慰安婦

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慰安婦(いあんふ)とは日中戦争太平洋戦争朝鮮戦争[1][2][3][4]及び韓米軍事合同訓練[5]並びにアメリカ軍[6][7][5]連合軍[8]及び国連軍[6]の駐留時などに、当時の戦地、訓練地、駐留アメリカ軍基地の周りの基地村(기지촌)[5]などに設置された慰安所と呼ばれた施設で旧日本軍韓国軍[1][2][7]やアメリカ軍[6][7]や国連軍[6]軍人に対して、性的サービスを行っていた婦女の総称である。

慰安婦は制度としては、軍相手の「管理売春」という商行為であったが、実態については、慰安婦達に報酬が払われていたとはいえ過酷な性労働を強いた性的な奴隷に等しいとする主張もあり、旧日本軍のケースでは慰安婦を強制連行したのか否か、強制的なものであったか等の点に疑問が呈されており、日本の国としての責任や女性の人権などの観点をめぐって、今日まで、政治的・社会的に大きな議論を呼ぶ問題となっている。

韓国のケースでは韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている[9][1][2][10]。朝鮮戦争中に韓国軍に逮捕された北朝鮮人女性達は強制的に慰安婦されることもあった[4]。さらに韓国軍の北派工作員は北朝鮮で拉致強姦により慰安婦をおいていた[2]1990年代の韓国では、アメリカ軍基地の近くで韓国人業者によりフィリピン人女性達が売春を強制されていた[11]。1990年代中ごろから2002年までに5000人ものロシア人やフィリピン人女性達が韓国に密入国させられた上で売春を強制させられていた[11]2000年代の韓国では、韓国軍相手の女性達の90%がフィリピン人やロシア人女性などの外国人であるとされている[10]

日本政府としては、1994年8月31日村山富市内閣総理大臣は元慰安婦に対して謝罪の談話を出している[12]。また、1996年には橋本龍太郎内閣総理大臣は元慰安婦に対して謝罪の手紙を出している[13]。同時に、サンフランシスコ平和条約二国間の平和条約及び諸条約(日韓基本条約など)で法的に解決済みであることを明らかにしている[13]。しかしながら、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとの認識のもと、道義的責任の観点から、アジア女性基金の事業への協力、元慰安婦に対する医療・福祉支援事業に対し資金拠出などを行った[13]。1997年1月よりアジア女性基金は償い金の給付と医療福祉援助を行った[14]

韓国政府としては、1998年に韓国人慰安婦へのアジア女性基金からの償い金の額に相当する生活支援金を支給するとして、償い金受け取りは認めない方針を示した[14]。これに対して日本側は医療施設建設など事業転換を提案したが、1999年6月に韓国政府は改めて拒否を通告した[14]。これにより韓国では旧日本軍の慰安婦とされる女性には政府から支援金が支給されている[14][15]。一方、アメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達は謝罪と補償を求めていが[9][15]、アメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達は自発的な売春婦であるとして謝罪も補償も一切ない[15]。アメリカ軍相手の売春を韓国政府やアメリカ人により1980年代まで強制されていた女性達が韓国政府の日本に対する絶え間ない賠償要求は韓国自身の歴史に対する欺瞞であると訴えている[9]

2007年7月30日アメリカ合衆国議会は日本政府によって日本軍のために、いまだかつてないほどの残酷さと規模であった20世紀最大の人身売買により性奴隷にされた慰安婦とされる女性達への公式な謝罪、歴史的責任、あらゆる異論に対する明確な論破及び将来の世代にわたっての教育をすることを日本政府に要求するとしたアメリカ合衆国下院121号決議を出した[16]。アメリカ合衆国の動きを受けて、9月20日オーストラリア上院慰安婦問題和解提言決議11月20日オランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議11月28日カナダ下院慰安婦問題謝罪要求決議サンフランシスコ講和条約締結国から次々に日本のみを対象とする決議が出されている。これらの諸国は朝鮮戦争に国連軍としても参加している。

目次

慰安婦の概要

呼称

当時の呼称

当時女性達は、「慰安婦(위안부[5])」という呼称が用いられていた。当時の文献によると、「慰安婦」という呼称のほかに「(料理店の店員を名目として)酌婦」「(慰安所)従業婦」「(慰安所)稼業婦」「醜業婦(売春婦)」などという呼称[17]が存在していた。また現地の軍人は、慰安婦のことを「ピー」、慰安所のことを「ピー屋」」(prostitute 娼婦の頭文字[7])と呼んでいたとも言われている。[18][19]慰安所に限らないが「娘子軍(=からゆき=海外出稼ぎ娼婦)」という言い方も多い。また、海軍では「特要員」の名の下に戦地に送られたとも言われている[20][21]韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』には「固定式慰安所-特殊慰安隊」とあり、朝鮮戦争中は「特殊慰安隊[1][2][8][4][または「第5種補給品[1][7]とも呼ばれていた。朝鮮戦争後は「美軍慰安婦[6]洋パン(ヤン・セクシ)」[7]洋姫(ヤン・コンジュ)」[7]挺身隊(정신대)」[5]とも呼ばれていた。

「慰安婦」か「従軍慰安婦」か

1980年代以降、旧日本軍が戦地の女性を慰安婦にするため、強制連行したという主張がなされ、社会問題となった当初は、千田夏光が自著の題名を自身の造語である『従軍慰安婦』(双葉社 1973年)としたことの影響もあり、日本軍の慰安婦は「従軍慰安婦」と呼ばれることが多かった。しかし、“従軍”という言葉を巡り、慰安婦は旧日本軍による強制ではなかったとする立場から「旧日本軍が強制連行した証拠はない」、「当時、『従軍慰安婦』という言葉はなく、『慰安婦』と呼ばれていた」という主張や、また強制であったとする立場においても、女性団体などから「従軍という言葉は自発的なニュアンスを感じさせる」との批判や抗議などがなされた[22]。そのため近年、マスメディアの報道では概ね「慰安婦」という呼称が用いられるようになったが、現在でも一部に「従軍慰安婦」という呼称が用いられる例がある。

海外における呼称

韓国では、慰安婦問題が起こった当初から、「女子挺身隊」との混同から呼ばれてきた「挺身隊정신대)」という呼称が一般に定着している[23][24],第12章 「七つの争点」][25]。なお、アメリカ軍相手の慰安婦は韓国警察や韓国公務員により挺身隊とも呼ばれていた[5]
慰安婦問題の代表的団体である「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」は「従軍慰安婦という言葉は正しい表現ではない」とし、「日本軍慰安婦」と呼んでいる。[26]
英語圏では、「慰安婦」を直訳した“Comfort Woman”という呼称が用いられている場合が一般的である。しかし近年、慰安婦制度を人権問題や戦争責任問題などとして告発する立場などにおいては、性奴隷の訳語に当たる“Sex Slave[27]の用語が用いられることもある。『ニューヨーク・タイムズ』は日本軍相手の女性達を性奴隷もしくは慰安婦と呼称しているが[28]、アメリカ軍相手の女性達は日本軍の慰安婦とは異なるとして売春婦と呼称している[9]。しかし、アメリカ軍や韓国軍などを相手とした女性達への当時の韓国政府や韓国報道機関による公式呼称は慰安婦である[6][7]

その他の呼称

慰安婦制度に批判的な者の中には、「慰安婦」という言葉は実態を反映していないとして、「日本軍性奴隷」という用語を使用したり、慰安婦を括弧付きで使用している者もいる[29]

総数

  • 日本政府調査(1991年1993年)では、慰安婦の総数を示した資料も、それを推認するに足りる資料もなかったので、総数を確定することは困難であるが、長期かつ広汎に慰安所が設置された数多くの慰安婦が存在したものと認められるとしている[[30], 「いわゆる従軍慰安婦問題について」内閣官房内閣外政審議室(平成5年8月4日)第二(4)]。 もっとも、国内海外を問わず、研究者によってその総数を推定する作業がなされており、様々な説が存する。主要なものとしては、中央大学教授吉見義明は、総数を8万人から20万人と推定したのに対し、日本大学教授秦郁彦は総数2万人程度と推定している。詳細は、以下の経緯を参照。
  • 李榮薫ソウル大学教授によると、1937年に日本軍首脳は兵士150人につき1名の慰安婦を充当せよという指令を出したとしている[7]
  • ニューヨークタイムズによると日本軍慰安婦は20万人であったとしている[28]
  • アメリカ合衆国の歴史教科者『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、最大で30万人もの14-20歳の女性たちを強制的に徴集して性行為を強要したとしている[31]。さらに、「日本軍は慰安婦たちを天皇の贈り物と言いながら兵士などに提供した。慰安婦たちは韓国と台湾、満洲、フィリピンなど東南アジア各国から連れてこられ、80%が韓国出身であった。逃げようとしたり性病にかかると日本兵などによって殺され、戦争が終わるころには兵士などが隠蔽するために慰安婦たちを大挙虐殺した。」などとしている[31]。この歴史教科書は2003年より数千校で100万人以上の学生に使用されている[31]
  • 韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』によると韓国軍慰安婦は1952年における4小隊に限ったケースだけでも89人の慰安婦が204,560回の行為を行わされていたとされる[1][2]
  • 1955年のソウル市警察局によると米軍相手の性売買女性は61,833名であった[8]
  • 1962年の韓国ではアメリカ兵相手の慰安婦として2万名以上が登録されていた[7]

諸説

総数についての諸説

1969年、韓国の日刊紙が挺身隊動員を受けた女性が20万人[32][33][34]、その内、朝鮮人が5~7万と報じる。[35][36]
1973年1974年千田夏光。慰安婦に関する著作の中で、慰安婦35人に対し朝鮮人は1人の比率で計算し、慰安婦8.4万人、朝鮮人が6.5万人と推計[24]。 他に韓国の資料が「挺身隊20万の内、5~7万が慰安婦とされている」ことに言及(慰安婦と挺身隊との混同の始まりとされる)。[37]
1976年、在日朝鮮人作家、金一勉 (キム・イルミョン)。業者が29:1が好ましい数字だと語っていたことから慰安婦17~20万人。内、8、9割が朝鮮人。[24]
1984年、元『東亜日報』編集局長の宋建鎬(ソン・ゴンホ)の「日帝支配下の韓国現代史」で「日本が挺身隊という名目で連行した朝鮮人女性は、ある記録によると20万人で、うち5~7万人が慰安婦として充員された」に変わる(1969年の報道記録からと見られるという)。[35] (業者が貧しい娼婦に声をかけたり、顔役を通じてだまして慰安婦にしたという)。[24]
1993年、「挺身隊研究会」会長の鄭鎮星 (チョン・ジンソン)ソウル大学教授。「8万人から20万人と推定される慰安婦のうち、絶対多数を占めると思われている朝鮮人慰安婦」と書いており(独自根拠不明)[38]詐欺を強制に含めている。
1993年日本大学教授秦郁彦。50:1の比率から、6万、交代して9万(のちに変更)。
1995年1990年代後半、中央大学教授吉見義明上海1939年性病防止のために「陸軍は上から兵100人に1人の「慰安婦」と言われた」ことと、それに現地の軍が独自に(犯罪を含めて)集めた数を加えた数字の範囲で、29:1の比率(交代率2)から8~20万人と推定。[39][24]

(これらの説では当時の下級兵士の回想から、朝鮮人女性が多かったと見ている)

1999年日本大学教授秦郁彦。華南での兵力と慰安婦の比率、慰安所の数、経営上の計算、コンドーム使用量、国内公娼の客と娼妓の比率、どれからしても3万以下が妥当で、交代率をかけずに2万人程度と推定している[24](泰郁彦の計算は、狭義の慰安婦であり、民間の娼婦が別に数千人程度いたと想像している。また、在中国領事館のこの業種全体の統計から、朝鮮人は意外と少ないと見、また南方現地人、中国系の多さを指摘している)。
1996年上海師範大学教授蘇智良(Su Zhiliang)。中国・天津の慰安所研究により、慰安婦の総計を40万人として朝鮮人20万人を引いて中国人と日本人が10万ずつとしていた(のち変更)。
1998年、国連に提出の「マクドゥーガル報告書」の付属文書。20万人以上。朝鮮人14万人が死亡。→根拠 [40]
1999年2003年、再度、上海師範大学教授蘇智良。総数36万~41万人、朝鮮人14万人[40]、強制連行されて慰安婦にされた中国人が20万人に及ぶとしている。[41]
2004年、アジア女性基金では、100:1が妥当な数字とし、マクドゥーガル文書における朝鮮人慰安婦の人数・死亡者数に根拠はないとしている。[40]
2005年4月、北朝鮮の国連代表部金永好書記官がジュネーブの国連人権委員会で、慰安婦の数は20万人で、強制連行された人数は840万人だと主張。この頃の韓国の高等学校の教科書は慰安婦の数を「数十万人」と、「強制的に連れて行かれた」人々を「650万人」と教えている[42]
  • 慰安婦の総数を推定する上で、当時の朝鮮半島の人口、日本軍の総数等が参照される場合があるので、以下に参考として記述する。
全体: 陸軍は慰安施設を、1942年9月頃に400箇所(満州を除く)作ったとされる[43][44]
当時の朝鮮半島の総人口は『朝鮮総督府統計年報 明治42-昭和15年度』によれば約2500万人前後であった。[45]
日本の女子挺身隊の結成率は1944年5月では7%。[33]:内地での公娼は、第二次上海事変以前の1937年の21万をピークに減少し、太平洋戦争初期の1942年には14.5万人になっている。中国(本土)に日本人娼婦約1.2万人の増加(1935年1940年)([24],p30,p48,p399)。
その他 [46][24],p41)。
  • 韓国政府に旧日本軍の元慰安婦として登録されている女性は合計215人で、内88人が亡くなっている(2005年1月現在)。[47]

