下野人物シリーズ・「慈覚大師」ー中国への求法の大旅行者ー雨宮義人著を読
む。
今から7年前栃木県シルバー大学在学中、部外講師の講演で栃木県の偉人とし
て、「慈覚大師円仁」「勝道上人」「下野古麻呂」の3名について紹介され、その
時世界に誇れる人物であるとして理解しました。
そして、最近になり郷土史研究のかたわら、栃木県の知名度アップのために情報
発信するため、偉人の研究を思い立ち、宇都宮市立図書館に所蔵してある前記の書
籍を借りて読みました。
円仁を知れば知るほど、その業績の高さに驚嘆し、野州人の祖先にかくのごとき
誇れる偉人の存在に感激の至りです。
このような偉人を生んだ栃木県について、これから一層情報発信すべきと思いま
した。
円仁に関する資料は、次の通りであるが、一読しての感想は
●慈覚大師円仁が生きたのは、延暦13年(794)より貞観6年(864)のことで、1200
年以上も前のことで、円仁の誕生地は諸説があり未だ決定はみていない。下都
賀郡壬生町か岩舟町小野寺か。
●最後の遣唐使として、渡海3回目にしてようやく渡海し、日記がはじまる。
第2回の失敗のときは、140人の乗組員中、漂着した筏等で計28人が生き残った
外は海没した。いかに厳しい航海であつたか想像を絶するものがあった。
●帰国の船・・肥前国松浦群鹿鳴に錨をおろした。山東の赤山を発してから8日
のことであった。この8日間の航海を得るため、何年を費やしたか。
円仁は、艱難辛苦の旅に堪え、苛烈な弾圧に堪え、待つことに堪えた。円仁の
比類ない強靭な精神を示すものである。
その後、博多湾の能許島に到着した。9年3カ月前、唐国に向
って出発した時と同じ場所であった。
その時の円仁の感激、感動は言語に絶するものであったと思います。
●栄光の天台座主・・仁寿4年(854)4月3日、勅により延暦寺座主に任ぜられた。
勅による天台座主のはじめである。
●円仁没2年後の貞観8年(866)7月14日、勅により「慈覚大師」の諡号が贈られ
た。はじめての大師号である。同時に最澄に対しても「伝教大師」の諡号が追
贈された。空海が「弘法大師」を贈られるのは、これより55年後のことであ
る。
●東北開拓
慈覚大師円仁を開基とし、あるいは中興とし、その他大師作の仏像を安置すると
か、伝説を伝えるとか、ゆかりの寺院の全国分布に見える。関東から東北地方に
かけて分布しているさまは実に脅威に値するものである。
目黒不動として知られる瀧泉寺や山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと
言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209
寺、東北に331寺余([1])このほか北海道にも存在する。
後に、円仁派を、円珍派(寺門派)に対し山門派と呼ぶ。
●日光輪王寺の延年の舞は、大師が中国から伝えたという。
●資料の検索結果
円仁は、延暦13年(794年)下野国都賀郡(栃木県下都賀郡)の豪族・壬生氏に生
まれ、9歳から都賀郡小野の大慈寺の住職広智について修行を積み、大同3年
(808年)、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となった。
承和5年(838年)遣唐船で唐に渡り、山東省の赤山法華院や福建省の開元寺、中
国仏教三大霊山に数えられる五台山で修行し、承和14年(847年)に帰国した。
長安滞在中、唐の十五代皇帝武宗の仏教排斥にあい苦渋を強いられたが、円仁
は、在唐9年間の紀行を日記「入唐求法巡礼行記」全4巻にまとめ、帰国後、当
時の中国の有り様を克明に伝えた。当書は、マルコポーロの「東方見聞録」、玄
弉三蔵の「西遊記」とともに、三大旅行記として高く評価されている。
帰国後、円仁は朝廷の信任を得、斉衡元年(854年)61歳の時に延暦寺の座主(江戸
期までの大寺の住職の公称。官命により補任)となり、清和天皇に菩薩戒(大乗の
菩薩としての心構えなるもの)を授けた。後に「金剛頂経疏」などを著したが、
貞観6年(864年)に71歳で没した。
その2年後の貞観8年(866)、生前の業績を称えられ、円仁に日本で初の大師
号・慈覚大師の諡号(しごう)が授けられた。
関東以北には、日光山、埼玉県川越市の喜多院、福島県伊達郡の霊山寺、松島の
瑞巌寺、山形市の立石寺、岩手県平泉町の中尊寺、毛越寺、秋田県象潟町の蚶満
寺、青森県恐山の円通寺など、慈覚大師が開祖(または中興)とされる寺が数多く
あり、立石寺のある山形県においては、山形市の柏山寺や千歳山・万松寺、南陽
市二色根の薬師寺など10を越える寺を開いている。これは、慈覚大師が天長6年
(829年)から天長9年(832年)まで東国巡礼の旅に出、この折に、天台の教学を広
く伝播させたことが大きな基盤となっている。