許しと調和(1) [ライフレッスン]
「あの男を殺すべきだ!」兄は言いました。彼の顔は石のように固まっていました。
「そう、殺すべきだわ!」母親が涙ながらに訴えました。
「殺すべきよ!」妹が震える声で言いました。
会議のたき火を囲み、一族のメンバーが一人ひとり意見を述べていました。その会議に、外で不安な面持ちで待つ若者の命がかかっていました。人を殺すことは、悪らつな行為です。友人を殺すことは、もっと悪らつな行為です。彼は、なおも友人の血を手につけたまま、最後の審判を待っていました。
「みんなで、もっとじっくり考えようではないか」祖父が静かに言いました。悲しみが、彼の顔のしわを、より深いものにしています。まるで先祖たちが、彼を通じて語っているかのようでした。
「あの男を殺せば、わしらの息子は戻ってくるのだろうか?」
「いや」「いや」「いや」・・・。否定の言葉が、ときにはささやかれ、ときにはつぶやかれ、ときには怒りとともに吐き出されつつ、苦悶の輪の上をゆっくりと移動していきました。
その老人は、つづいて、一点を凝視しながら言いました。
「あの男を殺せば、わしら一族は暮らしが良くなるのだろうか?」
またもや、「いや」「いや」「いや」が輪の上を移動していきました。
「彼の言うとおりだ・・・」大叔父が言いました。頬を涙が伝わっています。
「この問題は慎重に考えないと」
そして、彼らは慎重に考えました。一晩中考え、話し合いました。
朝になって彼らは、問題の若者を呼び、審判の結果を伝えました。
「あのティーピー(円錐形のテント小屋)が見えるか?・・・」殺された若者のティーピーを指差し、彼らは言いました。殺人を犯した若者はうなずきました。
「あれは、これからお前のものだ」「あの馬が見えるか?・・・」殺された若者の馬を指差し、彼らは言いました。殺人を犯した若者はまたうなずきました。
「あれも、お前のものだ。お前は、これからわしらの息子になる。いまや、お前は、お前が殺した男の代わりに、我らが一族の一員となった」
その若者はゆっくりと顔を上げ、彼を取り巻いていた一族の人たちを見回しました。彼の新しい人生が始まっていました。それは、一族の人たちすべてにとっても同じことでした。
プラウン・ベアは、テーブル越しに私の顔をじっと見つめました。
「これは、1800年代の終わりごろに、本当に起こったことなんだ・・・」彼は言いました。
「連中は、彼を殺すことができた。一族のしきたりは、彼らにその権利を与えていた」
私は大きな驚きとともに、彼の話に耳を傾けていました。そして考えていました。自分たちの子供を殺した人間を、子供として迎え入れるなんて、そんなことが本当にできるのだろうか?
「その若者は忠実な息子になった・・・」ブラウン・ベアは続けました。
「それで、死を迎える頃には優しい息子のモデルとして、あちこちの部族の間で知られるようになっていたそうだよ」
「魂をめぐる物語」ゲーリー・ズーカフ著より
許しと調和(2) [ライフレッスン]
息子を殺された家族は、犯人の若者を殺すこともできました。しかし彼らは、そうする代わりに、その若者を自分たちの息子として引き取りました。その決定は、彼らの人生も、その若者の人生も変えました。彼らは、自分たちのその決定が、その若者にどんな影響を及ぼすことになるかはわかりませんでした。しかし、それが自分たちに及ぼすであろう影響には気づいていました。
彼らには、その若者を憎み続ける必要はありませんでした。息子の死に加えて、彼の死までも心にとめて生きる必要も、どこにもありませんでした。
あなたは、誰かに何かひどいことをされ、あとあとそのことを繰り返し考え続けたことがあるでしょうか? もしあるとしたら、そのときあなたはどんな気分を手にしたでしょう? 腹が立ちましたか? 悲しみに襲われましたか? それとも怖くなりましたか? 彼らは、それを放棄したのです。
あなたは許せないでいる限り、自分の創造性を決して充分には発揮できません。あなたの一部が、あなたがまだ許していないことについて考えているからです。あなたは、そんな状態のまま生きていたいと思いますか? そんなことをして、何になるのでしょう?
