「絵文録ことのは」の人の雑記帳。
なお、「ことのは編集室」は個人事業の屋号、「松永英明」はライター(文筆業者)としての営業上の筆名です。ハンドルだの通名だのではありません。
ここは「いっぱんじんがごちゃごちゃいうな」と言われそうなことばかり書いています。
><すみません
黒夜如果不黒暗 美夢又何必嚮往
破曉會是堅持的人最後獲得的獎賞
黒夜如果太黒暗 我們就閉上眼看
希望若不熄滅就會亮成心中的星光
(S.H.E.「星光」より)
2009年06月03日
■ぼかした書き方するけどね……
「検査をしない」なら当然、「検出」もされないわけです。だから、「検出が報告された数」が減ったからといって、決してその現象がないわけではない。単に検査してないだけ。むしろ、存在しているのにないことにされているというのは非常に恐ろしい状況といえます。もちろん、今起こっている現象は現時点ではさほど脅威ではないわけだけど、しかし、予行演習としてとらえるならば、地域行政の対応は目先にとらわれた最悪の選択を行なっていると思えます。
■ネットでよく見られる一般論として
あるものを「批判」することが正しい、と思っている人がいるとする。その人は、批判に対する批判(必ずしも対象に対する肯定ではないとしても)を受けると、脊髄反射的に「(悪いものを)擁護」する「信者」だと書く。「アンチ」は批判精神が旺盛で「嘘を嘘と見抜ける」偉い人で、アンチを批判して「擁護する信者」は気持ち悪い、といった雰囲気が醸成されていく空間が一部に存在している。そして、「あのような意見を擁護するのは信者しかいない」という決めつけが行なわれるようになる。先日の夕刊フジの記事では、草なぎの復帰にあたって、ネットでは多数の批判意見が見られ、擁護するような意見は「ファンを中心に」と決めつけた書き方があった。この記者はネットの悪い風習に染まりすぎだ。
■あるものの批判の仕方を批判すること
「○○批判」に対して、その批判される対象そのものがおかしいとは思いつつも、その批判の仕方が違うと思う場合(特に、批判対象と批判者が同じ穴の狢、単なる裏返しにすぎないことが多い)、「○○批判・批判」みたいな意見を言うと、すぐに「○○擁護」とか「○○賛成」ということになってしまう。よくあるのが疑似科学批判者の中に、「それは疑似科学だから間違っている。なぜなら、それは疑似科学だ」みたいな、疑似科学の信奉者とまったく同じ思考回路に陥っている人が見られることで、それを「ちゃんと淡々と事実関係をもって論理的に否定しろよ」と言ったら、「疑似科学への招待」とか「疑似科学批判批判なのに、疑似科学自体は批判するのか?わからない」とか書かれたりするのが、まるでわからない。
たとえ話。「今日は雨だから天気が悪い」と平然と言い放つ人(雨=天気が悪い、と先験的に思いこんでいる)に対して、「雨だからといって天気が悪いとは言い切れない」と言うことは、ネット上では極めて危険だ。なぜなら「雨を喜ぶ悪い奴」「必死で雨は悪くないという印象を植え付けようとする工作員」みたいな宣伝が行なわれるからである。単に「雨=天気が悪い、というのは常に成立する命題じゃないよね」と言っただけなのに。
■南京事件の件のブクマの流れ。
はてなブックマーク - 南京事件「どっちもどっちなので保留」派は日本側史料を読むといいよ。 - クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)
- id:matsunaga [歴史][歴史認識][史観] 私が保留するのはあったなかったではなく「人数」「規模」。30万人よりは少ないだろうと考えると、中国側から「否定派」「歴史修正」と言われ、右翼からはサヨク呼ばわりされる。実数は「未確定」というのが正確。 2009/06/03
- id:D_Amon [南京事件] id:matsunagaさん、その理屈だと20万人説の笠原先生も中国から批判されないとおかしいことになりますね。右からも左からも石を投げられる的な自己憐憫に酔う前に自分が無自覚に石を投げてないか考えてみてはどうでしょう 2009/06/03
