を捧ぐるからである。』(原著一六七・八頁) [#ここで字下げ終わり] といふところに、所謂全體主義と個人主義乃至理想主義との問題は、煩雜理論を要せずして解決せられてゐるといふことが出來よう。こゝに筆者は更に、ローゼンベルクがビスマルクとモルトケとを對比して評論した態度を紹介して、ナチスの眞精神を闡明したい。  ローゼンベルクは、ウイルヘルム二世が其著『事件と人物』に於いて、ビスマルクを『廣い野原に在る一つの漂石』に比し、『之を取除けて見ると其の下には毒蟲だけが居た』といつてゐる點を指摘して、『これが最近五十年間の獨逸政治史の象徴である』といつてゐる。これは、ビスマルクが自己の絶對優越性を自負して、その周圍や官廳に創意と積極的責任感とを有たぬ吏僚的人物のみを集め、指導者を作ることを遺却したことを非難したのである。ローゼンベルクは [#ここから1字下げ] 『一九一四年から一九一八年に至るまで、本當の獨逸國は最早獨逸國内には存在せず、戰線に存在した。フアクラント島の沖合や青島、獨領東阿弗利加、印度洋、英國の空などの戰線に存在してゐたのである。獨逸國内には毒蟲どもが大臣の椅子に坐りこみ、戰場に在る強力な國家をどう處置したらよいか解らずにゐたのである』(同上四一三頁) [#ここで字下げ終わり] といひ、『ビスマルクの外に、今一人の人物が並んで活躍してゐた。それは獨逸がもつと早く滅亡することを阻止した恩人であり、また世界大戰に於ける四ケ年半の英雄的鬪爭を可能ならしめた第一人功勞者である人』としてモルトケ將軍を讚へ、『參謀本部の創設者モルトケはフリードリツヒ大王以來の最も強大な類型形成力である。彼は政治上の辨論戰によつて民族の魂を鍛錬する人ではなく、現存の人格價値を育成することに助力し、個人の責任意識をあらゆる行爲の前提とした人であつた』といひ、 [#ここから1字下げ] 『モルトケにあつては、直屬の部下は根據ある自己の見解を極めて明晰に主張する義務を持つてゐた。前令取消をなした時には、之を調書に作成する義務さへ持つてゐた。此の原則を上下一致して實行し、すべての獨逸の兵士を――軍規は甚だ嚴肅であつたが――自ら熟考して斷行する鬪士的人間に教育することを主眼とする諸規定によつて此の原則を助成した。これが世界大戰に於いて獨逸が戰果を擧げた祕訣であつた。來るべき第三帝國にとつても若しも解放の昂奮と陶醉的な歡喜との後に、再び崩壞が起ることを防止しようとするならば、救助策たり得るものは、モルトケ伯の方法を措いて外にはないであらう』(同上四一二頁) [#ここで字下げ終わり] といつてをる。かくの如きローゼンベルクの精神はまたゲーテの抱納無窮の人生觀にも傾倒して [#ここから1字下げ] 『フアウスト的人間は、無限なるもの、最も深きものゝうちに徹入するのみならず、また實に孤獨である。……然しかういふことが可能であるのは、彼がたゞ彼のみに特有な不滅なるものを内面的に體驗してゐるからで、それは彼が單に、人物として周圍から超出してゐるだけでなく、彼が人格者、即ちたゞ一回だけしか現はれないやうな不滅の精神であつて、一つの永遠に活動し統御し、探求する、時空を超えあらゆる大地の拘束から脱した、唯一特妙の力を感ずるからである、これはゲルマン的北方的精神の祕奧で、ゲーテなら太原と名づけたであらう。吾々は最早その背後に何物かを探求し、認識し、説明することは出來ないし、またしてはならぬ。吾々はそのものを吾々の裡に作用せしむがためにたゞそれを崇拜せねばならぬのである。』(同上三〇九・三一〇頁) [#ここで字下げ終わり] といつてをるのである。かくの如き思想内容を盛つたローゼンベルクの『二十世紀の神話』がナチス世界觀の經典として、國家的權威を以て現代次代の國民を形成しつゝある所に、獨逸興隆の生命原理を見るべきであつて、『全體主義』の單語やその自由主義個人主義排撃の外形から、内容の吟味をなさずして、ナチス精神は個人の人格や自由を無視するものであるとなす如きは、無研究の獨斷でなければ惡意の誹謗である。後にも論ずる如く、ナチス運動は猶太羅馬的の教權政權によつて壓迫歪曲せられた千餘年の獨逸史を根本的に革新せんとするもので、それは古代ゲルマン民族の神話や君主政に憧憬する點に於いても、我が明治維新の獨逸版を思はしむる復古即維新の國民運動で、後にいふ如く、それが逆境逆縁的であるだけその努力は一層徹底的である。     六、祖國愛と神の信仰  ローゼンベルクは『二十世紀の神話』の『美的意志』を論じた章に於いて『吾々は個々の英雄や犧牲者ではなくて、それらをあらしめた力をこそ感ずべきである』といつてをる。この一文の如きもナチス民族主義の精神的核心を示唆するもので、藝術の價値を論ずる場合にも『意志』に力點を置くのはこの故である。ローゼンベルクはドストエフスキーの作品を論じて [#ここから1字下げ] 『畸形であらうと眞直であらうと、善人であらうと惡人であらうと、人物が生きてさへをれば、また吾々がそれらの存在の内的必然性を認めさへすれば、正にさういふ形成力こそは、吾々が素材的なものを離れるときに、吾々の心を捉へるところのものである。』(三二六頁) [#ここで字下げ終わり] といひ、藝術的意慾の眞髓は、吾々が『遊戲的に、且つ單に精神力の均衡を感ずるといふ點にあるのではなく』『一つの創造的な形成力を知覺する』ところに存する、その際に吾々の感ずる滿足は、吾々が『假象を見たことにあるのではなく作品によつて物の本質を體驗し、かゝる假象を通じて作用する本質が吾々の内部に喚起されるのを感ずることにある、』『性格が健全であるか、墮落してゐるか、と云つたことではなく、それ等が必然的に作用するか何うか、またそれらがその動くまゝに、或る内的な統一した核心から生れてゐるか何うかが問題だ』といつてをる。これは自然に就いても人生に就いても必然的法則、性格的統一を能動的創造的に追及し體現せんとするので、そこに『宇宙を一つの内部から働きかけ混沌と戰つて秩序づける生命意志』としての『神』を見むとするのである。  こゝに『人格』と『責任』と『名譽』と『英雄的行爲』との内的精神的關係が必然的に説かるゝので、ゲルマン魂としてローゼンベルクの讚ふるナチス精神は、――國體の相違から如何にしても免れ得ぬ『終局的民主政』思想を除いては――我が武士道と通ふものである。それ故彼はドストエフスキーの作品の藝術的價値は認めても、『然し彼が創造した諸形態そのもの、及びそこに表現された彼の環境が問題となる。……犯罪者を不幸なる人間として、脆弱なる者及び腐れかゝつた人間を「人間性」の象徴として掲げることは、是非とも永久に撤去されなければならない』といひ [#ここから1字下げ] 『印度人すら、彼の運命を自己に責任あるものとして、前世の因果應報として考へるのである。人々はこの輪廻説を何と解釋しようとも、それは貴族的であり、そして曾ては或る勇敢なる心情から發出したのである。』(一六四頁) [#ここで字下げ終わり] と、印度の輪廻説に貴族的英雄的精神を認むるのである。ナチスがマルクス主義を『死敵』として排撃するのは、その唯物論が『神性』としての、永遠に高揚する人間性、人格價値を無視し破壞せむとするからで、ヒツトラー總統は『マイン・カムプ』のうちに [#ここから1字下げ] 『マルクス主義のユダヤ的教説は、自然の貴族主義的原則を否定し、力と強さとの永遠の特權の代りに、集團と數の死せる重量とを置く。かくしてそれは人間の間に於ける個人の價値を否定し、國民性と人種の意義を認めず、人類からその存在と文化の豫件とを奪ひ去る。それは宇宙の根柢として人類の考へ得べきあらゆる秩序を滅却せんとするものである、この最も偉大なるものと認めらるゝ有機體のうちに於いて、かくの如き法則の適用の結果が混沌以外の何物でもないとすれば、地上にはこの星の住人にとつて唯だ彼自身の滅亡が存するのみである。  若しも猶太人がマルクス主義的信條の援助によつて、假りにこの世界の諸國民を征服したとしても、その時彼の王冠は死の花環であるに相違ない。その時この遊星は再び數百萬年以前の如き空寂の姿でエーテルの間を運行するであらう。  永遠の自然はその法則の侵犯者に對して峻嚴に復讐する。  