許しと調和は手に手を取って歩いています。あなたが誰かを許したとき、あなたとその人物との間に立ちはだかるものは何ひとつなくなるのです。たとえ、あなたが許した相手が、あなたを好きでなかったとしても、それによってあなたは、余分なスーツケース(重荷)を手放すことができます。以後あなたは、とても身軽に旅ができるようになります。
あなたは調和を体験しているとき、とても陽気です。とても楽しく人々と接することができます。許すことは、その喜びへの扉を開くことであり、許さないことは、それを妨げることです。
周囲の人たちとの調和のみが、調和ではありません。あなたはいま、あなた自身と調和しているでしょうか? あなた自身の一部が、あなたを怖がらせたり、怒らせたりしてはいないでしょうか? もしそうしているとしたら、あなたは、自分のそういった部分を許すことができるでしょうか?
「魂をめぐる物語」ゲーリー・ズーカフ著より
思考は最初の原因ではない [ライフレッスン]
時間が重要でなく、時間が問題でなければ(そういうことはほとんどないのだが)、あなたが選んだ経験をするまでに、どれほど時間がかかろうとも構わないなら、いくらでも好きなだけ時間をかけて「考え」ればいい。
思考は非常に強力な道具だ。そこを誤解しないように。
思考は創造の三つ(思考・言葉・行為)の道具のひとつだからね。
霊的なマスターはすべて理性の外にいる。
つまり、自分はどんな存在かと意識的に考えたりしない。
ただ、シンプルに存在する。
そうであるかどうかと考える瞬間は、そうではありえない。
考えは存在を遅らせる。あるいは否定するだけだ。
効果的で、効率的で、迅速に創造するのは潜在意識ではなく、超絶意識だ。
超絶意識とは、潜在意識、意識、超意識がひとつになり、それを超えたときの経験の段階に与えられる名称だ。
そこは思考を超える場だ。あなたがたの真の状態であり、その真の状態こそが真のあなただ。
そこでは思考に乱されることも、動かされることも、影響されることもない。
思考は最初の原因ではない、真の存在が最初の原因だ。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
自分を宣言する [ライフレッスン]
最も強力な宣言のかたちは「わたしは … である」という言葉だ。
あなたの宣言は、あなたの状態への近道だ。宣言は真のあなたを呼び出す。
もっと正確に言えば、真のあなたの中の、あなたが今経験したいと思う部分を呼び出す。
これが、思考より存在の方がさらに創造的だということだ。
存在は最も迅速な創造方法だ。
なぜなら、こうであるということは、たった今そうだ、ということだから。
存在の本当の宣言は、考えずに行われる。
考えるのには時間がかかるが、存在には時間がかからないからだ。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
経験を選択する [ライフレッスン]
考えても、あなたはすべてを創造するのではない。
すべてに手を差し伸べて、その中から選んだ経験を創造する。
すべてはそこに存在する。あなたが考えることで、存在させるのではない。
だが、考えることで、そのすべての中から自分が考えた経験を引き出す。
あなたの真の存在、真のあなたがすべてに先立って在る。
今どんな自分でありたいかを考えたとき、あなたは真の自分、全的な自己に手を差し伸べて、真の自分の中から経験したいと思った部分に焦点を合わせる。
「思考」は「存在」に影響するか? いや。大きな意味ではしない。
あなたはあなたであり、どんなふうに考えようと変らない。
だが、思考はあなたの存在の異なった経験を創造できるか?
それはイエスだ。
あなたが考えたこと、焦点を合わせたことは、個々の現実として現れる。
だから、悲しいときに前向きな楽しいことを考えれば、容易に「考えることで道をひらいて」幸せになれる。
自己のある部分から別の部分に移動できるだけなのだよ!