- id:kikori2660 id:D_Amon 南京事件 id:matsunagaさん、その理屈だと20万人説の笠原先生も中国から批判されないとおかしいことになりますね。←実はこの先生も「30万人説」を否定しているという事で、中国から批判されてますが(笑)。 2009/06/03
■ひとまず一例として、笠原氏自身がこう述べています。
笠原十九司『南京事件と日本人』2002 p214
中国人の国民的・民族的ファンタジーとしての「三○万人虐殺」という言い方を聞いたならば、中国人は不快になり、あるいは怒るかもしれない。「笠原という、日本の南京大虐殺研究者は中国人の感情の記憶を理解していない」という非難がおそらく起こるであろう。国民的・民族的ファンタジーとは日本語にすると国民的民族的幻想ということになるが、私は三○万人虐殺説はまだ歴史学的には証明できず、幻想に近いと思っている。
この見解は、私の考えと一致していると思います。もし、笠原氏のこの発言をも「シャドーボクシング」と批判されるのであれば、D_Amonさんの態度は一貫していると思いますが、私はこのような中国人の見解(南京事件に関する主流的公式見解として)は、決して存在しないものではなく、むしろ確固として存在すると確信しています。
なお、わたしは人数について、意見を保留します。笠原説の数字は一つの参考として見ています。
■さて、中国人の文章
こういう資料を出すにしても、訳す必要があるだろうから時間がかかるわけです。
著者は香港中文大学政治行政学科修士課程。以下、このページより、笠原氏を含む虐殺派の数字が、中国政府の数字とかけはなれているという指摘。
“虐殺派”の学者(例えば洞富雄、笠原十九司、吉田裕)の歴史認識は、中国大陸・台湾の政府の立場と一致する。彼らは日本軍がかつて南京で殺戮を行ったことがあると認め、ならびに明治以来の帝国憲法体制と戦時日本軍国主義の侵略暴行を厳しく非難する。しかしながら、2001年2月号『諸君』誌の調査が示すところによれば、大虐殺の死亡人数について、この派に属する学者の見解は十万人から二十万人余りあたりで、中国政府の主張する三十万人とは大きな開きがある。……(中略)……
これに対して、中国大陸と台湾の学会は、南京大虐殺で殺された人数について、比較的はっきりと共通認識がある。南京大虐殺遭難同胞記念館館長の朱成山は、南京大虐殺は1937年12月13日〜1938年1月に発生したと考えている。このごく短い6週間の間に、中国侵略日本軍は南京市で中国平民30数万人を殺戮した。朱成山先生によれば、歴史は多くの人的証言、大量の物証、史料を残しており、そのすべてが南京大虐殺の歴史史実を充分に証明している、と指摘する。
台湾においては、中央研究院の近代史研究員の劉鳳翰は、1997年12月14日、台湾で催された“南京大虐殺60周年学術シンポジウム”にて、史学者・李雲漢、南京大学史学部教授・高興祖の研究結果を引用し、30万人説を肯定した。以上を総合して言うならば、中日学会、ないし日本国内学会において、南京大虐殺の被害人数問題においては、相当大きな認知のギャップがあるということになる。
この文章の趣旨は、「南京事件の被害者数を少なく発表する研究を、日本政府が利用して、歴史を改竄し、戦争責任逃れに使うのは認められない」というものです。
■もう一度正確に(ブクマ100文字の限界を超えて)言うよ。
私自身は、南京事件(というより、南京において、日本軍による民間人の殺戮行為)はあったと考えている。しかし、それは中国政府や台湾国民党の主張する「30万人」よりは少なかったのではないかと思う。だが、それは中国公式見解を否定する意見だし、一方では「南京事件は幻想だ」派から批判される意見でもある。さらに、では何人くらいだったのか、については、現時点で確定した数値は存在しない。したがって、「数値については保留」と言わざるを得ない。上記ブクマ先のページでは、保留する人として「あったかなかったか」を保留する人しか想定されていないのだが、私は数値のみ保留の立場である。人数については笠原氏よりはるかに少ない可能性もあると考える(中間派に近いかもしれない)。しかし、たとえ1000人であろうと民間人がそれだけ殺されたらおおごとだと思う。
