宇都宮市60周年誌・・昭和35年3月1日発行・宇都宮市立図書館所蔵・・同誌・37
ページ・第2節 上古の宇都宮
●上古の宇都宮の記述を読んで、伝説ではあるが日本武尊が宇都宮に立ち寄られ、
また日光山にも登られたとの内容が書かれていた。しかも、県内の上三川・足利等
に尊に関する遺跡と称せられるものがあるとのこと。
引き続き調査研究することとしたい。
その記述を転載します。
●その昔、宇都宮地方は京畿を距てることが遠かったから、王化にうるおわず、互
いに争い、良民は蝦夷に悩まされていたのであろう。
ために崇神天皇の48年(西暦BC50・日本書紀48)に、第一皇子豊城入彦命が東国に
遣わされたのである。すなわち、命は詔にしたがって東国地方開拓鎮撫のためはる
ばる下向し、深林・池沼の多い未開のこの地方にまで進まれたのであった。
●時に蝦夷たちは東北に敗走し、あるいはしたがってこの地方にとどまる者もあ
り、この地方も穏やかとなってはじめて大和国家の支配下に属することになった。
このとき命は御諸山大三輪の神体を荒尾崎(下の宮)に安置し、高田邑(本丸の地)に
御所を設けたのである。
●こうして豊城入彦命は下毛野君・上毛野君の始祖となったので、子孫はこの地方
の国造となり、良民の安どをはかられたのである。下野国が統一されて政治が行わ
れたのはこのころからであるといわれる。
●しかるに、景行天皇の御代に、東国の蝦夷の中にまだそむく者があったので、天
皇は武内宿禰を東北諸国につかわして民情視察をさせ、次いで日本武尊をつかわさ
れた。このとき尊が下野国に下向されたということは記録にはないが、水戸から日
高見の国に進まれてまつろわぬ者をしずめ、帰途宇都宮に立寄られて豊城入彦命の
御偉業をしのばれ、また、日光山にも登られたとも語り伝えている。すなわち、そ
のときの尊のお道筋とも考えられる高椅・上三川・植野・足利(今福)などに尊に関
する遺跡と称せられるものがあるので、あるいは下野から上野・武蔵へと進まれた
のではないかと考えられるからであろう。
●宇都宮二荒山神社社務所から、神社の起源等を記載した小冊子「明神さま」を入手した。
その中に略年表があるので投稿します。
![](/contents/020/266/986.mime4)
![](/contents/020/266/987.mime4)
ページ・第2節 上古の宇都宮
●上古の宇都宮の記述を読んで、伝説ではあるが日本武尊が宇都宮に立ち寄られ、
また日光山にも登られたとの内容が書かれていた。しかも、県内の上三川・足利等
に尊に関する遺跡と称せられるものがあるとのこと。
引き続き調査研究することとしたい。
その記述を転載します。
●その昔、宇都宮地方は京畿を距てることが遠かったから、王化にうるおわず、互
いに争い、良民は蝦夷に悩まされていたのであろう。
ために崇神天皇の48年(西暦BC50・日本書紀48)に、第一皇子豊城入彦命が東国に
遣わされたのである。すなわち、命は詔にしたがって東国地方開拓鎮撫のためはる
ばる下向し、深林・池沼の多い未開のこの地方にまで進まれたのであった。
●時に蝦夷たちは東北に敗走し、あるいはしたがってこの地方にとどまる者もあ
り、この地方も穏やかとなってはじめて大和国家の支配下に属することになった。
このとき命は御諸山大三輪の神体を荒尾崎(下の宮)に安置し、高田邑(本丸の地)に
御所を設けたのである。
●こうして豊城入彦命は下毛野君・上毛野君の始祖となったので、子孫はこの地方
の国造となり、良民の安どをはかられたのである。下野国が統一されて政治が行わ
れたのはこのころからであるといわれる。
●しかるに、景行天皇の御代に、東国の蝦夷の中にまだそむく者があったので、天
皇は武内宿禰を東北諸国につかわして民情視察をさせ、次いで日本武尊をつかわさ
れた。このとき尊が下野国に下向されたということは記録にはないが、水戸から日
高見の国に進まれてまつろわぬ者をしずめ、帰途宇都宮に立寄られて豊城入彦命の
御偉業をしのばれ、また、日光山にも登られたとも語り伝えている。すなわち、そ
のときの尊のお道筋とも考えられる高椅・上三川・植野・足利(今福)などに尊に関
する遺跡と称せられるものがあるので、あるいは下野から上野・武蔵へと進まれた
のではないかと考えられるからであろう。
●宇都宮二荒山神社社務所から、神社の起源等を記載した小冊子「明神さま」を入手した。
その中に略年表があるので投稿します。
韓国はすぐ起源主張してほんと胸が痛い思いをさせられます。
追伸
本ブログ記事に「明神ささま」と書かれてますがミスだと思いますので修正したほうが良いかと思われます。
トイレ行く暇ある?
