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部族社会と大きな社会
雇用問題の本質は「市場原理主義」でも「階級闘争」でもない。戦後しばらく日本社会の中核的な中間集団だった企業の求心力が弱まり、社会がモナド的個人に分解されていることだ。それは農村共同体が解体して社会不安が強まった1930年代の状況と似ている。今度は軍国主義が出てくることはないだろうが、こういうとき警戒すべきなのは、かつての青年将校のような短絡的な「正義の味方」である。
このような伝統的コミュニティの崩壊は、近代化の中では避けられない過程で、多くの人々がそれを論じてきた。これをもっとも肯定的に論じたのは、マルクス・エンゲルスだった。
ハイエクは、世間の「保守派」というイメージとは逆に、イギリスの保守党の崇拝する「伝統」を既得権の別名だとし、そうした部族社会の道徳を批判した。彼が近代社会をGreat Societyと呼んだのは、ローカルな部族社会の道徳とは異なる普遍的な法の支配の成立する「大きな社会」という意味である。
このように事実認識としては、マルクスとハイエクはよく似ている。マルクスは間違っていたようにみえるが、いわゆる社会主義諸国で実現されたのはレーニンの国家社会主義で、マルクス自身が考えていた労働者管理による「アソシエーション」の可能性は残されているという解釈もある。しかし柄谷行人氏のNAMが漫画的な結末に終わったように、そういうユートピア的原理で大きな社会を維持することはできない。
ハイエクが見抜いたように、大きな社会を維持するシステムとして唯一それなりに機能しているのが、価格メカニズムである。それは富を増大させるという点では人類の歴史に類をみない成功を収めたが、所得が増える代わりにストレスも増え、生活は不安定になり、そして人々は絶対的に孤独になった。会社という共同体を奪われた老人はコミュニケーションに飢え、派遣の若者はケータイやネットカフェで飢餓を満たす。
マルクスとハイエクがともに見逃したのは、伝統的な部族社会がコミュニケーションの媒体だったという側面だ。正月に郷里に帰ると、東京では出会ったこともない人々の暖かい思いやりにほっとするが、それをになっているのは70代以上の老人だ。やがて日本からこうした親密な共同体は消え、「強い個人」を建て前にした社会になってゆくだろう。それが不可避で不可逆だというマルクスとハイエクの予言は正しいのだが、人々がそれによって幸福になるかどうかはわからない。
このような伝統的コミュニティの崩壊は、近代化の中では避けられない過程で、多くの人々がそれを論じてきた。これをもっとも肯定的に論じたのは、マルクス・エンゲルスだった。
遠い昔からの民族的な産業は破壊されてしまい、またなおも毎日破壊されている。これを押しのけるものはあたらしい産業であり、それを採用するかどうかはすべての文明国民の死活問題となる。[・・・]昔は地方的、民族的に自足し、まとまっていたのに対して、それに代わってあらゆる方面との交易、民族相互のあらゆる面にわたる依存関係があらわれる。(『共産党宣言』岩波文庫版p.44)これが書かれたのは1848年だが、彼らの予言は早すぎた。「民族的な産業」が破壊されてグローバルな「民族相互の依存関係」に置き換えられる変化は、まだ始まったばかりである。雇用規制の強化は海外生産を促進し、この変化を(よくも悪くも)加速するだろう。マルクスはこの変化を肯定し、資本主義が封建的な土地所有や伝統的な共同体を破壊して全世界をおおいつくした先に、労働者のインターナショナルがそれを奪取する世界革命を展望した。
ハイエクは、世間の「保守派」というイメージとは逆に、イギリスの保守党の崇拝する「伝統」を既得権の別名だとし、そうした部族社会の道徳を批判した。彼が近代社会をGreat Societyと呼んだのは、ローカルな部族社会の道徳とは異なる普遍的な法の支配の成立する「大きな社会」という意味である。
このように事実認識としては、マルクスとハイエクはよく似ている。マルクスは間違っていたようにみえるが、いわゆる社会主義諸国で実現されたのはレーニンの国家社会主義で、マルクス自身が考えていた労働者管理による「アソシエーション」の可能性は残されているという解釈もある。しかし柄谷行人氏のNAMが漫画的な結末に終わったように、そういうユートピア的原理で大きな社会を維持することはできない。
ハイエクが見抜いたように、大きな社会を維持するシステムとして唯一それなりに機能しているのが、価格メカニズムである。それは富を増大させるという点では人類の歴史に類をみない成功を収めたが、所得が増える代わりにストレスも増え、生活は不安定になり、そして人々は絶対的に孤独になった。会社という共同体を奪われた老人はコミュニケーションに飢え、派遣の若者はケータイやネットカフェで飢餓を満たす。
マルクスとハイエクがともに見逃したのは、伝統的な部族社会がコミュニケーションの媒体だったという側面だ。正月に郷里に帰ると、東京では出会ったこともない人々の暖かい思いやりにほっとするが、それをになっているのは70代以上の老人だ。やがて日本からこうした親密な共同体は消え、「強い個人」を建て前にした社会になってゆくだろう。それが不可避で不可逆だというマルクスとハイエクの予言は正しいのだが、人々がそれによって幸福になるかどうかはわからない。
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お金の量(個人収入)にもよると思いますけれども、
生活の自己完結が出来る範囲が大きくなって来ると、
地域と言うコミニュティーが不要になったように、
更に進んでしまうと、
会社の仲間とか言う考えも無くなるし、
その子供も学校で友達を必要としない様な、
