定期船で港に届いた生活物資を運ぶ漁師。集落には放置された廃屋も目立つ

定期船で港に届いた生活物資を運ぶ漁師。集落には放置された廃屋も目立つ

 人口わずか10人。長崎県五島市の赤島は、五島灘に浮かぶ孤島である。五島列島で最も大きい福江島から南東へ約15キロ。0.52平方キロは、年間2500万人でにぎわう東京ディズニーランドと同じ面積だ。

 福江港から25分。コンクリートで固めただけの港に、定期船は接岸した。「はいよ」。船員が、米や野菜を詰めた段ボール箱を麦わら帽の漁師(70)に手渡す。島には店が1軒もない。漁で取る魚のほかは福江から届く生活物資が頼りだ。自動車もないので、住民はリヤカーで荷を運ぶ。

 漁師とともに幅1.5メートルの道を歩き、集落を目指す。瓦が落ちた廃屋、台風で片方の脚が壊れた神社の鳥居が痛々しい。雑木林の一画を漁師が指さす。そこは、かつて麦畑だったという。

 平屋の自宅に記者を招き入れた漁師は、カップ酒の容器に麦茶を注いで無造作に差し出した。「大丈夫、煮沸消毒しとるけん」。島には水道がない。各戸に雨水をためるタンクがあり、ガスこんろで沸かし、飲用や煮炊きに使う。

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 終戦直後、赤島には500人近くが住んでいた。火山灰のやせた土地。川がなく水の乏しい島では米作ができない。麦やイモ、野菜は食べる分を作るのが精いっぱいだった。

 家族を養うため、男子の多くは中学を出ると、長崎市などを拠点とする水産会社の船乗りになった。年ごろの女性も、結婚するには島を去るしかなかった。

 2年前に島に帰った東野満雄(65)。15歳から底引き船に乗り、東シナ海でカツオを追った。海の景気もよかった。初任給2万数千円。師範学校を出ていた中学時代の恩師の月給より高かった。

 赤島出身の若い船乗りには、1つの夢のかたちがあった。家庭を築き、長崎市にマイホーム。そしていつかは、赤島の両親を呼び寄せる-。それが親孝行と誰も疑わなかった。

 島が人口減少の一途をたどったのも、自然の成り行きだった。現在、島で暮らす10人は、夫婦1組と1人暮らしの男性8人。皆、高齢だ。

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 五島灘が朱色に染まる夕刻。漁師たちはそれぞれの漁船に1人乗り込み、沖に出る。岩礁に網を仕掛けておき、夜明けとともに網を引く。

 伊勢エビなどの水揚げで年に100万円前後の収入になる。漁具や食料を買う現金は、福江島の郵便局で必要なだけ引き出す。赤島に持ち帰っても使う機会がない。「この島は浮世と貨幣経済とは縁が切れとる」。漁師たちは冗談めかして言う。

 妻子は長崎市などに残していたり、離別していたり。「街に住みつけたら、なかなか女は来たがらん」。現役を退いて故郷の島に戻ってきた男たちは、自ら「年金漁師」と名乗る。年金があるので、好きな漁をして暮らせる。子や孫に仕送りをしている漁師もいる。

 東野も長崎市内の自宅に妻を残し、48年ぶりに帰島した。「ふるさとを無人島にしとなかったけん」。その言葉に悲愴(ひそう)感はない。

 だが、穏やかな島の老後は永遠に続かない。島には医者もいない。1人で生活できなくなれば、家族や施設を頼って再び島を去る。それが赤島の10人の、暗黙の了解。「島では死なれんごとなっとると」。東野はそう言うと、生の焼酎を一息に飲んだ。
(敬称略)

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=2007/10/07付 西日本新聞朝刊=