松永家の朝の食卓にはいつも笑顔がある

松永家の朝の食卓にはいつも笑顔がある

 標高1000メートル。風が冷たい。熊本県五木村の北部山中に開拓集落、端海野(たんかいの)がある。
 
 モミやブナの林に囲まれた木造平屋。松永泰男(56)一家5人が暮らす、その開拓住宅は、入植の1948(昭和23)年に建てられた。当時かやぶきだった屋根は、トタンになり、やがて瓦に変わった。

 朝6時。泰男と妻鶴子(49)、19歳の双子の娘、百合絵と香澄が仏壇の前に座った。自動車関係の仕事で熊本市まで通っている長男洋典(28)は、前夜遅くまで働いたので、布団の中だ。

 仏壇には泰男の父母の位牌(いはい)が並ぶ。父貞男は今年2月、母トメは3年前に他界した。朝の合掌はトメが亡くなった後、家族の日課となった。家族がささげるのは、山深い高地を切り開いた2人への感謝の祈りだ。

 朝食が始まると、泰男の冗談に双子姉妹がけらけら笑う。いつもの光景。食事を終えると姉妹は連れだって家を出る。2人は村内の食料品会社に勤めている。

 開拓当初30戸あった集落には今、この家族だけが残る。

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 戦後の食糧難。国は未開地を買収し、入植者に払い下げる開拓事業を全国で展開した。引き揚げ者や農家の二男らが参加した。端海野もその1つ。フィリピンで農園を経営していた貞男は戦後無一文となり、開拓団に加わった。

 岩村一雄(91)は、貞男とともに入植し、助け合った。直径1メートルの木も、のこぎり1本で切り倒した。早朝から晩までくわを入れて開墾した土地で焼き畑農業。ソバ、ヒエ、アワ…。自給自足の生活を送った。

 小学校の分校は集落総出で造った。切り出した木材を男衆が担いで運んだ。「子どもたちのためと思えば苦にならんかった。一番の思い出ですよ」。一雄は現在入居している村内の老人ホームで、そう話した。

 昭和30年代、木材の需要が伸び、端海野も林業関係者でにぎわった。だが、無計画な伐採は山の保水力を低下させ、水害を招くようになる。30年代後半、集落は数度の水害に見舞われ林道が壊滅。端海野の短い春が終わる。

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 高地の端海野ではコメが作れない。林業が衰退する中、24歳の泰男は菊の栽培に挑んだ。

 標高1000メートルでの栽培例はなかった。教えてくれる人はいない。菊は寒冷にやられた。県内の花き農家に尋ね回った。そして、低温に比較的強いとされる雨よけ栽培を試した。天井だけビニールで覆い、風を通す。立派な菊が育ち始めた。泰男は34歳になっていた。

 高冷地で育った菊は長持ちした。バブル景気にも乗って年収1000万円。だが、ほどなく安価な中国産に押され、収入は半分以下になった。

 「それでも、おやじとおふくろが死に物狂いで開いた土地を手放してたまるか、と思います」。駆け足で冬がやってくる端海野からの菊の出荷は10月中旬まで。1人黙々と追い込み作業に精を出す泰男は「子どもたちは、やりたいことを自由にすればいいですよ」とも言った。

 子どもたちの思いを聞きたくて泰男宅を訪ねると、仕事が休みだった長男洋典はチェーンソーを携えて山に入っていた。冬の間の風呂たきのまきを確保するためだ。「慣れ親しんだ山の生活が好きです」

 熊本市までの車の通勤は往復3時間。同僚たちは気遣って、熊本市内に住むよう勧める。洋典は、その気にならない。 (敬称略)

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=2007/10/04付 西日本新聞朝刊=