私のボランティア

ボランティアは、私の最高の生きがいです。

江戸時代の宇都宮の名所である七水の一つ「明神の井」を撮る。

2009年01月29日 11時36分45秒 | 生涯学習
 1月27日(火)午後1時半過ぎ、郷土史研究のため、江戸時代から宇都宮の名所に

主な湧き水を「七水(しちすい)」、「七木(しちぼく)」「八河原(はちがわ)を選ん

でいました。その詳細は、以前投稿したとおりであるが、七水の一つである「明神

の井」を現地調査した。

 次の通り資料の説明では、「今でも、清らかな水がくみ上げられていま

す。」となっていますが、残念ながら水は枯れていた。

 ●宇都宮は、地形の関係で湧(わ)き水が多く、江戸時代の人々は、七つ選んで  これとあわせて「七木(しちぼく)」「八河原(はちがわら)」などを選んで名所  としました。この「明神の井」は七水の一つで、明治天皇がおいでになったとき  さしあげた、茶湯(ちゃゆ)に使われました。また、この水を使うと書道が上  達(じょうたつ)するという言い伝えが残っています。今でも、清らかな水が  くみ上げられています。










※明神の井の前に記念植樹の石碑がある。そこに「迪宮親王殿下御降誕記念 国幣中社二荒山神社境内」と刻字されていた。昭和天皇ご誕生記念樹であり、樹齢は84年になります。 

●迪宮というのは幼少時の称号である。
 この称号は皇太子となった時点でなくなる。また、親王は敬称である。
 つまり、迪宮裕仁親王殿下→皇太子裕仁親王殿下→裕仁天皇陛下→昭和天皇とい うことである。



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宇都宮市指定文化財の「二荒山神社『太々神楽』」を鑑賞する。

2009年01月28日 17時56分53秒 | 生涯学習
 平成21年1月28日(水)午後1時30分から3時まで宇都宮の二荒山神社で『太々神

楽』が奉納された、恵比寿の舞と蛇の舞を初めて鑑賞し写真に撮った。
 
 資料によると、下野国一之宮、宇都宮二荒山神社で『永代太々神楽祈祷祭』が齋行される。宇都宮市無形文化財の「宇都宮二荒山神社太々神楽」は、江戸時代中頃から続いている上演奉納神楽。江戸系統に属する神田流(浅草の若山に始まる)の流れをくみ、神社では宮比流(みやびりゅう)太々神楽と称しており、1月、5月、9月の28日に奉納される。娯楽の少なかった時代、神楽は人々の楽しみのひとつであり、老若男女が境内を埋め尽くしたとか。宇都宮大明神と呼ばれ宇都宮発祥の由緒ある神社に伝わる神楽であり、舞も18種、舞面も40種と市内の神楽の中で最大の規模を誇っている。舞面も、それぞれ「明治4年高田運春」の銘があり、貴重なもの。宇都宮二荒山神社の祭神、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、毛野國(栃木県、群馬県)を拓いたという郷土の祖神。

※神楽殿は、境内の北側に南向きに建てられていた。かなり古く軒下等の彫刻が素晴らしかった。
 境内には、おみくじを結わえた木や「合格・安産・商売繁盛・健康等」願木札がたくさん掲げられていた。

