かくして余はいま全能なる創造者の意志のまゝに行動せねばならぬと信ずるに至つた――即ち余は猶太人に對して余自身を護り主の業のために戰はねばならぬ。』(原著六九・七〇頁) [#ここで字下げ終わり] と叫んでをる。こゝにヒツトラー總統の最後の宗教的信念が表現せられてをる。『全能なる創造者の意志のまゝに』といひ『主の業のために』といふ言葉には、男性的基督教と呼ばるゝ精神が躍動してをるのである。ヒツトラー總統に於ける祖國愛と基督教の『神』の信仰との内的合致はまた次の言葉にも見ることが出來る―― [#ここから1字下げ] 『吾々が戰ひとらねばならぬものは、吾々の人種と吾々の民族の生存と増殖との確保であり、子孫の育成と血液の純潔とであり、祖國の自由と獨立とである。これ實に宇宙の創造者が吾々の民族に命じた使命の遂行に外ならない。  あらゆる思想とあらゆる理念、あらゆる教説とあらゆる知識とはこの目的に仕へねばならない。また一切のものはこの見地から吟味せられ、この目的のために適用せられまたは排撃せられなければならない。かくすれば如何なる理論も決して死せる教義に硬化することはない、一切のものはたゞ生命に仕へなければならないからである。』(原著二三四頁) [#ここで字下げ終わり]  こゝにヒツトラー總統が『生命』と呼ぶものは、先に紹介したクリークの『世界觀の原理としての生命』を想起せしむるので、『宇宙の創造者』と獨逸民族の使命とを結合する信念が『二十世紀の神話』の根基となつてゐるのである。     七、『マイン・カムプ』のアリアン人種優越論批判  ヒツトラー總統は『マイン・カムプ』のうちにアリアン人種優越論を説いていふ。 [#ここから1字下げ] 『吾々が今日人類の文化、即ち藝術、科學及び技術の成果として眼前に見るものは殆ど全部アリアン人の創造物である。この事實は正に遡つてアリアン人のみが高級なる人間性の確立者であり、「人間」といふ言葉の意味するものゝ原型を表現するものなることを立證する。アリアン人は人類のプロメチウスで、その輝く星から天才の靈火はあらゆる時代に發光し、常に新にその炎を燃しつゞけ、それが認識として沈默せる暗夜の祕密を照し、人間をして大地の萬物の支配者たる道に登らしめたのである。それ故假りにこのアリアン人を取除いたとすれば、深き暗が恐らく數千年後には再び地を蔽ひ、人類の文化は消滅して世界は荒廢に歸するであらう。』(原著三一七頁) [#ここで字下げ終わり]  日本民族を除くならば――ヒツトラー總統は一九二五年該著執筆當時までは日本をよく知らなかつたのであつて、その日本民族論が次に批判する如く特に問題である。――今日までの歴史的事實、世界現勢からすれば、ヒツトラー總統の右の所論には認むべき節がある。然しながらあらゆる民族國家は、それぞれ地理的歴史的條件に制約せられて、文化開展の階次と人道的貢献とに於いて決して一樣ではないことは獨逸の歴史もその實例の一つで、全體として『文化は交通によつて進展する』心理學的歴史法則に從ふのであるから、如何なる民族も  明治天皇御製に   國  よきをとりあしきをすてゝ外國におとらぬ國となすよしもがな   鏡  國といふくにのかゞみとなるばかりみがけますらを大和だましひ と詠ませ給ひし自己反省と他民族との切磋琢磨、無窮の努力精進と共に客觀的精神を遺忘せざるべきはいふまでもないであらう。この見地から、右のアリアン人種優越論を檢討したい。  先づヒツトラー總統は民族の優劣を測る尺度としての人類文化樣式を『藝術、科學及び技術』として列擧してゐるが、文化のこの三領域にしても、決してアリアン人の排他的獨創ではない。アリアン文化の源泉たる古代希臘のあらゆる文化は最初その刺戟や誘導を先進國たるエヂプト其他から得たので初期希臘文化がその本土からではなく小亞細亞や伊太利の植民地から發達したことは喋々するまでもない。希臘神話からして異民族との鬪爭生活の表現で、希臘哲學がイオニアやミトレスから發祥したのは希臘神話と異民族の神話との戰ひの産物であるからである。藝術もまた數學も科學思想もエヂプトの影響を外にしては考へられない。  次にヒツトラー總統自身獨逸帝國崩壞の決定的原因は『民族問題及び就中猶太人の脅威を認識し得なかつたことに存する、』その前には『あらゆる社會事業も、政治的勢力も、經濟的發展も、科學的知識の追加も全く用をなさなかつた』といひ、またローゼンベルクは『魂とは内面から見られた人種に外ならない。逆に人種とは魂の外側面である』といつてゐる。獨逸民族が他の歐洲アリアン諸民族と共に、一千年來彼等固有の民族神話を猶太神話のために壓服せられ、最近の帝國崩壞に至るまで幾多の悲慘なる運命を甘受せねばならなかつた事實は『魂の問題』としての人種論、民族問題として抑も何を意味するであらうか。  またアリアン人も、印度・希臘・羅馬民族としては沒落し滅亡した事實を思ふべきである。  猶ほヒツトラー總統が民族の優劣を測る尺度として擧げた文化の三樣式『藝術、科學及び技術』のうち、藝術に就いては後に論ずるが、自然科學や技術は、如何に人類生活に重大意義を有するとしても、その文化價値は要するに第二義的副次的のものである。科學としても精神科學の方が原理的第一義的のもので、それらを統綜する哲學や道徳や宗教に於いては、歐洲近代の諸民族は決してその無雙の優越を誇ることは出來ない。特に『宗教』に就いては、ナチスの理論的代表者たるローゼンベルク自身、『世界史的重大事實』として歐洲の東洋に對する劣性を自白して左の如くいつてゐる。 [#ここから1字下げ] 『たとひ往時の歐羅巴人が如何に宗教的であり、また今日再び未だ多くの人々の眼には付かずとも、諸方で一種の深い宗教的憧憬が現れ來つてをり、更にまた曾つて西洋が如何に多くの神祕家や敬虔主義者を生み出したにしたところで、絶對的な宗教的天才即ち一個の人間に於いて神的なものが完全に自律的に體現されたといふものを歐羅巴は未だ持つたことがないのである。如何に豐かな素質を惠まれ、如何に強大なる造形力や克服力を有つてをつたにしても、吾々はそれによつて今日に至るまで吾々に相應しい宗教形態を創造することは出來なかつた。アツシシのフランシスでもルツターでもゲーテでもまたドストエフスキーの如きでも吾々にとつて宗教の創造者を意味するものではない。一箇のヤジユニヤヴルキヤもまたはツアラツウストラもまた老子や佛陀や耶蘇の如きものも、歐羅巴は生み出すことは出來なかつた。』(邦譯『二十世紀の神話』三五二頁) [#ここで字下げ終わり]  更にまたこの同じローゼンベルクの [#ここから1字下げ] 『歐羅巴の宗教探求は、その最初の神話時代が終局に向つてゐた時に、本來の種質と無縁なる一つの形式によつて源泉を毒されてしまつた。西洋的人間は最早本來の種質に固有な形式で物を考へ感じ、祈ることが出來なくなつてしまつた。』(三五四頁) [#ここで字下げ終わり] といふ悲歎を聞くとき、西洋的人間は猶太的基督教に千有餘年來その人種魂、民族精神の根城を明け渡したことを、人種論文化論につき猛省しなければならない。かくしてローゼンベルクは前記の如く近代歐洲における『宗教的意志の藝術的意志への移行』を説かねばならなかつたのである。  近代歐洲における藝術と自然科學とは、かくの如き西洋的人間の魂の苦悶と自己疏外との産物たる一面を有する。然しながら全體としての民族國家生活は、單なる政治や經濟によつて救はれざると同樣に、また藝術や科學によつても救はるべくもない。これはヒツトラー總統もローゼンベルクも異口同音に告白したところで、『二十世紀の神話』が今新しく創作せられざるを得ない所以である。     八、『二十世紀の神話』と『古事記』の永久生命  ローゼンベルクの『二十世紀の神話』は、その知ると知らざるとに拘らず、我がカンナガラノミチに憧憬しつゝあるもので、カンナガラノミチは全體としてナチス精神を統綜するものである。『原理日本』第百號に發表された『軍人勅諭の深旨を畏みまつりて「臣道」の宗教を宣明す』に於いて、三井甲之氏が『天孫降臨まします時、天忍日命、天津久米命の二人、天之石靱を取負ひ、頭椎之太刀を取佩き、天之波士弓を取持ち天之眞鹿兒矢を手挾みて、前驅を仕へまつゝたのである。