あなたは望むとおりの状態に移動できる。
つまり、真の自分のどの部分でも呼び出せる。
いつでも、すぐに。そうであることを知って、そうであると宣言すればいい。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
筋書きは完璧 [ライフレッスン]
筋書きは完璧だ。人生で起こることに、偶然はない。いっさいない。
人生でたまたま何かが起こるということは、ない。いっさいない。
どんなことも、本当に、いつまでもあなたのためになる機会を与えるために起こっている。
すべてがそうだ。すべての瞬間の完璧さは、あなたには、わからないかもしれない。
だからといって、完璧さが損なわれるわけではない。贈り物が損なわれるわけではない。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
魔法の問いかけ [ライフレッスン]
魔法の問いかけは二つある。
正しいときにその問いかけをすれば、あなたの進化は想像もできないほど、速まる。
その問いかけとは、
―― これが私か?
―― 愛なら、いまどうするか?
岐路に立ったとき、いつでもこの質問をして答えれば、あなたは「新しい福音」の生徒から教師へと成長するだろう。
習慣になったふるまいや、染みついた性格を変えるには、簡単な質問をすればいい。
「これが私か?」
それは、自分への最も大切な問いかけだ。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
神との友情 [ライフレッスン]
真の友情とは、役立つもののことだ。
壊れるのが怖くて使えない高価な陶器とはちがう。
真の友情とは、割れにくい陶器のようなものだ。いくら使っても壊れはしない。
友達は真実を告げる。友達はありのままを語る。
友達は媚びたり、あなたが聞きたがっていると思うことだけを言ったりはしない。
だが、友達は真実を告げた後、あなたまかせにしたりはしない。
友達はいつもそばにいて支え、助け、無条件の愛情を注いでくれる。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
自分を宣言する [ライフレッスン]
誰かを愛することは、自分を愛さなくなることではない。
相手に全面的な自由を認めることは、あなたを虐待する権利を与えることではないし、相手に好きな人生を送らせるために、いやな人生という牢獄に自分自身を閉じ込めることでもない。
全面的な自由を認めるということは、相手にどんな制約も課さないという意味だよ。
相手に制約を課すのではなく、自分自身に制約を課すのだ。
自分がどんな経験を選ぶかを制限するのであって、相手に認める経験を制限するのではない。
この制限は自発的なものだから、本来の意味では制限ではない。それは、自分が何者であるかという宣言だ。創造だ。定義だよ。
あなたは現在というすべての瞬間に、自由に自分を宣言できる。
実際にそうしているのに、気づいていないだけだ。
だが、誰かが何者であるか、何者であるべきかを宣言する自由はない。
愛は決してそんなことはしない。愛のエッセンスである神もしない。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
自分が意味を与えている [ライフレッスン]
何かをすれば、幸せになれるものではない。そう在ればいい。
幸せを「しよう」と思ってはいけない。ただ、幸せで「いる」ことを選びなさい。
あなたの行為のすべては、そこから生じる。そこから誕生する。
あなたの「在り方」があなたの行為を生み出す。
そのことを、いつも忘れないように。
何を意味するのかは、自分が決めるのだよ!