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瀧尾神社の由緒沿革等を調査する。

2009年01月25日 22時02分51秒 | 生涯学習
 1月25日(日)午後、宇都宮市立図書館3階へ行き、平成18年栃木県神社庁創立60周

年記念に刊行した「栃木県神社誌」により過日投稿した「瀧尾神社」の由緒沿革等

を調査した。

 10年がかりで発刊しただけあって分厚く、2冊に県内のすべての神社の由緒沿革

等をはじめ、神道についての専門家の歴史的文献が記載されてあった。

 それによると、

 「当地の住民は、弘仁11(820)年に弘法大師が日光二荒山神社の別宮として瀧尾

 山に創建した瀧尾神社を信仰していたが、遠方にあるため、仁寿2(852)年に分霊

 し、鎮守として祀ったのが当社である。明治11年に奉納された明神造石製鳥居一

 基、同43年に奉納された石製狛犬一対と石製灯籠八基がある。」

と記載されています。

 末尾に、そのコピーを転載します。

 ※瀧尾神社の境内に建立してある「秀農 篠崎君 功績碑」に

ついて、陽光地区まちづくり推進協議会の事務局長 佐藤 孝氏の説明によると、

以前、宇都宮市内一里地内にあったものを目立たないからといって移設したとい

うことでした。

 さらに、本年3月発行される「陽南三地区の歴史」の中に、瀧尾神社の記載があ

るようです。


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栃木県防衛協会主催ニューイヤーコンサートを鑑賞する。

2009年01月24日 18時51分54秒 | 生涯学習
 1月24日(土)午後2時から宇都宮市文化会館・大ホールにおいて栃木県防衛協会主

催・陸上自衛隊中央音楽隊演奏のニューイヤーコンサートを鑑賞した。

 定員2000名のところ立錐の余地のない満席でした。

 今年は第4回目のニューイヤーコンサートのことですが、娘からの入場整理券に

より妻ととともに入場した。

 世界的にも名高い日本有数の音楽隊だけあって、音の響きの素晴らしさに感動し

ました。













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「PCになぞらえて脳を鍛える7原則」に共感する。

2009年01月24日 12時01分07秒 | 生涯学習
 雑誌「日経パソコン」を愛読しておりますが、平成20年12月8日号の123ページ登

載・焦点・久米信行氏投稿記事「「PCになぞらえて脳を鍛える7原則」に共感しま

した。

 それは、PCとお付き合いして10年以上経ち、更にブログを開設してから2年以上

になるので、その内容が記載されている。

 特に、「出力するほど入力が増える不思議」の2原則目に共感した。情報発信(=

出力)するほど入力も増える。という件です。

 そして、結論として、

 「脳を活性化させたいなら、パソコン漬けより、自然や人に接して、体と心つわ

動かす方がよさそうだ。そして日々感動を発信してすっきりした後、よく寝て忘れ

る方がひらめきそうだ。」

 という結びの言葉に共感しました。これからもそのように実践したいと思いま

す。


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宇都宮市江曽島町所在の滝尾神社初詣

2009年01月23日 12時14分12秒 | 生涯学習
 1月22日(木)午前11時過ぎ、宇都宮市江曽島町所在の滝尾神社を初詣した。

 鎮守の森の言葉を思い出し、初めて参詣した。知人の話によると、このは400年

以上の歴史のある由緒ある神社であると聞いていたので、地元であり郷土史にも興

味があったので知的好奇心をくすぐりました。
 
 そんなことから、鎮守の森にふさわしく鬱蒼とした森があり、鳥居をくぐって境

内に入り、参道の奥に本殿、拝殿があり初詣した。境内に秀農の顕彰碑があり、こ

こ江曽島にの古人に立派な人がいたことを発見しました。

 この神社の歴史、由緒等に興味があり、栃木県神社庁に照会したところ、宇都宮

市立図書館に保管してある「栃木県神社誌」の書籍に登載してあることが分かりま

した。

 1月23日(金)は、休館日のため後日調査することにしました。

 ●鎮守の森について調査した結果は次の通り。
  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  移動: ナビゲーション, 検索
  鎮守の森(ちんじゅのもり)とは、日本において、神社に付随して参道や拝所  を囲むように設定・維持されている森林である。
 [編集] その意味
 鎮守の森というのは、かつては神社を囲むようにして、必ず存在した森林のこと で杜の字をあてることも多い。神社を外から見ると、たいていはこんもりとした 森があり、その一端に鳥居がある。そこから森林の内部に向けて参道があり、そ の行き当たったところに境内や本殿があり、その背後には森林の中央部が位置す るようになっていた。

 現在では、神社の本体は本殿や拝殿であり、それを囲むものが鎮守の森であると 理解されているが、本来は、森林や森林に覆われた土地、山岳そのものが信仰の 対象になっていた可能性が指摘される。例えば奈良県の三輪山を信仰する大神神 社のように山そのものが御神体、神霊の依り代とされる神社は今日でも散見さ  れ、日本の神霊崇拝の古俗を伝えていると考えられる。多くの神社では本殿や拝 殿の後ろにはこんもりとした森が見えるようになっており、小高く盛り上がった 地形のところでは、登りかけて、そこから背後に森が続くところに拝殿がある。 つまり、森の深い方に向かって礼拝をする形になっている。さらに、神社の中に はそもそも拝殿などを有しないものもある。古典歌謡などには「神社」と書いて 「もり」と読ませている例もあり、かつては森そのものが神の坐す場所であると 考えられていたことがわかる。

 また、海岸近くに魚つき林という、古くから保護された森林がある場合、そこに 神社が設けられている例が多い。これは、むしろ森林を保護するために神社が作 られたものと見なせる。
 また、宮脇昭によれば「鎮守の森」は国際植生学会などで公用語となっている。