此の天忍日命の子孫は大伴氏としてシキシマノミチをふみ、天津久米命の子孫久米氏は久米舞の舞踏をつたへ、ともに海行かば水づく屍、山行かば草むす屍と大君につかへまつる武士の歌と戰爭の舞とに高天原の文化の面影をうつしたのである。天之石位を離れ、天之八重棚雲を押分けて、稜威の千別に千別きて天之浮橋にうきじまりそり立たして、筑紫の日向之高千穗之久士布流岳に天降りましゝ、御降臨の御稜威は近世綜合劇の至極するところをしのばしむるのである。戰備と禮拜と藝術とを織りまじへたる日本臣道の規律はシキシマノミチに展開してコトノハノミチの學術として無事平和の日常生活にも、不斷の用意を出陣の覺悟として相續せしめたのである』といはれた一節に示さるゝ文化の全關と全開展とを統綜するシキシマノミチの表現はローゼンベルクの思想精神を總攝して餘薀なしと斷言して憚らない。猶ほ三井氏の同論文の冒頭の一節を掲げよう。 [#ここから1字下げ] 『身そぎするには、身に著けてをるもの、また手にもつてをるものを投げ棄つるのである。こゝに身も心も天地に直接するのである。身を滌ぎ手を洗ひ口を漱ぎて參拜するは見をも心をも清めて禮拜するのである。清く、直く、明き心はかくのごとくオロガム心である。をろがむ時に生命は生命につながりて新しき生命がうまるゝのである。それがヨロコビである。高天原どよみて八百萬神ともに笑ひ給ひし、綜合劇曲の演出は祭の典型であり、その所作は禮拜儀式の舞踏的展開である。わが身を直接に、また全體として天地につながらしめ、共によろこぶ時は、思慮の苦患の消え失する時である。こゝに暗き夜は明けて日はてりかゞやき、人々はもろともによろこびえらぐのである。  明治維新はこの夜明けであつた、畏くも 孝明天皇は皇祖、皇宗の神靈に、皇政復古の大業の成就を祈らせ給ひて、それを 明治天皇の御代に傳へさせ給ひしと畏み仰ぎまつるのである。幾多の志士は幕吏のために非命にたふれ、また明治二十七八年同三十七八年戰爭を始めとして、最近の滿洲事變上海事變以來引つゞき今日に至るまで、護國の神靈となつてたふれた同朋のかなしきいのちをあはれませ給ひ、かけまくも畏かれども大御身を御國のためにさゝげさせ給ひつくさせ給ふことを、かしこみ仰ぎまつれば、われら臣民には、たゞ「戰死」のみが正しき生活形式であることを確信せしめらるゝのである。戰の場に立つものも戰の場にたゝぬものも、ともに御國のために戰死することが、即ち「戰死」にその現生を歸着せしむることが、日本臣民の生命の正しき規律である。  見よ、戰死者の御靈は、 天照大御神の御光をさめられ、くもりなき朝日の御旗にその實存をしるさしめらるゝのである。軒ごとに掲げらるゝ國旗は、護國神靈のつどひてつかまつる 天照大御神の御稜威を示させ給ふのである。』 [#ここで字下げ終わり]  ナチス黨旗のハーケンクロイツが旭日の象形といはるゝのに對して、日本の國旗が太陽の全き實形であるといふ一事に日本國體の完成的現實が象徴せられてをるのである。     九、『マイン・カムプ』の日本民族論批判  ヒツトラー總統は『マイン・カムプ』の中に、前記アリアン人種優越論から日本民族日本文化を論じた箇所で [#ここから1字下げ] 『よく言はれることであるが、日本はその文化に歐洲の技術を取り入れたけれども、歐洲の科學や技術に日本的特色を燒き付けたといふのは事實ではない。日本文化が――歐洲人にはその内面的相違のために外面的に眼に付くといふことから――その生活の色彩を規定してゐるとしても、實際生活の基礎は最早特殊の日本文化ではなく、歐洲や亞米利加の、即ちアリアン民族の強大なる科學的技術的貢献である。この貢献の上に於いてのみ、東洋人も亦普遍人類的進歩に追隨することが出來るのである。これが日常生活のための戰ひの根柢を與へ、武器やそのための機械をも供してをる。さうしてたゞ外的完成が次第に日本的特質に適合するであらう。  然しながら、若しもアリアン人の影響が今日これ以上停止するか、歐洲や亞米利加が滅亡すると假定した場合、科學や技術に於ける日本の興隆は猶ほ暫く持續し得るであらうか? 數年後にはすでに源泉が枯渇し日本的特色は得らるるであらうが、今日の文化は硬化して再び七十年前アリアン文化の波によつて搖り動かされた眠りに落込むであらう。それ故今日の日本の進歩がその生命をアリアン的源泉に負ふてゐるのと同樣に、灰色の過去に於いても亦外國の影響と外國の精神とが當時の日本文化の覺醒者であつた。これが最もよき確證はその後代の骨質化と硬化との事實が示してゐる。かういふことは當該民族の根源的核心が喪失するか、またはその文化的領域への最初の進歩に衝撃や資源を與へた外的作用が其後缺如するに至つた場合にのみあり得ることである。一つの民族がその文化を本質的原質に於いて他の人種から得、之を攝取し消化し、而して外的影響の停止後には再び硬化するといふ如きことが確實であるとすれば、吾々はかくの如き民族は恐らく「文化支持者」と呼ぶことは出來ようが、決して「文化創造者」と呼ぶことはない。』(Mein Kampf S. 318-9) [#ここで字下げ終わり] とやうに、日本民族の文化能力、本質價値に就いて事實認識の缺陷に基く誤斷を示してゐることは、我等の衷心遺憾とする所である。この點に就いては著者は昭和十四年六月以來政府各當局者にも研究考慮を促すと共に、直接駐日ドイツ大使館を通じて其の改訂を要請し來つてゐるのであるが同書は一九二五年に獄中に於いて執筆されたもので、一般獨逸人の日本に關する研究や知識が當時にあつては特に缺けてをつたといふ事情を考慮すべく、加之そのこと自體實は現事變の思想的原因たる支那人の『排日侮日』の禍根と同樣に、我が日本の學界思想界に於ける非日本反國體風潮と不可分であるといふことを反省せしむるのである。然しながら『マイン・カムプ』は現在全世界を通じて一千萬部以上も普及しつゝあるといはれてをり、前記の箇所が最近版に於いても未改訂のまゝ今後も存續することは、日獨防共・文化協定に徴しても、我等日本國民の最早默過し得ざるところである。この見地からしても帝國大學の反國體學風の芟除は、また斷じて遷延を許されないのである。  前節に於いて希臘文化に就いて述べたことは、獨逸文化に就いても同樣に適用せられ得る。それ故ヒツトラー總統が獨逸文化に就いて [#ここから1字下げ] 『文化的な、而も創造的な素質を有する諸民族、より正確には諸種族は、時として或は不利な外的條件のために、その素質を表はすことが出來ない場合にも、その能力を内部に藏してゐる。故に紀元前のゲルマン民族を指して、「未開」の野蠻人と呼ぶことは信ずべからざる不當である。彼等は決してさうではなかつた。彼等はその北方的郷土の峻嚴のために、民族固有の創造力の發展を阻害されてゐたに過ぎない。從つて假りに、古代の世界はなかつたとしても、ゲルマン民族が南方のもつと豐饒な平野に移住してその地方の劣等な諸民族の有する原料の中に、最初の技術的手段を獲得し得たとすれば彼等の裡に祕められた文化創造力は、かの希臘人の場合と同樣に、花々しく咲き誇つたに相違ない。』(原著四三三頁) [#ここで字下げ終わり] といつてゐるのは信念の表現で、その内容は假定論である。歴史的事實に於いてはゲルマン民族も亦、羅馬帝國を通じて希臘羅馬文化や猶太起源の基督教また英佛先進國民からの影響を受けて、始めて近世現代の文化樣式とその内容とを開發せしめたので、ゲルマン文化も亦他民族の文化との『交通』によつて進展したものであることは否認すべくもない。文化交通の結果には勿論、正負功罪の二面がある。ローゼンベルクは、『多くの神々の中の最高の神たるオーデンは死滅した』といひ、基督教のためにゲルマン神話が征服せられたことを悲歎しつゝ [#ここから1字下げ] 『かの獨逸の神祕主義者(エツクハルト)において、始めてそして意識的に、新しい再生せるゲルマン的人間が立ち現はれた………わが獨逸の歴史の支柱的理念たる神靈的人格の理念は、十三世紀及び十四世紀に於いて始めて宗教となり、且つ獨逸的實踐道となつた。