民族別の内訳

  • 政府の調査においては、慰安婦には、日本人朝鮮人台湾人中国人、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人がいたことが確認されている。
  • 1940年昭和15年)1月時の性病に感染した兵士が相手にした女性の内訳の記録として、日本人26.3%、朝鮮人45.3%、中国人28.4%というデータが残っている。[48]また、同様に1940年(昭和15年)10月時の性病の感染相手の女性別の記録として、日本人16.4%、朝鮮人29.8%、中国人20.7%というデータが残っており、朝鮮人が多くなっている旨の言及も残されている。[49]
  • 吉見義明らは、これらのデータから、慰安婦で最も多いのは朝鮮人であり、これに次いで中国人の割合が多かったと推定している。このような割合は、元慰安婦の証言や、兵士の回想録とも概ね整合している。
  • 一方、渡航目的等を記録した公的な資料等によれば、慰安婦の出身者としては日本人が多かったことも分かっている。秦郁彦は、日本国内の遊郭などから応募した者が40%程度、現地で応募した者が30%。朝鮮人が20%、中国人が10%程度としている。残存している公的な資料に記録されていない場合もあるため、正確な内訳を把握することは困難になっている。

慰安所の設置と背景

士気昂揚はもちろん、戦争という事実に伴う避けることの出来ない弊害を未然に防ぐことができるだけでなく、長時間にわたる報われない戦闘によって後方との行き来が絶えているため、この性に対する思いから起こる生理作用による性格の変化などによって鬱病、その他の支障を招くことを予防するために、本特殊慰安隊を設置させた
陸軍本部軍事監室「後方戦史(人事編)」1956年、148頁[7]

その他、慰安所を中心とした視点と詳細については、「慰安所」の記事を参照。

募集

File:COMFORTAdd.GIF (※軍の関与・強制性、強制連行の有無の点については論争となっている。詳細は論点の節を参照)

  • 1944年に、当時の朝鮮の最大手の新聞『京城日報』(7月26日付)が「慰安婦至急募集」との紹介業者の広告を掲載。300円(京城帝国大学の卒業生の初任給75円の約4倍に当たる)以上の月収と記載されていた。また 朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』(10月27日付)の「軍慰安婦急募集」との紹介業者の広告では行き先は部隊の慰安所であると明記されている。これらの募集の待遇が非常に好条件であることから、慰安婦が強制連行され、悲惨な生活を強いられたとする主張に疑問を投げかけられており、連絡先に朝鮮人らしき名前も見られることから、朝鮮人自体も慰安婦募集に関わっていたことが指摘されている[50]
  • 『京城日報』(1944年7月26日付)「慰安婦至急募集」
    • 年齢 17歳以上23歳まで
    • 勤め先 後方○○隊慰安部
    • 月収 300円以上(前借3000円まで可)
  • 『毎日新報』(1944年10月27日付)「軍慰安婦急募集」
    • 行先 ○○部隊慰安所
    • 応募資格 年齢18歳以上30歳以内身体強健女性
    • 募集期日 10月27日より11月8日
    • 契約及待遇 本人面接後即時決定
    • 募集人員 数十名
    • 希望者 左記場所に至急問議の事
      京城府鍾路区○園町195 朝鮮旅館内光○2645 (許氏)
  • 1992年・1993年の宮澤内閣当時の日本政府の調査報告や「河野談話」においては、「軍当局の要請を受けた慰安所の経営者が、斡旋業者に慰安婦の募集を依頼することが多かった、戦争の拡大とともに慰安婦の必要人数が高まり、業者らが甘言や脅迫等によって集めるケースが数多く、官憲等が直接これに荷担するケースもみられた[[30],1・14頁]」と報告されている。ただし、「軍ないし官憲などの公権力による強制連行」を示す資料はなかったが、総合的に判断した結果、一定の強制性があるとしたものであることが1997年の国会での政府答弁[51][52]や河野洋平元官房長官、や石原信雄元官房副長官などによって明らかにされている。
  • 慰安婦問題の研究者秦郁彦は(女衒と呼ばれる)ブローカーが親または本人と話し合い、慰安所の業者に送ったのであり、業者は日本人と朝鮮人が半々だが、ブローカーは100パーセント朝鮮人だと語っている。[53]
  • 海軍省潜水艦本部勤務を経てペナン島の潜水艦基地司令部に勤務していた井浦祥二郎によれば、軍中央がペナン島に将兵の娯楽ために慰安所を設置することを公然と指示し、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。井浦は「わざわざ女性を戦地にまで連れてきたことをかわいそうだ」と感じ、「そのくらいならば、現地女性を慰安婦として募集した方がよかった」という旨を自著で述べている。[54]
  • 1961年9月14日付け東亜日報には、13日から国連軍相手の慰安婦登録実施と記載されている[6]

現地への輸送

  • 旧日本軍は、業者が慰安婦らを船舶等で現地に送るに際には、彼女らを特別に軍属に準じた取扱いにし、渡航申請に許可を与え、日本政府が身分証明書等の発給を行ったりした。軍の船舶や車両によって戦地に運ばれたケースも少なからずあり、現地に置き去りにされた事例もあったという。[30]
  • 吉見義明によると、地域の状況を問わず、軍の進出に伴い、兵士が存在する地域には慰安所が設置されていったため、慰安婦が前線基地に派遣される場合も多く、そのため、慰安婦が空襲や爆撃の被害を受けたこともあったという。[55][56][57]
  • 朝鮮戦争中は、ドラム缶に女性を一人ずつ押し込んでトラックに積んで前線を移動して回っていた[7]

慰安所の管理・運営

  • 1993年、弁護士の高木健一らが日本政府を訴える元慰安婦を探しにインドネシアを訪ねた模様を紹介したドキュメンタリーで「あの朝鮮人は誰だったろう。全員がいなくなってしまったんです。私たちは無一文で置き去りにされたんです」との証言があり、慰安婦の経営は朝鮮人も行っていたことが明らかになっている。[58]
  • 太平洋戦争の生き残りの兵士として有名になった小野田寛郎1940年前後に、商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた時代に、朝鮮半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いたという。中国江西省南昌の「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業しており、軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒するため、鉄帽を被り、銃と剣を携えた歩哨らが、慰安所の内部まで巡察し、利用者数の記録を確認したという。[18]
  • 韓国軍は直接慰安所を経営することもあり、韓国陸軍本部は特殊慰安隊実績統計表を作成していた[1][2]
  • 韓国軍は部隊長の裁量で、周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士達に補給した[7]
  • 韓国軍によりトラックで最前線まで補給された女性達は、夜になると開店しアメリカ兵も大いに利用した[7]
  • 韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は性病の疑いをもたれると韓国警察によりモンキーハウスと呼ばれる窓に柵のされた施設に留置され強制的に薬を完治するまで飲まされることとなっていた[9]。また、性病に罹患した女性達は治るまでの間は強制的に拘置所に隔離されていたと在韓米軍の性病報告に記録されている[15]。また、病気ではないと証明された場合には犬のようにタグを付けることを強制された[10]
  • 韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は容易に行為の相手から見分けがつき易いように番号札をつけることを強制されていた[9]
  • 韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は韓国政府から特別な講義をしばしば受け、「真の愛国者」や「ドルを稼ぐ妖精」と称賛されていた[10]。また、韓国政府は女性達に韓国を助けるために来た兵士達が満足するように清潔にしなさいと指導した[10]
  • 全斗煥大統領(1980年 - 1988年)による基地コミュニティー浄化キャンペーンが実施されると売春婦とアメリカ兵との関係の発展を目指して、エチケット講義が行われるとともに頻繁に薬物療法が行われるようになった[10]。医師免許を持たない医者達の前で脚を広げることを強制され、抗生物質を打たれて死にいたる女性もいた[10]。女性達が逆らうと彼らに暴力を振るわれて監禁されることとなっていた[10]

生活状況

  • 慰安婦を求める兵士の数と比較して、慰安婦の数は不足気味であった。元慰安婦らの証言によれば、戦況次第では一日に十人以上の兵士との性行為に従事する場合も少なくなかった。そのような場合に慰安婦に拒否する自由はほとんど与えられておらず、体調にかかわらず兵士の相手をしなければならなかった。[59]吉見義明は、慰安婦の状況を「1日数10人などの肉体的に過酷な条件のため、陰部が腫れ上がり、針も通らないようになった」事がたびたび(年数回)あったと書いている。[55]
  • 慰安婦との性行為の際には、主として軍が作成した慰安所規程において、避妊具(当時は、「サック」と呼ばれた)の使用が義務づけられていた[[30]4巻,p293]。ただし、元慰安婦らの中には、慰安所での性行為によって妊娠したと訴えている者も存在する。
  • 慰安婦の多くは故郷から戦地へと派遣されていた場合が多く、そのような場合は、事実上慰安所から逃亡することはほぼ不可能であった。許可制により外出が認められていた場合はあるが[60][61]、多くの場合、軍機密や安全等の必要から制限を課されていた。しかし、ビルマ中部のマンダレーでは経営者の許可証があれば外出でき、セレベス島では原住民慰安婦ばかりで外出自由であったという。また、自らだけの意思で慰安婦を辞めることは事実上不可能であり、辞めることを許されたのは、妊娠後期になったり、精神的疾病を発症して、慰安婦としての任務を遂行できなくなった場合に限られていたのがほとんどであった[55]との報告もあるが、米軍情報部の日本人の慰安所経営者及び慰安婦からの聴き取り調査によれば、北ビルマ(現:ミャンマー)のミートキーナー(ミチナ、Myitkyina)の慰安婦らは、1943年後半、陸軍は借金を返済した女性に帰省を命じ、何人かの女性は韓国へ帰国することをゆるされたという。そこでは個室を与えられており、接客を断る自由もあり、週一日は検診のため休日であり、生活はかなり豊かで町へ買い物に行くこともゆるされ、娯楽やスポーツやパーティを楽しんだりしたという。[62]もっとも反論もあり、他に慰安婦の待遇が良かったという実例記録は見当たらず、これをもって全慰安婦らの生活がすべて良好であったという証拠にはならないという指摘もある(後記)。実際の慰安所での待遇は、各地域と戦況さらに部隊の質によって千差万別であったと推測されている。
  • 1938年から終戦まで七年間の中国北部で兵士を務め、戦後作家になった伊藤桂一は慰安婦達の相談係りのような役目もしたといい、自身が見た慰安婦については「借金を返済し、結婚資金を貯え、結婚の際の家具衣装箱も充分用意していた。」として生活は「かなり恵まれていた」と述べている。[63]
  • 韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は自殺や中毒により亡くなることもあった[10]1957年7月21日付け東亜日報で、アメリカ軍慰安婦がわが身を悲観して自殺したと報道される[6]1959年7月30日付け東亜日報で、慰安婦が悲觀自殺したと報道される[6]
  • 1959年9月の韓国保健社会省の性病保菌実態の報告では、接待婦の15.6%、私娼の11.7%、慰安婦の4.5%、ダンサーの4.4%が罹患していた[7]
  • 1959年10月18日付け東亜日報で、慰安婦の66%が保菌者であると報道される[6]

