ほんとうに遊ぶということは立派な仕事と同じ位むずかしい
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作成日時 : 2009/06/04 13:06
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これは私には言う資格がないが、歯の立たないような難しい本を、しんから打ちこんで読むとか、真面目に何か勉強するということは、小説なんか書いている時の、書けそうもないと思ったむずかしい状態が、どうにか書けた時の気分を考えてみて、いくらかはわかるのだ。いっそのこと浮いた時間は楽しく遊べば、つまらないことをやったり、ポカンとしていたりするよりは、奥さんたちの好きな「有意義」であって、ほんとうに楽しく遊ぶことが出来れば、立派な読書や勉強と同等な、堂々としたものなのであるが、ほんとうに遊ぶということは立派な仕事と同じ位むずかしいのだ。遊ぶということには、立派な仕事をするのと同じな、或いはそれ以上かもしれない才能が要るからだ。たとえばよろめくにしても、恋愛にはまず会話が必要であって(心と心の会話や、目の会話も、絶対必要である)、よろめき映画のように、わけのわからない、世迷い言のような会話や、深刻悲劇のような表情、又は恋愛を汚らわしい罪悪としておそれおののくもたもたなんかがあって、やがて素晴らしいエロティシズムとは似ても似つかない、所謂エロの場面に突入するのではおかしいだけであって、会話というものを、日常用のものしか持っていない日本の大部分の奥さんには、恋愛はほとんど不可能である。
(「ラアメンとお茶漬」『私の美の世界』(森茉莉)より)
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