この時代に於いてわが獨逸後代の批判哲學の本質も意識的に豫料され、そしてそれ以上に北方的西洋の永久の形而上學的信仰告白が布告された。』(邦譯『二十世紀の神話』一七一頁) [#ここで字下げ終わり] といつてをる。このドミニカン派の僧侶エツクハルトの心靈の素質が、ゲルマン的人種魂であつたことはいふまでもないが、それを深く内的化すると共に高く昂揚せしめたものは猶太人イエスの宗教であつたといふことも同樣に動かすべからざる事實である。即ちローゼンベルクは [#ここから1字下げ] 『それ故イエスは、あらゆる基督教會の主張にも拘らず、吾々の歴史の旋回軸點を意味する。從つて彼は今日に至るまでも、往々人をして慄然たらしむる如き歪曲に於いてではあるが、歐羅巴の神となつた。若しかのゴーチツクの大伽藍を建て、またレムブラントの繪を創造せしめた確乎たる人格感が今一層明瞭に一般の意識に浸透し得るならば、吾々の全風教を動かすやうな新しい浪が起るであらう。』(三一一頁) [#ここで字下げ終わり] とやうに、その燃ゆる反猶太情熱にも拘らず、猶太人たるイエスを『吾々の歴史の開展樞軸』と呼びまた『歐羅巴の神』と崇めてゐるのである。『新しい再生せるゲルマン的人間』がゲルマン史上『始めて』起ち現はれ、また『獨逸後代の批判哲學』の本質をも意識的に豫料し得たのは、猶太人イエスの感化によつてゞあつたことを承認する客觀的態度と求道的精神とは、そのゲルマン民族優越論に更に一層廣き反省の機會を期待せしむるのである。近代の自然科學にしても、決してゲルマン民族の獨創物でないことはいふまでもない。  ローゼンベルクはまた [#ここから1字下げ] 『宗教的な心情は往々言明されずに存在してゐるものであるが、かゝる場合でもやはり民族精神の全雰圍氣を顯現するものである。……かくの如き氣分から、始めて聖者や偉大なる自然探求者や哲學者や道徳的價値の説教者や、偉大なる藝術家は發生する。』(二八八頁) [#ここで字下げ終わり] といひ、かゝる『宗教的な心情』または『民族精神の全雰圍氣』『無形式ながら唯一の生産能力ある氣分』こそ『人間の精神的な、唯一の創造的生源力』であると反覆力説してゐるのである。それ故ローゼンベルクにとつては、根源的な神話的精神、宗教的心情がヒツトラー總統のいふ『藝術、科學及び技術』をも生み出す母胎であるから、一つの民族の優劣を計る尺度は、根元的に『神話』であり『宗教』である。 [#ここから1字下げ] 『ある人種の窮極の可能なる知識は、既にその最初の宗教的な神話の中に含まれてゐる。而してこの事實の承認は、人間の窮極的な本來の叡智である。ゲーテは、彼の奇蹟的な方法に於いて、知識は吾々にとつて常に新しきもの、未だ存在しなかつたものと云ふ氣持を起させるが、反之叡智は一種の記憶であるやうな氣持を起させると云つてゐる。』(五三九・五四〇頁) [#ここで字下げ終わり] といふローゼンベルクの言葉は、我等に全的共鳴を覺えしむる窮極的叡智的のものである。彼がその代表著作に『二十世紀の神話』といふ表題を冠した思想的性格の必然を思はしめらるゝのである。何人にもせよ、彼がかくの如き思想法・世界觀を持して、世界現勢に於ける日本の國威の基づく日本の神話と歴史とに就き初歩的知識でも得た場合には、驚嘆して恭敬の態度を示すであらう。實際においてローゼンベルクは日本に就いては故若宮卯之助氏を支那人とする如き誤を侵してはをるが、それら以上は餘りいはず、白紙的態度を示してゐるのは十五年前執筆當時無知識のために臆斷を避けたのであらう。『人種魂』といひ『民族精神』といふ語によつて感得せしめらるゝ根源的綜合的見地から評價することなく、派生的分析的なるものによつて日本民族を斷定しようとするならば、それは單に事實認識上の過誤に止まらず、認識原理そのものゝ缺陷を露呈するに至るべきである。     一〇、ナチス精神と日本精神  ローゼンベルクは同じ『二十世紀の神話』のうちにいふ―― [#ここから1字下げ] 『最も賢明なる人間とは、その個人的な自我の實現がゲルマン的血液の偉人達の生活表現と同一水準に立つものである。吾々の時代の最も偉大なる人間とは、力に滿てる神話的な新形式から出發して幾百萬の茶毒せられ邪路に導かれたる人々の心靈をも、かゝる古き新なる典型的慾求に歸嚮せしめ、かくして未だ曾つてなかつたが、然し吾々探求者全部の憧憬を令活したもの――一つの獨逸民族と一つの純眞なる獨逸的民族文化とのために、その根幹を培ふものである。これらすべてのものは本質的に新しきもので、吾々の世紀の神話を形成し、突如として生命を賦與しつゝ、極めてさゝやかな農夫の小屋にも、極めて質素な勞働者の住居にも、否すでに吾々の大學の講堂にも進入せんと氣構へてゐる。それはかくも明瞭には未だ何處にも表白されたことはなかつた。若しあらゆる結論が下され得べきであるとするならば今こそ正にその秋である。』(同上五四〇頁) [#ここで字下げ終わり]  これ實に獨逸民族にとつては、二十世紀の現在が混沌たる建國神話創造の時代であるといふことである。ヒツトラー總統は『マイン・カムプ』のうちにいふ―― [#ここから1字下げ] 『要するに、國家は斷じて目的ではない。反對に一つの手段である。國家はより高き人類文化の建設のための前提ではあらうが、その動因ではない。動因はむしろ唯だ一つに文化形成の能力を有する種族の實在のうちに存する。』(原著四三一頁) [#ここで字下げ終わり]  これは幾度か革命を經驗して政權の移動興廢常なき『無國體』または『未完成』國家の現状告白である。國家は斷じて取捨自由の選擇事項ではない。ヒツトラー總統のこの言葉は、獨逸がまだクラゲナスタヾヨヘル状態にあつた一九二五年、國家として失ふべき何物もなかつた時代の言葉であつた。國家を成さぬ民族の悲哀は『朝貢國獨逸』の滿喫せしめられたところではなかつたか! 見よ、憐れむべき猶太民族の姿を! 彼等の民族問題、人類覆滅の陰謀も彼等が國家を失つたことが根本原因ではないか! 民族と國家と主權とは、それが眞に生命的であるためには、必然的に内的一體を要請し實現する。一九三八年のヒツトラー總統は『一民族、一國家、一指導者』の『新獨逸國體原理』を宣言してその完成に向つて進軍し始めたが、今日それは『生活圈』の要求といふ新標語に替へられたのである。ローゼンベルクが『來るべき國が帝政の衣裳を纏ふか、王政の衣裳を纏ふか、或は共和制の衣裳を纏ふかは、吾々の誰にも解らない。吾々は將來の形式感情を仔細に豫感することは出來ない』といひつゝ、 [#ここから1字下げ] 『たゞ古代ゲルマンの國王思想のみが今日に至るまでその神話的光輝を保持してゐるやうに思はれる。』 『吾々は吾々と同じ人間でありながら、而も英雄神話の權化であるやうな獨逸國王を仰ぎたいと思ふ。』(前掲四四一頁) [#ここで字下げ終わり] と憧憬して已まぬ『獨逸王政』は何處に存するか? その可能性の現實的永續的基礎は何處に? 眞正なる國家、完全なる理想國體は、統治者と民族と國家と領土とが、天然必然に一體不可分のものである。日本國家こそ、天地の開闢、神々の誕生、祖宗皇統の系譜、國土民生の産生を一貫して生成無極の理想的生命協同體であり、日本國體はカンナガラに確立せられてゐるのである。これは藝術といひ科學といふ、人爲としてのあらゆる『文化』を可能ならしむる超文化的隨神道、不可説不可稱不可思議のカンナガラノミチであつて、『二十世紀の神話』といふ如く、未來永劫を盡しても、如何なる政治的または文化的努力を以てしても、斷じて人爲的に創造し得べくもないものである。今日に至つてはヒツトラー總統、ムツソリーニ首相等獨伊有識者は『神國日本』の眞姿に豁然眼を見開いてゐるに相違ないと思ふ。  この意味に於いてヒツトラー總統の前記一九二五年に於ける日本觀の如きは、すでに彼の内心に於いて改訂せられをるべきを信じたい。問題は單なる文献的殘留の拂拭のみであらう。日本の實際生活の基礎は、最早特殊の日本文化ではないといふ如きは餘りにも甚しき皮相の淺見誤斷である。現在日本の自然科學と技術とが全般的水準に於いて猶ほ歐米に及ばざるものが多いとしても、それは彼等に於いては發達の傳統が四五世紀を經てゐるのに、日本に於いては未だ一世紀にも至らない歴史的條件を思ふべきで、自然科學研究と技術應用との發達には性質上一定の年月を要する。