で、これとは別に、こういう「日本軍による虐殺」の責任を、今の日本国民一人一人がどれだけ負わねばならないかについては、非常に疑問がある。「加害国民と被害国民」という考え方はまるで理解できない。我々に必要なのは、同じような悲劇を繰り返さないようにすることであろうと固く信じる。それは、「日本という国」の責任を軽減しようという行為ではない。大日本帝国あるいはそれを継承する日本国に責任があるとしても、ただ単にその国に生まれただけの私の責任と一致するわけがないということである。だから、わたしは「日本」の栄光を自分の栄光と勘違いすることはなく(オリンピックや野球で日本チームが勝っても、私とは関係ない)、「日本」の汚点を自分の汚点ともしない、というのである。
もう一つ別の見解から述べる。ある「歴史的事実」なるものが確固として無批判に絶対的に存在しうるという考え方自体がおかしいと思う。「これぞ事実」というものを無批判に前提に置くことができる人は、幸せだと思う。
改めて言うが、南京において日本軍兵士が中国人を殺したという事実は否定できない。だが、その詳細について、確定した事実として述べられることは、いまだ少ないといえる。これは、知的誠実さの問題である。このように述べるならば、「存在しなかった派」と同一視されるのかもしれないが、「判断保留」と「否定」は違うということがどうして理解できないのだろうか。むしろ「下調べすれば肯定して当たり前」と言えてしまう、そのことが非常に怖いと思う。
D_Amon 2009/06/03 20:17 やれやれ、近頃の松永さんは余りにも慎重さに欠くと思うんですよね。
http://b.hatena.ne.jp/D_Amon/20090603#bookmark-13797190
でも書いてkikori2660さんにも問い合わせているのですが、
http://tinyurl.com/op85gu
http://tinyurl.com/pqe2re
を読めば分かるように笠原先生が中国から批判されたという複数種類のデマを否定派が吹聴しているのです。見るたびに一応論拠は聞いているのですけどね。
そういうわけでkikori2660さんが論拠を答えられればともかく、そうでなければ「事実関係を確かめるべし」という言葉はそのまま松永さんに返ることになります。
D_Amon 2009/06/03 22:45 ああ、そうそう。
私としては論拠を示すのは松永さんでも構わないのですよ。
「などといった珍妙な批判をする前に事実関係を確かめるべし」なんて書くような松永さんは、勿論、こういう記事を書く前に事実関係を確かめているでしょうから。
まさか、kikori2660さんの書き込みを何の疑いも無く信じてしまったなんてことはないですよね。
是非、その辺りの松永さんが確かめた事実関係をお聞きしたいです。
matsunaga 2009/06/04 10:11 デマかどうかを含めて改めて再調査します。
それはともかく、私はよく大陸の中国の人と話しますが、リベラルな中国人はともかく、北京や上海の街中で「南京で虐殺されたのは30万人より少なかったかもしれない」などと発言する気には絶対になれません。20万でも「歴史修正」的に見られるというのは実体験でもありますからね。被害を軽く見せようとする日本帝国主義みたいな。
ちなみに、松代では朝鮮人「被害」者(とくに慰安婦)のみをクロースアップした展示施設ができて、それに対する地元の反発等もあったのです。「加害の歴史ばかりクロースアップするのはどうか」という考えは、その地元の状況に応じて生まれたものであります。決して「日本」を擁護しようとかいうつもりはありません。
わたしは別にシャドーボクシングしているわけではありません。
D_Amon 2009/06/04 10:49 とりあえず、即答できないのはkikori2660さんの言葉を鵜呑みにし事実関係は確かめずにこういう記事を書いたからということでよろしいでしょうか?
