愛は自由を与える [ライフレッスン]
あなたがたの宗教は、私が何でもする自由を与え、好きなように選択させると語る。
だが、もう一度聞こう。私がさせたくない選択をした場合には果てしなく苛(さいな)み、永遠の罰を与えるとしたら、自由を与えたことになるだろうか?
あなたがたは好きなように選択できるが、しかし自由ではない。結果を心配しなければならないなら、自由ではない。もちろん、あなたがたはみな、心配している。
だからあなたがたは、私があなたがたに天国で報償を与えるのと引き換えに、私のやり方に従うことを期待するはずだと考えた。それで、人間同士でも同じ期待をし、それを愛と呼ぶ。
だが、どちらも愛ではない。愛は自由が提供するもの以外には何も期待しないし、自由は期待とは無縁だから。
自分がそうあるべきだと想像する在り方を人に要求しなくなれば、期待を捨てることができる。期待などいらなくなる。そのとき、あなたはありのままの相手を愛する。
だが、そのためには、あなた自身があるがままの自分を愛していなければならない。さらにそのためには、ありのままの私を愛していなければならない。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
期待をしない [ライフレッスン]
期待とは、人生で出会う誰かがある方法で行動し、あなたが思うような、あるいはあなたがこうあるべきだと思うような人間として現れると考えることだ。
必要性と同じく、期待も致命的だ。期待は自由を損なうが、自由こそ愛のエッセンスだから。
誰かを愛したときは、相手に自分自身でいる完全な自由を認める。それこそが、最も偉大な贈り物であり、愛は常に最も偉大な贈り物を与えるのだから。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
天国へ戻る道しかない [ライフレッスン]
何かを失うかもしれないという考えほど、愛し合うことを妨げるものはないのだよ。
あなたがたは正しい方法で、正しいときに、正しい理由で私を愛さなければ、私が怒ると教えられてきた。私は嫉妬深い神だと、私が要求する以外のいかなる方法、形式、かたち以外を受け入れないと教えられてきた。これほど真実に遠いことはないのに、あなたがたは真実にまるで気づかなかった。
私が必要なものは何もないから、あなたに何も求めないし、欲しないし、要求しない。あなたがたへの私の愛は、無条件、無際限だ。
正しい方法で愛してもそうでなくても、あなたがたは天国へ戻る。天国に戻らない道などない。ほかに行くところがないからだ。
だから、あなたがたの永遠の生命は確実だし、永遠の報償も保証されている。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
何も必要としない [ライフレッスン]
神は何も必要としないから、あなたがたに何も求めない。
神が何かを必要とするはずがあるだろうか?
神はすべてであり、ありとあらゆるものであり、動かない動かし手であり、あなたがたが、神が必要とすると想像するものすべての源である。
私はすべてを持ち、すべてであり、何も必要としない。
それを理解することが、私を知ることのひとつだ。
あなたがたもまた、何も必要としない。あなたがたが完璧で幸せであるために必要なものは、何もない。必要だと思っているだけだ。
深い完璧な幸せは、自分の内側に見出される。それを見出せば、外にあるものなど比べ物にならないし、それを損なうものは何もない。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
神と取引をする [ライフレッスン]
「必要性」というのは、最も強力な愛の殺し屋だ。だが、あなたがたのほとんどは、愛と必要性の違いを知らず、二つを混同してきたし、いまも毎日混同している。
「必要性」とは、いまは自分のものでない何かが自分の外に存在し、幸せになるにはそれが必要だ、ということだ。それが必要だと信じているから、それを獲得するためには何でもしようと思う。あなたがたは、必要だと思うものを獲得したがる。
ほとんどの人は、必要だと思うものを取引によって手に入れる。すでに持っているものと、欲しいものを交換する。このプロセスを「愛」と呼んでいる。
あなたがたの神は取引をしてきた。
「私を愛するなら、天国に入れてやろう。愛さないなら入れてやらない」
