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'09.06.06 (土)
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ま・ここっとさんへ |
「そりゃよござんした」 のま・ここっとさんが反応して下さったようです。
2009年 06月 04日 「Perinde ac cadaver」
以下、赤枠がま・ここっとさんのご発言。
先方の日記にはコメント欄はなく、掲示板も閉鎖。日記、掲示板いずれもトラックバック機能がありませんので、このような公開の形を取りましたので、あしからず。
「他サイトの管理人に批判を加える限り、交流の道具-------コメント欄、掲示板、トラックバック機能等-------は用意して然るべきだ」 という雰囲気を感じますので、一応、掲示板を復活させておきました。左のナビから入れます。
しかし、これはま・ここっとさんに書き込みを強要するものではありません。
しかしまた、ま・ここっとさんとのやり取りのために用意したものであるのも確かです。そして、私は 「議論の混乱」 というものをかなり気にする方なので、今回はま・ここっとさん以外の方には投稿をご遠慮頂きたく存じます。
(ただ、海外から正常に投稿できるかどうかが心配ではあります。)
少しま・ここっとさんと交流させて頂きたいと思います。それはま・ここっとさんがカトリック信者にとって 「重大な事柄 Grave Matters」 (あがないの秘跡・第173項) の一つであるところのものについて、ある種のことをおっしゃっておられるからです。
まず初めに、ま・ここっとさんに一つお願いがあります。
私は 「両形態拝領」 を問題にしているのではなく、両形態拝領の中の 「セルフ・インティンクション」 のみを問題にしているので、その言葉の使い分けを明確にして下さい。あくまで 「両形態拝領 ⊃ セルフ・インティンクション」 なので。
ま・ここっとさんが 「両形態」 と書く度にそれをこちら側で 「セルフ・インティンクション」 と読み替えるのは、まぁ難しいことではありませんが、それでも何となく落ちつきませんので。
ま・ここっとさんの記事を上から順に拝見しながら反応していくことにしますが、私の以下の文章のうち、本論、すなわち 「あがないの秘跡」 第104項第一文の 「must not be permitted」 の解釈に関する議論にまともに関係するのは 1 と 7 のみです。それ以外のものは、多くの人の目には単なる 「あら探し」 「揚げ足取り」 的なものに映るかも知れません。けれども、私は自分自身のことをも含めてこう言いたいと思います。「私達は、ただ会議場の机の前に坐りさえすれば『議論』ができるというものでもない。」
1
最初は 「聖地巡礼にいらした教皇さまが 12日にエルサレムで司式された野外ミサ の生中継ビデオ」 (ま・ここっとさん) のことです。(12日とは今年の5月12日のようです。)
http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00044914&vl=video_nouveautes
URL は上の通りですが、MAC では 「ファイルを開けません。パスおよびファイル名が正しいことを確認し、もう一度実行してください」 と出るようです (私の MAC だけかも知れませんが)。Windows XP では見ることができました。
ここでは事実確認だけにしておきます。これについて考えなければならない重要な事がありますが、別の機会に譲ります。(たぶん次の日記で。)
このビデオは教皇ミサを撮ったものです。そこには教皇様がいらっしゃいます。そこではま・ここっとさんのおっしゃる通りセルフ・インティンクションが行なわれています。それは事実です。
ただし、セルフ・インティンクションをしている拝領者はどれも聖職者のようで、平信徒がセルフ・インティンクションをしている姿は確認できません。
聖職者のセルフ・インティンクションに関しては、私も昨年のシドニーでのWYDにおける教皇ミサのビデオで確認しています。
'08.08.18 (月) 教皇様 「ご自身」 と教皇様の 「指導性」 の間
しかしそこでも、セルフ・インティンクションをしている人は、映っている限りでは皆聖職者です。平信徒でそれをしている人の姿は映っておりません。
2
ま・ここっとさんはこうお書きになっています。
おそらくエルサレム教区では両形態が認められており、このごミサにおいても両形態についてローマ教区長である教皇さまは L'autorisation (許可)、Permis (免許) を発していることになります。英語で表現するなら、
The Pope permitted to intinct the host himself in the chalice, or to receive the intincted host in the hand.
