暮らし  
TOP > 暮らし
沖縄 戦争 NA
渡野喜屋事件を知ってますか?(1)
2005/09/12

 夜中にやって来た10人ほど日本兵が、村の男たちを連れ去り、短刀で惨殺した。
 
 残った女子供たちを浜に集めて、4列に並ばせ、その集団にめがけて手榴弾を投げつけた。死亡した住民は35人。負傷者は15人。ほとんどが婦女子であった。
 
 虐殺された証言者の父親は、首を短刀で3箇所突き刺され、両膝の裏側が「日の丸だ」といって、500円玉くらいの大きさで、丸くくりぬかれていたという。

 ――これは、僕がたまたま目にしたNHKのTV番組でのある証言者の発言が気になり、インターネットを探して見つけた、「読谷村史『戦時記録』下巻 第四章 米軍上陸後の収容所」というページの内容を、僕なりにまとめたものである。

 僕が見たのは、「NHKスペシャル終戦60年企画 沖縄 よみがえる戦場〜読谷村民2500人が語る地上戦」という番組だった。恥ずかしながら、僕は最初から見ようと思って、その番組を見ていたわけではない。たまたまチャンネルを回していたら、いきなり飛び込んで来たのが、当時は4歳だったという女性が、彼女の兄から聞いたという、「渡野喜屋(とのきや)事件」の証言だった。

 正直、最初、その証言を耳にした時は、僕はそれが日本の出来事とは思わなかった。おそらく中国を舞台にした、例えば南京大虐殺などの、よくある中国人の証言の1つではないか、と思った。ところが、それが中国ではなく、日本の沖縄戦での出来事であり、加害者が日本兵であれば、被害者も日本人であるという、という事実を知って、大きな衝撃を受けた。つまり、「南京大虐殺」で僕が感じた「顔の見えない残虐な日本人」の姿が、まさに、そこに存在したからである。

 「渡野喜屋事件」に関しては、「JANJAN」の読者の中には、平和運動に詳しくて、僕よりずっと知識をお持ちの方も多いとは思うが、僕がこの事件に大きな関心を抱いたのは、この事件こそ、「日本の戦争」を象徴的に表すものだと感じたからである。そして、それと同時に、この事件が、僕の心の中に大きな葛藤を想起したからである。「渡野喜屋事件」を、僕が知る範囲で、簡単に説明しよう。僕の知識は断片的だが、議論のきっかけになれば幸いだ。

 1945(昭和20年)3月23日、米艦隊による沖縄本島の攻撃によって始まった沖縄戦は、4月1日には米軍の本島上陸、4日には早くも沖縄本島が南北に分断され、5月になると首里城地下の沖縄守備軍司令部の司令部の陥落前に南部撤退を決め、避難住民をも巻き込んでの戦闘が行われるなど、太平洋戦争以上でももっとも激しい悲劇の戦いであった。

 沖縄本島の中部、西海岸に位置する読谷村は、4月1日の米軍本島上陸の、まさに上陸地であった。4月2日には、同地でチビリガマの集団自決が行われたことでも知られている。

 その読谷村の歴史を紹介する『読谷村史(以下は「村史」とする)』に、本島の北西部にある渡野喜屋での出来事が記された理由は、上陸する米軍に対し、住民の住民疎開(避難)が決定され、多くの村民が北部へと戦火を逃れたためである。だが、戦火を逃れたと言っても、ほとんどの住民が砲爆撃にさらされ、北部の山中にひしめくことになり、沖縄戦の3カ月間、飢餓とマラリヤ病に襲われる悲惨な逃亡生活であったと、村史は紹介する。

 本島北部で米軍による住民の収容が始まったのは、村史によれば4月7日頃からだと言う。各地に収容所が作られ、保護された住民が順次、収容地に移動させられた。だが、収容者の増加により、収容所の整備が間に合わず、特定の場所に、村長が任命され、住民が一カ所に集まって生活する場所もいくつか存在した。

 「渡野喜屋事件」は、渡野喜屋にあった、読谷村の出身を含む避難民が暮らしていた村の1つでの事件である。そこに、米軍の上陸から1カ月以上の後、昭和20年5月12日の夜中、突如、日本軍の敗残兵が現れて、避難民である住民を虐殺した事件として記録されている。

 この事件が事実であることは確かである。何故なら、その時の生き証人が現実に生きておられるからである。ただ、僕は、「だから戦争はいけない」とか、「日本人は残虐である」とか、そうした結論を導いて終わりにしたいとも思わない。

 まず最初に書いておきたいのは、どんな理由があるにせよ、婦女子を含む非戦闘員への虐殺は許されない。許すことができない暴挙である、と言うことである。それを確認して、今一度、「渡野喜屋事件」について考えてみたい。

