波照間島に定着しました
石垣島の大浜村のフルスト地域に集団居住地を造成し、近隣の支配権を掌握しました。 宮古島の酋長である中宗根の酷烈な圧制と過重な税金で苦しんでいた原住民たちを糾合し、戦争で勝ち中宗根の集団を島の東北部の密林地域に追い出し、上比屋山に朝鮮渡来人たちの集団住居のために藁屋の群落を造成しました。
久米島に上陸し酋長のマダフツを追い出し、日本、琉球国、中国を相手に中継貿易をしながら東シナ海の海上圏を掌握し、島の要所に敵を防御するのに有利な朝鮮嬢式の城を構築しました。 宇江城 - 洪吉童の長男が構築ました(島の最頂上に位置、現在日本自衛隊レーダ基地が設置)。 中城 - 洪吉童の次男が造成しました。
洪吉童の末裔たちが海上貿易活動中に台風に遭い漂流し忠清道海岸に上陸しましたが、朝廷では彼らは既に朝鮮人ではないと言い中国(明)に帰らせました。
1612年に洪吉童の末裔たちが故国である朝鮮に帰るために脱出亡命を試み、船に乗って慶尚道沖に到着しまたが、朝廷では彼らを日本軍の再侵攻と誤認して漢陽(ソウル)一帯に非常戒厳令を宣布し、ほとんどの官吏が避難してソウルには人々がいなくなりました。