報酬

報酬を得ていたとするもの

  • 李榮薫ソウル大学教授の著書によれば、日本軍相手の慰安婦は兵士と将校には区別があったが、兵士はおおむね1円から2円であり、当時の兵士の月給は7円から10円であったとしている[7]。売上金はおおむね慰安婦と業者間で折半されたが、業者に負った前借金が多すぎたり、悪徳業者に出会った場合は、首尾よく金を稼ぐことができない場合もあったとしている[7]
  • 当時の陸軍大将の俸給は年に約6600円、二等兵の給料は年間72円であった[24][18]
  • 元慰安婦の1人文玉珠は、1992年、慰安婦時代の2年半の間に貯めた郵便貯金2万6145円の返還請求訴訟を行ったが、日韓基本条約に付随する日韓請求権並びに経済協力協定で解決済みとされ敗訴した。裁判で明らかにされたところによると、26,245円の貯金から5,000円を朝鮮の実家に送っていたという[64][7]。この元慰安婦自身の体験記によれば「千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えた」という[65]上野千鶴子の慰安婦裁判の取材によれば、郵便預金返還訴訟を起こした文玉珠の貯金は、性交労働の代償ではなく、軍人からのお駄賃をため込んだものであるという。
  • 中国漢口の日本人女性130名と朝鮮人女性150名が在籍していた慰安所では、慶子という名前の朝鮮人慰安婦おり、すでに3万円を貯めたが5万円になったら京城(ソウル)で小料理屋をもつことを夢見ているとの彼女の話が司令官に伝わり「なんとたいしたオナゴであるか」として表彰されたとされている[7]
  • 米軍作成の日本人慰安所経営者及び慰安婦に対する尋問レポートによれば、北ビルマのミートキーナの慰安所の慰安婦たちは売り上げの半分を報酬としてもらい、稼ぎは月に1000~2000円、年季は半年から一年で一部は帰還した者もいる。[66]兵士の月給は15円~25円。[24],p270]
  • フィリピンのマニラの慰安所を利用した日本兵捕虜に対する連合軍の尋問記録によると、慰安婦は通常、スペイン人とフィリピン人の混血であり、利用料金は10円ないし20円……日本人及び朝鮮人女性については2円ないし3円であった」という[[67],P487] [24]
  • 中国漢口の約三十三万人と全兵士の金銭出納帳を調べたら、三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だったといい、ある内地人(日本人)の慰安婦は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」と語っていたという。慰安所の料金は女性の出身地によって上中下にランク分けされており、兵士の方は、階級が上であるほど、利用できる時間は長くなり、料金は割高になっていたという。[18]
  • 吉原で10年間、娼婦をしていた高安やえは、内地(日本)で商売を始めるために、10倍稼げるという理由で、ラバウルへ行き、慰安婦となったといい、「一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している[68]
  • スマラン事件(「白馬事件」のBC級裁判の判決文が引用した証人・被害者に対する警察の尋問調書によれば、何人かの女性は報酬を断ったが、受け取った女性はそのお金で自由な時間を得ることができたことを報告している。「将校倶楽部」では、一晩に一人の男性の相手にし、男性が料金として支払った4ギルダーのうち、1ギルダー1セントを受け取り、そのお金で食べ物や衛生用品を購入したとされ、「慰安所日の丸」では、一時間1ギルダー50セントの料金のうち、45セントを受け取ったと慰安婦自身が証言しているる。[69]
  • からゆきとの労働条件比較[70]
からゆきさんとして有名な北川サキの、大正中期から昭和前期のボルネオの例では、
一人2円のうち娼婦の取り分は1/2、その内で借金返済分が1/4、残り1/4から着物・衣装などの雑費10円を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」 といい、それは最少で月110人に相当する。
(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週一回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた。)
普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。
泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった(接待時間ではなく、性交労働時間だったと思われる)。
当時の物価だが、のちに慰安婦が増えた時期と同水準だったと言える。[71]
現地人を客にすることは一般に好まれず、ある程度接客拒否ができたようである。
しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。
  • 1962年の韓国の相場では、ショートタイムで2ドル、ロングタイムで5ドルであった[7]。固定的な性的関係を持つことによって月給をもらう女性もいた[7]

報酬を得ていなかったとするもの

  • 吉見義明や尹明淑の著書によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんど(9割以上)は給料を貰っていないと証言している。[72]。その背景としては、慰安婦の直接の雇用主である業者が、慰安婦から「前借金」「衣装代」「食料代」等の名目で給与を天引きしており、実際に慰安婦の手元に渡された給料はほんのわずかというケースが少なくなかったことが挙げられる。
  • 慰安婦に対する給与の支払いは、多くは軍票(軍用手票)という特殊な紙幣によってなされていたが、戦後この軍票に対する日本政府の支払義務が免除されたため、軍票が紙くず同様になってしまい、払戻しが受けられなくなったケースが多かった。また、戦地において軍票が大量発行されたため、軍票の価値が暴落しており、慰安婦が受け取る軍票の額面は膨れあがったケースがあった。吉見義明は、「慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。」と推定している[55]

兵士との関係

  • 近衛師団の通信隊員であった総山孝雄の回想録によれば、シンガポール陥落の時、イギリス兵相手だった売春婦たちが自発的に慰安婦に志願したが、予想もしない人数を処理するという彼女らには未経験の種類の過酷な労働だったので、一人が4、5人目でもうできないと言い出し、当番兵が打ち切りを宣言したところ、戦闘が終わった後で列を成して待っていた兵士達が騒ぎだし、怯えた当番兵は、ベッドに縛り付けてそのまま兵士の相手をさせようとしたこともあったという(その次の順番に当たって中に入った兵士(目撃者)が驚いて逃げ帰ったので、その後の情報はない)。[73]
  • 元兵士の伊藤桂一は慰安婦らは「ときには性具のように取扱われはしても、そこにはやはり連帯感のつながりがあった。だから、売りものに買いもの、という関係だけではない、戦場でなければ到底持ち得ない、感動のみなぎる劇的な交渉も、しばしば持ち得たのである。」と述べ、当時の兵士と慰安婦たちの人間的な交流があったエピソードを紹介している。[63]
  • 吉見義明は、兵士から見れば慰安婦は血なまぐさい戦場で、身近の唯一の女性であり、恋愛を含めた心の交流があったと話す場合が多いが、元慰安婦の証言からはそうした状況はまったく違って述べられているという。慰安婦側から見れば、愛想良く対応しないと殴られる、兵士の求めるような形で応対する事で少しでも楽に「仕事」を済ましたい、将校と仲良くなることで少しでも待遇をよくしてもらいたい、という動機であるとしている[56]
  • 北ビルマのミートキーナーの慰安所においては、日本の軍人からの求婚が極めて多く、中には実際に結婚したものがいることが報告されている。[62]
  • このほか、酒に酔った兵に脅された例、逆に刀を刺してしまった例、無理心中させられそうになった例、慰安婦に頼まれて自由にする金を横領した主計将校など様々な逸話がある。[30]
  • 韓国におけるアメリカ軍への売春を強制されていた女性達はアメリカ兵に残忍に殺害されることや、アメリカ兵によるとされる放火で命を落とすこともあった[10]

「慰安婦」問題

概要

1970年代に、旧日本軍が戦地の女性を強制連行し、慰安婦にしたとする本が数冊出版された。[74]中でも、元陸軍軍人吉田清治(本名:吉田雄兎)は『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年)で、軍の命令で自身が韓国の済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたと告白。そして、日本、韓国、アメリカなどで講演を行なったり、新聞やテレビなどのマスメディアに精力的も出演し[75]、裁判の証人としても朝鮮人の奴隷狩りを証言したり、1990年代には国連人権委員会に働きかけるなど、この問題を世の中に大きく広めた。

韓国においては、吉田のこの著書は翻訳して出版され、史実としてドラマ化もされた。これらを受けて1990年、10年前から慰安婦の調査を行なって来た梨花女子大元教授の尹貞玉 (ユン・ジョンオク)がこの問題を新聞などのメディアで告発し、多数の女性団体が結集した「挺身隊対策協議会」を初めとして、様々な団体がこの問題に取り組み慰安婦問題が大きな運動になる。1991年には、韓国で元慰安婦が初めて名乗り出て、自らの体験を語った。その後も韓国、フィリピン、台湾などで、元慰安婦であったと名乗り出る女性が多数出、日本の弁護士らの呼びかけで、日本政府に謝罪と賠償を求める訴訟がいくつも起こされるようになる。

日本ではこの問題の報道を『朝日新聞』が主導した。吉田の証言を紹介し、韓国の元慰安婦が名乗り出たこと、慰安所に対する旧日本軍の関与を示す資料が見つかったことなどと大々的に報じた。それらの報道は韓国でも伝えられ、反日感情が高まり、慰安婦問題は日韓の政治問題となっていった。 1992年反日デモが高まる中、訪韓した宮澤喜一首相は盧泰愚大統領との首脳会談で慰安婦問題について謝罪し、真相究明を約束する。政府の第一次調査では「軍の関与」は認めたものの、「強制連行」を立証する資料は無かったとしたが、反日世論の中で韓国政府が受け入れなかったため、1993年、第二次の調査を行ない、その結果発表の際に、河野洋平官房長官がいわゆる「河野談話」を発表。慰安婦の募集について「官憲等が直接これに加担したこともあった」、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」として、旧日本軍による強制連行を認め、反省とお詫びの意を示した。これにより、平成六度版の高校歴史教科書から、韓国政府から強く要請されていた慰安婦の記述がなされるようになり、やがて、中学校の歴史教科にも及び、ほとんどの歴史教科書で慰安婦についての記述が掲載されるようになって行った。

1995年、日本政府は慰安婦問題を認めた責任から、民間(財団法人)からの寄附という形で元慰安婦への支援を行うため、「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設立したが、特に韓国ではあくまでも国家として賠償すべきと政府や元慰安婦支援団体の反対運動により、多くの元慰安婦が基金からの支援を拒否した。

1996年、国連人権委員会に提出されたいわゆる「クマラスワミ報告書」と呼ばれる女性への暴力を取り上げた報告書において、慰安婦制度が国際法違反であると指摘され、日本政府は慰安婦に対する賠償すべきと勧告したのを初め、国際機関などにおいても、慰安婦問題への批判がなされる動きも出てきた。

1992年から、現代史家の秦郁彦(元日本大学教授)を初めとする歴史学者などが、吉田の証言やその経歴や著書において嘘や矛盾があると指摘していたが、1996年、吉田清治が自身の証言における「時」と「場所」はフィクションであることを明らかにしたことで、慰安婦の強制連行の大きな根拠とされて来た吉田証言への信憑性が揺らぐこととなる。そして、慰安婦の強制連行を認めない保守系の論客や、メデイアは、吉田証言を大きく取り上げて来た『朝日新聞』に対して、それまでの慰安婦報道において事実の歪曲があった[76]ということを含め、厳しい批判を浴びせた。このように軍による強制的に連行を裏付ける根拠が弱まった頃から、吉見義明が「強制連行」という「狭義の強制性」に対し、甘言や詐欺により慰安婦にされたことや、旧日本軍が慰安婦の某集や慰安所の慰安所での生活が強制的であったことも問題であるとし、これらを「広義の強制性」問題だとして批判し出したのをはじめ、そのような観点からの慰安婦制度への批判がなされるようになった。同年6月に文部省(現:文部科学省)が検定結果を公表した中学校教科書では全ての歴史教科書に慰安婦に関する記述がなされていた。これらを問題とした有識者らが同年12月に「新しい歴史教科書をつくる会」(略称・つくる会)を発足、それらの教科書を「自虐史観」であると批判し、それらに対抗する新しい歴史教科書をつくる運動を精力的に進めることとなり、慰安婦問題は「歴史認識問題」、「歴史教科書問題」にもなっていった。「自民党」においても、若手議員らが、「つくる会」と同様に現在の日本の歴史認識を「自虐的」として修正を求める運動を始めるようになる。翌1997年には、「河野談話」発表に至る調査に関わった政府関係者が、強制連行の証拠となる資料は一切なかったが、韓国政府の強硬な要請に押され、政治判断として強制性を認めたことなどを明かした[77][51][52]ことから、証拠もなく、日本を不利な立場に立たせたとして、「河野談話」への批判[78][79]もなされるようになり、強制連行の有無などをめぐり激しい議論がマスメディアで繰り広げられるようになる。「河野談話」で強制性を認めた政府ではあったが、ときおり、自民党の議員が強制連行を否定する発言をしたことが報じられ、中国、韓国からの強い反発を招くということが繰り返されている。

2001年4月、「つくる会」の中学校歴史教科書が検定を合格したが、強い反対運動もあり、実際にはほとんどの中学校で採択されなかった。一方、同年に検定通過した他の教科書においては慰安婦の記述が減少し、1999年には中学歴史教科書からは「従軍慰安婦」という用語が消えた。
2006年、総理就任後間もなく、安倍晋三は内閣として「河野談話」を引き継ぐことを公言したが、後に「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言したことが「河野談話」を否定するものではないかと国内外で大きな波紋を呼んだ。2007年、アメリカの下院で慰安婦をめぐる対日非難決議案の提出[80]が注目を集め、これを巡って日米間の政治問題ともなって来ている。

経過

戦時中の朝鮮(挺身隊)

  • もともと朝鮮では徴用を忌避する傾向があり、太平洋戦中には挺身隊に行くと慰安婦にされるという噂があった。ただし1960年代までは、その噂を事実と認める韓国の研究者はいなかった。[23][81]

慰安婦本の出版

  • 1972年(前史)
    • 女性史研究者 山崎朋子の『サンダカン八番娼館』が刊行され、ベストセラーとなる。社会の底辺に生きた海外売春婦「からゆきさん」を取材。
  • 1973年
    • 元「毎日新聞社記者でノンフィクション作家千田夏光が『従軍慰安婦―"声なき女"八万人の告発』を出版(1974年に続編の『続・従軍慰安婦』を出す)。これらの本では「挺身隊」の名の元に動員された朝鮮人女性20万人のうち、5~7万人が慰安婦にさせられたとしている。
  • 1975年
    • 禾晴道『海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記』が出版。
  • 1976年
    • 1月 『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(金一勉 『三一書房』)が出版。
  • 1977年
    • 3月 吉田清治『朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記』(新人物往来社)が出版。
    • 12月 『軍隊慰安婦―戦争と人間の記録』(金一勉 『現代史出版会』)が出版。
  • 1978年
    • 12月 山田清吉 『武漢兵站 -支那派遣軍慰安係長の手記-』(図書出版社)が出版。
  • 1982年
    • 9月・11月 第二次世界大戦の戦前、戦中に、当時日本領だった樺太(現サハリン州)に渡った朝鮮人の韓国への帰還を日本政府に対して請求する「樺太裁判」(樺太残留者帰還請求訴訟)で、吉田清治が原告側の証人として朝鮮人の「奴隷狩り」(強制連行)を証言。

