top
ENGLISH #
洪吉童の年代記
洪吉童テーマパーク
洪吉童のキャラクター

 


1504年

波照間島に定着しました

張永己と言う名前で全国八道市場に情報員(スパイ)を派遣し民心を把握しました。
そして1469年(睿宗1年)10月に、政府の大々的な討伐作戦により活動舞台を西南海岸の島に移すことになりました。


   1501 ~ 1503年

石垣島の大浜村のフルスト地域に集団居住地を造成し、近隣の支配権を掌握しました。
宮古島の酋長である中宗根の酷烈な圧制と過重な税金で苦しんでいた原住民たちを糾合し、戦争で勝ち中宗根の集団を島の東北部の密林地域に追い出し、上比屋山に朝鮮渡来人たちの集団住居のために藁屋の群落を造成しました。



1505 ~ 1508年

久米島に上陸し酋長のマダフツを追い出し、日本、琉球国、中国を相手に中継貿易をしながら東シナ海の海上圏を掌握し、島の要所に敵を防御するのに有利な朝鮮嬢式の城を構築しました。

宇江城 - 洪吉童の長男が構築ました(島の最頂上に位置、現在日本自衛隊レーダ基地が設置)。

中城 - 洪吉童の次男が造成しました。



1510年
漢文本の洪吉童伝である『韋島王伝』には、1510年に70才で死亡したと記録されています。
  
1543年

洪吉童の末裔たちが海上貿易活動中に台風に遭い漂流し忠清道海岸に上陸しましたが、朝廷では彼らは既に朝鮮人ではないと言い中国(明)に帰らせました。

1609年
日本の薩摩藩(壬辰、丁酉再乱の時に朝鮮人の鼻と耳をいちばん多く刈って行った所である)の琉球国侵攻で沖縄列島の支配権が日本のものとなり、洪吉童が築いた沖縄列島の海上王国も復属となりました。
1612年

1612年に洪吉童の末裔たちが故国である朝鮮に帰るために脱出亡命を試み、船に乗って慶尚道沖に到着しまたが、朝廷では彼らを日本軍の再侵攻と誤認して漢陽(ソウル)一帯に非常戒厳令を宣布し、ほとんどの官吏が避難してソウルには人々がいなくなりました。

 
mailto