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'09.06.02 (火)
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彼女はそれを 「常識」 と言い続ける |
[104.] The communicant must not be permitted to intinct the host himself in the chalice, nor to receive the intincted host in the hand.
[104.] 拝領者は自分でホスティアを御血に浸すことや、御血に浸されたホスティアを手で拝領することを許されてはならない。
「指針 あがないの秘跡」
かつて『頬白親父の一筆啓上』さんのところで、セルフ・インティンクションをめぐって、『あながいの秘跡』第104項にある must not be permitted という言葉のニュアンスについて議論になったことがありました。
2007年の10月のことでした。
http://blog.livedoor.jp/kasahara_7524/archives/51155055.html#comments
そこにはHN 「在欧日本人」 さんという方が参加されていましたが、その方が、第104項の第一文にある 「must not be permitted (許されてはならない)」 について、
「それは日本人が普通に受け取るような単純な意味での〈禁止〉を意味するものでは決してなくて、英語に限らず欧米の言語においては、あくまで〈許可される可能性〉を残した表現である」 という指摘をなさったわけです。
最近、これと同じような主張をなさっている方がいらっしゃることに気づきました。それは、フランスから発信しておられるということで、私なども時折目が行ってしまう、またネットを見る日本のカトリック信者達の間ではおそらくよく知られている、「そりゃよござんした」 のま・ここっと (ma_cocotte) さんです。
そのま・ここっとさんの少し以前のご発言について若干疑問なことがあるので、書かせて頂きます。(必ずしもま・ここっとさんに向けてではなく。)
それは、ま・ここっとさんが 「在欧日本人」 さんと全く同じように (おそらく同じ方だと思いますが)、次のようにおっしゃっておられることです。
絶対禁止だったら、英訳なら動詞の forbid を使います。
Not permitted は 「not」 を省いたら permit です。カトリック教会だけでなく、一般常識ですよ。
「在欧日本人」 さんも、かつて次のように言いました。
「must not be permitted 認めてはならない」 は 「手続をし認められる」 と可能性がある場合に使う表現。must be permitted の否定文。絶対禁止にこの表現は使いません。絶対禁止は forbid.肯定動詞にもかかわらず 「禁ずる」。この使い分けは欧米人には常識で、感覚でこの動詞の違いを明確にわかってます。
http://blog.livedoor.jp/kasahara_7524/archives/51155055.html#comments
「一般常識ですよ」 「彼らは明確にわかってます」
しかし、私にはどうも腑に落ちないのです。
「それは本当に〈欧米人の常識〉なのか?」 と。
「常識」 と言うからには、それは 「一般人の感覚」 であるということです。
専門家の厳密な世界のものではない、ということです。
「在欧日本人」 さんもま・ここっとさんも、明らかにそのような意味で繰り返し強調なさっている (いた) わけです。
しかし、『頬白親父の一筆啓上』さんのところの一件があった直後にも書きましたが、私の観察するところでは、Web上の欧米人達 (私には英語圏のものしか分かりませんが) の書く文章に、以下のような例が多々あるのです。(殆ど再掲)
1. まず最初は、ロサンゼルスの聖ペトロ・カトリック教会のホームページにある、インティンクションについての記事 What is "intinction?" です。
http://sprcc.org/2007/07/08/what-is-intinction/
このホームページは左のナビゲーションに、御ミサの時間、広報誌ダウンロード、司祭や助祭の名などがありますから、また、作りも立派ですから (笑)、まず間違いなく公式でしょう。記事には執筆者名がありませんが、司祭が書いている可能性が高いと見るべきでしょう。もしそうでなくても、司祭が目を通してOKを出している筈でしょう。
そのサイトのページで、文字が水色になっている段落の直ぐ下に、次のような文章があります。(以下、訳は管理人)
There seems to be a misunderstanding by some about the practice of intinction. As seen from the quote intinction is allowed as a valid form of distributing the Eucharistic species. What is not allowed is "self-intinction." Self-intinction is the practice whereby one of the communicants attempts to dip the Sacred Host into the Precious Blood on their own. This is strictly forbidden by the United States Conference of Catholic Bishops in their 2001 Norms for the Distribution and Reception of Holy Communion Under Both Kinds in the Dioceses of the United States of America:
インティンクションの方法について、幾らか誤解があるようです。引用からも分かるように、インティンクションは聖体授与の有効な形式として許されています be allowed 。許されていない not be allowed のは 「セルフ・インティンクション」 です。セルフ・インティンクションとは、拝領者各自が御聖体を聖なる御血に自ら浸す方法のことです。これはアメリカ合衆国カトリック司教協議会が同国司教区における両形態拝領での聖体授受のために2001年に定めた規則によって厳しく禁じられています be strictly forbidden 。
同じ一つの対象に向けて、not be allowed と be forbidden が共存しています。しかも後者には、strictly (厳しく) という強調までついています。
私は、欧米のネイティブの感覚において allow という動詞がどのようなニュアンスを持つものなのか、正確なところは知りません。でも、allow はどちらかというと 「消極的に、また個人的な見解で許可を与える」 というニュアンスのものであり、それに対して permit は 「積極的に、公的に許可を与える」 というものであると聞いています。では、上の文章では、permit より確かに規制度が弱いだろう allow という動詞が、「神が禁止する厳禁」 (在欧日本人さん) を表わす forbid と同じ一つの対象に向けて一つ屋根の下に同居している (笑) ということになるわけです。しかも後者にはご丁寧に strictly (厳しく) という強調までついています。これは一体どういうことでしょうか。
このような文章はあるいは法律的に不可能でないかも知れません。つまり、聖座が 「許していない - 許す可能性もある」 事柄を、アメリカ司教団が独自に自国内で 「厳禁する」 ということも、全くあり得ない話ではないのかも知れません。
しかし、どうも考えづらいことではあります。次に進みます。
2. http://www.ad2000.com.au/articles/2004/nov2004p9_1782.html
この記事は2004年の11月にオーストラリアのメルボルンに住む John Young という人によって書かれました。彼は 「神学と哲学に関して書くカトリック・ライター」 だということです。単なる自称でしょうか、わかりません。しかしとにかく彼が 「欧米人」 の一人であることは確かでしょう。
彼は次のような表現をしています。(そのサイトで下の方です。)
Falsehood
Self-intinction is another abuse. The communicant is not allowed to dip the host in the chalice: "The communicant must not be permitted to intinct the host himself in the chalice, nor to receive the intincted host in the hand" (n. 104).
偽り
セルフ・インティンクションはもう一つの濫用です。拝領者はホスチアをカリスの中に浸すことを許されていません be not allowed 。「拝領者は自分でホスティアを御血に浸すことや、御血に浸されたホスティアを手で拝領することを許されてはならない must not be permitted 。」 (第104項)
ここでは動詞表現は be not allowed と must not be permitted が並んでいるだけなので、さほど問題ではないと思われるかも知れません。しかし見出しは 「Falsehood (偽り)」 であり、セルフ・インティンクションには 「abuse (濫用)」 という言葉が当てられています。とても 「許可されさえすればいいのよ」 というような軽い構えの表現とは思えません。
(念のために確認しますが、今しているのは、各例文の内容が正しいかどうかを知ろうとすることではありません。あくまで 「欧米人にとっては not be permitted と be forbidden は画然と使い分けられており、それは彼らにとっては火を見るよりも明らかな〈常識〉である」 という主張が正しいかどうか、その主張が欧米人の 実態 に合っているかどうかを知ろうとすることです。つまり、言葉の在り方、その実際のところを調べています。)
3. http://www.ad2000.com.au/articles/2004/may2004p3_1607.html
これも同じオーストラリアのサイトの文章です。
この筆者は 「あがないの秘跡」 に言及しつつ、次のように言っています。
The practice of "self-intinction" (communicants dipping the Host in the chalice) is forbidden.