これが神のやり方だと誰かが教えたから、あなたがたもそうするようになったのだ。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
必要性と期待と嫉妬 [ライフレッスン]
<必要性>、<期待>、<嫉妬>、この三つがあったら、真に人を愛することはできない。このうちひとつでも持つ神を愛することはできないし、まして三つあったらとても無理だ。
だが、あなたがたはまさにそういう神を信じている。そのような神でいいと宣言し、自分たちもそれでいいと思ってきた。そういう環境でお互いへの愛を創造し、維持しようとしている。
あなたがたが教えられてきたのは、嫉妬深い神、大きな期待をいだいている神、あなたがたへの愛が報われないと不満で、永遠の罰を与える神だ。こういう教えは、あなたがたの文化の物語の一部になっている。あなたがたの心理にも深く根をおろしているから、退治することは容易ではない。
だが、これを退治するまでは、お互いに真に愛し合うことはできないし、まして私を愛することもできない。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
危険な言葉 [ライフレッスン]
さまざまな文化的神話の中で、なくしたほうがいい神話がひとつあるとしたら、何か魔法のような要因によって、自分たちは他の人間より優れているという考え方だろうね。自分たちのほうが民族として優れている、優れた信仰をもっている、優れた国民だ、優れた政治システムをもっている、すぐれた方法、すぐれた道をとっている、ということだ。
いいかね。あなたがたの文化にこうした考え方を捨てさせられたら、その日に世界を変えられるよ。
「優れている」というのは、一番危険な言葉だ。それより危険なのは、「正しい」という言葉だけだ。この二つはつながりがある。自分の方が優れているから、自分が正しいと考えるのだからね。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
自分を表現する [ライフレッスン]
どれだけ多くの人が、「どうせ自分なんかだめなんだ」という罠や、「自分が認められるはずがない」という思い込みに凝り固まっているか知ったら驚くだろうね。
大事なのは、認められるためではなく、自分を表現するために何かをすることだ。だが、認められたからって、少しも自分が減るわけではない。それどころか、もっと自分を表現したくなる。
真のマスターはそれを知っている。だから、真のマスターはすべての人の真の姿を認めるし、本人にも認めるように促す。そして、謙遜の名のもとに自分の最も素晴らしい側面を否定するようなことは決してしない。イエスは聞く者すべてに、はっきりと自分を表現し、宣言した。地球を歩んだすべてのマスターはみな、そうした。
だから、自分を表現しなさい。自分を宣言しなさい。それから、宣言したとおりの自分になりなさい。いまこの瞬間、瞬間に、真の自分についていだいた最も偉大なヴィジョンの中の、最も壮大なヴァージョンを再創造しなさい。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
すべてが完璧 [ライフレッスン]
真のマスターは、期待とは無縁のところにいる。マスターは「現れるもの」以外は何も期待せず、何も欲しがらない。
自分がすべてをもっていることを知っているから。だから、何が現れようと、喜んで受け入れる。マスターはすべてが完璧だということを、人生は完璧で、その完璧さが現れることを知っている。そいういう状況では、信頼は必要ない。
すべての気づきには三段階ある。希望――信念――知識だ。
何かに「希望」をもっているとき、それが真実で、そうなることを願う。しかし、どんな意味においても確信はない。
何かに「信念」をもっているとき、それが真実で、そうなるだろうと考える。確信はないが、そのはずだと考え、ちがう現実が現れるまでそう思いつづける。
何かを「知って」いるときには、それが真実で、そうなることがはっきりしている。あらゆる意味で確信しているし、ちがう現実が現れてもなお、確信しつづける。あなたは外見で判断しない。真実を知っているから。
特定の何かが完璧なのではなく、起こることすべてが完璧だということだ。あなたが好ましいと思うことではなく、完璧なことが起こる。マスターに近づけば、この二つはひとつになる。何かが起こり、あなたは起こったことを好ましいと思う。起こったことを好ましいと思うから、起こったことが完璧になる。これが「あるがままに、神にまかせる」ということだ。
