赤島の岬にある墓地は手入れが行き届かず、雑草に覆われていた。向こうに福江島が見える
その片隅。掘り起こされた数十基の墓石が寄せ集められていた。赤島を離れた住民の多くは、新天地に墓を新たに作っている。島に残された墓石は風雨に削られ、一部は刻まれた文字が読み取れない。
赤島で最後に営まれた葬儀がいつだったのか、10人の住民は誰も知らない。「皆、島におらん時期が長かったけんな」。赤島で生まれ、育ち、家族を養って赤島の土に帰る。そんな生き方は既に途絶えている。
小中学校は34年前に廃校となり、婚礼も、大漁を願う漁村の祭りも、島から消えて久しい。
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赤島が最も活気に満ちていたのは、500人近くが暮らしていた終戦直後。福江島の旧崎山村(さきやまむら)に編入されていたが、島には「自活」の気風が息づいていた。
海岸の岩場に自生するマフノリを、老若男女の共同作業で摘み取った。織物や力士のまわしののり付けに使う貴重な海草だった。福江島に運んで現金に換え、島の財源に充てた。
この時期、周囲の島に先駆けて、ディーゼルの自家発電施設を稼働させた。技術者は独自に島外から雇い入れた。男たちが漁で留守になりがちな島を守るため、未婚女性でつくる消防団もあった。「出初め式の分列行進は、ひときわ目を引いたものである」との記述が市史に残る。
男たちはやがて、船乗りとして活躍の場を外洋に求めていった。人口減少が加速した。
今、赤島に残るのは、孤独な暮らし。沖に出るのも1人。海がしければ、黙々と網の手入れをする。消防団員の7人は、月2回の訓練で顔を合わせるが、酒を酌み交わすことはまれだ。ある漁師は「ネコとしか話をせん日もある」と言った。
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赤島に簡素な宿泊施設がある。9年前にできた「あかしまの家」。シャワーや冷暖房も付いている。建設に約500万円かかった。自治会長の今村泰己(67)は、全国各地の郷土人会の会員に寄付を呼び掛けた。
掘りごたつのある1室の壁は、額に入った赤島の古い写真で埋め尽くされている。そのうちの1枚は、台風で倒壊する前の神社の拝殿が被写体。「今建て直せば億の金がかかる、と宮大工は言うとった」。写真を見つめ誇らしげな今村。精霊流しの白黒写真には、無数のともしびと大勢の住民が写っている。
今村は突然、声を張り上げた。「じんじん(じいちゃん)死んだら、ばんばようせれ(ばあちゃんに優しく接しろ)。はーもや、はーもや」
子どものころ、正月の祭りで口にした歌の1節だった。島中を駆け回り、神社の太鼓を奪い合う「はーもや祭り」。どうしてあんなに夢中になったのか。振り返ると不思議なくらいだ。島に戻っての1人暮らしも、よき思い出があるから耐えられる。だが、34年前の廃校とともに、島で子ども時代を過ごす世代は途絶えた。
あかしまの家は素泊まり1500円。釣り客らが年に60人ほど訪れる。赤島出身者は、今村が思っていたほど来ない。
(敬称略)
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=2007/10/09付 西日本新聞朝刊=