松永さんの個人的体験はどうでもいいので。
個人的体験でしたら、否定派の人は「現地に行ったときに聞いたのだが、現地の中国人も南京事件が無かったことを知っている」的な個人的体験をよく語っていますよ。
matsunaga 2009/06/04 11:03 今時間がないので帰ってからやるということです。勝手に決めつけないでください。
「個人的体験はどうでもいい」とは、よく言いますね。
逆に、20万で中国政府が妥協しているというソースをお願いします。
matsunaga 2009/06/04 11:04 あと、提示されたページは直接関係ない(範囲を広げた、というのがデマといってるが、20万といったら中国側に受け入れられた、という話ではない)
D_Amon 2009/06/04 18:41 >今時間がないので帰ってからやるということです。勝手に決めつけないでください。
事実関係を確認したのならその調査結果を即答すればいいだけなのに、その瑕疵を指摘されない内から再調査するなんて珍妙なことを言うからでしょうが。はっきり言って「今から調べます」と言ってるのも同然の言葉でしょうに。
まあ、松永さんがそういう風に言わざるをえない心理は痛いくらい分かりますが。
>「個人的体験はどうでもいい」とは、よく言いますね。
松永さんの個人的体験も、「わたしは別にシャドーボクシングしているわけではありません」という、穿った見方をすれば「あなたとは違うんです」と言ってるも同然の発言も、別に私の質問とは関係ないですね。
私はこの記事について松長さんに問い合わせているわけで、そういう松永さんの自分語りに付き合う気は毛頭ないわけです。自分語りをしてのぼやきに構ってほしいのであれば、構ってくれる人を選んで話すべきですね。
>逆に、20万で中国政府が妥協しているというソースをお願いします。
この発言は松永さんが諸説というものを理解していないことを明らかにしているだけですね。
諸説の内、A説にコミットすることとB説の否定にコミットすることはまったく別のことです。
諸説には排他的な面と相互補完的な面があり、ある説にコミットすることは必ずしも別の説を否定することは意味しません。
中国の研究者が30万人説を主張することと、日本の研究者が20万人説を主張することは、研究結果において普通にありえることで、そこに妥協とかの言葉を持ち出すこと自体が滑稽な非学問的態度というもの。
はっきり言って松永さんのこの発言は、私が20万人説を支持すると言えば「じゃあ、お前は中国の30万人説を否定するんだな」というバカウヨレベルです。
>あと、提示されたページは直接関係ない(範囲を広げた、というのがデマといってるが、20万といったら中国側に受け入れられた、という話ではない)
本当に読めてないのですね。
http://tinyurl.com/op85gu
の方に「笠原十九司もな。あの人最後には10万人あたり(しかも上海からの追撃戦も含む!)を主張して中国に怒られてたように記憶してる」という発言が紹介されているでしょうに。
デマの種類は複数種類あると発言しているのに関わらず、こういう反応というのはどうなんでしょうね。
D_Amon 2009/06/05 00:45 http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20090603#1244125913
これ、一例にならないですね。
私もこの発言は知っていますが、笠原先生は「中国人の国民的・民族的ファンタジーとしての「三○万人虐殺」」発言が中国人の反発を呼ぶことを覚悟していることの表れであって、笠原氏の20万人説が中国に批判された例ではないですよ。加えて、自分で中国政府と言っておいて、それを中国人の見解へとすりかえとか恥ずかしくないのですか?
ちなみに笠原先生は自説での犠牲者数推定を明確にしているのに対し、松永さんはそれができてない上にどちらにも責められるとへこたれている辺り、生き方の姿勢が全く違うでしょうに。
個人レベルでそういう中国人の見解が存在しうると同時に、笠原先生は否定派よりの日本人からも批判されまくっているわけですが、それで松永さんのように泣き言を言って判断保留したりしませんよ。
「自己憐憫に酔う」などといった珍妙な批判」と松永さん自身が書いているように、私が批判しているのは松永さんの「どちらからも責められて辛い立場です」的な泣き言でしょうに。
「わたしは別にシャドーボクシングしているわけではありません」という発言は松永さんが勝手に言っているだけで、私の質問とは関係ないことはこのコメント欄で明言していますね。それなのに、「笠原氏のこの発言をも「シャドーボクシング」と批判されるのであれば」という発言で反論しているつもりになっているとしたら、それこそシャドーボクシングというものでしょう。