コミニュケーション自体を
必要としない世の中になって行くようで、
冷たい社会を想像してしまいました。
<またこのような不況対策としての雇用の流動化論は、今日の非正規労働者の膨大な増加にも現れているが、単に経済・社会的な交渉力に劣るアウトサイダーたちの立場を真っ先に悪化させるだけである(短期雇用の促進)>
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090107#p3
「桜プロジェクト」の司会者と同じことを言ってるのが笑えますね。「アウトサイダー」として「短期雇用」される人しか見ていない。まったく雇用されない失業者を除外して、いま雇用されている人の「待遇悪化」だけをいいつのるのが既得権のレトリックだ、というのが八代尚宏氏の指摘ですが、だまされやすいのは映画評論家も「不謹慎な自称エコノミスト」も同じらしい。
解雇規制は長期の「自然失業率」を変えるもので、「短期」の問題ではない。長期と短期の区別もしないで、日銀が通貨を無限にばらまけばすべての経済問題は一挙に解決するという信仰は、ほとんどレーニン主義です。恐い恐い。
以前に池田先生も記述していらしたと記憶しておりますが、市場経済は「強い個人」という前提のうえにこそ発展すると思います。
そして、この市場経済による強い個人の強制は、人間から「人間らしい人間味」のようなものを奪うものであると考えます。
であれば、「人間味」を奪われた人間が、心のよりどころにするものが、宗教であったり、ご指摘のようなトライバルなコミュニケーションではないでしょうか。なぜなら、本質的に人間は強くはあれないからです。
市場経済が今後さらに、人間に対して「強い個人」を求めるという方向性については強く同意できますが、そうであれば一方で「人間味」を奪回する動きも強まるはずです。
いまや、それが宗教にも、伝統的なムラ社会にも、終身雇用的な企業社会にすら求められないとなったときに、その動きがどこに向かうのか。ケータイSNSの隆盛はまさにそういうことなのかもしれませんが、そういった動きに対応する新しい産業の可能性はまだあるのか、というのは面白いテーマだと思っています。
経済的調整は、なんらかのバランスシートを単位にして行われるが、主だった単位は国家、企業、家計であり、どれも地域的属性が乏しい。
これでは、大きな経済調整があると、地理空間に縛られた伝統的な共同体のコミュニケーションは破綻する。
ここにもし今よりももっと自律性のある自治体というバランスシートがあるとすると、家計は企業と自治体の両方に依存する形になり、多少は緩和される。
また今後日本の多くの家計は年金に依存した家計になるので、経済調整の影響は間接的になるだろう。
経済調整をどのように吸収するか、その緩衝機能をうまく構想する必要がある。
あれこれ理論を構築することも事後にそれを立証することも可能だが、それは人類の行く末を見通すだけであって人々の幸福そのものには寄与しない。
ノーベル賞に数学賞が無いことは周知だがスウェーデン銀行賞もなくしてはどうか。
その点をネットは解消したと思っています。名無しで書き込めば、その発言の内容に対してのレスポンスはありますが、自分の出自や見た目などの要素で批判されたりはじかれたりしないですから、その点は安心です。
今後対面コミュニケーションがさらに活発化していこうとするなら、こういう日本人の姿勢を見直す必要があると私は思います。
P.S 上記池田さんのコメントで取り上げられているブログ内でさらに反論が追記されていました。すさまじい敵対心にビックリします…
てなことを自分の卒エッセイ(?)にて考察しましたが、中途半端に規制緩和されている現状でさえそうなのだから、不可逆で不可避の流れが加速すれば、受け皿としての役割は良くも悪くも大きくなるのではないかと思います。
尤も、あのテのものは心の在りようを重視するので、物理的な衣食住に窮している貧困層には届かないと思いますが・・
私のネタは「幻想の未来」講談社学術文庫なのでお読みあれ。岸田氏は処方箋はなにも提示していないが、無用な葛藤に惑らわされなくて済む。
岸田氏は人間は本能を失った動物であり、「自我」がなくては生きていくことができないとする。自我は何かに支えられなくてならず、自立できない。欧米人は「対神恐怖」の自我であり、日本人は「対人恐怖」である。池田先生の言われるとおり、コミュニティーに支えられている。世間が基準であり、外と内を使い分けする。欧米人はこれを偽善とする。欧米人が自立していると見えるのは神に対して、善、愛などのポジティブな自己放棄衝動が向けられ、神以外には自己の欲望などの自己拡大衝動が向けられる。日本人が欧米人のような「強い個人」になるには文化、歴史、伝統、宗教を塗り替えなくてはならず、できない相談である。上記書は薄い本だが、小生には短く要約できる能力はない。どだい友情、愛など普遍的と思える概念ですら、全く異なることを指摘している濃密な書である。しょせん自分は自分でしかないことから出発するしかないのではないかしら。マルクスのことは分からないが神のない世界で自我をどう支えるか欧米的文脈で述べたのではないか。そうだとするなら、日本人はそれなりの読み替えをするしかないのではないか。
これは先生がおっしゃる「コミュニケーションの媒体」を「強い個人」に成り得ない人々が求めた結果のように思いました。
そう言う意味では、今後の世界では良かれ悪しかれ「宗教的」な「コミュニケーションの媒体」が補完していく事になるように感じます。
キリスト教もイスラム教も初期の様子は部族的なコミュニケーションからはじかれた人々のものでしたから。日本では日蓮宗系がそれに近いでしょうか。
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