吉田証言以降

  • 1983年
    • 1月 吉田清治が『私の戦争犯罪-朝鮮人連行-』において韓国の済州島において慰安婦にするための205人の女性を強制連行したと告白。初めての加害証言となる。韓国天安市に「謝罪の碑」を建立。韓国のテレビが「謝罪の旅」として1時間番組を放映。日本、アメリカなどで謝罪講演をして回る。
    • 11月10日 『朝日新聞』が「ひと」欄で、吉田清治が「謝罪の碑」を韓国に建てたことを写真入で紹介。
  • 1989年
    • 吉田の著書が韓国語翻訳され、韓国で出版され、史実としてドラマ化され、韓国で「従軍慰安婦問題」への関心が高まる。
    • 5月 大分市の主婦で「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」[82]の事務局員、青柳敦子 [83]が『朝日ジャーナル』(1989年5月19日号)に、「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式に陳謝せよ」という意見広告を出す(同年12月まで隔週で15回)。
    • 8月14日 吉田清治の記述内容に疑問を持った『済州新聞』の許栄善記者が現地調査したルポを『済州新聞』(8月14日付)に発表。慰安婦狩りの話を裏づける証言する人はほとんどおらず、島民たちが吉田の本の信頼性に疑問を呈していること、郷土史家の金奉玉が追跡調査した結果、吉田の本が事実でないことを発見し、「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨したことなどを報告。
    • 11月19日 青柳敦子と在日朝鮮人の宋斗会[84]が日本政府に謝罪と補償を求める裁判を起こすため、韓国で訴訟費用を負担する条件を付け「慰安婦裁判の原告募集」のビラをまく。[85]数週間後にソウルの「太平洋戦争犠牲者遺族会」から協力したいという申し入れが来る。
  • 1990年
    • 1月 4日~24日 『ハンギョレ新聞』(現:ハンギョレ)紙上で、韓国の梨花女子大学教授の尹貞玉が「"挺身隊"怨念の足跡取材記」と題する4回に渡る連載で慰安婦問題を告発し、韓国で大きな反響を呼ぶ。
    • 6月6日 参議院予算委員会で、 日本社会党本岡昭次の朝鮮人の強制連行に関する質問において、政府(労働省職業安全局長)は「国家総動員法に基づく業務として慰安婦の強制連行は行っていなかった」、「古い人の話等からも、民間業者が慰安婦を軍と共に連れ歩いていたらしく、実態調査はできかねる」という旨の答弁をする[86]
    • 7月10日 韓国において、慰安婦問題の真相究明と問題解決のために「挺身隊研究会」(現:「韓国挺身隊研究所」)が結成される。
    • 10月17日、韓国の37の女性団体が日本の海部俊樹首相に慰安婦問題に関する政府への6項目の要求[87]を示した公開書簡を送付。6月6日の国会で慰安婦の強制連行を否定した労働省職業安全局長の発言を「歴史的事実に反する無責任な発言」と糾弾。
    • 11月 韓国で「韓国挺身隊問題対策協議会挺対協)」が発足。ソウルの日本大使館前で日本軍による「慰安婦問題」に対する抗議デモを行なう(以降毎週水曜日にデモ(水曜デモ)を行なうことが恒例となる)。
  • 1991年
    • 4月1日 参議院予算委員会で、 日本社会党本岡昭次の従軍慰安婦に関する質問において、労働省の政府委員は「手がかりになる資料がない」という旨の答弁をする。
    • 4月24日 ソウルの日本大使館が尹貞玉韓国挺身隊問題対策協議会代表を呼び、「日本軍が強制連行した証拠はない」、「補償日韓協約で解決済み」と伝え、挺対協からの六項目の要求[87]を拒否すると回答。
    • 5月22日 『朝日新聞』大阪版が「木剣ふるい無理やり動員」との見出しで吉田清治の慰安婦狩りの証言を写真入で紹介。
    • 10月10日 『朝日新聞』大阪版が井上祐雅編集委員による吉田清治のインタビュー記事を掲載。 吉田は「慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供を引きはがして連行した」、「政府は資料を隠している」などと述べる。[88]

元慰安婦の登場以降

    • 8月11日 『朝日新聞』が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(韓国特派員植村隆のソウル発記事)との見出しで、[89]で、「日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊」の名で[76]戦場に連行され[90]、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。」と報じる。
    • 8月14日 元慰安婦の金学順がソウルで記者会見。14歳の時、家が貧しかったのでキーセンハウス(売春宿)に売られ、17歳になったとき、キーセンハウスの経営者である義父に華北にある日本軍の慰安所に連れて行かれた[91][92]事などを述べる。[93]
    • 12月6日 金学順を初め3名の元慰安婦を含む35人の原告(主任弁護士:高木健一)が日本政府を相手取り、謝罪と補償を求め提訴(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件)。
  • 1992年
    • 1月11日 宮澤喜一首相訪韓の5日前のこの日、『朝日新聞』は一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」との見出しで、「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が、防衛庁の防衛研究所図書館に所蔵されていることが明らかになった」、「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万人とも20万人ともいわれる」と報じる。
    • 1月14日 韓国の多数のマスメデイアが、前年に日本のテレビで女子児童が挺身隊として勤労動員されたという報道を誤解し、「国民学校の生徒(小学生)まで慰安婦にさせた日帝の蛮行」などと報道[94]
    • 1月16日 韓国を訪問した宮沢首相は慰安婦問題の報道により反日デモが高まる状況に、首脳会談で8回謝罪し、「真相究明」を約束する。韓国国会においても「実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っています」と述べる。盧泰愚大統領は、記者会見で「韓日が同伴者関係を構築するためには、日本が過去の歴史を正しく認識し、過ちを謙虚に反省する土台が必要」と語る。
    • 1月23日 『朝日新聞』夕刊の「窓」欄で、「強制連行した女性は950人」、「強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」との吉田清治のインタビューを掲載。
    • 2月17日 日本弁護士連合会の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会において、慰安婦問題を人道上の罪だとして国連の介入を求める。
    • 2月25日、韓国政府が被害者申告センターを設置し、被害の申告と証言の受付を始める。
    • 5月25日 『朝日新聞』が7月、吉田清治が韓国に「謝罪の旅」に出ること、吉田は強制連行した体験を「国会でもどこでも行って話す」つもりと語っていることなどを紹介。
    • 6月 『正論』(1992年6月号)の「昭和史の謎を追う-第37回・従軍慰安婦たちの春秋」と題するルポで、千葉大学教授の秦郁彦は済州島での実地調査により、吉田が慰安婦にするための女性を1000人近く徴用したという事実はないことが判明したと主張。
    • 7月6日 日本政府が吉見教授の資料発見を受けて行った慰安婦問題に関する調査結果を発表。100を超える関係資料を公開。加藤紘一官房長官(当時)は「朝鮮人女性の強制連行を裏付ける資料は発見されなかった」としながらも、「慰安所の設置や運営・監督などに政府が関与していた」ことを初めて公式に認める。
    • 7月7日 『朝日新聞』が日本政府が上記慰安婦問題に関する調査結果の資料を改変していたことが見つかる[95](『朝日新聞』 1992年7月7日付 31面 )。
    • 7月 韓国政府が「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」を発表し、「日本政府による慰安婦の威圧的連行があった」と主張。「強制連行なし」とした日本政府に追加調査を求めるとともに、日本の歴史教科書への記述と学校教育を通じた「過去の正しい認識」の周知を要請。
    • 12月 中央大学教授吉見義明が『従軍慰安婦資料集』(大月書店)を刊行。その中で「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは『狭義の強制連行』であり、詐欺などを含む『広義の強制連行』の問題をも深刻に考えてしかるべきであろう」と「広義の強制性」という主張を始める。
    • 12月25日 韓国釜山市などの元慰安婦ら10名が、日本政府に公式謝罪と賠償を求めて山口地方裁判所に提訴(釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟)。
  • 1993年
    • 2月1日 韓国で元慰安婦らの証言集『強制連行された朝鮮人「慰安婦」たち』(韓国挺身隊問題対策協議会、挺身隊研究会編)が刊行される(2001年末現在第5集まで刊行。日本ではその10月に『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』として刊行)。
    • 現代コリア』(1993年2・3月号)紙上で、現代史研究家の加藤正夫が、千田夏光の『従軍慰安婦』(講談社文庫 1984年)の中の嘘を暴露。
    • 3月 韓国政府が国内の元慰安婦135名に対して500万ウォン(約74万円)の支給などの支援策を発表。また、日本の教科書に慰安婦に関した記述をするよう求める。
    • 4月2日 フィリンピンの19人の元「慰安婦」らが日本政府の謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴。原告は、最終的には46名となる。1998年10月9日、地裁で慰安婦側の請求を棄却、2000月12月6日、控訴棄却、同年12月25日、最高裁判所への上告が棄却され、慰安婦側の敗訴が確定。
    • 4月 元慰安婦の宋神道(ソン・シンド)が、二次大戦中約七年間にわたりいわゆる従軍慰安婦とされ肉体的精神的苦痛を受けたとして、日本政府を相手取り、国際法及び民法に基づき、日本政府に謝罪のみを求め(後には損害賠償を求める)、東京地裁に提訴(1999年10月1日、一審で請求棄却、2000年11月30日、控訴審の判決も請求棄却)。
    • 6月 高校日本史検定済み教科書7社9種類のすべてに、従軍慰安婦に関する記述が掲載されることが判明。
    • 6月11日 韓国で「日帝下日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」が制定、同年8月から元「慰安婦」に一時金、生活費の支給を行う。

河野談話以降

    • 8月4日 日本政府が「慰安婦問題に関する第二次調査報告結果」を公表。それに関連し、河野洋平内閣官房長官が旧日本軍の強制連行を認める「河野談話」を発表。 「慰安所設置等に旧軍が関与し、慰安婦の募集も本人の意思に反して集められた事例が数多かった」とし、慰安婦に対し、「心からお詫びと反省を申し上げる」と謝罪。談話発表後の記者会見で「強制連行の事実があったという認識か」との記者の質問に、「そういう事実があったと。(それで)結構です」と答えた。これを受けた韓国外務省は「全体として強制性を認め、被害者に謝罪と反省を表明し、今後の歴史の教訓としていく意思を表明したことを評価する」との声明を発表。
    • 8月4日 NHK教育テレビジョンが『50年目の"従軍慰安婦"』を放映。元慰安婦らが共同生活している「ナヌムの家」を紹介し、日本の反省や償いについて論じる。
    • 8月31日 村山富市首相が、談話「平和友好交流計画」に関する談話の中で 、「いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。」と謝罪。[96]
    • 高木健一ら、日本の弁護士3人がインドネシアの地元紙に「日本政府に対して補償を求める裁判のために元慰安婦は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出す。
  • 1994年
    • 国際法律家委員会」(ICJ)が「慰安婦」報告書において、幼い少女たちを含む多数の女性たちが戦時中、日本の軍事施設に監禁されたのみならず、殴打や拷問を受け、繰り返し強姦されたと指摘。
    • 5月3日 羽田内閣永野茂門法務大臣が記者会見で「慰安婦は当時の公娼 であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別 とかは言えない。」と述べたことが中国、韓国を初め、アジア諸国の激しい反発を招く。4日後、永野大臣は謝罪し、就任から僅か10日で引責辞任。
  • 1995年
    • 1月 『週刊新潮』(1995年1月5日号)が取材の結果、吉田清治の証言が事実無根である事が判明したとの記事を掲載。
    • 1月24日 「日本弁護士連合会」が「従軍慰安婦問題に関する提言」を政府に提出。立法措置などにより、元慰安婦らに補償するよう求める。
    • 7月19日 元慰安婦への償い金を民間から募ることなどを目的として、日本政府の主導で財団法人女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」が発足。
    • 8月15日 社民党の村山富市首相(当時)が過去の日本の侵略戦争や植民地支配について公式に謝罪した村山談話を発表。
    • 8月15日 「大東亜戦争」(アジア・太平洋戦争)を総括する目的で自民党が1993年8月に立ち上げた「歴史・検討委員会」(委員長:山中貞則)が『大東亜戦争戦争の総括』(展転社)を出版。「『大東亜戦争』は、自存・自衛のアジア解放戦争であり、侵略戦争ではなかった」、「『南京大虐殺』や『従軍慰安婦』は事実ではない」、「加害・戦争犯罪はなかった」と総括。
    • 8月22日 韓国で、元「慰安婦」および支援35団体が「民間基金構想撤回と被害者個人への謝罪と補償を求める共同声明」を発表。
    • 11月22日 「国際法律家委員会」(ICJ)が、慰安婦被害者には個人補償請求権があるとする報告書を発表。
  • 1996年
    • 2月6日 スイスジュネーヴで開かれた国際連合人権委員会スリランカの著名な法律家であるラディカ・クマラスワミ(Radhika Coomara-swamy)が特別報告者として「女性への暴力特別報告」と題する報告書(通称:クマラスワミ報告書)を提出。この報告書は主に家庭内暴力についてであったが、付属文書で日本の慰安婦問題を取り上げ、「慰安婦」を「性的奴隷」と規定し、日本の行為を「『人道に対する罪』、奴隷制度を禁じた国際慣習法に違反する」と断定し、平和国民基金等で道徳的責任を果たしつつあることは評価しながらも、日本が法的責任を取って犠牲者に補償すること、公訴時効に関係なく責任者を処罰すること、さらに日本は教育課程にこの歴史的事実を含めることなどを勧告した(クマラ スワミ勧告)。[97]同年4月20日、「クマラスワミ報告書」は、評価基準は最下の"take note"[98](留意)ながらも全会一致で採択される(「報告者の活動」に対する評価は"welcome"(歓迎)であった)。
    • 5月29日付の『週刊新潮』でのインタビューで、吉田清治が『私の戦争犯罪 -- 朝鮮人強制連行』中の記述において、人間狩りをしたという主張は否定しなかったが、「人間狩りを行なった場所がどこであるかについては創作を交えた」と認める。
    • 6月4日 自民党の奥野誠亮元法相が「従軍記者や従軍看護婦はいたが、『従軍』慰安婦はいない。商行為に参加した人たちだ。戦地で交通の便を(国や軍が)図っただろうが、強制連行はなかった」と発言。中国や韓国の政府から抗議を受ける。
    • 6月4日 来日中の韓国人元慰安婦(73歳)が自民党の板垣正参院議員と面会。「一部の日本人が強制がなかったとか妄言を吐くので、胸の中がかきまわされる思いだ。私が発言しないとわからないのか、と名乗り出た」と訴える。対価としてお金をもらっていないとの元慰安婦の話に板垣は「そういう例があったとはまったく信じられない。」と疑問を呈した。
    • 6月末 橋本龍太郎首相が金泳三韓国大統領との首脳会談後、慰安婦間題を謝罪。
    • 中学校用歴史教科書の7年度検定結果が発表され、教科書を発行する7社が一斉に「強制連行」の一環として「慰安婦」問題を掲載していることが明らかになる。
    • 8月 雑誌『SAPIO』連載の『新・ゴーマニズム宣言』第24章で、小林よしのりが慰安婦問題を取り上げ、大きな反響を呼ぶ。

