「戦間期台湾地方選挙に関する考察」
古市利雄
本稿は日本統治下台湾で1935年に至り初めて導入された地方選挙制度について考察するものである。台湾の抗日運動においては、1920年代から1934年まで継続した台湾議会設置運動(台湾に関する予算と法令を審議する権限をもつ自治政府設立を目指す運動)がある一方で、その台湾議会設置運動に参加していたメンバーとも重複する形とはなっていたが、地方レベルにおいて政治へ参加するための地方制度改正要求をめざす台湾地方自治連盟(内地延長主義に合致するもので運動の後退とみられた)の、ふたつの動きがあった。台湾総督府(以下「総督府」とする)の統治方針としては20年代より設置運動それ自体には反対していたが、地方制度改正要求には内台融和を進める上でも反対する理由がないとしていた。しかし内地の反対や武官総督制復活を要求する「台湾右翼」の改正反対運動にあい、また台湾総督府は拓務省の下に置かれ朝鮮総督などと比べて地位が低い事や予算面でも内地側の合意が必要だったため、改正の具体化は迷走した。ここに内地対台湾の対立構造が生まれる。台湾議会設置運動は運動内において中止論が台頭していたことや台湾右翼の影響によって自ら中止を決定したが、これはより実現可能な方向への転換であった。この中止決定により改正具体化の勢いは増し帝国議会での予算通過のみとなった。台湾地方制度改正予算は帝国議会において民族的観点からの反対(台湾人は漢民族であり純粋な日本国民ではない)などにあったが、総督府側は台湾人を日本国民へと教化し島内における内台融和策と位置付け、予算を通過させた。台湾内においては、同じ国家意識を持たないままでの同化政策であると捉えられたが、選挙は実施された。地方議会には権限も少なく、半数は官選議員であったが、議員は執行機関に対し異議申し立てもし、また台湾中部の彰化市の議会では再議が行なわれるなど、必ずしも行政側の意のままには進められなかった。ここにはただ政策に従うのではなく、限られた政治的選択肢の中で可能と思われる最善、次善の道を模索する台湾人の主体的な姿が存在していたと考えられてきた。
台湾人の抵抗運動は武力抵抗が鎮圧された後は、合法的な政治運動の形で続けられるようになっていくのであった。さて先行研究においては総督府からの地方制度改正要求を「内台融和策」に留めてしまっている個所に疑問がある。帝国政府の台湾統治への方針は一貫して「内地延長政策」であり、その方針へとより近づけるための改正でもあるのではないだろうか。内地では普通選挙にも関わらず、台湾では納税額に基づく制限選挙が行なわれたことについての検討が必要だと思う。総督府財政は既に内地の援助からは自立していたが、法律的構造上予算には議会の承認が必要とされていた。これが後の総督府の政策にも影響を及ぼしたものと思われる。
(1)市会議員