マスターは常に、起こることを好ましいと思う。あなたも常に、起こることを好ましいと思うようになれば、マスターになる。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
不安と罪悪感 [ライフレッスン]
不安と罪悪感は、人間の唯一の敵だ。
不安と罪悪感を放すには、そうしようと決めればいい。自分で決められることだ。自分についての気持ちを、感じ方を変えればいい。
必要なのは、心と魂と精神の深いところでの決断だけだ。これは私ではない、と決断するだけだ。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
自分自身を創造する [ライフレッスン]
人は自分自身を創造している。多くの人々には、それがわかっていない。自分たちは創造しているのだと思っていない。それどころか、それがすべての「生」の目的だというのを知らない。それを知らないから、すべての決定がどれほど重要で、どれほど影響の大きなものかに気づかない。
あなたがする決定はすべて、何をするかを決めるのではなく、あなたが何者であるかを決める。それがわかり、理解できれば、すべてが変る。人生を新しい目で見るようになる。すべての出来事、事件、状況は、ここに来た目的を遂行するチャンスになる。
真の自分というのは、あなたが「これが私」と言う自分だよ! あなたの人生はあなたの宣言だ。
あなたの選択があなたを決める。すべての行動は、自己を定義する行動だ。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
思い描く自分 [ライフレッスン]
自分は何なのかを見つけるのではなく、創造するのだ。真の自分を「見つける」ことはできない。自分が何なのかを決めるには、ゼロから始めるべきだから。決めるのは、見つけたことを基準にするのではなく、何が好ましいかを基準にするのだから。
これが自分だと思う自分ではなく、こうなりたいと思う自分でありなさい。
いままでのあなたは、「これが自分だと思う」自分だった。
これからは、最高の願いの中で「思い描く」自分になりなさい。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
過去を手放す [ライフレッスン]
いちばん悪いのは、過去を忘れることだ。過去を忘れると、過去が見せてくれたもの、贈り物として与えてくれたものを、すべて忘れることになる。
どうでもいいというふりもしないことだ。どうでもいいどころか、重要だと認めなさい。本当に重要なのだよ。二度と繰り返さないために、重要なのだ。
だが、二度と繰り返すまいと決意したら、過去は手放しなさい。手放すことと忘れることはちがう。
手放すとはしがみつくのをやめること、それがないと溺れるとでもいうように、過去にすがりつくのをやめることだ。しがみついているから、溺れるのだよ。
過去を使って浮かぼうとするのはやめなさい。古い筏(いかだ)は手放して、新しい岸に向かって泳ぎなさい。素晴らしい過去でさえ、しがみついていたのでは何もならない。「昔の栄光に甘んじて」いたら、たちまち成長がとまるよ。
栄光にも失敗にも、とどまらないことだ。再出発しなさい。「いま」という黄金の瞬間に、新たな自分になりなさい。
瞬間に生きる [ライフレッスン]
何よりもまず言いたいのは、あなたはあなたの過去ではない、ということだ。
あなたはあなたの昨日ではない。あなたは昨日したことではないし、昨日言ったことではないし、昨日考えたことではない。
大勢の人が、あなたは昨日のあなただと考えたがるだろう。それどころか、そう言い張るだろう。あなたが昨日のままに見えることに大きな投資をしているからだ。そうすれば、自分が「正しい」と思えるから、あるいは、あなたに「頼れる」から。
あなたのことを「悪い」と思う人は、あなたが変ることを望まない。変らなければ、自分が「正しい」ままでいられるから。あなたへの自分の態度を正当化できるから。
あなたのことを「良い」と思う人は、あなたが変ることを望まない。変わらなければ、「頼れる」から。あなたに頼ろうとする自分を正当化できるから。
だが、あなたは、瞬間に生きればいい。現在の瞬間に、新しい自己を創造すればいい。
そうすれば、自分についての古い考えと自分を、引き離すことができる。古い考えのほとんどは、他の人の考えをもとにできあがっているのだよ。
