11月に名誉欲が強かった全羅道道事の韓建が、彼らを暴徒に駆り立て強硬鎮圧を決行し官衙に連れて行きムチで打って殺すという事態が発生し、洪吉童の集団は生業を後に再武装闘争に臨みます。
洪吉童の集団はもちろん、生計維持のために漁民たちが主に利用していた居刀船(底が平ったくて近距離移動をする時に容易)の利用を禁止する命令が下されました。
海上通行証の発給 - 洪吉童の集団を探し出すために海を往来する人々に通行証を発給し、活動を原則的に封鎖しました。
官軍の海上封鎖作戦で孤立した洪吉童集団は、2つの組に分かれて全羅道南海岸(現在の順天光陽湾)に上陸します。しかし、再び官軍に追われ智異山付近の任実平堂院で踪跡を隠します。
10月22日戊午士禍(1498年)に相当数の士林派が命を落としたり流配されることになり、数年に渡った全国的な日でりで朝廷に対する国民たちの怨声が大きくなりました。なので民心を収拾するために監獄に閉じ込められた囚人を釈放し、家族と共に咸鏡道地方に行き暮らすようにする対赦免令を下します。これにより洪吉童の集団も自意半、他意半で逮捕される形式で自首しましたが、綱常罪(高位官職を詐称して管理を凌辱した罪)で忠清道からソウルまで押送され、義禁府に閉じ込められました。