息吸う暇ある?
必死な人でなしジジイ
688 :名無しさん@十周年:2009/06/05(金) 10:16:01 ID:Ebmw7KC6O
森下昭雄ジジイVS2ちゃんねらーの大部隊
削除必死でトイレにも行けず飯も食えない顔真っ赤ジジイw
睡眠はどうするんだろ?ww
笑えるから今日は一日、皆で突撃だろw
冤罪だよ〜
何件えん罪を作って来たんだ?
これが初めてじゃなかろう
こんなえん罪をやるくらいだから、
若い女性被疑者を麻薬中毒にしたり、
強姦したりも
したことあるんじゃないか?
間違いは誰にでもあるもので、第三者としてhそれが生み出される状況を知りたいのです。
取り返しのつく間違いと取り返しのつかない間違えがあると思います。
当時としては、おたくさまは一生懸命仕事をされたと思います。
ですが、それが間違いであった事もまた、別の方が一生懸命仕事をされた結果、その証です。
それを否定するのは、間違いを重ねているだけだと思います。
償う事が出来ない誤りに、蓋をしてしまいたい、弱い気持ちは人として仕方のない事だとも思います。
ですが、例え償う事が出来ないとしても、その間違いを教訓とし、活かしていくような方法もあると思います。
いち国民として知りたいのは、なぜ冤罪が生まれてしまうのか、
冤罪に限らず、捜査の怠慢や思い込みから、本来捜査されるべき事柄が事件性なしとされ、流されてしまうこと(同じ栃木の栃木リンチ事件など)も、問題の根幹は一緒である様に思います。
警察への不信感は募るばかりで、そうした繰り返しは、一生懸命やっている警察官や、大きな志をもって警察官になろうとしている方。
それらの努力を踏みにじるように思えるのです。
また、捜査をされるにあたり、今回の被疑者として誤認逮捕された方は無実であっても、
事件そのものと、被害者のお子様がいること、別の真犯人がいること、これらは全く、消せない事実です。
奪われた17年間、そのご家族、ご親戚の心痛と共に、
亡くなられた被害者、そのご家族、ご親戚の心痛もまた、
冤罪が証明されたと同時に、より一層、深くなられていると思います。
その一因は、当時の捜査体制や、警察の手法にあるならば、
同じ過ちを繰り返さないように、自らの失敗を検証し、後輩や、国民に伝えていくべきではないですか。
青二才ながら、目上の方に意見を申し上げさせて頂きました。
目を逸らす事に、蓋をする事に慣れてしまったら、決してこの事件は教訓になり得ないし、
おたくさまのなされた仕事も、冤罪被害者も、亡くなられたお子様も、そして、警察官として働く方々も、
なにひとつ報われる事は、ありません。
ぜひ勇気をもって、一度、第三者の視点で、
事件について振り返ってください。
そして、願わくば、必ずいる真犯人を捜し、被害者家族に報告をしてあげてほしいです。
いち国民として、切に願います。
お前の犯した犯罪は消せないぞ
お前は犯罪者だ
この状況はしばらく続くと思われますので、
当分の間、コメント欄の書き込みが出来なくするようにした方がいいと思います。
又は、こちらのブログはしばらくの間停止してはいかがでしょうか?
証言デッチ上げてアリバイ揉み消してんの。
ソースはこちら。反論してね、モリリン♪
http://www.watv.ne.jp/~askgjkn/fri.htm
県警では、200名以上の体制による捜査本部を設置して、警察の威信・存在をかけての懸命の1年半に及ぶ捜査の結果、平成3年12月2日被疑者菅谷利和(当時45歳)を逮捕した。
その後、数次の裁判を経て、平成12年7月17日、最高裁判決により上告棄却により無期懲役刑が確定した。
平成14年12月25日、宇都宮地裁に再審請求していたが、本日再審請求棄却が決定されたものである。当時、県警の刑事部長・捜査本部長として捜査に携わった者として、感慨無料であります。当時として、最高、最善の捜査を尽くしたものであり、誤りでないことを再確認していただいたものと思っております。
以下、捜査当時を振り返っての新聞記事を掲載します。
※1990年(平成2年)5月15日付け、下野新聞の論説「必ず犯人の仮面はがせ」では、必検の信念を鼓舞され勇気づけられました。・・・・・・・・」
まったく反省していないな?
この人でなしめ!!
お前はまず
菅谷さんに謝罪すべきだ
その後
潔く腹を切れ
どこまで最低な人間なんですか
当時の新聞記事などを貼付けて、
当時如何に自分が世間から評価されたかをブログで強調しているが、
捜査自体が誤りで、えん罪にしてしまったこと、真犯人を取り逃がしてしまったことに対する
言い訳になるはずもなく、
見苦しい自己肯定に終始し、謝罪の言葉の一切がない。
このあたりに警察官という人種が、いかに世間からズレた存在か、
非常識で信用できない人種であるかを感じる。