[PR]看護師の好条件な求人情報満載:年間30,000人の転職看護師が利用中
風呂上り、僕はサンダルを引っ掛けてベランダに出た。
だいぶ暖かくなったとは言え、夜の風はまだ冷たい。
それが火照った身体には心地良かった。
マンションの7階から見る景色には、さして物珍しい物は何もなく、
唯一惹かれるものがあるとするならば、
マンションの前にある公園の桜が満開になったことくらいだろうか。
この桜の木、僕が小さな頃はまだ枝の細い若い木であったが、
およそ10年の月日を経て、今は溢れるほど沢山の花をつける立派な樹に成長していた。
風に吹かれて舞ったピンク色の花びらは、
今が最高の見せ場であることを心得ているかの様に、美しい姿のまま闇に溶けていく。
僕はこの桜の木の傍で一緒に時を重ねてきたにもかかわらず、
桜の様に自ら誇示できるような成長の証を何も持ち合わせていないような気がして、
思わずその美しい景色から目を逸らせた。
いつからこんな風になったんだろう。
小さかった僕は、もっと正義感に満ち溢れて、もっと自信に満ち溢れて。
「ぐすっ……わぁ〜んっ」
「アスカ、どうしたの?」
「だ……だって、あたしの……っ……あたしのおもちゃ……」
「おもちゃ?」
「……かえしてっていったのに……うぅっ」
「ちょっとまってて。ぼくがとってくる!」
「シンジくん……」
「おいっ! アスカのおもちゃかえせっ。かえせっ!!」
小さかった頃の自分を思い出して、苦笑いした。
かつて僕の家の隣には、僕と同い年の女の子が住んでいた。
名前をアスカと言って、少女は綺麗な金髪の小さなポニーテールをフルフルと揺らして歩いた。
本当に大人しい女の子で、やられたらやられっぱなし。
公園でもよく泣かされてたっけ。
色が白くて青い瞳、お人形のようなその姿がとても愛らしく、
僕は幼心にも、彼女の友達でいることが自慢であったのを覚えている。
だから余計に彼女の前では強がっていたのかもしれない。
僕はあのころ夢中で見ていたヒーローになりたかったんだ。
アスカを守るヒーローに。
ところが、幼稚園の頃だったかな。
両親の仕事の都合で、アスカはドイツへ引っ越して行った。
僕もアスカも別れ際に大泣きしながら、指切りなんかして。
何の指切りだったのか、どうしても思い出せないんだけど、
きっと他愛もない約束だったのだろう。
ベランダの手すりに背を向けて寄りかかると、隣の家の窓をチラッと見遣った。
何年もの間、明かりの灯ることのなかったその部屋の窓をじっと見つめる。
そして小さくため息をついた。
なぜって、明日その部屋の主が帰ってくるからだ。
そう。アスカが日本に帰ってくる。
感動の再会?
そんなことあるわけない。
もともと仲の良かった両親は、明日の再会を心待ちにしているようだけど、
僕には関係ないことだ。
だってそうだろ?
いくら仲良くしていた相手とはいえ、もう10年も前のこと。
幼かった僕の記憶はあいまいだし、あれ以来一度も会っていないのだから。
当然、現在のアスカの顔なんて知らないし、知ろうとも思わない。
それはたぶん向こうだって同じはず。
それどころか、僕のことを覚えているかどうかだって怪しいのだ。
中学生になった僕たちにとっては、初対面も同然。
どんな顔して会えって言うんだ?
なのに、両親は僕にとんでもないことを押し付けた。
日本の学校生活に慣れていないアスカの面倒を見るように、だって。
幼なじみったって、10年も前のことだっての!