歴史教科書問題以降

  • 1997年
    • 1月 アジア女性基金による償い金の支給が始まる[99]
    • 1月3日 『朝まで生テレビ!』に出演した吉見義明教授は、「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」こと、「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認める。
    • 1月30日 慰安婦に関する調査を実施した平林博・内閣外政審議室室長は、参議院予算委員会において、政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかったが、「総合的に判断した結果、一定の強制性がある」との判断で「河野談話」の表現になった旨を答弁。河野談話の根拠となった韓国の遺族会がまとめた元慰安婦の証言集に対する裏付けは取っていない旨を述べる。[51]
    • 2月27日 自民党の安倍晋三の主導で自民党の当選5回以下の議員を中心に「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(事務局長:安倍晋三、幹事長:平沼赳夫、現・「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」)が結成される。
    • 3月 韓国の中学校、高校用の国定歴史教科書に従軍慰安婦に関する記述が今学期から掲載される。中学校の教科書では、、「女性までも挺身隊という名でひいていかれ、日本軍の慰安婦として犠牲にもなった。」、高等学校の教科書では、「女性たちまで挺身隊という名でひいていかれ、日本軍の慰安婦として犠牲にもなった。」と説明される。
    • 3月9日 元内閣官房副長官の石原信雄が『産経新聞』のインタビューで、募集の文書や担当者の証言を初め、日本側のデータには強制連行を裏付けるものはなかったことや、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるように強行に要請していた韓国政府に対し、「強制性を認めれば、問題は収まる」という判断で、元慰安婦らの証言だけで強制性を認めたという「河野談話」発表に至る経緯を明かす[77]。河野官房長官は、産経新聞のインタビューは断ったが、同年3月の朝日新聞のインタビューには応じた。[100]
    • 3月10日 ジャーナリスト櫻井よしこが『文藝春秋』4月号の「密約外交の代償」と題する論文で、加藤紘一元官房長官、石原信雄元官房副長官、谷野作太郎元外政審議室長などに対する直接取材の結果として、証拠に基づかずに、政治的判断で強制連行を認めた政府の外交を批判。
    • 3月12日 参議院の予算委員会において、平林博外政審議室長は、「政府の発見した資料の中には強制連行を直接示す記述は見当たらなかったが、総合的な調査の結果についての総合判断により、一定の強制性を認めた」旨の答弁をする。[52]
    • 河野洋平元官房長官が自身の講演会で、「女性を強制的に徴用しろといいますか、本人の意思のいかんにかかわらず連れてこい、というような命令書があったかといえば、そんなものは存在しなかった。調べた限りは存在しなかったということは申しあげていいと思うんです。『資料がなかった』ということは事実としてはっきりさせておかなければいけない」と語る[101]
    • 3月31日 『朝日新聞』が2ページの慰安婦問題の特集記事を掲載。吉田証言に関し、「間も無くこの証言を疑問視する声が上がった。済州島の人たちからも氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない。吉田は『自分の体験をそのまま書いた』と話すが、『反論するつもりはない』として、関係者の氏名などデータの提供を拒んでいる」と、これまでの主張を修正し、「吉田証言の真偽は確認できない」とした。河野洋平元官房副長官のインタビューも掲載。
    • 5月 中学校教科書の慰安婦の記述削除を求める請願が各地の地方議会で相次ぐ。その問題に対して、「日本弁護士連合会」が「二度と過ちを犯さないため、事実を歴史教科書に記載して子供たちに伝えていくことが必要」と、請願を採択しないように地方議会に呼びかける声明を発表。
    • 6月27日 1997年度用中学校社会科教科書の検定に合格した7冊すべてに慰安婦に関する記述があることが判明。
  • 1998年
    • 4月27日 元慰安婦3人と元挺身隊員7人の計10人の韓国人女性が日本政府に総額5億6400万円の損害賠償と公式謝罪を求めた訴訟(関釜裁判)で初の司法判断。山口地裁下関支部は請求の一部を事実認定し、河野談話の後、国会議員に賠償立法の義務が生じたとし、国の立法義務、立法の不作為を認め、国に対し、「慰安婦」一人あたり30万円の支払いを命じる。河野談話が強制連行の証拠と認定される。しかし、控訴審(2001年3月29日、広島高裁)は、一審判決を破棄し、最高裁への慰安婦側の上告(2003年3月25日)も棄却され、最終的には慰安婦側の敗訴が確定)
    • 4月28日 『産経新聞』(1998年4月28日付)が「主張」の欄で、「慰安婦訴訟 禍根を残した『河野談話』」との記事で、慰安婦側の訴えた認めた前日の判決を批判。裏づけとなる証拠がない「河野談話」を根拠に強制連行を認めたこと、河野談話によって、国会での立法義務が生じたとされたこと、戦後補償問題を清算した「日韓基本条約」締結との関係が不明確である点を批判。[78]
    • 7月31日 小渕内閣中川昭一農林水産大臣就任直後の記者会見で、「中学校の教科書に従軍慰安婦に関する記載があるのは疑問」、「強制連行があったかどうかは分からない」などと述べ、中国、韓国からの強い反発を受け、翌日、発言を撤回した。
    • 8月 国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会で、アメリカのゲイ・マクドゥーガル国連人権委員会特別報告者の「武力紛争時における組織的強姦、性奴隷及び奴隷類似慣行に関する最終報告書」(「マクドゥーガル報告書」)が採択され、付属文書で、日本の慰安婦の制度は「奴隷制」であり、慰安所は「強姦収容所」、慰安婦は強姦、性暴力を受けた「性奴隷」であるとし、慰安婦の日本政府に対する賠償請求権を認め、政府、軍関係者、兵士個人も訴追し、裁くべきであるとした。これは人権小委員会の勧告としては採択されず。
    • 8月 韓国で、「ナヌムの家」の隣に建てられた「日本軍慰安婦歴史館」がオープン。
    • 8月4日 『読売新聞』が「『慰安婦』問題をもてあそぶな」と題した社説で、「わざわざ韓国の反発をそそのかしているような報道がある」、中川農相が発言を撤回したのは、「歴史を捏造していた一部マスコミが、捏造への反省も訂正もないまま、重ねて問題発言だとして騒いだからだ。」と『朝日新聞』を暗に批判する。
    • 8月11日 読売新聞が「国連の権威損なう『慰安婦』報告」と題し、「慰安婦強制連行説」を捏造した者とそれを追認した「河野談話」を厳しく批判。
    • 11月 月刊雑誌諸君!』(1998年11月号)において、秦郁彦が吉田清治本人が自著をフィクションであることを認めたと述べる。
    • 11月 改定版として出版された『広辞苑』第五巻(岩波書店)に、初めて「従軍慰安婦」の語が収録される。「日中戦争・太平洋戦争期、日本軍によって将兵の性の対象となることを強いられた女性。多くは強制連行された朝鮮人女性。」と説明。
  • 2000年
    • 7月 中学校歴史教科書の検定申請本8種の内容が公開され、「慰安婦」についての記述が3社に減少することが判明。
    • 12月8日から12日 東京で慰安婦制度など戦時中の旧日本軍による性暴力を裁こうと、VAWW-NETジャパンを初め、日本とアジアの非政府組織(NGO)が東京で民間の模擬法廷、「女性国際戦犯法廷」を開く。最終日には四人の裁判官が「性奴隷化を図った慰安婦制度は当時の国際法に違反する犯罪」とする判決を発表。
  • 2001年
    • 2月17日 元職員(女・43)からセクハラを告発されていた『ナヌムの家』の園長が、女性職員らとの性関係を認め、園長職から退き、僧籍を離れることを表明。[102]
    • 3月1日 『読売新聞』は社説で慰安問題が捏造であると指摘。「特定マスコミが、戦時の勤労動員だった女子挺身隊を強制的な"慰安婦狩り"制度だったと歴史を捏造した結果、一時、日韓関係を極度に悪化させた。歴史を捏造してまで日本を比類のない悪の権化に貶めようなどというのは、「自虐史観」の極みである。中韓両国は、 こうした特定マスコミの報道に便乗して対日外交カードとするようなことがあってはなるまい」と主張。
    • 5月8日 韓国政府が日本政府に対して中学校の「つくる会」の歴史教科書などに対し、記述修正を要求。
    • 5月16日 中国政府が日本政府に対し、「つくる会」の歴史教科書教科書の8項目について記述修正を要求
    • 7月9日 文部科学省が韓国・中国政府の修正要求に対して、「つくる会」歴史教科書に対する訂正は求めない方針を示す。
  • 2002年
    • 韓国女性省は、新学期から使用される中学2年と高校1年の歴史教科書の慰安婦関連の記述について「多数の女性を強制動員して、日本軍が駐屯するアジア各地に送り、慰安婦として非人間的な生活を強要した」などと、詳細且つ具体的な表現にする方針を発表、教育省に提案。[103]韓国女性省は「慰安婦が強制動員だったことと、性の奴隷としての生活を強いられたことを明確にする」、「慰安婦問題についてのビデオCDを教師向け教材として全国の中・高校に配布する」などの方針を示す。
    • 2月24日 立命館大学で開かれた「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム日本大会(朝日新聞社後援)において、韓国・ 慶南大学客員教授(社会学)の金貴玉(キム・ギオク)(40)が、朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったと発表[1]
    • 3月28日 在日韓国人で唯一元慰安婦であると名乗り出た宋神道(80)が日本政府を相手取り、謝罪と補償を求めていた訴訟で、最高裁第二小法廷(北川弘治裁判長)は宋側の上告を棄却し、宋の敗訴が確定。
    • アメリカとイギリスで田中ユキという正体不詳の著者による“Japan's Comfort Women”(日本の慰安婦)という英文の書が出版される。400人を超える女性への聞き取り調査に言及。
  • 2003年
    • 3月25日 「関釜裁判」の上告が棄却され、慰安婦側の敗訴が確定。
  • 2004年
    • 9月2日 「過去史真相究明論争」をテーマにした「MBC100分討論」において、ソウル大学李栄薫教授(経済学部)が、慰安婦を売春業になぞらえたかのような発言を行った。また、「韓国戦争当時の韓国人による慰安所や米軍部隊近くのテキサス村に対する韓国人の反省と省察がない」「朝鮮総督府が強制的に慰安婦を動員したと、どの学者が主張しているのか」「日本は挺身隊を管理した責任があるが、韓国民間人の問題も取り上げるべきだ」と主張したことに対し、インターネット上で抗議が殺到し、「韓国挺身隊問題対策協議会」が教授職辞任を要求する声明書を出す[3]。同年9月6日、李教授は「ナヌムの家」を訪問し、元慰安婦らに謝罪。
    • 11月27日 中山成彬文部科学省大臣[104]大分県別府市でのタウンミーティングの席上で、歴史教科書について「極めて自虐的で、やっと最近、いわゆる従軍慰安婦とか強制連行とかいった言葉が減ってきたのは本当に良かった」と述べたことが、反発を招く。
    • 『親日派のための弁明』の著者、金完燮が7年前に19万部のベストセラーとなった『娼婦論』に慰安婦制度を肯定する最終章を加えた日本版『娼婦論』(日本文芸社刊)を出版。韓国の女性団体が主張する「日本軍用女性奴隷」という用語は、「日本の国家的イメージを失墜させようとする意図が見え隠れする」と指摘、「慰安婦制度は戦場となった住民の安全を守るために必要不可欠だった」と肯定、「韓国の教科書で教える10万とも20万とも言われる女性が連行されたとする内容も情報操作された数字だ」とした。
    • 12月3日 細田博之内閣官房長官が民主党の岡崎トミ子副代表(当時)の求めで、衆院第2議員会館において、閣僚として初めて元慰安婦(韓国人の李容珠(75)とフィリピン人のベアトリス・トゥアソン)と非公開に面談。「(慰安婦問題)は父親の世代の罪。心から反省し、おわびする」と謝罪。
  • 2005年
    • 3月27日 安倍晋三自民党幹事長代理が講演会で、「従軍慰安婦は作られた話」と述べる。[105]
    • 4月 中学歴史教科書では、「慰安婦」の記載は申請段階で1社となる。
    • 6月 中山文科相が「従軍慰安婦という言葉はその当時なかった」と発言したことが、韓国などから反発を招く。
    • 8月10日 第二次世界大戦終結60周年世界60都市同時集会・デモが東京、ソウル、マニラ、サンフランシスコなどで日本政府や在外公館に対する集会やデモとして取り組まれた。日本政府に対し、国連勧告に従い元「慰安婦」への賠償を訴える。
      アムネスティ・インターナショナル」が、第二次世界大戦終結から60年を迎える直前のこの日の「水曜デモ」を機に、慰安婦とその支援者らに賛同することを発表。[106]

