風呂炊きに使う薪を用意する喜登喜八郎さんと市重さん

風呂炊きに使う薪を用意する喜登喜八郎さんと市重さん

 「合使(ごうし)のムラは、ねえなったんですよ」。縁側に座った喜登(きど)市重(いちえ)(69)はネギの皮をむく手を止め、ぽつりと言った。近くに点在する木造家屋は木戸を閉めたまま。辺りには、さびた空き缶や湯飲み、破れた障子が散乱していた。

 大分県中津市と合併した旧下毛郡山国町槻木の合使集落。市中心部から約1時間半だが、自動車メーカーが進出して活気を取り戻した旧中津市とは違い、人の姿を見掛けることもない。

 ここで生まれ育った市重は26歳のとき、西へ約1キロ離れた毛谷村(けやむら)集落に夫・喜八郎(69)と養子に入った。ところが16年前、台風で家が全壊。建て直す資金はなく、両親が亡くなり空き家だった生家に戻った。

 入れ替わるように、合使集落の住民は次々と中津の市街地へ移っていく。6年前、残ったのは市重と喜八郎だけになってしまった。

 終戦後、集落には7世帯が住んでいた。木材需要の高まりで県外からの出稼ぎが増え、70人以上が暮らした時期もある。市重は覚えている。絶えることのなかった子どもの歓声と、木材を運ぶ馬のひづめの音を。

    ☆   ☆

 喜八郎は大工を続けているが、仕事はすっかり減った。まったくない月もある。

 食べる分のコメや野菜は夫婦で作る。3年前から、生計の足しにとシイタケ栽培を始めた。月に2、3回、車で40分ほどの日田市へ買い出しに行き、日用品を補う。

 生活の不便は感じないものの、病気への不安は強い。市重は神経痛で月に数回通院する身。車の運転は夫頼み。5年前、喜八郎がぼうこうがんに倒れたときの恐怖は、今も忘れられない。

 由布市に住む二女が何度も来て家の世話をしてくれたが片道一時間以上かかる。もし一刻を争う事態が起きれば…。

 「毛谷村の人たちに頼るしかない」。夫婦は自治会の籍を毛谷村に残している。

    ☆   ☆

 棚田の合間を上る坂道に沿って、4軒の家が並ぶ毛谷村。2軒はお年寄りの独り暮らし。年金と、ほそぼそ続ける農林業で生活している。

 スギの伐採は森林組合に委託せざるをえない。搬送を含めて代金を支払うと、50年以上も手塩にかけて育てたスギの販売収入はわずかしか残らない。枝払いや間伐など手入れは滞り、山は荒れていく。

 エサを探すシカやイノシシが田畑によく現れるようになった。最近は、においがきつくて食べなかったネギの味も覚えた。トタンや網で防護柵を作り、破られる度に補修する。いたちごっこの作業が高齢化した住民にとって重労働になった。

 コメを作っている田んぼは集落全体で6反(60アール)ほど。かつての5分の1にも満たなくなった。集落唯一の子どもは高校2年生で、2年後には県外の大学に進学する予定という。

 市重には、30年前に子どもが消えた合使集落がたどった道を、毛谷村も歩んでいると思える。夫婦で合使に移るとき、毛谷村の住民は口々に言った。「これ以上、男手が減ったら集落はどうなる。あんたらがいなくなるんは困る」

 先祖代々の田畑を原野に戻してはならないと、住民が植えたコスモスやニチニチソウ。それを押しのけるようにススキが生い茂り、秋風に揺れている。 (敬称略)

    ×      ×

 ふるさと再生への取り組みなどの情報を「わたしたちの九州」取材班までお寄せください。ファクス=092(711)6242。メールアドレス=tiiki@nishinippon.co.jp

=2007/10/03付 西日本新聞朝刊=