「セルフ・インティンクション」 の実践 (拝領者がホスチアをカリスの中に浸すこと) は禁じられています be forbidden 。
再び be forbidden です。もう一度言いますが、この人は 「あがないの秘跡」 を自分の目で読んだ上で、それとの関連で、自ら be forbidden という表現を選んでいるのです。
彼は自分の母国語 (おそらく) の感覚において、それほどに 「非常識」 なのでしょうか。結論を自分好みのものにしたいがために、破廉恥にも言語における 「常識」 を歪めたのでしょうか。そしてそれをWebで発表したのでしょうか。そうだとしたら、彼はさぞかし "稀有な変わり者" として人々に笑われたことでしょう。編集者もよくもそのような 「常識っぱずれ」 の文章を採用したものであります。
しかし、例は決してこれだけではないのです。次。
4. http://wdtprs.com/blog/2007/01/15/
ローマ在住のカトリック司祭 Fr. John Zuhlsdorf の言葉です。
ちなみに、これも 「あがないの秘跡」 が公布された後の2007年における言葉です。それ故、司祭として彼は、「あがないの秘跡」 の第104項における not be permitted という言い回しを見ていた筈です。それでいて、次の表現です。
And if you are self-intinging (and you are not a priest celebrating Mass) then knock it off because it is forbidden.
そしてもしあなたがセルフ・インティンクションをしているなら (そしてあなたがミサを司式している司祭でないなら)、それは禁じられている be forbidden ので、やめてください knock it off 。
またまた be forbidden です。
この司祭は気でも狂っているのでしょうか?
-------狂人がいっぱいいること!
そして knock it off という、おそらくは直截な言い方。ほとんど検討の余地なく 「駄目です」 と言っているようなニュアンスではないでしょうか。
5. http://www.byzcath.org/forums/ubbthreads.php/ubb/showflat/Number/228056/Main/17532/
ここのフォーラムの参加者の一人が、他の参加者の 「私はセルフ・インティンクションを目撃したが、それは許されているのか? Is this permissable? 」 という質問に答えて、次のように言っています。
No - no how no way .
This is self intinction and is very definitely not permitted.
ダメ。何がどうあろうとダメです。
それはセルフ・インティンクションであって、それは非常にハッキリと許されていません not be permitted 。
be forbidden ではなく not be permitted だけれども、この人が非常に強い 「禁じ」 を感じていることは明らかではないでしょうか。
欧米人ですよ? まあ、確かに 「おそらく」 ではありますが。
6. http://chnetwork.org/forums/forum7/2123.html (リンク切れ)
ここのフォーラムの人はこう言っています。
Self-intinction is a big no-no.
セルフ・インティンクションはでっかい ノーノー です。
「でっかい ノーノー」 (笑)
7. http://forum.catholic.org/viewtopic.php?p=560150
別のフォーラム。
Intinction is not reserved to a priest. There are references in the liturgical documents to intinction being performed by "a priest" but the intent is not to restrict it only to priests.
The intent is forbid self-intinction in which the communicant himself or herself intincts the host.
Intinction is properly performed by any cleric or any properly deputed extraordinary minister.
インティンクションは司祭だけのものではりません。典礼に関するドキュメントの中に 「一人の司祭」 によって行なわれるインティンクションについての記述がありますが、それは司祭のみにそれを限定するという意味ではありません。
それは、拝領者である彼自身または彼女自身がホスチアを浸すセルフ・インティンクションを禁ずる forbid 、ということを意味しています。
インティンクションは司祭によって、あるいは適切に任命された特別奉仕者によって、適切に行なわれます。
訳が少し不安ですが、しかし forbid という動詞がセルフ・インティンクションに向けられていることだけは確かです。やはりここでも forbid です。
「常識を外れた人」 が沢山いるものです!