安倍政権以降

  • 2006年
    • 10月5日 安倍晋三首相が「河野談話」を「私の内閣で変更するものではない」とし、政府として引き継いでいくことを明言する。
    • 10月25日 内閣官房副長官の下村博文が東京・有楽町の日本外国特派員協会における講演で、「河野談話」について、「もう少し事実関係をよく研究し、時間をかけて、客観的に科学的な知識を収集し考えるべきだ」と述べる。
  • 2007年
    • 1月末 マイク・ホンダら6人の 民主党の米下院議員が共同署名で米下院に慰安婦問題に対する日本政府の謝罪要求決議案(H.Res.121)を提出。戦時中に日本が、アジアの女性たちを強制的に「性奴隷」にしたことに対する首相の公式謝罪などを求める内容。
    • 2月15日 米下院院外交委員会アジア太平洋・地球環境小委員会における公聴会で、李容洙金君子ジャン・ラフ・オハーンの3人の元慰安婦が証言。
    • 2月19日 衆院予算委員会において、麻生太郎外務大臣が慰安婦をめぐる対日非難決議案にある「日本軍による強制的な性奴隷化」という記述について「決議案は客観的事実に基づいていない。日本政府の対応を踏まえておらず、はなはだ遺憾だ」と不快感を表明。麻生外相は同年3月11日、フジテレビの番組で、この対日非難決議案をめぐる動きについて「日米(関係)を離間させる有効な手段だ。」として、第三国による対日工作の可能性を指摘。司会者の「北朝鮮や中国による工作か」との質問に同意する[107]
    • 2月25日 フジテレビ系列の『報道2001』に中継で出演したマイク・ホンダは、「謝罪要求決議案は、反日の決議案ではなく、和解・平和ということを意識した決議案である」、「国会において、総理大臣が正式にきちんと陳謝するというプロセスが重要である」という旨を述べる。また、強制連行があった根拠を問われ、「被害者の証言」や「アジア女性基金による支援」、「河野談話」、「総理の謝罪」がなされたこと自体が根拠だと主張。
    • 3月1日 自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が「慰安婦に対して、日本軍の強制連行はなかった」との見解を明らかにし、政府に慰安婦問題に対する調査を要求。[108]
    • 3月1日、安倍晋三首相が「河野談話」に関する記者の質問に対して「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と語り、国内外から波紋を呼ぶ。
    • 3月5日 参院予算委員会において、安倍首相が、「(米下院に提出された慰安婦問題をめぐる対日非難)決議案は客観的事実に基づいていない」、「決議があっても謝罪することはない」と答弁する。
    • 3月14日 自民党の議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」会長の中山成彬 元文部科学相と下村博文官房副長官との会談で、当面は慰安婦問題に関する再調査しないことで合意。
    • 3月16日 日本政府は閣議において、社会民主党辻元清美の慰安婦問題に関する質問主意書[109]に対して、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする答弁書[110]を出す。
    • 3月23日 「日本外国特派員協会」(東京・有楽町)で記者会見した中曽根康弘元首相に慰安婦問題に関する質問がなされる。海軍将校だった中曽根がボルネオ島で「慰安所」を設営したと回顧録で述べていることに対し、外国人ジャーナリストらが追及。中曽根は「私は飛行場を作る施設部隊にいた。(相当な期間を要するので、)徴用した工員たちのための娯楽施設を設営した」と説明。「『娯楽』とはどんな娯楽か」「強制はあったのか……」との質問に「海軍におったのでその点は知らない」とし、慰安婦問題については「河野談話を踏まえて謝罪すべきは謝罪する……」と答える。[111]
    • 3月24日 米紙『ワシントン・ポスト』が「安倍晋三の二枚舌(Shinzo Abe's Double Talk)」と題する社説を掲載。歴史的な記録により、日本が慰安婦を強制連行したことは「北朝鮮が日本の市民を拉致した証拠に劣らず説得力がある」、「拉致問題で国際的な支援を求めるなら、彼は日本の犯した罪の責任を率直に認め、彼が名誉を傷つけた被害者に謝罪すべきだ」とし、「河野談話」を後退さてはならないと主張。
    • 3月28日 アメリカで最も使われている歴史教科書「伝統と出会い:過去に対する世界的 展望(Tradition & Encounters: A Global Perspective on the Past)」に、日本軍が当時、最大 30万人に達する女性たちを慰安婦として強制連行したとの記述があることが判明。[112]
    • 3月31日 元従軍慰安婦への償い事業を十二年間行ってきた「アジア女性基金」が解散。
    • 3月31日 米の『ニューヨーク・タイムズ』が国際面の1ページを使って吉見教授のインタビューを掲載。「軍の関与を示す資料発掘によって論争に終止符が打たれたのに、安倍晋三に先導された若い民族主義者の政治家らが河野談話の撤回に向けたロビー活動を行った。」という旨の批判。
    • 4月3日 アメリカ議会調査局の専門家らが「日本軍の『慰安婦』システム」と題する議員の審議用資料とする報告書を作成。「軍による女性の強制徴用」について、「日本軍はおそらくほとんどの徴募を直接に実行はしなかっただろう。特に朝鮮半島ではそうだった」との見解を示す。また、「アジア女性基金」の設立や「河野談話」など、日本政府が謝罪や賠償の努力を重ねてきたことを指摘、日本へ更なる謝罪や賠償を要求することに疑問を呈す。[113]
    • 4月17日 林博史関東学院大学教授が外国特派員協会における記者会見で、「従軍慰安婦」問題に関する新資料七点を発表。戦後の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書が旧日本軍が慰安婦を強制連行し、性行為を強要したたことを示していることを指摘。
    • 4月26日 米紙『ワシントン・ポスト』が「慰安婦問題ワシントン連合」(徐玉子会長)をはじめとする在米韓国系団体の「慰安婦の真実」と題した全面広告を掲載。、「日本はこの犯罪に全面的な責任を取ったことは一度もない」と非難、慰安婦問題に関し日本政府の謝罪を求める下院対日決議案の採択を求める。
    • 4月27日 総理として初の訪米した安倍晋三は連邦議会においての上下両院幹部との会談で、「慰安婦問題について「私の真意が正しく伝わっていない」、「辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、個人として首相として心から同情するとともに、極めて苦しい状況に置かれたことに申し訳ないという気持ちでいっぱいだ」と元慰安婦らに対する同情とおわびを表明。[114]
    • 10月30日 国際連合人権委員会は慰安婦問題について日本政府に法的責任の認識と謝罪を初めて勧告した。[115]
  • 2009年
    • 1月8日 米紙『ニューヨークタイムズ』が韓国政府やアメリカ人によってアメリカ軍に対する売春を強制されていた女性達の声を掲載[9]
    • 1月10日 麻生総理が韓国大統領と強制徴用と慰安婦問題について謝罪要求放棄を誓約
    • 1月27日 元慰安婦の損害賠償請求権譲渡を可能に、法改正推進国会の金映宣(キム・ヨンソン)政務委員長は、日本軍従軍慰安婦被害者らの日本政府に対する損害賠償請求権を家族や友人、民間団体などに譲渡できるようにした「日帝下日本軍慰安婦被害者に対する生活安定支援及び記念事業などに関する法律」改正案を国会に提出した。改正案が成立すれば、慰安婦被害者の死後にも日本に持続的に賠償を請求できるようになる[116]。また日韓基本条約については無効としている。

論点

強制連行の有無

実際に強制性が存在したかについては、いわゆる強制連行の有無や、売春が強制下で行われたのではないかなどを含めて様々な議論がある。強制的に連れ去られた事実が存在したのか、また存在したとしてそれを行い売春を強要させた主体が日本政府(軍)だったのか、被害者の両親と金銭取引を行い、本人の意思を無視して連れ去った民間業者だったのかで意見が分かれる。

  • 2006年9月13日に米上院外交委員会に提出された慰安婦問題に関し日本政府に謝罪を求める決議案(H.Res.759)は「日本政府は性奴隷にする目的で慰安婦を組織的に誘拐、隷属させた」としており、2007年1月31日に提出された同様の決議案(.Res.121)は「日本政府は「帝国軍への性行為という唯一の目的のために若い女性を職務として連行した」としている。
  • 中央大学教授吉見義明は、秦郁彦が済州島での実地調査で吉田証言がウソであったことが判明したと報告して間もなく、人狩りのようなことは“狭義”の強制連行であるが、詐欺などを含む「“広義”の強制連行」というものも問題であると主張するようになった[67]。後に吉見教授は、自身の見解を質された際に、「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」こと、「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認めている。[117]
  • 小林よしのりは、吉見義明をはじめとする慰安婦制度批判派が、旧日本軍による強制連行を批判してきたのに、証拠が無いとわかっても自説の訂正や謝罪はせず、「広義の強制性」を持ち出してきたことを「論点のすり替え」だとして批判している。[118]
  • 秦郁彦は実質的に強制であるかどうかではなくて、物理的な強制連行の有無が問題だとし、「そうしないと、ある世代の全員が『強制連行』になりかねない。」と吉見義明の「狭義の強制性」論に異議を唱えている。[92]また、「強制連行」については、志願者が多数いたので「強制連行」する必要性はなかったとし、「強制連行」されたという証言は元慰安婦の証言のみで、第三者の目撃証言はこれまで一切なく、2000年の「国際女性法廷」において、配られた60数人の元慰安婦の来歴には誰が慰安所に強制連行したかといういう主語が一切省かれていたと指摘している[53]
  • 『朝日新聞』は1997年3月31日付の社説で、「旧日本軍の従軍慰安婦をめぐって、日本の責任を否定しようとする動きが続いている。これらの主張に共通するのは、日本軍が直接に強制連行したか否か、という狭い視点で問題をとらえようとする傾向だ」と主張。
  • 親日的で知られる日本国籍を取得した韓国出身の日本評論家呉善花は自身がインタビューした「生活者の連帯意識も民族意識や民族愛も強い当時の朝鮮人が、娘たちが強制的に連れて行かれるのを見て黙っているわけがなく、そんな世界で女狩りなんてできるはずがない」 という当時を知る日本人の証言を紹介し、自身が韓国にいた間、「慰安婦」の話を耳にしたことがなかった意味が、ようやくわかったと自著で述べている。 [119]
  • 慰安婦に関する調査を実施した平林博・内閣外政審議室室長や石原信雄官房副長官は、政府の調査おいて、軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような証拠も証言もなかったと国会答弁[51][52]や新聞[77]、雑誌[120]等のインタビューにおいて語っている。
  • インドネシアの抑留所を管理していた第16軍軍政監部は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証するサイン入り同意書を取るように指示していたが、それに反し、ある幹部候補生隊がオランダ人女性35人をスマランの慰安所に強制連行したこと(「白馬事件」)が戦後、連合国によるB,C級法廷で裁かれ、軍人のほかに 、慰安所を経営していた日本人業者のうち、一人が死刑、10人が有罪となったとの記録が残っており、これが強制連行を行なっていた証拠であるとの指摘[121]がある一方、軍は事件後慰安所を閉鎖しており、元もと自由意思で応募する者だけを慰安婦にする方針だったので、むしろ強制連行を行なっていなかった証拠であるとの反論がある。[122]

