私のボランティア

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郷土史研究・日本武尊は蝦夷征伐のために江曽島に来たか(6)・

2009年06月01日 21時46分52秒 | 生涯学習
 宇都宮市60周年誌・・昭和35年3月1日発行・宇都宮市立図書館所蔵・・同誌・37

ページ・第2節 上古の宇都宮

●上古の宇都宮の記述を読んで、伝説ではあるが日本武尊が宇都宮に立ち寄られ、

また日光山にも登られたとの内容が書かれていた。しかも、県内の上三川・足利等

に尊に関する遺跡と称せられるものがあるとのこと。

 引き続き調査研究することとしたい。
 

 その記述を転載します。

●その昔、宇都宮地方は京畿を距てることが遠かったから、王化にうるおわず、互

 いに争い、良民は蝦夷に悩まされていたのであろう。
 
 ために崇神天皇の48年(西暦BC50・日本書紀48)に、第一皇子豊城入彦命が東国に

遣わされたのである。すなわち、命は詔にしたがって東国地方開拓鎮撫のためはる

ばる下向し、深林・池沼の多い未開のこの地方にまで進まれたのであった。

●時に蝦夷たちは東北に敗走し、あるいはしたがってこの地方にとどまる者もあ

り、この地方も穏やかとなってはじめて大和国家の支配下に属することになった。

このとき命は御諸山大三輪の神体を荒尾崎(下の宮)に安置し、高田邑(本丸の地)に

御所を設けたのである。

●こうして豊城入彦命は下毛野君・上毛野君の始祖となったので、子孫はこの地方

の国造となり、良民の安どをはかられたのである。下野国が統一されて政治が行わ

れたのはこのころからであるといわれる。

●しかるに、景行天皇の御代に、東国の蝦夷の中にまだそむく者があったので、天

皇は武内宿禰を東北諸国につかわして民情視察をさせ、次いで日本武尊をつかわさ

れた。このとき尊が下野国に下向されたということは記録にはないが、水戸から日

高見の国に進まれてまつろわぬ者をしずめ、帰途宇都宮に立寄られて豊城入彦命の

御偉業をしのばれ、また、日光山にも登られたとも語り伝えている。すなわち、そ

のときの尊のお道筋とも考えられる高椅・上三川・植野・足利(今福)などに尊に関

する遺跡と称せられるものがあるので、あるいは下野から上野・武蔵へと進まれた

のではないかと考えられるからであろう。

●宇都宮二荒山神社社務所から、神社の起源等を記載した小冊子「明神ささま」を入手した。

その中に略年表があるので投稿します。







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平成21年度宇都宮市民大学前期講座・全10回第1回受講する。

2009年06月01日 20時13分32秒 | 生涯学習
 6月1日(月)午後2時から4時まで、宇都宮市中央生涯学習センター5階 501小ホー

ルにおいて、平成21年度宇都宮市民大学前期講座・全10回第1回受講する。

 講師は、邪馬台国の会会員・NHK文化センター講師 高橋 昭夫氏です。

 受講者は、定員50名のところ100名以上の大勢の参加者がおりました。

 第1回は、卑弥呼と古代天皇誕生の謎〜古代天皇の謎とロマンを求めて〜をテー

マについて、12ページにわたる資料に基づき講話を聴講しました。

 説明資料によると、邪馬台国に卑弥呼は「魏志倭人伝」によれば238年に実在の

人物 しかし、古事記、日本書紀に記載がない、神武天皇(紀元前660)に始まる天

皇家との関係が謎である。卑弥呼と天皇家の関係が解明しない限り古代天皇の謎は

解けない。

 きしくも去る5月30日の下野新聞に報道された「奈良の・箸墓古墳は卑弥呼の墓

か」の記事を呼んで興味をもって受講しました。

 邪馬台国論争は、以前から畿内説と九州説に二分されており決着はついていな

い。

 最後に講師の話として、卑弥呼はアマテラスオオミカミだと言われた。これから

9回にわたる講座が楽しみです。

 終了後、会場の宇都宮市中央生涯学習センターの建物および宇都宮市役所までの

風景を撮りました。久しぶりに宇都宮城址公園も撮りました。

 ●邪馬台国について、インターネツトで検索したところ次の通り分かりました。

 講師の高橋 昭夫先生は、この会の会員です。


 ●邪馬台国の会は昭和58年に発足した日本古代史愛好家の集まりで

  す。毎月の定例会では、安本美典氏の講演や、最新の話題についての解説など

  を行ないます。わかりやすい内容ですのでだれでも気軽に参加いただけま

  す。

 













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