十年二十年後に期して俟つべきである。印度や支那が日本より百年以上も早くより西歐文明と接觸しながら、今日に至るまで遂にその自然科學並に技術を攝取するを得ず白人諸國の侵略搾取の對象となつてゐる歴史的事實は、日本民族の文化的素質能力が印度支那民族のそれとは根本的に相違するものなることを實證するのである。  然しながら現に日獨伊文化協定が行はれつゝある如く、一般的にいへば鎖國が『交通によつて進展する』文化の敵であることはソ聯の現状によつても立證せらるゝ。中世歐洲の文化的暗黒も亦鎖國的状態の然らしめたところで、近代歐洲文化は十字軍の遠征による東西交通の打開したものであつた。近代歐洲にとつての希臘羅馬文化と、日本にとつての印度支那文化との關係は全く同一である。我が平安朝の鎖國は唐の沒落が原因であつたし、徳川幕府のそれは日本の國體不明徴事態と歐洲の東洋侵略意志との然らしめたものであつたが、この鎖國時代には日本文化の發達が停止したといふ如きも亦事實認識の誤りである。日本は徳川幕府の鎖國時代に地方文化の全國的發達を來し國民教育を普及せしめ、内に國力を培養充實し得たればこそ、次いで世界史上の奇蹟と呼ばるゝ明治維新を成就して、今日の大をなすを得たのである。  ヒツトラー總統は紀元前におけるゲルマン民族の未開状態を北方的郷土の峻嚴に歸し、若しも南方の平原地方に移住したならばといふ假定論をなした。いま若しこの種の假定論が許さるゝとせよ――日本が徳川幕府の反國體的支配のために三百年間も鎖國する如きことをしなかつたならば、日本の全般的國威と共に、日本の科學及び技術も亦世界最優勢となつてをつたであらう。歐洲諸國が四五世紀を要した科學文明の水準を、現日本が一世紀を要せずして摩するに至つた歴史的事實に徴すれば、當然かくいふことが出來るであらう。すべてこれらの點に就いては拙著『日本精神と科學精神』其他に細説しておいたから、いまこゝには細説しない。  ナチス思想の生命一元の世界觀は、『天地の初發の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神、次に高産巣日神、次に神産巣日神』と書き出された『古事記』の産靈《むすび》の創造的精神に一層根元的に表現せられてゐる。『是に天神諸の命以て、伊邪那岐命、伊邪那美命二柱の神に、是のたゞよへる國を修理固成《つくりかためな》せと詔ちて、天沼矛を賜ひて、言依さし賜ひき』といふ、『修理固成』の形成的生命意志は、ナチス思想が、科學的探究の如きも亦その發現なりとするところの、『宇宙を内部から働きかけ混沌と戰つて秩序づくる』精神の最も高く深き意義を啓示するもので、『國生み』の神話や『萬世一系の皇統、天壤無窮の皇運』の神勅の前には、ナチスの『血と土』といふ如き現代的神話構想は倫を失するのである。  ローゼンベルクは歐洲がイエス、釋迦、孔子の如き大宗教家を生まなかつたことを歎じたが、我等日本民族はかゝる大宗教家を出さなかつたことをこそ、日本民族、日本文化の歴史的生命の健康の確證として誇るものである。日本は政治的革命と軍事的侵略を蒙りしことなく、肇國の神話をそのまゝ現代に生きしめつゝある地上唯一の民族國家である。見よ、過去に於いて大宗教家、大哲學者、大英雄を生んだ民族は悉く國家的に滅亡した東西の歴史的事實を! それらの民族が思想的または政治的英雄を要したのは、『眞正君主』を仰ぐを得ず、民族生活が破滅的危機に瀕した場合であつたので、それが民族的生命の病弱廢頽の實證である。それ故それらの思想的または政治的英雄の努力を以てしても、民族國家生活の沒落は防ぎとむることは出來なかつた。それは、かゝる英雄の事業が或は思想精神的に偏し、或は政治軍事的に偏して、民族國家生活を全一的に統綜することが出來なかつたからである。こゝにヒツトラー總統に依つて代表せらるゝナチス體系は、思想精神的並びに政治軍事的の兩面を民族生命の根源的發現に依つて内的に統綜する『祭政一致』的形態を實現せむとする思想運動なる點に於いて、從來のものと異るものであるが、その個人執權者の人格業蹟に依立する政治形態は如何ともすべからざる弱點である。  現人神・萬世一系の 天皇の統治に現證せらるゝカンナガラノミチはまた日本獨自の藝術的表現としてのシキシマノミチに表現せられて、天壤無窮の日本國體の威神力を直示する。我等が『明治天皇御集』を拜誦しまつるといふことが神州不滅の精神的確證である。  若きヒツトラーが體驗し判斷したところを十五年前に表現した『マイン・カムプ』の一節に [#ここから1字下げ] 『政治的指導者は、決して自國民の宗教的教義や制度に容喙してはいけない。さうでなかつたら、彼は政治家とはいはれない、寧ろ改革者である、若しその素質を有つてゐるとすれば、特に獨逸に於いては、これ以外の如何なる態度も失敗に終るであらう』(原著一二七頁) [#ここで字下げ終わり] といつた態度は、ローゼンベルクが『二十世紀の神話』を説く祭政一致復活の宗教改革思想とは相容れぬもので、ヒツトラー總統自身其後今日までの宗教政策の實踐によつて改訂し來つてゐるところである。それ故に『マイン・カムプ』の思想内容は其後十五年のナチス運動を通じて、その指導精神、世界觀の原理、基本綱領に於いては不變不動のものたるを確證し來りつゝあるべきはいふまでもないけれども、その日本民族論日本文化論の如きは原理論ではなくして事實認識に關するものであり、其後の日獨間に於ける『防共協定』より『文化協定』の締結事實に徴し、ヒツトラー總統の對ソ聯認識とは異る對日本認識の進歩に於いてその内心に於いて改訂せられをるべきを信ぜむとするものである。然しながら問題は單なる『政策』に關するものではなく、日本民族日本文化の本質價値に關するものであるから、我等日本國民は日獨兩國の親善協力を一層根本的に深化し威力化するために、ナチス精神の『名譽』『責任』觀念により文献的表現に於ける改訂を期待せむとするものである。     一一、ゲルマン神話と現獨逸  松村武雄氏の『民族性と神話』は昭和九年初版發行のものであるが、その『北歐人の民族性と神話』の一章は希臘神話と對比してゲルマン神話の特徴をよく闡明してゐる。ケーザルの『ガリア戰記』には『彼等(ゲルマン人)は幼時から身體を鍛錬し、平和を忌み猛烈で感情が強く、狩獵や戰鬪を酷愛した』といひ、タツキスの『ゲルマニア』の中にも『血を以て征服する代りに汗を以て征服しようとする如きは、ゲルマン人にとつては、懶惰にして不活溌なことであつた』といひ、『汝同意せざるが故にわれは力を用ふ』の歌を高唱して『他に依るべき手段が無い場合には、容易に武力に訴へておのが欲する土地を奪取した』といひ、『彼等の信條とするところは各人はその要する土地の占有權を有するといふところであつた』と傳へらるゝものは、いま獨逸のベルサイユ體制打破『生活圈』要求から激發された歐洲戰爭の現事態にさながら見る如くである。  松村氏はその神話に示された原始ゲルマン人のかくの如き民族性を分析して、素純な雄大味、剛健な英雄主義、力強い凝結的簡素、物凄い陰暗の氣を列擧し、かゝる民族性を生み出した北歐の自然環境を叙して次の如くいつてゐる。 [#ここから1字下げ] 『バルチツク海からドナウに亘つて、古代北歐人の面前に展開してゐた大地は、欝蒼たる大森林と瘴癘の氣漲る沼澤に覆はれ、加ふるに風濤險惡な北海に臨み、空は怪しく曇り霧は深くとざし、雨雪が時を定めず人の子を襲うた。かくてその住民は永遠の陰鬱と自然力の不斷の破壞との下に、暗寥であると同時に沈痛な生活をつゞけねばならなかつた。かうした陰暗な破壞的な、そして男性的な莊嚴さを持つ地理的環境のうちに呼吸しつゞけた北歐人がどんな性情と精神思想の持主となるかは、たやすく想像することが出來るであらう』(『民族と神話』二四七頁) [#ここで字下げ終わり]  次にこのゲルマン神話を希臘神話と對比しよう。ヘシオドスの神統記によれば、希臘神話では太初に混沌カオスがあり、それから地母ガイアが生れ、次に暗黒の生態化としてのタルタロスが生れ、それから美と愛の象徴としてのエロスが生れ、そこで生々の氣が八紘に漲り渡つてカオスから夜とまた續いて晝と大氣とが生れ、地母ガイアから天空ウラノスが生れ、このウラノスと地母ガイアとが結んで、神々と巨魔族とまた萬象を生み出したといふのである。