「公娼」か「性奴隷」か

  • 中国の山西省南部の陸軍病院の軍医として従軍し、朝鮮人慰安婦の性病検査なども行なった湯浅謙(中国帰還者連絡会会員)は、当時の軍人にとって慰安婦は料金も払うし、愛想もよかったので、「公娼」に見えたが、植民地支配下にあって、彼女たちは抵抗することも「強制され連れて来られた」と異議を唱えることもできない状況下にあったので、「性的奴隷」であった旨を語っている。[123]
  • 日本の戦争犯罪・戦争責任を追及しているNGO「日本の戦争責任資料センター」は、「『日本軍慰安婦』制度は、慰安婦たちに居住の自由、廃業の自由、外出の自由や慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった」、「故郷から遠く離れた占領地から逃亡することは不可能だった」などの理由から、「公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、『日本軍慰安婦』制度は、より徹底した、露骨な性奴隷制度であった」旨を主張している。[124]
  • 米会員の対日決議案(H.Res.121)は「強制軍売春という『慰安婦制度』は“残忍さという点で前例のないもの”と認識されており、“20世紀における最大の人身売買の一つ”である」と主張している。
  • 秦郁彦は、慰安婦を「戦前の日本に定着していた公娼制度の戦地版と位置づけるべきだ」と主張している。
  • 商社員として約三年半の間、中国漢口の慰安所について見聞きして来た小野田寛郎は自著[18]で、慰安婦制度の背景について、「兵士も、やはり(女性を求める)若い人間であり、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在した」とし、「『従軍慰安婦』なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。」と述べている。
  • 親日的な著作で知られる韓国の作家、金完燮は「軍隊という血気さかんな若者の集団にどうやって性欲を発散させるかは、どの国の軍隊にとっても重要な問題であり、“性奴隷”というのは反日キャンペーンのために発明された用語だ」と批判している[125]
  • 産経新聞は米軍が1944年にビルマにおける慰安所経営者と慰安婦20人を尋問した報告書では、「すべての慰安婦は以下のような条件で契約を交わして雇用していた」とあることから、商業ベースでの契約に基づいて雇用されていた実を率直に記されているとし、「慰安婦の雇用条件や契約条件が明記されており、慰安婦の女性が一定額の借金を返せば解放されるという条項があるという点で、当時の米軍当局が日本軍の“強制徴用”や“性奴隷”とは違った認識を持っていた証拠になる」と指摘している(報告書の詳細はの#証言・証拠資料の節の「米軍作成の捕虜尋問報告書」を参照)[126]

政治的背景の指摘

  • 軍人に対する売春に従事した婦女は日本に限らず、米国韓国ドイツを含む他国にも存在しており[127][128][129][130]、自国にも存在したにもかかわらず日本のケースのみを韓国[131][132]や中国が殊更取り上げることについては、政治的なカードとして利用するプロパガンダであると日本の右派・保守派は主張している。[132][133][134][135]また、特定の政治的意図を持った日本国内のマスコミや団体や人物などの工作と指摘する声もある。[136][[137],p314][138]また、当時は国が売春を認める「公娼制度」があった時代であり、性に対する倫理感覚、女性に対する人権感覚は現在と違っているのに、過去の歴史の出来事を現在の基準で裁くのは間違いだとの指摘もある。[139]
  • 日韓基本条約で日韓の戦時中の問題は解決を見ているのに、韓国や北朝鮮などが未だにこの問題を非難するのはおかしいという指摘もある。

証言・証拠資料

著作

  • 現代コリア』(1993年2・3月号)紙上で、現代史研究家の加藤正夫が、千田夏光に、『従軍慰安婦』(講談社文庫 1984年)の中の矛盾点を問い詰め、島田俊彦(武蔵大学教授)の『関東軍』(中央公論社 1965年)に載っていた話を引用したとの答えを引き出し、「関東軍特別演習に備え、慰安婦を集めたとことを後方担当参謀だった原善四郎元少佐より直接聞き取った」という旨の記述は嘘であったことを暴露した。その島田の著作も出典はなく「慰安婦を集めた」と記載されているだけであった。
  • 女医の天児都は2001年に出版した自著で、千田の『従軍慰安婦』に裏付けのない記述や矛盾が多いと指摘した。千田は1996年4月、軍医だった天児の父、麻生徹男が自身の論文で娼楼でない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書等)の設立を希望したのに、娼婦が不可欠のものと主張していると誤解し、父親を慰安婦制度を考案した責任者のようにほのめかしてしまったことを娘の天児に謝罪したが、その後も出版元の三一書房と講談社はその部分を改訂しなかったという。天児は「慰安婦問題」は千田の誤りを検証しないまま、それを事実として書かれた後の著作によって誤りを再生産して日本中に広め、それが海外へ流出して日本叩きの材料とされた事件だ」という旨を述べている[127]

加害証言

現在の所、慰安婦を強制連行したという公になされた加害証言は吉田証言のみとされているが、その吉田証言はその信憑性が問題視され、慰安婦問題を批判する側からも採用されなくなりつつある。

吉田証言

自著で、韓国の済州島において、慰安婦にするための205人の女性を強制連行したと告白し、日本、韓国、アメリカなどで、何度もそのことを証言して来た。自著では当時の命令書の内容まで詳細に記載していた。初めての、かつ今日まで唯一の加害証言として旧日本軍の慰安婦に対する強制連行の有力な証言として、扱われてきたが、秦郁彦、中村粲板倉由明上杉千年らの歴史学者の検証によって、その証言をはじめ、吉田の語っていた軍の命令系統から本人の経歴に嘘や矛盾があると指摘された[66][140][141]ため、旧日本軍による「強制連行」を否定する側からは捏造だと批反されている。

  • それらの証言に対する検証にやがて、吉田本人も慰安婦狩り自体を行なったということまでは否定していないが、時と場所だけは創作を交えたので事実ではないことを認め、その後も真実は明かしていないため、慰安婦制度を批判している吉見義明[142]上杉聰(日本の戦争責任資料センター事務局長)[143]も「吉田証言」は歴史証言としては採用できないとしている。
  • 秦郁彦によれば、1998年9月2日、吉田に電話で「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと勧めたら、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら……このままにしておきましょう」との返事だったという。[24]
  • 付属文書で、当時の日本の慰安婦制度を国際法違反であるとした国連人権委に提出された「クマラスワミ報告書」は吉田証言を強制連行の証拠として引用している。
  • 米国下院が慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書(2006年4月10日付)に「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記されていた。改訂版の報告書(2007年4月3日付)では「吉田証言」が削除された。

元慰安婦の証言

  • 韓国で初めて慰安婦であったことを証言した金学順を初め、慰安婦と名乗り出た者の証言の中に矛盾があるとして、その証言の信憑性を疑問視する指摘がこれまである[144](秦郁彦は雑誌『諸君』(2007年5月号)などで氏名不明の旧軍人との証言の突合せなどにより疑問を提起している。
  • 吉見義明は1997年、研究者も強制連行であるとしていない文玉珠に対し、強制連行ではないと主張しても研究上では意味をなさないとしている。[56]
  • 1993年の韓国の挺対協などによる調査において、文玉珠の証言はそのときの最も明白な強制連行証言であった。それ以前の訴状には、騙されて掠われたことになっている。
  • ハイナンNET[145]による台湾元慰安婦の調査報告や石田米子・内田知行らの著作[146]によれば、最近の調査では1人の元慰安婦に数時間のインタビューを数回行い、日時・場所などについては他の資料とつき合わせて確認しており、研究者は証言の信頼性を確認しながら調査を行っているという。
  • 河野洋平は官房長官として慰安婦に対する軍の強制性を認めた談話を発表した後、1997年3月31日付の『朝日新聞』のインタビューにおいて、「半世紀以上も前の話だから、その場所とか、状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる。相当な強圧があったという印象が強い。」と語っている。
  • 1992年、ソウル大学教授の安乗直ら「挺身隊研究会」が慰安婦と名乗り出たうちの生存者55人中約40人に聞き取り調査を行なった。このとき一人あたり5、6回以上の長時間の面接調査、記録資料との確認、スタッフは報告書を3回以上輪読、その後の再面談、を経てまとめられたという。結果は半数以上が「意図的に事実を歪曲していると感じられる」などの理由から脱落し、最終的に証言集に掲載できたのは19人であった。この調査報告書では強制連行は詐欺(主)を含めて大部分だとしている。([38] p26p27)
  • 現代朝鮮研究者の西岡力は、雑誌『WILL』で上記の証言集に掲載できた19人のうち、官憲等による「強制連行」だったと証言する女性は4人だけであり、その4人のうちの2人が自分が連行されたと語った慰安所は実際には実在しないことが判明。残りの金学順と文珠珠の二人は両名共、日本政府を訴えた裁判の訴状では元「キーセン」であったことを述べており、西岡が『文藝春秋』紙上でこのような指摘した後、金学順は「キーセンに売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」とそれまでの証言を変えたという。[85][54]
  • NHK職員(当時)の池田信夫1991年にNHKの終戦に関する番組制作のため、韓国で数十人の強制連行されたという関係者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかったという。[79]
  • 1993年、宮沢内閣は「河野談話」発表の前に、韓国政府の強い要請を受け、元慰安婦16人の証言を聞いた。この元慰安婦の人選は韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」が行い、証言書には福島瑞穂弁護士などの立会い人が付き添った。日本政府はこの証言に対しては質問することも、裏付け調査をすることも許されず、この調査における慰安婦の氏名も証言内容も非公開とされたという。[147]

日本政府・軍関係

河野談話

日本政府が慰安婦に対する強制性を公式に認めた談話ではあるが、その意義や根拠について賛否両論を呼んでいる。

  • 慰安婦裁判において、1998年4月の「関釜裁判」で山口地裁下関支部は河野談話の発表後、国会議員に賠償立法の義務が生じたとし、国の立法義務、立法の不作為を認め、国に対し、「慰安婦」側の損害賠償の訴えを一部認めた(結果的には控訴審で棄却されることになる)。
  • 秦郁彦は「日韓基本協約」において、日本は韓国に経済協力を支払ったが、当時の韓国政府は慰安婦に対する補償はまったく念頭になかったが、後に元慰安婦の補償を求める声が高まったため、補償はするが日本は慰安婦に対する「強制連行」を求めよとの要請に、(日本が「強制連行」したともしなかったとも取れる)玉虫色の「河野談話」が出されたと主張している[53]

(詳細は「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」を参照)

軍関係者の証言

  • 宮沢内閣の慰安婦に関する二次に渡る調査において、元慰安婦を強制的に連れてきたという人の証言を得ようと探したがなかったと元内閣官房副長官の石原信雄は語っている。[77]
  • 「クマワスワミ報告書」においても、「慰安婦の募集に関する公文書はなく、証拠は元慰安婦の証言だけである」旨を記している。[24]

日本の資料

  • 1934年3月、陸軍省兵務局兵務課が立案し、梅津陸軍次官が決裁した『軍慰安所従業婦等募集に関する件』とする通牒が北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛てに出されていることが、旧日本軍が慰安婦の募集や慰安所の運営、管理に関与していた証拠である[148]と吉見教授が主張し、『朝日新聞』が1992年に一大スクープとして取り上げたが、これに対して、漫画家小林よしのりは「慰安婦を誘拐まがいの募集を行なう業者がいるから注意せよという「関与」を示すものだ」と「よい関与論」を唱え反論した。しかし後に、これは、これに先立つ警察資料「支那渡航婦女の取り扱いに関する件」(警保局長通牒)1938-2-23などのそれ以前の流れから読むべきであるという指摘がなされている。[149]
  • 1938年内務省が各庁府県長官に宛てた通達では、中国に渡航させる慰安婦は満21歳以上の、現役の娼妓や醜業を営む女性に限定し、身分証明書の発行の際には、婦女売買または誘拐などがないかよく注意することや、募集に際し、軍の名をかたったり、募集の広告宣伝をする者、虚偽や誇大なことをいう者も厳重に取り締まるよう命じている。[150][151]
  • 旧日本軍の慰安婦に関する関与を認めた「河野談話」発表に至る経過をめぐり、1997年1月と3月に、調査を実施した平林博・内閣外政審議室室長は、国会において「政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかった 」と答弁。同年3月には当時宮沢内閣の内閣官房副長官であった石原信雄も『産経新聞』のインタビューで、「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない。」と明かした。
  • 朝鮮半島・台湾などでは国家総動員法に次ぐ国民徴用令に基づいた挺身隊(女子の動員は1943年9月から)から、植民地女性を中心に慰安婦にさせられた場合があったとされているが、当人の証言以外には証拠は見つかっておらず、命令書等の公文書も存在しない。
  • 慰安婦問題を批判する側からは、「強制連行」を指示する資料が見つからないのは旧日本軍が証拠資料を既に処分したという主張がなされている。河野洋平も2007年3月、「従軍慰安婦の徴集命令に関する旧日本軍の資料は「処分されていたと推定もできる」と指摘している。[152]吉見義明は焼却された政府資料があり、まだ公開されていない資料もあるとしている[39]
  • 「日韓基本協約」の締結に至る過程での日韓の懸案事項についての話し合いにおいて、「慰安婦問題」は一切持ち出されていない。

韓国の資料

韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』では朝鮮戦争中の韓国軍慰安婦や慰安所についての記録や統計がなされている[1][2]

海外の資料

米軍作成の捕虜尋問報告書

日本人がどのようにして韓国人「慰安婦」を募集したか、彼女らの生活、仕事の状況、彼女らの日本軍人に対する関係と反応、そして彼らの軍事情勢に対する理解度を明らかにする目的で、北ビルマ(現:ミャンマー)のミートキーナー(ミチナ、Myitkyina)で捕虜となった慰安所経営者の日本人夫婦及び朝鮮人慰安婦20名に対して、米国陸軍の戦争情報局心理作戦班が”UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S.Army Forces”[153](「戦闘地域の日本軍の売春所」 米国立公文書館所蔵)と題する報告書を1944年9月に作成、同年11月、米軍の東南アジア翻訳尋問センターが作成した尋問報告書の中に含まれていたこの報告書は、29年後の1973年に公開された。[126]