あなたが意味を与えるのだ。
あなたが決めるまでは何の意味もない、そのことを覚えておきなさい。
何事も、何の意味も持っていない。あなたの「在り方」から、意味が生じる。
どんなときでも、幸せでいることを選ぶのはあなただ。
あるいは悲しんでいることを選ぶのもあなただ。
怒っていること、穏やかでいること、寛容であること、悟りを開いていること、何でも選べる。
あなたが選ぶのだ。あなたが。あなたの外にある何かではない。
しかも、あなたは好きなように選べる。それが、偉大な秘密だ。
あなたがたのまわりの世界は、あなたがたが考えているとおりの世界なのだ。
あなたがたが考えている世界とは、いま、まわりに見える世界だ。
あなたが考えている人生とは、いま。あなたが見ている人生だ。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
感情という反応 [ライフレッスン]
どの瞬間にも、あなたは何らかの状態で「いる」と言っている。どんな状態に「いる」のかを正確に教えてくれるのが感情だ。
感情は嘘をつかない。嘘のつき方を知らないのだ。感情は、その瞬間のあなたの状態を正確に伝える。感情を変えるには、ただ、自分の「在り方」を変えればいい。
感情は自分の在り方への反応だ。在り方はコントロールできる。ここで説明しているのは、そういうことだよ。
「在り方」とはあなたが自分を置く状態であって、反応ではない。感情は反応だが、「在り方」はちがう。あなたの感情はあなたの在り方にたいする反応だが、あなたの在り方は何に対する反応でもない。選択だ。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
自分の魂を知る [ライフレッスン]
私は言った。「本当に神を知るためには、精神(理性)から脱する必要がある」と。
理性の旅を通じてではなく、あなたの心の道を通って私のところへ来なさい。理性では、決して私は見つからない。
言い換えれば、私のことを考えてばかりいたら、私を知ることはできない。あなたの考えには、神についてのそれまでの思い以上のものはないからだ。現実の私が見つかるのは、それまでの思いの中ではなくて、現在の瞬間の体験の中だから。
こう考えてごらん。理性には過去があり、身体には現在があり、魂には未来がある。
もういちど、言い換えようか。理性は分析し記憶するし、身体は体験し感じるが、魂は観察して知る。神について覚えていることを取り出したければ、理性を探せばいい。神について感じていることを取り出したければ、身体を探せばいい。神について知っていることを取り出したければ、魂を探すことだ。
私を知りたければ、あなた自身の魂を本当に知ればいい。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
理性という幻想 [ライフレッスン]
あなたがたは考えることで創造しようとする。前にも言ったように、それも可能だ。
だが、ここで新しいことを話してあげよう。思考というのは最も遅い創造方法なのだ。
覚えているかな。理性が創造するためにはデータが必要だ。だが、存在するにはデータはいらない。なぜなら、データとは幻想だからだ。存在するものではなく、あなたがつくりあげるものだからだ。
幻想ではなく、存在するものから創造するように務めなさい。理性の状態からではなく、存在の状態から創造しなさい。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
理性から離れる [ライフレッスン]
あなたはいつも考えていた。しばらくは考えない努力をしてごらん!
ただ、存在しようとしてごらん。
考えるときよりも、問題と一緒に「在る」とき、偉大な洞察が生まれる。思考は創造のプロセスだが、存在というのは「気づきの状態」だからだ。
気づいているというのは、ある状態だ。だから、何かについて困ったり、迷ったりしたら、そのことで頭を悩ませてはいけない。問題があるとき、それに心をわずらわせてはいけない。否定的なもの、否定的な力、否定的な感情に取り巻かれていたら、そのことを理性で考えてはいけない。
それについて、「理性で考え」れば、従属してしまう! わかるかな? 理性で考えているとき、支配されてしまう。親を気にする子供になってはいけない。理性から離れなさい。
あなたは人間、人間である存在(human being)であって、人間である理性(human mind)ではないことを忘れないように。
だから、「在る」状態に移りなさい。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
自由でいること [ライフレッスン]
マスターは好きなように選択する自由を自分に与える。そして、愛する者にも同じ自由を与える。自由は基本的な概念で、あらゆる場所の生命をつくりあげるものだ。なぜなら自由は神の基本だから。
