2002年のサッカー・ワールドカップ(W杯)でキャンプ地となった大分県中津江村(現日田市)。遅刻騒動の末、深夜に到着したカメルーン代表を、村人たちは嫌な顔一つせず熱烈に歓迎、全国にファンを広げた。
村長だった坂本は、2年前の合併で失職。山を分け入った八所(やところ)集落(18戸)で畑を耕しながら暮らす。築100年の自宅は改修を重ね、つましく持ちこたえている。
サイダーを一口飲み、坂本は1年前の出来事を語り始めた。
外出先から夕方戻ると、妻ヒサ子(72)が「気分が悪い」と横たわっていた。早朝、畑仕事をしていて朝露にぬれた草に足を滑らせ、頭を打ったようだった。
坂本は、もうろうとする妻を車に乗せ、熊本県小国町の救急病院まで15キロの道のりを急いだ。脳内出血と判明し、緊急手術。坂本の機転もあり、後遺症もなく回復したが、ヒサ子には搬送された記憶がない。
「私がいないと家には妻1人です。夫婦2人でこれから老いていくことを考えると…」。坂本の表情が曇った。八所では高齢者夫婦だけの世帯が半数を超える。
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八所は今、早生(わせ)米の収穫期を迎え、刈り取りが始まっている。夕日が差し込む棚田では、三輪車ほどの大きさのミニ刈り取り機がブルルンとうなり、稲を刈る。
かつて村人の暮らしを支えたのは「手間換(てまが)え」と呼ばれる互助精神だった。田植えや稲刈りを順繰りに手伝い、田畑を守ってきた。春は茶、タケノコ、ワサビ、夏はキュウリ、秋はシイタケと季節の野菜を収穫。たくさん取れれば「要るかい?」と声を掛け合った。木材の切り出しなどの山仕事も収入源だった。
だが、安価な外国産の野菜、材木の流入で村の暮らしは細っていった。集落には30-40代も数人いるが、昼間は勤めに出て不在だ。農作業も機械化され、昔のように村人が寄り合う機会は減少、手間換えの心も薄れ始めた。坂本宅の事故の話も、多くの住民が数日たって知った。
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そんな集落に最近、空き家を改築し、ログハウスを建てて、福岡県から2組の夫婦が移り住んだ。
北九州市から移住した元設計士の吉田希世士(きよし)(65)と敏子(63)夫婦は今春、集落を下った県道沿いに手作りパン店を開業した。地元の高菜漬け、ニンジンなどを具に週末限定でパンを焼く。原料の小麦粉も自家製。栽培から収穫まで近所の人が手伝ってくれる。
都会でコンクリート建築を手掛けてきた希世士。「おれは気むずかしい男だったが、ここに来て少し優しくなれた」
ただ、夫婦が1日に焼けるパンは約100個で、売り上げは1万円ほど。年金と蓄えを食いつぶし、生計を立てる現実も横たわっている。
秋が深まり、夫婦で朝、散歩に出掛けると、谷底には真っ白な底霧が広がる。希世士のパソコンには、集落の風景に加え、村人たちの何げない営みの写真も保存されている。
その1枚に写った男たちは緑色の厚紙でハスの花を作っていた。葬儀の祭壇に供えるお飾り。静かに言葉を交わしながら故人をしのび、集落の明日を憂える姿が、そこにあった。 (敬称略)
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=2007/10/02付 西日本新聞朝刊=