こゝでは神々と巨魔族以下萬象を生んだウラノスとガイアとは何れも秩序、善の力原であるから、希臘神話にあつては、惡の原則は善の原則から生れた第二次的のものに過ぎない。  然るにゲルマン神話にあつては、太初に世界には何もなかつた、たゞ無限に廣がつてゐるギヌンガ・ガツプ(顎を開いた裂目の義)が永遠の薄明のうちに横はり、南極には極熱世界ムスペルハイムがあり、北極には極寒世界ニフルハイムがあつた、そして極熱世界から捲き騰る猛烈の蒸氣の雲が氷寒世界から吹き荒ぶ寒風に遭つて凝結した時、そこにイミルといふ巨魔が現れた、これは悪の原則でこのイミルの足から六頭の怪魔ベルゲルミルが生れた。次いでまた別に蒸氣の雲が凝結して一頭の巨牛となり、それが氷塊にこゞり付いてゐる鹽を夜晝嘗め續けてゐるうちに、氷塊の中からブリといふものが飛出しやがてボルといふものを産んだ。このブリ、ボルの族は神々の祖であるが、これが巨魔イミルの族と長い間相爭ひ鬪ひ倦んだ後、ボルがイミルの後裔の女を娶つて、オーデン、ウイリ、ウエの三神を生んだ。このうちオーデンこそやがて神々の王者となつたものであるが、この三神が巨魔族の首領イミルに挑戰して最後に之を斬り斃し、オーデンがこの巨魔の身體の各部分から宇宙の萬象を造つたといふのである。  北歐神話のこの宇宙創生觀を支配するものは熱氣、寒氣といふ相對立する二つの自然勢力の相剋で、惡の原則たる巨魔族が先づ生れて善の原則たる神族はその血を延いて後に生れ人間をも含めて天地の萬物は巨魔の身體から分身として化生したといふのである。猶ほその宇宙觀にあつては『世界樹』イグノラヂルといふ巨木の枝と根とに九つの世界があり、神族の世界アスガルト、人間の世界ミツトガルト、巨魔族の世界ヨツツンハイム、妖精の世界アルフハイムはそれ/″\『自己の世界』を領し、また神族には精神的優越が、然し之に對して巨魔族には腕力的優越が與へられ、この兩者が最後まで徹頭徹尾鬪爭力戰し遂に相打つて悉く斃れ盡し全宇宙は壞滅すると、――『神々の黄昏』ラグナロクの終末觀を以つてゲルマン神話は閉ぢられてゐる。  これは宇宙をコスモス(調和秩序)と觀じた希臘神話と根本精神を異にするはいふまでもなく、『産靈』『修理固成』の生成的秩序、八紘一宇の大調和精神によつて貫かるゝ我が古事記の世界觀、現人神・萬世一系の 天皇天壤無窮に統治せさせ給ふカンナガラノミチの思想信仰からは全く想像だにし得ざるものである。また人類精神文化の二大要素たる叡智と詩歌とは本來巨魔の世界ヨツツンハイムの所屬であつたものを、オーデンが一眼を犧牲にして得來りまたは詭計によつて奪取したものといふ。これは我が古事記にあつては叡智を司る思兼神は高産靈神の御子としての臣下であり、詩歌は始めより『神《かみ》言《ごと》』『天《あま》詔《ごと》』であるといふ一事を指摘するに留めたい。  かくしてゲルマン神話が宇宙觀に於いて永久に相鬪ふ二つの力原を認めて、『和』の原理を知らず、從つて道徳觀に於いても善の原理の惡の原理に對する優位の信を缺き、また精神文化の淵源を巨魔族の世界に歸した如きは、北歐の自然風土が原始ゲルマン民族にとつて如何に峻嚴酷烈の威力を揮つたかを物語るもので、この神話はかくの如き自然力と惡戰苦鬪したゲルマン民族の太古時代の記憶の表現ならむと思はるゝのであるが、かゝる神話を有する民族精神には、松村氏のいふ如き戰鬪的『英雄主義』が支配的であつて、獨逸今次の電撃戰の力原因由もこゝに探求すべく、また獨逸に特に自然科學と技術とが著しき發達を遂げその電撃戰の要素となれる如きに就いても、自然の不可抗力の痛感がその支配方法の探究に向はしめた『逆縁』的意義は、之をベルサイユ條約の鐵鎖鐵鞭にも歴史的に確認すべきである。  ヴントは『論理學』第三卷精神科學研究方法論中に、人類の精神生活に及ぼす自然環境の影響を論じて [#ここから1字下げ] 『自然が最も早く人類の行動に影響を與へたのは其生命を存續する爲に働かねばならぬことであつた。人類を道徳的ならしむるのは此世が樂園でないことが與つて力がある。これは衣食を得るに何等勞を要しない南洋諸島の住民の文化のうちで、道徳的要素が最も缺けてゐるのでもわかる』(上野直昭氏『精神科學の基本問題』一〇七頁參照) [#ここで字下げ終わり] といつてゐる。日本國民の勤勉の性格が水田の耕作、濕潤の風土に繁茂する雜草の除去に要する『粒々辛苦』の中に鍛錬せられたことは、神武天皇の御製にも『垣下に、植ゑし薑、口ひゞく、我は忘れじ、撃ちてしやまむ』『粟生には、臭韮《かみら》一もと、そ根が下、そ根芽つなぎて、撃ちてしやまむ』と表現せられてゐるのである。  然しながら神勅に『豐葦原之千秋長五百秋之水穗國』概括して『瑞穗之國』と美稱されまた『大和』と呼ばるゝこの國土そのものが根源的に諾冊二神の『國生み』に成つたものである。かくして全體として日本の自然風土が我等の祖先に如何に恩惠的親和的に感ぜられたかは、『大君は神にしませば』の現人神の現實信仰の下に『山川もよりてつかふる』と表現せられた所である。我等の祖先は之を一體的融合感に於いて鑑賞し詩歌藝術に表現したのであつて、元來實生活の要求より之を技術的に支配せむとして生れた自然科學的研究が我が國に發生しなかつたのはその必要がなかつたのである。   明治天皇御製     神祇   ちはやぶる神のまもりによりてこそわが葦原のくにはやすけれ     柱   橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず     海   秋つしま四方にめぐれるうなばらの波こそ國のかきねなりけれ  この三首の御製を拜誦しまつれば『神のまもり』は天壤無窮金剛不壤の國體の確立と四面環海の島國的條件とによる國防の安固に歴史的地理的に具象せられてゐる。この究極の安定感こそいま銃後國民がこの畏き極みの大恩寵に狎れてこの未曾有の大難局に際してもこれが戰時下かと疑はるゝ如き思想生活の弛緩状態にある所以である。  人類世界の歴史的文化的進展に伴ふ八紘一宇の皇威の伸張は、皇化の内容條件を複雜微妙化して現代に於ける國防民生の要求は我が國本來の國土資源のみにては充足するを得ざるに至つた。『神のまもり』とは人間の全生命活動に宇宙意志の發現としての天地自然の全條件の作用が加被し來るをいふのであつて、天地の化育に參する人間の文化活動はこの不可測神意を開顯するものなることを『千早ぶる神にひらきし道をまたひらくは人のちからなりけり』とふ御製に仰ぎ知るべきである。  技術的應用と不可分なる自然科學の發生發達が、全體としての人類實生活の要求に基くものなることいふまでもあるまい。希臘の自然哲學の淵源となつた埃及の幾何學や天文學がナイル河の氾濫や砂漠地帶の生活環境の實際要求から生れたことは科學史のいろはである。近代歐洲に自然科學が特に發達するに至つたのも、希臘サラセンの傳統繼承以外、全體として歐洲の天産の貧弱、即ち\UTF{589D}埆瘠土の爲めに自然の所與のみにては生活の需要を充足するを得ず、進んで自然力を積極的に開拓支配する必要の痛感意慾に促されたのである。『必要は發明の母』といはるゝ。『研究のための研究』といふ如き實生活的要求を超出する科學的研究は民族文化生活の高度の發達の産物であつて、前者は後者を豫想し之に支持せられてのみ成立する民族生活の知的一面に過ぎない。全體としての自然科學や技術的應用の發達に實生活の直接要求を超出する基礎科學的研究の必要不可缺なるはいふまでもないが、綜合的見地からはそれも實生活の刺戟や要求と全く沒交渉のものではない。その心理的動機並に究極の文化的人道的目的觀念に於いては、やはり民族人類生活の實際的要求と結びついたものであることを確認せねばならぬ。  ゲルマン神話に於ける神族巨魔族の徹底的鬪爭より世界破滅に至る表現の裏には、原始ゲルマン民族が自然の暴威と死鬪を續けた太古生活の歴史があり、今日のゲルマン民族はその死鬪から生き殘つたものゝ子孫であらう。