過去にしたことは、あなたではない。他の人はそう思うかもしれないし、自分自身ですらそう思うかもしれないが、真の自分ではない。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
エゴをもつこと [ライフレッスン]
あなたのエゴは、この幻想を創り出す大きな道具なのだ。残りのすべてと、ばらばらの自己を想像することができる仕掛けだ。あなたの一部が、自分はばらばらな個だと考えるのだ。
あなたは個ではないが、総体であるという体験を理解し、楽しむためには、個別化しなければならない。その意味で、エゴをもつことは「良いこと」だ。あなたが試みていることからみて、「良い」のだよ。
だが、あまりに大きすぎるエゴは、あなたが試みていることから考えると、「良くない」。あなたが試みているのは、ばらばらだという幻想を使って一体である真の自分を体験的に理解し、楽しむことだからね。
エゴをもつことは良いことかどうかは、あなたが何を試みているかによる。エゴを道具として使い、いつか、たったひとつの真実を体験しようというなら、良いことだ。その真実を体験するのをはばむためにエゴが使われるなら、良くない。この世界でしようとすることをはばむから「良くない」。
だが、この世界で何をするかは、いつだって自由に選べる。全体の一部としての自己を体験しない方が楽しいなら、いまは体験しないという選択ができる。
ばらばらであるのに飽き、幻想に飽きたら、孤独や苦痛に飽きたら、あなたは我が家へ戻りたくなるだろう。そして、私がいつも(always)そこにいることを知るだろう。私がいつも(always)そこにいたことを知るだろう。
あらゆる道に(all ways)いることを。
エゴというのは、自分が考えている自分だ。真の自分とは何の関係もない。
「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著より
相対的な世界 [ライフレッスン]
あなたが相対的な世界――私が相対性の領域と呼ぶところ――に入ったのは、絶対の領域では経験できないことを経験するためだ。あなたが体験したがっているのは真の自分だ。だが、絶対の領域では、真の自分を知っていても体験できない。魂の望みは体験して知ることだ。絶対の領域では自分のどの面も体験できないのは、そこには自分ではない面がないからだ。
絶対というのはそういうことだ。絶対なのだよ。あらゆるもののすべてだ。アルファでありオメガで、その間は何もない。「絶対」には段階がない。ものごとに段階があるのは、相対性の中だけだ。相対性の領域は、あなたが素晴らしい自己を体験的に知ることが出きるようにと創り出された。絶対の領域ではすべてが素晴らしいから、素晴らしいということも「ない」。つまり、体験できないのだ。体験的に知ることができない。なぜなら、素晴らしくないものがないところで、素晴らしいということは体験できない。
じつは、あなたはすべてと一体なのだ。それがあなたの素晴らしさだ! だが、すべてと一体である素晴らしさは、すべてと一体である間は知ることができない。だから、すべてと一体であることは何の意味もない。あなたはたんに「あなた」であり、その素晴らしさを体験できない。
すべてと一体である素晴らしさを唯一、体験できるのは、すべてと一体ではないという状況、あるいは状態だ。だが、絶対の領域ではすべてが一体だから――それが究極の現実だから――すべてと一体でないものはありえない。
しかし、すべてと一体ではないという幻想は可能だ。その幻想のために、相対性の領域が創り出されたのだ。「不思議の国のアリス」のようなものだね。そこでは、ものごとは見かけとはちがうし、みかけは真実ではない。
※ 今回から私の愛読書である<神との対話シリーズ>から、「神との友情」ニール・ドナルド・ウォルシュ著から言葉を紹介します。<神>という言葉自体にアレルギー反応を示す人が多いのですが(^^)、存在するのかしないのか?というのが問題なのではなく、語っている内容について私たちはどう思うのか?が大切だと思います。
知るためにいる [ライフレッスン]
我々は、ただ生き残り、長生きするためにここにいるのではない。
あらゆる局面から人生を生き、知るためにここにいる。
そしてまた、人生を豊かさと多様性を知るためにここにいるのだ。
多面的に生き、すべての可能性を探求し、
どんな挑戦にもひるまずに立ち向かい、
それを歓迎し、必要なときに立ち上がれば、
人生は炎となり、開花するのだ。
<バグワン・シュリ・ラジニシ>
「聖なる知恵の言葉」 スーザン・ヘイワード著より