自由を抑制し、制約し、侵害し、損なうすべてのシステムは、生命そのものを妨げる。
自由は人間の魂の目的ではなく、魂の性質そのものだ。魂はもともと自由なのだ。自由の喪失は、魂のその性質を踏みにじる。
本当に進んだ社会では、自由は権利として認められているのではなく事実だ。与えられるものではなく、そう「在る」ものだ。自由は与えられるものではなく、あたりまえのものだ。
本当に進んだ社会では、すべての存在が自由に愛し合い、その瞬間、瞬間に、適切な、嘘のない真実の方法で互いへの愛を自由に表現し、堂々と見せている。
どの瞬間に何が適切かを決めるのは、愛している当人たちだ。誰を、いつ、どこで、どんなふうに愛さないか、法律も社会的タブーも宗教的制約も心理的障害も民族的習慣も、言わず語らずのうちのルールも規制もない。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
自分の方法でしか愛を受け取れない [ライフレッスン]
あなたは自分の愛を与えるやり方でしか、人の愛を受け取れない。
相手は好きなようにあなたを愛することができる。
あなたは、自分の方法でしか、その愛を受け取れない。
他者にさせてやらない体験を、自分がすることはできない。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
直感が教えてくれる [ライフレッスン]
人生で一番重要な言葉の多くは直感的だ。なぜ真実かがわかる前に、とにかく真実だとわかる。
証拠や証明や理屈や理由などといった、真実かどうかを、したがって、重要かどうかを決定するときに使う道具を超えた深い理解から生じる。
ときには、響きだけで重要だとわかることがある。「真実の響き」があるからだ。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
愛と必要性 [ライフレッスン]
むずかしいのは、ほとんどの人々が愛と必要性を混同していることだ。この二つの言葉、二つの経験は同じもので、入れ替わりうると思っている。
だが、そうではない。誰かを愛することと、その人を必要とすることとは、何の関係もない。
誰かを愛し、同時に必要とすることはあっても、必要だから愛するということはない。必要だから愛するなら、それは相手を愛しているのではなくて、相手が与えてくれるものを愛しているのだ。
何かを与えてくれようとくれまいと相手自身を愛するなら、そのときは本当に相手を愛している。
何も必要としないなら、本当の愛だ。
思い出してごらん。愛は無条件、無際限で、何も必要としない。私はそんなふうにあなたがたを愛している。だが、あなたがたは、そんな愛を受け取ることを想像できない。そんな愛を想像できないからだ。それがこの世界の悲しいところだ。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
それがあなたの愛なのか? [ライフレッスン]
愛する者が誰かの腕の中に抱かれていても自分の平安を失わないのは、成長のしるしだ。それで自分の人生を破壊しないこと。そのために人生に終止符を打たないこと。そのために相手を殺さないこと。
人間はそういうことをしてきたからね。いまでさえ、そのために相手を殺す者はいるし、多くの人はそのために自分の愛を殺している。
他の誰かを愛していたら、あなたを愛していないことになるのかな?
真実の愛であるためには、あなただけを愛さなければならないのか?
それがあなたがたの愛なのか?
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
嫉妬を退治する [ライフレッスン]
嫉妬につきまとわれた愛は、私の愛し方ではないが、あなたがたはそれが私の愛だと思っている。そういうふうに、私を愛してきたからだ。
お互いへの愛もそうだから、命取りになる。文字通りの意味でだよ。あなたがたがお互いを、あるいは自分たち自身を、嫉妬のゆえに殺してきたのはよく知られている。
誰かを愛したとき、あなたがたは相手が自分を、自分だけを愛さなければならないと言う。相手が他のものを愛したら嫉妬する。それだけではない。他のものに嫉妬するだけではなく、仕事にも、趣味にも、子供にも、愛する相手の関心を自分からそらすすべてに嫉妬する。なかには犬に嫉妬したり、ゴルフに嫉妬したりする者もある。
嫉妬は、様々な形をとる。さまざまな顔を持つ。どれひとつとして、美しくない。
幸せを左右するのは自分の外にある何かだと考えるのをやめなさい。そうすれば嫉妬を退治できる。
愛とは何かを与える代わりに得られるものだと考えるのをやめなさい。そうすれば嫉妬を退治できる。
人の時間やエネルギーや資源や愛を要求するのをやめなさい。そうすれば嫉妬は退治できる。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より