今ここを読んで下さっている方は、ま・ここっとさんが使っている 「両形態」 という言葉を 「セルフ・インティンクション」 と読み替えて下さい。ま・ここっとさんご自身、それを意図しておられますから。(でもま・ここっとさん、冒頭でも言いましたが、できればもう少し気を使って下さい。)
私は、ただこのように受動態否定文を能動態肯定文に書き変えてみせることが、そんなに事の真実を私達に見せてくれるものだろうか? と疑問に思います。
「英語で表現するなら」 の次にあるま・ここっとさんが作ってくれた英文は、正常なのでしょうか。「The Pope permitted to intinct the host himself in the chalice.」 には目的語が抜けています。私は英語に詳しくありませんが、普通は目的語を明確にして 「The Pope permitted the communicant to intinct the host himself in the chalice.」 とでもするのではないでしょうか。「himself」 があるのですし。
カンマの後はそれ以上に別の意味で疑問です。ま・ここっとさんがしてくれているようにそれを能動態肯定文にすれば、「The Pope permitted (the communicant) to receive the intincted host in the hand. 教皇様は (拝領者が) 御血に浸されたホスティアを手で拝領することを permit なさった」 ということになります。
「単なる言葉の説明です」 とおっしゃるでしょうか。しかしそれにしてもカトリック信者として、「実際には教皇様が『御血に浸されたホスティアを拝領者が手で拝領すること』をお許しになることがあり得るとは思いませんが」 とでも書き添えたくなりませんか。御血で濡れたホスティアを手で受けることは、どう考えても良いことではありませんから。
3
ま・ここっとさんは第104項を、羅典語、英語、仏語、西語、獨語、伊語と数々の外国語で並べておられますが、そのような表現の仕方において 「表現の有効性 (効果)」 というものを考えておられるのでしょうか。
「分かる人には分かります」 などと言うのであれば、それは相手を持たない態度であって、表現上有効ではないでしょう。私が何とか分かる外国語は英語だけであることは、ま・ここっとさんだってご存知の筈です。また、これほどの多言語の列挙から何かを汲むことのできる日本人閲覧者は、果たしてどれほどいるでしょうか。そういうことをお考えにならないのでしょうか。
そしてまた 「そもそも」 です、そもそもま・ここっとさんご自身が、本当にこれら多言語から確かなことを汲み取ることがお出来になるお方なのでしょうか。(言っても仕方がないけれど、まぁそのように疑問に思っております。)
4
まだ人がなんら動かないままの時点なら、Forbidden だろうが not be permitted だろうが 「してはならない禁止行為」 であるということくらい、ネイティヴスピーカーなら感覚的にわかっています。
どうしてこういうことを書きたくなったのか理解できません。誰が、「ネイティヴスピーカーであっても forbidden や be not permitted が『してはならない禁止行為』を意味することを感覚だけではわからないかも知れない」 などと言っているでしょうか。誰も言っていないのに、どうしてこんなことを?
ま・ここっとさんが 「ネイティヴスピーカーなら感覚的にわかっている」 という言い回しで言及 (強調) なさっていたのは、別のことだった筈です。
5
さして長い文章ぢゃないのに、104項の中から前半だけのつまみ出しでは、後半部分で使われている語句と簡単に比較できるのに、それを書き手が個人の意図あって敢えて読者に認めさせないようにしていると判断されかねません。
私は他意なしに焦点の第104項の初めの文だけを取り上げたのでしたが、不足でしたか?
私はこう書いたのでした。「もしま・ここっとさんが、『慣用の世界のことは別にして、学問的な場、すなわちここでは教会の公文書ということですが、そこでは must not be permitted という表現と be forbidden という表現との間には画然たる別があるものです』という言い方をなさるなら、また話は別であります。」
このように認めている私が、仮にま・ここっとさんのご希望通り第104項の forbid を含んでいる文を取り上げていたとして、どれほど今の私の論じ方と違いがあるでしょうか。
6
英語だったら forbid より更に強い prohibit (禁止) という単語があり、問答無用の絶対禁止だったらヴァチカンの英語担当者も prohibit を用いるだろうけど、この 「両形態」 の行為で当事者が破門になることはないから forbid を選んだのでしょう。
「As for the host to be used for the intinction, it should be made of valid matter, also consecrated; it is altogether forbidden to use non-consecrated bread or other matter.
御血に浸すために用いられるホスティアについては、有効な材料で作られており、聖別されていなければならない。聖別されていないパンやその他のものを用いることは絶対に禁じられる。」 (第104項から)
ま・ここっとさんは対象をちゃんと見ていらっしゃいますか? というのは、第104項で forbid が向けられているのは 「両形態」 ではなく 「聖別されていないパンやその他のものを用いること」 だからです。ま・ここっとさんの 「この『両形態』の行為」 という言葉は、「聖別されていないパンやその他のものを用いること」 を指していますか? もしそうならいいですが、しかし普通はま・ここっとさんが書いたようには書かない筈です。普通の人は。
とにかく、もう少し言葉に神経を使って下さい。「インティンクション」 を扱っている時には 「インティンクション」 と言い ( 「両形態」 ではなく)、上で言えば forbid されているのは 「聖別されていないパンやその他のものを用いること」 であるということが明確であるような書き方をして下さい。
7
「無意識的」 に、ご自分のある種の傾向や嗜好に引きずられて物事を歪めながら (誰にでもその傾向があるものですが) 慣用的な場では、must not be permitted という表現と be forbidden という表現が非常に近いものになる場合が大いにあることをおっしゃっておられるなら、「間違い」 と言われるべきものであります。
これは私の言い回しを借りてま・ここっとさんがご自分のお考えを書いたものです。つまりま・ここっとさんは 「慣用的な場で must not be permitted という表現と be forbidden という表現が非常に近いものになる場合」 など〈ない〉とおっしゃっているわけです。しかしま・ここっとさんは、私が6月2日に挙げた例について一言も触れられません。
一つだけお訊きします。ま・ここっとさんは 「英語だったら forbid より更に強い prohibit (禁止) という単語があり」 とおっしゃったわけですが、6月2日の例の中の8番で、David Ancell という人が次のように言っています。
Article 104 addresses something that has long bugged me. It clearly states that self-intinction is prohibited (contrary to what some priest once told me), as is receiving by intinction on the hand. I know of one local parish where a number of people regularly do this. Article 173 refers to this practice as "grave matter."
第104項は私を長いことを悩ませてきた事柄についてのものだ。そこにはハッキリと、セルフ・インティンクションは浸されたホスチアを手に受けることと同様に禁止されている is prohibited と (かつてある司祭が私に語ったことに反して) 書かれている。私はある近くの小教区教会で幾人かが定期的にそれを行なっているのを知っている。第173項はこの実践を 「重大な事柄 grave matter 」 とみなしている。
ま・ここっとさんはこの David Ancell という人の 「言語感覚」 をどう思いますか?
今日の一文で私がま・ここっとさんに直接問い掛けたいのはこのことだけです。