成長するクリスチャン |
この記事の発行者<<前の記事
|
次の記事>>
|
最新の記事
転勤でその町に住むことになったAさんは、その土地のある教会に連なることにしました。初めての日曜日に自己紹介をさせられたあと、「信仰はまだまだの私ですが、今後ともよろしく」と結びました。
Aさんは卑下したつもりだったのでしょうが、「信仰はまだまだの私」とはどういう意味でしょうか?
ここで、「信仰とは何か」を、聖書辞典や国語辞典の解説を基にして考えて見ましょう。ある聖書辞典ではまずこう述べています。
■ 信仰(信じる〉は、新約聖書全体に行きわたっている重要語である。それだけに多義で真実、信頼、確信、決意などをも意味し、服従、希望とも密接に関係する。
「信仰」は「阿弥陀仏信仰」とか「法華経信仰」などと、仏教でも使います。また、ある人は、私に向かって「村川さんは信仰をお持ちなので、ガンも治ったのですね。」などと言いました。さらに森元総理は、教育基本法に関連して、「神であれ仏であれ、信仰を持つのはいいことだ」と言ったそうです。
日本語の「信仰」は、国語辞典では、
「信じたっとぶこと。宗教活動の意識的側面をいい、神聖なもの(絶対者・神をも含む)に対する畏怖からよりは、親和の情から生ずると考えられ、儀礼とあいまって宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する」とあります。
「信じる」は英語ではbelieveですが、「信仰」は、聖書用語ではbelief でなく faithであることに注目してください。 faithには、忠実という意味があります。
また、有名な伝道者ボンケの信仰についての著書の題名は、「信仰 − 神の力との結びつき」です。
それに対して、仏教の信仰は、信仰ではなく「信心」という言葉を用いるのが正しいという人もいます。
また日本では、「鰯(いわし)の頭も信心から」という諺があって、鰯の頭のようなつまらないものでも、信仰すると、ひどくありがたく思えるとするさめた考え方もあるようですね。
少し余談になりましたが、聖書辞典に戻ってさらに考えて見ましょう。
ここでは、「信仰(faith)」という言葉を3つの場合に分けて、そのニュアンスの違いを明確に指摘しています。
Aさんが言った「まだまだの信仰」とは、どれのことなのでしょうか?
■(1)共観福音書で言う信仰
ここでは、<イエスに信頼し、イエスにおける神の絶大なカの働き、救いの奇跡を疑わないで肯定する>ことを言う。
この場合は、信仰は恐れと疑いとを超え、人間には不可能と見えても、イエスのわざに
顕われる神の働きに、すべてをゆだねる決意であリ、神への絶対的な信頼である。これはイエスの「山を移すほどの信仰(マルコ11:23)」の教えによく表わされている。イエスは弟子たちを「信仰の薄い者たちだ(マタイ8:26)」と叱っておられる。
マルコ 11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
マタイ 8:24 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
8:27 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
■(2)使徒の福音説教に関して用いられた信仰という言葉
イエスの死後の教会における宣教内容、すなわちキリストの十字架と復活とに要約される福音説教の内容を、聴いて信じること。(使徒の働き2:36, ローマ10:8-10, 16-17
神の愛はキリストの人格、業、ことば、とくに十字架と復活にあらわれたので、人間はこのキリストを救い主と信じ、神の愛に信頼する。このような信仰は人間の決意をもって始まるが、その背後には聖霊の働きがある。
聖霊は人間を新しくし、信仰によって歩ませ、神の意志に服従させる。さらに、信仰は霊なるキリストと交わることであり、それによってキリストの死と命とにあずかり、次第にキリストの栄光の姿へと変えられていくことである。(ローマ6:5, 8, 8:10-11, 2コリント3:17-18)。
■(3)パウロの言う義認に関して用いられた信仰
パウロはとくに「信仰によって義とされる」ことを、ユダヤ教の律法の行ないによって義とされるとの教えに対立して主張した(ローマ3:21以下, ガラテア2:15以下)。
人が義とされるのは律法の順守によらず、ただキリストにおいて顕わされた神の恵みを信じる信仰による。この信仰によって、人は罪を赦され、キリストと交わり、神のものとされる。
■(4)終末待望における信仰
救いの完成は終末寧の日に待たねばならないから、信仰は希望と等しい態度をも意味する(ローマ4:18, 8:23-25, ヘブル11:1)。信仰者は,現在まだ実現されていないが将来必ず実現される神の約束を信じ、忍耐をもって待ち望む。
■(5)ヨハネ文書で言う信仰
ヨハネ文書は、信仰をイエスを神の子と知り、承認することと説き、知る者が現在すでに
永遠の命をもっていることを強調する(ヨハネ17:3)。また信じること、知ることは愛することにつながる(1ヨハネ4:16)。
1ヨハネ4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
以上のように、
■「信仰」は,神に対する人間の在り方であって、神の働きに対する人間の受容と応答とのすべてを含んでいるのです。
「信仰は、神に対する人間の在り方であって、神の働きに対する人間の受容と応答とのすべてを含んでいる」とすれば、また、Aさんのように、すでに何年かのクリスチャン歴をお持ちなら、たとえ卑下するためであっても、「まだまだの信仰」などのような不正確な用語を用いないほうがいいのではないでしょうか。