彼等には決死の鬪爭的英雄主義が神話的信仰となつてゐる。『善惡の彼岸』『權力意志』を説いたニイチエ哲學、徹底唯物論に立脚して無慈悲なる鬪爭主義を宣言實行したマルクス主義が獨逸に生れたのは偶然ではない。それが純粹の知的意志活動としてはカント哲學の冷嚴なる論理主義理論體系ともなり、自然を對象としては自然科學的研究及び技術となつた。科學工業、代用品製造等に於いて獨逸が世界第一であるのは、現獨逸民族が自然との戰ひに於いて最も勇敢なる鬪士であつた祖先の後裔である民族性格に基くのであらう。その民族性格を象徴する『徹底性』グリユンドリツヒカイトがナチス革命の成功より現歐洲戰爭における電撃的戰勝をも結果したので、ベルサイユ條約の鐵鎖鐵鞭が不撓不屈の獨逸精神を鍛錬したことは、北歐の自然の暴威が彼等の祖先の生活意志を鍛練したことを回顧せしむるのである。  鐵壁の如き自然人生の不可抗力に\UTF{8E5A}着して、而も之に撓まざる強烈の意志はこのもの/\しき對象そのものをあるがままに考察して、その屬性法則を究明しそれに從つて逆に之を支配する方途を見出す。これが自然科學精神科學を總括しての學術研究としての文化活動の實人生的意義である。獨逸の科學兵器の驚異的發達も思想宣傳戰の威力も、全體としての民族性と共に、以上の如く自然人生の逆境逆縁的諸條件の下に成立し發現したものなることを我等は確認せねばならない。こゝにヒツトラー總統の自傳『わが鬪爭』の表題にも示さるゝ『鬪爭』的英雄主義に全體として感ぜらるゝものは『いつくしみ』『八紘一宇』の人道精神の缺如である。     一二、ナチス精神の選民的鬪爭思想と『八紘一宇』の日本精神  思へば、ドイツは『マルクスを生んだ國』――マルクス主義の母國である。マルクスはユダヤ人であるけれども、彼はドイツに生れ、ドイツで育ち、ドイツで學び、その殆ど全著述をドイツ語でなし、『我々ドイツの社會主義者はカント、フイヒテ、ヘーゲルによつて代表せらるゝドイツ古典哲學の繼承者であることを誇りとする』といひ、『余はかの大思想家(ヘーゲル)の弟子なることを自白する』といつてをるのは、たとひマルクスのドイツ思想攪亂の陰謀意志から出たものであつたにしても、ルーテルのごとき過激宗教改革者、ヘーゲルのごとき徹底理知主義者を出したといふことが、自國よりマルクスの如き殘忍酷薄の革命思想家を生み、一時にもせよその革命運動の成功を見るまで跋扈せしむるに至つた國民性格と史的因果の餘效は、ゲルマン神話の徹底鬪爭主義の世界觀からしても容易に拂拭するを得ないであらう。パウル・フオーゲルは『カント研究』の別冊附録の著書中に、マルクス主義を『反ヘーゲル的ヘーゲル主義』と斷じ、『マルクス主義の誤謬は理想主義の誤謬である。それ故マルクス主義の修正はドイツ理想主義の修正を要する』といつた程である。(Paul Vogel, Hegels Gesellschafts\-begriff u.s.w. s.287)  ヒツトラー總統がマルクス主義と共に民主主義を徹底的に排撃したことはいふまでもなく [#ここから1字下げ] 『吾々は地球上における眞に偉大なる事業は、決して聯合體などによつて獲られたものではなく、常に個々の勝利者によつて生れたものであることを忘れてはならない。同樣に世界を變革し得るやうな偉大な革命も斷じて聯合體などの行動から生れるものではなく、個々の組織の英雄的鬪爭によつてのみ實現し得るのである。』(原著五七八頁) [#ここで字下げ終わり] といふ所には、自己の信念目的に對する不動の確信と、如何なる障害をも排除して進む強烈の意志力が認められ、それは獨逸の興國と現歐洲大戰の遂行に實證せられたけれども、その『革命』思想と、『英雄』主義とは畢竟『民主』主義思想として、われら日本臣道の見地からは嚴肅に拒否せらるゝのである。  かくしてナチス民族主義の缺陷はそのアリアン人種、就中ゲルマン民族の實體的優越論に基く排他獨善思想で、ローゼンベルクの『二十世紀の神話』の中にも [#ここから1字下げ] 『吾々にとつては名譽――國民的名譽――の理念が吾々の全思想と全行爲との初めとなり終りとなる。この理念は種類の如何を問はず、自己と同價値の力の中心が他に存することを許容しない。基督教的愛であらうと、祕密共濟組合的な人道であらうと、羅馬の哲學であらうと許容しない。』(吹田・上村譯四〇九頁) [#ここで字下げ終わり] と表現されてゐる。それ故この絶對的獨善排他主義はナチスの排撃するユダヤ民族の『選民思想』を思はしむるものがあり、以上紹介したその古代ゲルマン民族の神話的精神王政思想を復活せむとする世界觀は、我がカンナガラノミチと日本國體とに憧憬する節あるにも拘らず、その政治原理は終局に於いては『民主主義』であつて、『ナチスは輸出品に非ず』といふ消極的態度を脱せず、從來そのナチス精神が中外に施して悖らざる『八紘一宇』的普遍人道價値を有するものなることを積極的に宣言したことはなかつた。日本精神は國體の本義に基き『皇祖皇宗ノ遺訓』を原理とする點に於いて日本民族本來のものであることいふまでもないけれども 明治天皇御製に      國   よきをとりあしきをすてゝ外國におとらぬ國となすよしもがな      折にふれて   きくたびにゆかしきものはまつりごと正しき國の姿なりけり と詠ませ給ひし如く、斷じて獨善排他主義ではなく、外國の思想文化といへども『よき』『正しき』ものならば、之を選擇攝取して已まぬ『天地の公道、人倫の常經』であり、『之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』と詔はせ給うた『開かれたる體系』である。『攝取不捨ノユヘニ彌陀佛ト名ヅク』といふ佛教の大悲的精神と照應せしめて『神國日本』の『現人神』の信仰、カンナガラノミチの深義を思ふべきである。日本は今日支那印度に發祥して其郷土に滅び去つた儒教佛教をもカンナガラノミチのうちに現に生きしめつゝあり、また西洋の基督教や希臘の學藝以下近世現代の全歐洲のあらゆる思想文化をも選擇攝取しつゝ東西洋兩文化を綜合統一して先驅的に『世界文化單位』を現成するに至つてをる。肇國の始めより『いつくしみ』『八紘一宇』の人道的精神を含蓄する日本精神は其世界文化史的使命に於いて、單に歐洲的地方文化に制約された『民族主義だけの民族主義』を原理としてチエコ合併やポーランド分割の如きによつて、直にその『一民族・一國家・一指導者』の國家原理に思想的破綻を來す如きナチス精神とは比倫を絶するものである。個人が人倫道徳に於いて超個人性を具現すべきが如く、民族國家も亦その思想精神に超民族性超國家性を本來啓示せねばならぬ。この意味に於いてはローゼンベルクが最近フエルキツセル・ベオバハターに發表した論文『ヨーロツパ革命』の内容も猶ほ未だしといはねばならぬのである。     一三、一ドイツ學者の日本精神論  最近故人となつたドイツの世界的建築學者ブルーノ・タウトは遺著『日本美の再發見』の中に日光の東照宮建築を『專制者藝術』と名づけ、『こゝには伊勢神宮に見る如き純粹な構造學もなければ最高度の明澄さもない。材料の清淨もなければ釣合の美しさもない、即ち凡そ建築術を意味するところのものは一つもないのである。そしてこの建築術の缺如に代るところのものは、過度の裝飾と浮華の美とである』(篠原英雄譯、二三頁)といつてをる。いまこれを『まことに伊勢神宮は絶對に日本的なものである。しかも日本に於てこれ以上日本的なものはどこにも存在しない。』『伊勢神宮は人間の理性を反撥するやうな氣紛れな要素を一つも含んでゐない。この構造は單純であるが、しかしそれ自體論理的で、そのまゝ美的要素を構成してゐる』(同一八頁)といふ、彼の伊勢神宮鑑賞に對照せしむれば、徳川幕府の政治的思想的反國體性は同時に建築の如き藝術的作品にまで反映せられをることが、外國人にさへも確認せられたことを知るのである。  藝術はそれが自然を對象する場合、それ故にまた造形美術の場合に於いてすらも『人生の表現』であつて、建築學は力學工學等を綜合する自然科學であると同時に、また根源的に美學として精神科學であるといふことの實例をこゝに見るのである。