主な内容
  • 「慰安婦」とは、日本軍に特有の語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦もしくは「職業的野営随行者」(professional camp follower)に過ぎない。日本軍は1942年にこのような朝鮮人慰安婦を703人ほどビルマに向けて出航させたと報告されている。
  • 1942年5月上旬、日本の斡旋業者が、日本が新たに勝ち取った東南アジアの属領で、「慰安奉仕」をさせる韓国人女性を徴募するために朝鮮に赴いた。この「奉仕」の中身は明らかにされていなかったが、病院で負傷者を見舞ったり、包帯を巻いたり、一般的に兵士を慰労すること考えられていた。、「多くの収入が得られる」、「家族の借金を返すことがでる」、「簡単な仕事」、「新しい土地(シンガポール)で新しい生活が出来る」などの斡旋業者の偽りの誘い文句によって、多くの少女達が海外での仕事に応募し、前金として数百円が与えられた。
  • 彼女らの大半は無知で教育も受けていなかった。以前から「地球最古の職業」(売春)に関係していた者もわずかながらいた。
  • 彼女らは、家族の借金返済の為に前借りした借金額に応じて6ヶ月から1年、軍の規則と慰安所の経営者のための仕事に従事する契約に署名した。
  • 約800人の少女達が集められ、日本人の慰安所経営者と共に1942年8月20日にラングーン入りした。彼女らは8人から22人のグループに分けられ、大抵はビルマの各地の軍拠点の近くの街に派遣された。
  • ミッチーナでは、彼女らは通常2階建ての大きな建物に住んでおり、個室で生活し、仕事をした。食事は慰安所経営者が準備した。
  • 彼女らはほしいものを買えるだけの多くのお金を持っており、暮らしぶりは良好であった。彼女らは、服、靴、タバコを買えたし、実家から慰問袋を受け取った多くの軍人からの多くのプレゼントで化粧品をまかなえた。
  • 将兵と共に、スポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等を楽しんだ。蓄音機も持っており、買い物に行くことも許された。
  • 接客を断る自由もあり、軍人が泥酔していた時には断ることもしばしばあったった。
  • 彼女らの健康状態は良く、各種の避妊用具を十分に支給されていた。
  • 決まった日本軍医が週1回訪れ、病気が見つかった女性は全員治療を受け、隔離され、最終的には病院へ送られた。
  • 日本の軍人からの求婚が極めて多く、中には実際に結婚した者もいた。
  • 慰安所経営者は彼女らが契約時に借りた借金額に応じて、彼女らの総収入の50~60%を受け取っていた。すなわち、彼女らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済した。さらに、多くの経営者は慰安婦の食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を大変厳しいものにした。
  • 1943年後半、陸軍は借金を返済した女性に帰省を命じ、何人かの女性は韓国へ帰国することをゆるされた。
  • 連合軍の爆撃のため、慰安婦らは捕らえられる直前には、ほとんど壕の中で過ごした。1~2名の慰安婦はそこでも仕事を続けた。慰安所は爆撃に遭い、何人かの慰安婦は負傷したり、死亡したりした。

同報告書を巡る議論
  • 秦郁彦は、同報告書を「資料的価値は高い」と評価としている。[66]
  • 小林よしのりらは、『新ゴーマニズム宣言』において、同報告書の内容は、それまでに伝えられていた慰安婦の生活状況が悲惨であるということとは程遠く、むしろ恵まれていたのではないかと主張している。
  • これに対して京都大学(永井和研究室)の白石秀人[154]は、「慰安婦の容姿が水準以下であるとか、無知でわがままであるとか、慰安婦自身が答えている」[155]、「『彼女たちの暮らし向きはよかった』とある一方で、『彼女たちは生活困難に陥っていた』との記載もある」。[156]などと、報告書自体の不自然さや矛盾と思うものを指摘し、また慰安婦の待遇が良かったという例はこれ一つ位しか見あたらず、これをもって全慰安婦らの生活が良好であったかのように主張するのは論理が飛躍していると反論している。
また、白石はその中で、吉見が「秦氏らが比島軍政監部の慰安所規定などの「一次資料」を無視して、前記米軍の資料を使用している」と批判しているとも言う。
  • 旧日本軍には:ビルマ・マレー・インドシナ・フィリピン・オセアニアなど様々な方面軍があり、最終配置としては南方8方面が知られ、1992年、1993年発表の政府資料には、マレー、ビルマ方面の慰安所規定がある。
その一つ、1943年の中部ビルマのマンダレー(2007年現在のビルマの首都)の駐屯地慰安所規定1938-5-26によれば、「慰安婦の他出に際しては、経営者の証印ある他出証を携行せしむるものとす」([30]4巻,P290)とあり、 料金時間は下兵30分、他に「慰安所における軍人軍属など使用者の守るべき注意事項」として、 「過度の飲酒者は遊興せざること」「従業員(慰安婦を含む)に対し粗暴の振る舞いをなさざること」「サック」を必ず使用し確実に洗浄を行い性病予防を完全ならしむること」([30]4巻,p293など)「違反者は慰安所の使用停止のみならず、会報に載せられ、その部隊の使用停止につながりうる」([30]4巻,286頁)という規定が存在する。[157]

その他の資料

「慰安婦」訴訟

韓国人、中国人などを中心に、元慰安婦であると名乗り出た人々がこれまでに強制的に慰安婦にされたとして、日本政府に対し、謝罪と賠償を求める訴訟を起こして来たが、時効除斥期間の経過、大日本帝国憲法が定めていた「国家無答責の法理」(官吏が公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする)、「個人を国際法の主体と認めない」などの理由で全て敗訴している。

  • 慰安婦側の請求が唯一認められたのは、「釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」(関釜裁判)における一審判決(1998年4月27山口地裁下関支部)であり、原告らが売春を強制されたことを事実認定し、国の立法義務、立法の不作為を認め、「慰安婦」一人あたり30万円の支払いを命じ、一部ながら国の責任を認めた判決として注目を集めた。しかし、控訴審(2001年3月29日、広島高裁)は、一審判決を破棄し、原告に対して、立法行為への規制が司法判断になじまない事、該当事項に関する立法責任が明文化されていない事などを理由に慰安婦側の請求を「全面棄却」。最高裁への上告(2003年3月25日)も棄却され、最終的には慰安婦側の敗訴が確定した。
  • 在日韓国人女性が1993年4月に東京地裁に提訴した謝罪・補償請求訴訟で、2000年11月に東京高裁は原告の請求を棄却する判決を出した。この際、判決効力に関連のない傍論[158]において、裁判長は旧日本軍の慰安婦に対する行為が国際法違反であるとの意見を述べた。原告は「国際法違反であるとの判断を示したこと」については僅かながら評価したが判決を不服として上告したもの敗訴した。なお、この傍論をもってVAWW-NETジャパンなどの一部勢力は「国際法違反であると認定された」と解釈しているが、日本同様に国際社会においても、この慰安婦問題に対する評価は確定していない。

「慰安婦」と外交問題

日本政府の対応

  • 1965年日韓基本条約により、日本と韓国の間の請求権の問題は法的に解決されたとことになっている[159]ため、日本政府は、医療・福祉支援事業や民間の寄付を通じた「償い金」の支給などの元慰安婦に対する償い事業のために、1995年、「女性のためのアジア平和国民基金」を設立。運営経費や活動資金を負担した。歴代総理からのお詫びと反省の手紙[160]を各慰安婦に送った。フィリピン、韓国、台湾において、計285名の元慰安婦に対し、一人当たり200万円の「償い金」を贈るほか、医療・福祉支援事業を実施。元慰安婦の認定が行われていないオランダに対しては現地の慰安婦関係者に対する生活改善支援事業に対し援助。元慰安婦の特定が困難であるとするインドネシアに対しては、同国政府の行う高齢者社会福祉事業を援助した。韓国や台湾では日本政府に対し、「法的責任を認め、国家補償を行なえ」という主張を掲げる運動体の影響が強く、「アジア女性基金」を受け取ろうとする元慰安婦に対して、受け取るべきでないと圧力が加えられたり、政府や民間団体が「基金を受け取らないと誓約すれば300万円・200万円を支給する」ことを表明したため、韓国では半数以上の元慰安婦が受け取りを拒否した。[161]

慰安婦に対する海外の認識

韓国

  • 2004年2月、韓国国内で挺身隊(韓国では慰安婦の意)をテーマにした映像・写真集が民間業者によって企画・撮影されたが、被写体の女性が上半身裸であったことから「商業的ヌードに挺身隊のイメージを利用するのは冒涜だ」と市民から猛抗議が起きた。結果、企画は中断されることとなったが、未だに韓国で慰安婦問題が大きな問題として存在していることを象徴する事件であった。

欧米

  • 欧米の研究者は慰安婦を“性奴隷”として捉えている人物が多い。ジョージ・ヒックス(George Hicks)の著作”The Comfort Women”はその信憑性が破綻している吉田証言に依拠していると言われ、アンドルー・ゴードンはヒックスを重視してまとめたという。国連報告をまとめたクマラスワミ報告も参考文献はヒックスのみに依拠しているという[24][162]。また同じく国連で報告書をまとめたマクドゥーガル報告書は慰安所を等しくレイプセンターと呼び、慰安婦20万のうち3分の4の朝鮮人慰安婦が死んだとしていることについて「アジア女性基金」は自民党代議士の放言に過ぎず、まったく根拠のない主張と批判している。[40][163][164]
    英語版ウィキペディアなどの欧米言語版では性奴隷の訳語に当たる「sex slave」等が用いられている。国連の他の問題においても性奴隷という言葉が用いられるが、1992年以降、日本弁護士連合会は、NGOと共に国連において慰安婦問題を性奴隷として扱うように働きかけ、1993年のウィーンの世界人権会議において性的奴隷制という用語が国連で採用されたのが始まりであると語っている。[165]

参考文献

政府資料

慰安婦制度の批判論者の文献

  • 大韓民国の物語 李榮薫著 永島広紀訳 文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101
  • 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 (編集)、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク (翻訳) 『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』 明石書店 (1993年11月) ISBN 9784750305486
  • 千田夏光 『従軍慰安婦―"声なき女"八万人の告発』(双葉社1973年)、三一書房 1978年 9月 ISBN 9784380780127
  • 吉田清治 『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』 三一書房 1983年1 月 ISBN 4380832317
  • 吉見義明 『従軍慰安婦資料集』 大月書店 1992年12月 ISBN 9784272520251
  • 吉見義明 『従軍慰安婦』 岩波新書 1995年 4月 ISBN 4004303842
  • 吉見義明 ・川田文子 『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』 大月書店 1997年 6月 ISBN 4272520504
  • 吉見義明・林博史他 『共同研究日本軍慰安婦』 大月書店 1995
  • 倉橋正直 『従軍慰安婦問題の歴史的研究』 共栄書房 1994年
  • ジョージ・ヒックス 『性の奴隷従軍慰安婦』 三一書房 1995
  • 池田恵理子他 『慰安婦戦時性暴力の実態1:日本・台湾・朝鮮編』 緑風出版 2000
  • 池田恵理子他 『慰安婦戦時性暴力の実態2:中国東南アジア太平洋編』 緑風出版 2000
  • 朱徳蘭 『台湾慰安婦関係資料集』第1巻・第2巻 不二出版 2001
  • 尹明淑 『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』 明石書店 2003
  • 鈴木裕子 『日本軍「慰安婦」関係資料集成』上下 明石書店 2006
  • アジア女性資料センター編 『「慰安婦」問題Q&A編―「自由主義史観」へ 女たちの反論』 明石書店 1997
  • ゲイ・J. マクドゥーガル他著、バウネットジャパン訳『戦時・性暴力をどう裁くか―国連マクドゥーガル報告全訳』凱風社 2000
  • 国際法律家委員会著 『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』 明石書店 1995
  • VAWW-NETジャパン他著『裁かれた戦時性暴力―「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」とは何であったか 』白沢社 2001

慰安婦制度を問題視することに否定的な論者の文献

  • 秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』 新潮社 1999年6月 ISBN 4106005654
  • 藤岡信勝『自虐史観の病理』文藝春秋
  • 西岡力『よくわかる慰安婦問題』草思社
  • 西岡力 『日韓「歴史問題」の真実 「朝鮮人強制連行」「慰安婦問題」を捏造したのは誰か』 PHP研究所 2005年6月 ISBN 9784569643168
  • 阿部晃 『日本人なら知っておきたい「慰安婦問題」のからくり』 夏目書房 2005年5月 ISBN 9784860620394
  • 大師堂常慰 『慰安婦強制連行はなかった―河野談話の放置は許されない』 展転社 1999年 2月 ISBN 9784886561633
  • 黄文雄『「従軍慰安婦」問題』WAC

脚注

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注意:2009年5月の合意により、脚注をスクロール表示にしたい場合は各自Scrolled Reflistというガジェットを利用し、Template:Reflistのscrollパラメータは使用しないことになりました。この注意文を取り除くには、{{reflist|scroll=1}}から"|scroll=1"の部分を除去してください。なお、{{Reflist}}を使っている項目の脚注部分にはclass名として「reflist」が指定されていますので、ウェブブラウザのユーザスタイルシートにMediaWiki:Gadget-ScrolledReflist.cssの内容を転記すればIP利用者でも同等の効果を得ることができます。

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関連項目

外部リンク




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