板屋で食堂を営む新貝四男美さん。仕入れに使っている道もやがて五ケ山ダムに沈む(左奥はダム建設現場)

板屋で食堂を営む新貝四男美さん。仕入れに使っている道もやがて五ケ山ダムに沈む(左奥はダム建設現場)

 峠を越えると、県道脇のあちこちに毬栗(いがぐり)が転がっていた。福岡市早良区の板屋集落。山奥に1軒、小さな食堂がある。板屋で育った新貝四男美(しんかいしおみ)(70)が夫婦で切り盛りしている。

 看板料理は地鶏飯定食。ニンニクがきいた鶏の空揚げ、地元のタケノコ煮などのセットで600円。丼に大盛りのボリュームも、味もいいのに、客はまばら。立地に恵まれていないとはいえ、いささか気の毒になる。

 新貝は36年前、福岡市中央区六本松でスナック「せふり」を開いた。よく作ったつまみは、脊振山で採れたワサビの白あえ。鼻の奥をツンと刺激する、ふるさとの味。当時から「いつか板屋に店を」との思いを胸に抱いていた。

 脊振の山頂付近には、気象レーダー観測所がある。数日の泊まり込み勤務を終え、山から下りてくる職員がスナックの常連にいた。「脊振はもう雪化粧しとるよ」。四季折々の報告を聞くのが、カウンターに立つ新貝の楽しみだった。

 「せふり? 生意気な屋号やな」。酔って絡んできた新聞記者には、こう言い返した。「おれは脊振の生まれ。誰より山頂に近い家に住んどったとぜ。文句あっか?」

 板屋の食堂は20年前に開店した。屋号は「お食事処(どころ)せふり」。「水はうまいし、空気もよか」。客を相手についつい、板屋のふるさと自慢が止まらなくなる。

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 福岡市の水がめの1つ、脊振ダムと接する板屋集落。標高約600メートル。夏でも気温30度を超す日は10日ぐらいしかない。「いつか軽井沢のような別荘地に」。住民はある時期、そんな夢に入れ揚げた。

 1980年代後半の土地バブル。板屋の地価もつり上がった。市内の不動産業者は「家付きなら当時、今の倍の坪10万円ぐらいしたでしょうな」と振り返る。終戦後からの入植者らは土地を売り、集落を去った。

 観光開発の期待が膨らんだが、誤算もあった。集落一帯は、開発が規制される「市街化調整区域」。山林を切り開き、別荘を建てるには条件が厳しかった。

 バブル崩壊。99年、板屋の人たちはダム周辺を森林公園にしてほしいと、市に要望した。人を何とか呼びたい、との思いだった。

 市職員の返事はつれなかった。「権利関係が複雑で用地の購入は難しい」。公園にならなかったダムの湖畔では今、釣り人が静かに糸を垂らしている。

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 緑の斜面をえぐる重機のごう音が、山あいにこだまする。福岡県那珂川町の五ケ山ダム建設現場。板屋から南東約3キロにある。

 ダムに沈む周辺の集落は住民の立ち退きが進んでいる。那珂川町と佐賀県吉野ケ里町の計65世帯が既に移転。対象外の板屋も、思わぬ余波を受けている。

 板屋と那珂川町を1日4往復する西鉄の路線バス撤退である。立ち退きに伴い乗客が激減。福岡市の補助金を充てても、採算がとれなくなった。来春の廃止を前に、板屋は代替タクシーの運行などを市に求めている。担当との話し合いは、まだ折り合わない。

 脊振、南畑、五ケ山…。140万人都市を潤すダム建設により、脊振山麓(さんろく)の小さな集落は相次ぎ離散。その中腹にぽつりと板屋は取り残された。生活の足がないと、老いた住民は病院にも通えない。

 昼の営業が一段落した、お食事処せふり。新貝の店では井戸水を使っている。「福岡のもんは、脊振の水を飲みよるのを知らん」。水源地のつぶやきは、下流の街に届かない。脊振からの流れは、天神、中洲を縫って博多湾へ注いでいる。
 (敬称略)
 =おわり

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=2007/10/12付 西日本新聞朝刊=