 NHKスペシャルで、生き証人の方の証言を聞いて、僕が最初に思ったのは、その日本兵がどうして村を襲ったのか、その理由である。

 証言によると、その日、女性の父親は米軍からもらったメリケン粉を、皆に配っていたそうだ。襲ってきた日本兵は、「俺たちは山の中で何も食う物もないのに、お前たちはこんないい物を食っているのか」と話したという。

 よほど米軍に寝返った住民が憎かったのか、食料がなかったのか、というのが、僕の最初の感想だ。実際にインターネットで「渡野喜屋事件」や「沖縄戦」について書かれた記述を見ても、「彼らの本当の目的である食糧を全部奪い取った」といったものや、実際に住民が「山中で日本兵に出会い食料を強奪された証言は多い」といったものが、数多く書かれている。

 だが、そこで僕には大きな疑問が浮かんだ。それは、山中に潜んだ日本兵が、住民の食料を奪ってまで、そこで潜伏し続けた。その理由である。単に敗残兵として山中に逃げ、そこで住民の食料を略奪しているだけなら、それは夜盗集団と何ら変わりはない。だが、果たして、当時の日本兵に夜盗集団と化してまで、そこに生き残る理由があったのか。果たして、夜盗集団と化した軍隊に、軍としての規律が保たれるのであろうか。

 「顔の見えない残虐な日本人」のように映る日本軍の正体は、「読谷村史」に書かれている。それは、宇土武彦大佐が率いる宇土部隊というもので、本部半島八重岳の戦闘(1945年4月13〜28日)で敗れ、北部山中に敗走したものだ。宇土部隊は、10月まで山中で潜伏を続け、その後、米軍に投降した。

 前述のNHKスペシャル番組では、その宇土部隊の兵士の日記が紹介された。その記述によれば、部隊が襲撃した村は、「スパイ村」だったという。そして、その「スパイ村」をそのままにしておくと、部隊の居場所が米軍に通報される恐れがあることなどが書かれている。もちろん、僕には、それが真実か否かは分からない。そして、だからと言って、冒頭に書いたように、非戦闘員への虐殺が許容されるとも思わない。だが、そこに、軍の規律を維持するための、ギリギリの大義名分があったことに、少しの救いを感じたことだけは確かである。

 加えて、逆に、もう少し『読谷村史』を読み進めると、北部の別の場所で「スパイ容疑」で日本兵に取り囲まれ、手榴弾で一家皆殺しにされようとした人が、兵隊たちを説得し、助かったという話が記されている。

 ならば、そこまでして、宇土部隊が沖縄本島の北部の山中に潜伏し、行おうとしていたことは何なのか。日本人を守るはずの日本兵が、同じ日本人を虐殺し、同じ日本人から略奪を重ねてまで、何故、生き延びなければならなかったのか。それが僕には余計に分からなくなる。

 そこで改めて考えたのが、そもそも沖縄戦の意味、そして、その中での北部部隊の意味である。沖縄本島が南北に分断された後、首里城が陥落するまでに日本軍は主力の8割を失い、沖縄守備軍は南部撤退を決め、敗残兵のほとんどが住民を巻き込みながら、南部へと追い込まれていく。その中で、南部ではなく、北部の山中に潜んだ宇土部隊に与えられた使命とは何だったのか。それが果たして、同じ日本人を虐殺してまで、貫徹しなければいけないほどのものだったのか。

 そこで、大きく「日本の戦争」、その中の「沖縄戦」、そして、その中の「渡野喜屋事件」を考えると、そこには、単に「だから戦争はいけない」とか、「日本人は残虐である」とは違ったものが見えてくる。次回は、それに触れてみたいと思う。

(柴田忠)

 『気に入ったら』ランキングへ>>

ご意見板

この記事についてのご意見をお送りください。
(書込みには会員IDとパスワードが必要です。)

[10437] すばらしい番組でした
名前:西山聡
日時:2005/09/12 11:38
 何かと問題もあるNHKですが、この「NHKスペシャル終戦60年企画 沖縄 よみがえる戦場〜読谷村民2500人が語る地上戦」は素晴らしかったです。本放送(6/18)が、友人知人の間で大評判になっていたので、本放送を見損ねた僕は、僕は再放送を最初から最後まで、固唾を呑んで見つめました。『読谷村史』の戦史の部分のダイジェスト的な構成ですが、戦争被害の証言者の「その後」と「今」も語られていて、すぐれたドキュメンタリーになっていました。「渡野喜屋事件」の生き残りの二人が、番組取材を縁に60年ぶりに再開するラストシーンは、見ていて涙が止まりませんでした。

 優れたドキュメンターリーを機に、柴田さんが引き続き優れた考察をなさることを期待しています。

 僕は丸谷才一の小説『笹まくら』(新潮文庫)の愛読者ですが(きなくさい昨今『笹まくら』はぜひ、万人に読んでほしいです)、国や軍隊というものは人を抑圧する装置としてしか働かない危うさを秘めているような気がします。
[返信する]