学校どころか、日本の生活そのものにさえ不安を覚えるような人間の
面倒を見なくちゃならないなんて、本当についてない。
僕はもう一度大きなため息をつくと、
すっかり冷えてしまった身体をブルッと震わせて、部屋に戻った。
翌日、授業を終えた僕は、友人に別れを告げて早々に教室を後にした。
いつもは友達のケンスケやトウジなんかと一緒に寄り道したりすることもあるんだけど、
今日はそれが認められない。
僕は記憶の中の少女と、感動の再会をしなくてはならないのだから。
母さんにも、当然、早く帰ってくるようにときつく言われているしね。
ただ僕の心の内を反映して、足取りは極めて重いものだった。
僕が帰ると、マンションの前に見慣れぬ大きなトラックが止まっていた。
体格のいい青年たちが、トラックから降ろした大きな荷物とともに、
マンションのエントランスへと吸い込まれていく。
僕はマンションを見上げて、自分の部屋と隣の部屋の窓をじっと見つめると、
覚悟を決めて歩き出した。
荷物を運ぶために降りてきた青年たちと入れ違いに、エレベーターへ乗り込む。
少しずつ鼓動が早くなる。
なんて挨拶しようか?
初めまして?
いや、初めてじゃないんだから「久しぶり」か?
全然覚えていないのに、わざとらしいか。
普通に「こんにちは」でいいんじゃないか?
結論が出ないまま、エレベーターは7階に到着した。
このまま誰にも会わずに家まで辿り着くことを祈る。
なるべく気づかれぬように、僕は静かに歩いた。
ガチャッ
「あら、シンジ、おかえりなさい」
か、母さん!
僕が家の玄関を開ける前に、母さんがドアを開けて出てきた。
しかもそんな大きな声で僕の名前呼ぶなよ。
お隣さんに聞こえるじゃない……か……
ガチャッ
僕の後ろでドアが開く音が聞こえた。
ほら、やっぱり気づかれた。
それは間違いなく隣の家の玄関が開く音だった。
「あら、アスカちゃん。どう? 荷物は全部運び終わった?」
「えぇ、おば様。あとはダンボールが少しだけです」
「お手伝いすることがあったら言ってちょうだいね。
そうそう、今シンジが帰ってきたのよ。
ほら、シンジ、ご挨拶なさい」
そのまま母さんの脇をすり抜けて家に入ろうとした僕を捕まえて、
母さんは僕をアスカに引き合わせた。
「もう、わかってるよ」
そう言って渋々顔を上げた僕の前に立っていたのは、
長い金髪を揺らして大きな青い瞳で僕を見つめている、美しい女の子だった。
小さな頃のおぼろげな記憶と照らし合わせても、間違いない。アスカだ。
「どうも」
僕は小さく会釈した。
なんか……調子狂うな。
面倒なこと押し付けられたと思ってたんだけど、でも、こんな可愛いくなってたなんて。
面倒っていうか……むしろ、喜ぶべき状況なんじゃないか、これ?
自分でもちょっと赤くなってる気がするんだけど。
いや、気のせい。気のせい。
アスカは僕と目が合うと、
「お久しぶり。シンジくんにまた会えて、とても嬉しいわ」
そう言って、ニッコリと微笑んだ。
その笑顔がまた可愛いのなんのって。
あぁ、僕は間違ってました。
こんな可愛い娘のお世話なら、喜んで引き受けます。
父さん、母さん、僕に素晴らしい役目を与えてくれてありがとう。
そんな僕に向かって、アスカが思いがけないことを言った。
「シンジくんにお願いがあるの」
はいはい。君のお願いなら何でも聞きましょう。
「学校のこととか色々教えてほしいから、後でアタシの部屋に来てくれる?」
「あっ、う、うん。構わないけど」
「ホント? 良かった。日本の学校に通うのって初めてだから不安で。
少し部屋を片付けたいから、20時頃に来てもらってもいい?」
「うん」
記憶とは微妙に違うアスカの雰囲気に戸惑いながらも、
僕にはこんな可愛い娘の申し出を断る理由など何もない。
もちろん二つ返事でOKだ。
僕とアスカの再会はこんな風に始まった。
アスカが町にやって来た。
...続く