※鳥居の右柱に「明治11年寅9月吉日」の刻字がある。今から131年前に建てたものです。

 さらに、写真にはありませんが、鳥居の前に石柱があり、「明治44年4月建之 

横川村大字江曽島」の刻字がある。




 









※本殿に奉納された「村社 瀧尾神社」に「明治43年11月3日 清露 出征軍人 安野徳道 篠崎門蔵 大関米五郎 篠崎清七」と書かれている。






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郷土史研究・江曽島」の由来について(1)

2009年01月21日 14時20分37秒 | 生涯学習
 陽光地区の「江曽島」の地名について、徳田浩淳著「宇都宮郷土史」の202ペー

ジにその由来が記載されていた。
 
 横川地区の中に、江曽島は、蝦夷島の訛ったものといわれ、土器や遺物が発掘されているので、石器時代から人が住んでいたらしい。
 奈良朝時代には、大部(はせかべ)と言われ、文禄、慶長の頃は、横田越中守頼業の所領であったが、徳川幕府に宇都宮藩の領地となって明治に至った。明治22年に、上横田、台新田、江曽島、東横田、屋板、砂田、猿山新田、下栗、東川田、平松の10ヵ村が合併して、横川村と称した。村名は、横田の横と、川田の川の字をとったものである。

●蝦夷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
この項目では集団としての蝦夷について記述しています。地域名としての蝦夷については蝦夷地を、小惑星については蝦夷 (小惑星)をご覧ください。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、日本人によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。近世の蝦夷(えぞ)はアイヌ人を指す。



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栃木県護国神社の万葉歌碑について

2009年01月15日 16時16分13秒 | 生涯学習
 1月13日に投稿したとおり、栃木県護国神社に万葉歌碑がある。

 今から65年前、足利市立東尋常小学校の通信簿にこの歌が登載されている。

 懐かしく思い出しました。戦争中の教育を受け、小学校6年生の時終戦となり、

その後は新憲法に基づく民主主義の教育を受け、複雑な気持ちを味わいました。

戦争は2度とあつてはならないと深く思っております。

 「けふよりはかえりみなくて大君の醜(しこ)の御盾(みたて)といでたつわれは

 ―今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)(万葉集(国歌大観4373))―

 「今日からは、自分は、心にかかるすべてを打ち払って、天皇の強い御盾として

   出陣するのである。」
※この歌の作者について興味があり、識者に質問してご教示を願いました。

あなたのHPを拝見して不躾ながらご教示願います。

 栃木県の護国神社の境内に万葉歌碑があります。

 内容は「けふよりはかえりみなくて 大君のしこの御楯と出でたつ吾は」

 作者は、「今奏部與曽布」です。

 私の小学校4年生の通信簿の1ページに掲載されております。

 65年前の記憶では、栃木県出身の防人の歌だと思い出しましたが、不確かのため

 この歌の作者についてご教示願います。





※インターネットで検索したところ、記憶の通り下野の防人の作であることが分かりました。

 火長 今奉部與曾布 いままつりべのよそふ 生没年未詳
下野国の人。火長(兵士の小集団の長)。天平勝宝七歳(755)二月、防人として筑紫に派遣される。


今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ我は(万20-4373)

【通釈】今日からはもはや後ろを振り返ることなく、屈強な御楯として難波を出航して行くのだ、我らは。

【語釈】◇醜の御楯 「醜は謙下してみづから身を罵(ノル)詞なり」(代匠記)。但し「しこ」には「頑強・頑丈」といった意味もある。


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栃木県指定史跡「塚山古墳」を撮る。

2009年01月12日 18時00分26秒 | 生涯学習
 1月12日(月)成人日祝日である。ここのところ連日晴れて穏やかなお天気で晴れ

着を着た新成人にとって良かったと思います。

 本日午後3時過ぎ、栃木県指定史跡「塚山古墳」を撮りました。

 古墳のサツキなどの植込みがきれいに剪定されていました。

 5月には新緑からサツキの花で飾られます。







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宇都宮の名所の七木・七水・八河原を調べる。

2009年01月08日 21時23分42秒 | 生涯学習
 1月8日(木)午後宇都宮市立図書館へ行き、江戸時代の宇都宮城下の名所として

「七木・七水・八河原」を調べる。幸い次の本に搭載されていたので、2冊借りて

きました。




※上記宇都宮物語の98ページから転載しました。ほとんどが名前ばかりで所在地特定は困難という。






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