8. http://www.davidancell.com/weblog/viewpost.cfm?entry_idcode=977
アメリカはメンフィス市の David Ancell という人の個人サイト。
2004年6月20日に 「あながいの秘跡」 を手に入れた彼は、次のように書いています。
Article 104 addresses something that has long bugged me. It clearly states that self-intinction is prohibited (contrary to what some priest once told me), as is receiving by intinction on the hand. I know of one local parish where a number of people regularly do this. Article 173 refers to this practice as "grave matter."
第104項は私を長いことを悩ませてきた事柄についてのものだ。そこにはハッキリと、セルフ・インティンクションは浸されたホスチアを手に受けることと同様に禁止されている is prohibited と、(かつてある司祭が私に語ったことに反して) 書かれている。私はある近くの小教区教会で幾人かが定期的にそれを行なっているのを知っている。第173項はこの実践を 「重大な事柄 grave matter 」 とみなしている。
be prohibited は、not be allowed や not be permitted よりも明らかに規制度が強い表現ではないでしょうか。何故なら、「在欧日本人」 さんの言い方を借りれば、prohibit は forbid と同じく 「肯定動詞にもかかわらず〈禁ずる〉」 であるからです。
9. http://www.adoremus.org/299DEW.html
Adoremus Bulletin の記事です。
Our reply confirmed that self-intinction is a liturgical abuse. We cited a Vatican Letter in response to a question of May 29, 1969, which stated that "In the case of Communion under both kinds by way of intinction, it is never permitted to place on the hand of the communicant the Host that has been dipped in the Lord's Blood" (DOL 648). Thus, since the Body and Blood (the intincted Host) must be placed on the tongue of the communicant, the intinction of the Host by the communicant is implicitly forbidden.
私達の回答は、セルフ・インティンクションは典礼上の濫用である、と確言しました。私達は、バチカンが質問に答えて与えた1969年5月29日付の書簡を引用しました。それは、「インティンクションによる両形態拝領においては、主の御血に浸されたホスチアを拝領者の手の上に置くことは決して許されない be never permitted 」 (DOL 648) と述べています。ですからそれは、御体と御血 (浸されたホスチア) は拝領者の舌の上に置かれねばならないということなので、拝領者によるホスチアのインティンクションも暗黙的に禁じられている be forbidden のです。
今は内容や年号 (1969年) は関係ありません。ただ彼らの言語感覚を観察しているわけですから。
ここでは、この筆者は、be never permitted から be forbidden を、結論のようにして導いているようです。
とにかくここでも、欧米人達はま・ここっとさんより言葉の使い分けに 「神経質でない」 ようです。
このへんでもうやめますが、このような例は探せば他に幾らでもあるでしょう。
以上このように、英語の日々の使い手たちの中に、このような数々の生きた実例があるわけです。ですから私は、「どのようしてその〈使い分け〉は、彼らにとって〈一般常識〉であることができるのか」 と言うのです。
「彼らは明確にわかっています」 と自信満々に言うほど欧米人の言語感覚に詳しいま・ここっとさんは、以上挙げたこれまた欧米人達の言葉の使い方をも、ご自身 「明確に分かって」 おられるのでしょうか。もしそうでなく、「常識」 という言葉をお使いになったま・ここっとさんが、「それは彼らの主観でしょ。私の与り知らぬことです」 と言うこともなく、「いや、私にもよくわかりません」 と単純率直に言うならば、では、真実はどのへんにあるのでしょうか。