かゝる綜合的精神がいはるべき眞の科學的精神で、それは民族國家的制約のうちに生育しつゝ、内容價値に於いて之を超出して世界人類的たるを得るのである。こゝに『皇祖皇宗ノ遺訓』は『國體ノ精華』として『之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』『天地の公道人倫の常經なり』と詔らせ給ふ日本國體の學術論理的普遍性を仰がしめらるゝのである。  タウトは前記日光の東照宮建築を批判した一節に續けて [#ここから1字下げ] 『然るに日本人の天才は一の偉業を成就せんがためにいま一度起ちあがつた、しかもそれはあたかも日光の東照宮建築と時代を同じくしてゐるのである。一五八九年から一六四三年までの間に、京都の近傍には桂離宮が造營せられた。この建築のなしとげた特殊の業績は、これに類する諸他の建築物に於いても再現せられてゐる。然しそれにも拘らず桂離宮は、伊勢の外宮と同じく日本の建築術が生んだ世界的標準の作品と稱して差支へない。日本的思想の醇正、典雅な要素は、奈良時代から一千年を經たこの時に於て、その間に分化した種々な手法と精神の哲學的洗練と結合して、いま一度桂離宮に集注したのである。』(同二三・四頁) [#ここで字下げ終わり] といつて、日本精神の表現としての桂離宮の藝術的價値の闡明に傾倒し、同離宮の作者小堀遠江守政一の『墳墓に詣でゝ花を手向けた』滿腔の私淑敬慕の情を以つて、桂離宮の鑑賞を左の如く表現してゐる。 [#ここから1字下げ] 『日光に於ては、所謂世界の名建築と稱せられる名所と同じく、その效果はかゝつて部分の總計にある。いはゞ二十萬の軍隊は二萬の軍隊よりも多數であると言ふ如くである。然るに桂離宮にあつては、いかなる要素もそれぞれ自由な個性をもたないものは一つだにない。それは宛も、何人も強制を蒙ることなく、各人がその本性のまゝに行藏してしかも調和を保つやうな良き社會の成員の如くである。まことに桂離宮は文化を有する全世界に冠絶せる唯一の奇蹟である。パルテノンに於けるよりもゴチツクの大伽藍に於けるよりも、こゝでははるかに著しく「永遠の美」が開顯せられてゐる……それは我々に同一の精神をもつて創造せよと訓へる。……この原理こそ絶對的に現代的であり、また今日のいかなる建築にとつても完全に妥當するものである。』(二四頁) 『日本は同時に成立したこの兩つの對立物をもつて、世界に唯一無二の鏡を提示するものである、即ちこゝには自由な精神の創り出した自由な藝術があり、かしこには惟れ命に從へる個々の要素の累積がある。しかもこれは決して建築術とはなり得ざるものである。……日光は消化せられざる輸入品であつた。これに反して桂はその當時存在してゐた一切の影響を消化攝取したのである。』(二六頁) [#ここで字下げ終わり]  タウトによれば、家康の日光東照宮が『自由な個性をもたず』『惟れ命に從へる個々の要素の累積に過ぎず』『二十萬の軍隊は二萬の軍隊よりも多數である』といふ如き『專制者藝術』であり、『過度の裝飾と浮華の美』『野蠻なまでに華美を極めた社廟』として外來文化の『消化せられざる輸入品』であつたといふことは、正しくそれが『民政』徳川幕府の政治的思想的反國體非日本性の象徴であつたといふことである。  これに對して桂離宮は外來文化の『一切の要素を消化攝取した』ところの『自由な精神の創り出した自由な藝術』で、『それは宛も何人も強制を蒙ることなく、各人がその本性のまゝに行藏してしかも調和を保つやうな良き社會の成員の如く』であつて、それは『文化を有する全世界に冠絶せる唯一の奇蹟』であり、『パルテノンに於けるよりもゴチツクの大伽藍に於けるよりも、こゝでははるかに著しく「永遠の美」が開顯せられてゐる。』『この原理こそ絶對に現代的でありまた今日のいかなる建築術にとつても完全に妥當するものである。』『それは我々に同一の精神をもつて創造せよと訓へる』ものであるといふ。かくの如き民族的さながら超民族超時代的なる『永遠の美』、至純至高の藝術が國體不明徴時代に於いて、皇室の御爲めに滿溢する感激を以つて一切の外的拘束から超出した自由の精神から創作せられたといふ歴史的事實こそ、日本國體が最高の精神文化を生み出す根源的生命として『神聖なるもの』であり、その『不可侵性』はそれ自體が唯一絶對の創造的自由精神――『天地の公道・人倫の常經』なるが故である。     一四、世の人のまことのみち  明治天皇御製に     民   ほど/\にこゝろをつくす國民のちからぞやがてわが力なる     樂   千萬の民と共にもたのしむにます樂はあらじとぞとおもふ     花   ありとある人をつどへて春ごとに花のうたげをひらきてしがな と詠みましましゝ大御心を仰ぎまつれば、『光雲無礙如虚空、一切の有礙にさはりなし、光澤かふらぬものぞなき、難思議を歸命せよ』『顏容端政たぐひなし、精微妙躯非人天、虚無之身無極體、平等力を歸命せよ』『一一のはなのなかよりは、三十六百千億の、光明てらしてほがらかに、いたらぬところさらになし』と歌つた親鸞の『讚阿彌陀佛偈和讚』が自ら誦せらるゝので、タウトが桂離宮の鑑賞に於いて聯想した『何人も強制を蒙ることなく各人がその本性のまゝに行藏してしかも調和を保つやうな社會』は、畏かれども右に拜誦しまつつた『君臣一體』の大御稜威の世界のうつしであらう。眞の協同體、全體主義社會とはかくの如きものたるべきで、それは全體といふよりも本來の生命的一體である。  こゝに然しながら『自由な精神の創り出した自由な藝術』がいふまでもなく『天才藝術家の卓越せる精神的業績』である如く、眞に自由なる理想社會は――それが『白雲のよそ』なる無何有郷ではなくて『人間』の社會である限り――『萬民』は必ずひとしく『一君』を仰がねばならぬことを思ふべきである。自由平等社會の生命原理は『理想の君主』であり、理想の君主は『現人神、天壤無窮萬世一系の 天皇』に在します。無君無王の社會は、人間の社會である限り、一時は兎も角やがて僭主の暴壓社會となるといふことが歴史的事實である。 明治天皇御製に『白雲のよそに求むな世の人のまことの道ぞしきしまの道』と詠ませ給ひし如く、人生の原理は人生そのものゝうちに『世の人のまこと道』として求むべきはこの故である。  かくして     神祇  千萬の神もひとつにまもるらむ青人草のしげりゆく世を     述懷  千萬の民の力をあつめなばいかなる業もならむとぞ思ふ     歌  千萬の民のことばを年毎にすゝめさせても見るぞたのしき     仁  ちよろづの民の心ををさむるもいつくしみこそ基なりけれ と詠ませ給ひし擧國一體の『和』の生命原理、『いつくしみ』の日本人道精神はそのまゝに     折にふれて  梓弓やしまのほかも波風のしづかなる世をわがいのるかな     正述 心緒  よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ     折にふれて  おのづから仇のこゝろも靡くまで誠の道をふめや國民     仁  いつくしみあまねかりせばもろこしの野にふす虎もなつかざらめや     誠  鬼神もなかするものは世の中の人のこゝろのまことなりけり     寄道 述懷  白雲のよそに求むな世の人のまことの道ぞしきしまのみち  なにごとに思ひ入るとも人はたゞまことの道をふむべかりけり といふ四海同胞、世界平和の普遍人道精神なるを信樂せしめらるゝのである。  『鬼神もなかするもの』は『世の中の人のこゝろのまこと』であり、カンナガラノミチとは『世の人のまことの道』である、と訓へさせ給ふのである。それは實人生の生活規律さながらに宗教藝術の原理であり同時にまた思想學術體系の原理である。 底本:「ナチス思想批判」、原理日本社    昭和15年10月10日3版 入力:秘密工作員Z 校正:未遂 2007年10月24日公開 %%2007年10月xx日修正 梅雨空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、「梅雨空文庫」のために作られた。 入力、校正、制作にあたったのは、秘密結社「じめじめ団」有志の諸君である。