August
19
2008
今回のオリンピックに対する中国の力の入れようは想像を絶するものがあったそうで、中国選手の育成もさることながら新設された多くの競技会場や環境整備には相当の建設費用がつぎ込まれ、開会式の演出も豪華絢爛絵巻、そして運営もまた徹底した人海戦術で。それらはみな国力の誇示の手段としてオリンピックを最大限に利用しようとする中国政府の姿勢がありありとうかがえます。国の総力を挙げて獲得するメダルの数。スポーツの祭典は同時に国力誇示の祭典となり、経済力や政治力の鏡となって世界中にアピールされています。世界各国もこのときとばかりに国の威信をかけ、メダルを競い合う。連日オリンピックを観戦していて、少々観戦疲れもあってか僕は徐々に、なんとなくしっくり来ない違和感を感じ始めました。
その昔ヒトラーはベルリンオリンピックをナチス党の権力誇示のために最大限利用したと言われています。古いニュース映像などで何度か見る機会がありましたが、オリンピックは間違いなく独裁政権の玩具と化していました。スポンサーという企業の存在が鼻につくようになったのはたしかロサンゼルスオリンピック辺りから。それまで開催に際し赤字が当たり前とされていたオリンピックの黒字化に成功した大会となり、以来オリンピックはコマーシャリズム抜きでは語れなくなりました。このところの開催は資本主義国が中心であったために、その傾向は次第にエスカレートしてきましたね。そして今回は、資本主義化が著しい中国での開催と言うことで、どうなるのだろうという興味が尽きなかったのですが、結果はやはり古い形へ回帰するものとなったことは残念な気持ちです。商業的な黒字化にこだわりすぎるオリンピックは、スポンサーのための祭典となって嫌味たっぷりですが、改めてここまでナショナリズムを全面に押し出されると抵抗を感じてしまうのも事実でしょう。CO2削減問題やテロ対策、食料問題、資源問題等、現代はグローバリズムを抜きにしては語れない社会状況となっています。各国が競うのではなく協調しなければ何一つ解決できない問題を多く抱える中で、中国は、アメリカは、日本は、とメダルの数を競い合うことにふと違和感を覚えましたね。「オリンピックというのは、国家を主体としたスポーツの祭典」なのだから当然なのかも知れませんが、国旗を背負って競技する選手達は楽しいのかな?なんて考えてしまいます。
石原東京都知事は2016年のオリンピック誘致に血眼になっています。僕はこのオリンピックという大会は日本で開催する意味が果たしてあるのかな?と疑問に思うわけです。現有施設を使って出来るだけコストをかけずに開催するとか、もっと言えば、世界で一番安上がりなオリンピックを開催します、と主張してみるとか、そういう新しいテーマに取り組める大会とするならば意味があるのかも知れませんが、経済効果を狙うとか民族の祭典とかそういう古いテーマを掲げるなら是非とも開催などしないでいただきたいと思います。
オリンピックの未来は、あらゆる意味でもっと個人レベルを尊重してゆけるような大会にして欲しいと思います。大会に出場したいから他国へ帰化して出場権を得るとか、他国の代表が他民族であることへの違和感とか、それはすべて国家単位で見るからだと思います。ならば、国別に出場枠を割り当てるのではなくて、成績で個人に出場資格を与えるように徹底すればいいのかもしれません。ひとつの競技に同国人が何人出場してもいいと思います。クーベルタン伯爵の提唱したオリンピックの精神は当時としては画期的な新しい方向性であったと思いますが、現代のオリンピックはいささか色褪せた観が否めません。また、同時に開催コストを抑える努力は、新興国や途上国での開催の可能性も広げます。個人に回帰することがそして個人を尊重することが新しいオリンピックの未来を切り開くと思います。
Posted by 有海啓介 | この記事のURL |