彼らはたまたま、英語を使っていてはいても 「ネイティブじゃない」 人達ばかりだったのでしょうか。あるいはネイティブだが、自分のある種の傾向や嗜好に引きずられて 「物事を歪めて」 しまっている人達なのでしょうか。それで彼らは他の全ての欧米人にとって 「一般常識」 であり 「感覚で明確に分かっている」 ものを、意識的にか無意識的にか、自ら盲目になることによって分からなくなっている (そうしている) のでしょうか。
でも、私が上に引用した文章の中には、少なくとも二人のカトリック司祭がいるようです。彼らは自らの母国語の感覚において、それほど常軌を逸してしまっているのでしょうか。何らかの欲望のために。明らかな 「常識」 をなくすほどに。
以前も書きましたが、私にはどうも、欧米人自身においても、permit、forbid、allow などの使い方、使い分けにおいて、実際はかなりの 「揺れ幅」 「自由度」 「 適用幅」 があるのではないか、という気がしています。それは丁度私達が、あんまり厳密な意味合いの違いを意識しないまま、「許可」 「認可」 「承認」 などの言葉を使うようにです。
在欧日本人さんのおっしゃる 「神の厳禁」 のもう一つの例が ココ にあります。その言葉の下には 「あなたはここを見る permission を得ていません」 とありますから、明らかに管理者の許可がありさえすればそこを見ることは可能なのでしょう。しかしそれでいて同時に forbidden なのです。
ま・ここっとさんはそれでも 「それは常識」 と言い続けるのかも知れません。
私は他国の言語も文化もほとんど知らない日本の山猿です。他国語のニュアンスを知らないと言われれば、その通りです。
しかし、これはしかと申し上げますが、「not be permitted という言い方は常に〈許可される可能性〉を残した表現である」 という、そのようなことが確かにあり得るだろう-------常識的・慣用的にはそうでなくても、学問的厳密の中ではそういうこともあり得るだろう、否、あって当然である-------とは、思っています。(それは当初、確かに 「在欧日本人」 さんによって気づかされたことでした。私はこれを 「在欧日本人」 さんに "負って" います。)
しかし同時に、そうだからと言ってそれは常に 「軽い規制」 を意味するとも言えないだろう-------この場合、おそらく聖座はかなりキツイ規制をかけているつもりであるだろう、それが 実際のところ だろう-------とも思っています。
まあ、これは私の 「主観」 です。しかし上のような欧米人達の実例があるのですから、そのように推測することも、それこそ 「許され」 はする、と思います。
しかし、それもこれも間違いなく、言ってみれば私の 「感覚」 ではあります。
ですから私は、この 「重大な事柄」-------実際、セルフ・インティンクションのことは 「あながないの秘跡」 の中で〈重大な事柄 Grave Matters〉という "くくり" の中に入れられています (第173項)、これは間違いのないことです-------への日本人カトリック信者達の危惧を聖座に届けると共に、そのへんのこと (法律的、言語的なこと) もどうなっているのかを、一度典礼秘跡省にアクセスして訊いてみた方が良い、と考える者です。
それは、誰もができるだけ 「思い込み」 からは解放された方がいいからでもあります。
たとえば、ま・ここっとさんはおつるさんに対して、
既に聖域内でヴァチカンに認可申請手続が開始しているなら、司教認可があれば (仮) 実行できるそうですよ。世界中どこのカトリック教会でも。
おつるさんの思い込みであって、実はカトリックの常識ぢゃないみたいですね。
とおっしゃっておられますが、一方で自らの主張を 「〜だそうですよ」 という伝聞的なものに依存させながら (少なくとも見かけ上)、他方で相手の考えに 「思い込みでしょ」 という一語をもって応酬するのも、私は 「どうかな」 と思います。
しかしそれもこれも、要するに 「解答がハッキリしていない」 からであります。
この一文は、これら引用した文章を書いた彼らの行為、すなわち 「あがないの秘跡」 の第104項の解釈に be forbidden という語を明らかにあてがっている彼らの行為が妥当なものであるか不当なものであるかを判定しようとするものではなく、ま・ここっとさんがあんまり自信満々に 「それが常識ですよ。知らないのはあなた方が日本人だからですよ。それはあなたの思い込みに過ぎませんよ」 的な言い方を繰り返していらっしゃるので、以前から上のような実例を知っていました手前、「それはどうかな」 ということで申し上げた次第です。
「このような生きた実例が数々あるのに、どうしてそんなことが言えるのか」 と。
Holiness からはほど遠い JG でした。