日本兵による住民虐殺 「渡野喜屋とのきや事件」
2007年1月6日訪問沖縄戦で米軍の上陸地となった読谷よみたん村では、村民の戦争体験を後世に伝えようと、2500人の証言を集め村史にまとめあげている。洞窟での集団自決、日本軍による襲撃など、住民が体験した「沖縄戦」過酷な実態が、その証言によって明らかになっている。
2005年6月18日(土)NHKスペシャル「沖縄 よみがえる戦場〜読谷村民2500人が語る地上戦〜」をごらんになった方も多いと思う。この番組の中で、日本軍の襲撃によって住民35名殺害された「渡野喜屋とのきや事件」が紹介されている。生き残りの住民仲本政子さん(当時4歳)が、読谷村の出身であり、その体験を村史に残しているのである。
その事件の内容を簡単にまとめてみると、次のようになる。
当時、政子さんは四歳だったので何も覚えていないが、八歳の兄はほぼ事件を目撃し、後に仲本政子さんに伝えている。
番組の中での、仲本政子さんと仲村渠なかんだかり美代さん
政子さんの一家は当時、大宜味村渡野喜屋(現在白浜)の民家で避難生活を送っていた。その日、父は米軍からもらったメリケン粉を周囲に配っていた。おそらく襲撃する日本軍は、昼間山の上からそれを見ていたのであろう。
昭和20年5月12日の深夜、日本兵が何十人も血相を変えてやって来て、「俺たちは山の中で何も食う物もないのに、お前たちはこんないい物を食っているのか」と言い、男たちを連れて行った。政子さんの家には、日本兵が五人来た。
父は、「自分はどうなってもいいから、妻や子どもには何もしないでくれ」と言い残し連れていかれた。
政子さんの父は、家族の目の前ではなく別の場所で殺された。首に短刀を三つ突き刺され、両方の膝の裏側が「日の丸だ」といって五〇〇円玉ぐらいの大きさで、丸くくりぬかれていたという。日本兵は、それを「勲章だ、勲章だ」と言って持って行った。父は「おかあ、おかあ」と言いながら死に、周りは血の海であった。
男たちを連れて行った後日本兵たちは「いい話があります。いい話があります」と言って、残った女子どもを浜に連れて行き四列に並ばせ、「一、二、三」と言って、手りゅう弾を三つ投げた。その時兄のそばにいた人は内臓が飛び出して死んだ。
母は足に軽傷を負ったが幸い兄と妹は無傷で、政子さんは顔と手足を負傷して動けなかった。父の死体を見つけたとき、あまりのむごさに母と兄は気絶した。その時、米兵がいっしょに父を埋めてくれた。
現在も、政子さんの顔にはその時の傷跡が残っている。少女時代は、次々に体内から手榴弾の破片が出てきたという。
番組では、事件の時四列に並ばされた住民のうち、最前列に位置しいち早く地面に伏せて難を逃れた女性が登場する。仲村渠なかんだかり美代さんである。
当時28歳の仲村渠さんは、この凄惨な事件をしっかり記憶していた。仲村渠さんの記憶では、すぐ後ろで母親に抱かれていた少女が仲本政子さんではないだろうかという。
この事件に参加した日本兵は約10名。曹長に率いられ、住民35人を殺害し15人を負傷させている。そのほとんどが婦女子で、日本兵はその村落の指導者四、五人を連れて山に戻ったという。このときの避難民は読谷村、浦添村、那覇市などの住民であった。
仲本政子さんの母は、この事件のショックが元で早い時期に亡くなり、事件を目撃した兄も現在は精神的な病の床にあるという。この事件を起こした日本軍には、一体どんな理由があったのであろうか。本部半島八重岳の戦闘(4月13日〜)で敗れた「宇土部隊」が、事件に関わった日本軍である。この部隊は、その後敗残兵となり各地に出没して住民から食糧を奪ったりしていた。
宇土部隊とは、宇土武彦大佐に率いられた約3000名の部隊で、もともとは独立混成第44旅団の残存兵力500名に地元の沖縄防衛隊員800名、青年義勇隊200名、鉄血勤皇隊員400名などを含めた部隊と言われている。北部山中に敗走していたこの部隊は、10月まで山中で潜伏を続けその後、宇土隊長を含め米軍に投降している。
このNHKスペシャルの番組では、この宇土部隊の兵士の日記が紹介された。それによれば、部隊が襲撃した村を「スパイ村」としている。日本軍にとって、米軍から食料をもらい始めた住民は敵に通じた「スパイ」以外の何者でもなかったのである。恐るべき「沖縄戦の悲劇」が、ここにもある。
再会した二人と、現在の事件現場
私がこの事件の現場を訪問したのは、2007年1月6日の事である。沖縄中部の中心都市名護から、沖縄本島最北端の「辺戸岬」を結ぶ幹線国道58号線上にある。
その国道から静かな入り江「塩屋湾」に向かって右に折れるとすぐに、事件現場の海岸にたどり着く。
現在は大宜味村「白浜」という地名になっており、「渡屋喜屋」という地名は残っていない。本当に小さな集落で、現在十数件の民家が並んでいるだけである。事件現場の海岸には、この村の名士「平良保一」の記念碑が建っているだけである。
住民の一人に、話を伺った。「時々観光バスも、ここに立ち寄りますよ。だけど村の人は、この事件の事は話しません。私も20年ほど前にここに引っ越してきたんですが、事件の事は知りません」
なるほど、事件は封緘の一途をたどっている。満潮なのだろう、事件現場の砂浜も海水の下に消え見えなかった。