シリーズ内容 本放送 再放送
第1回 鉄道紀行文学の巨人たち 6月1日 6月8日
第2回 沿線が生んだ思想 6月8日 6月15日
第3回 鉄道に乗る天皇 6月15日 6月22日
第4回 西の阪急、東の東急 6月22日 6月29日
第5回 私鉄沿線に現れた住宅 6月29日 7月6日
第6回 都電が消えた日 7月6日 7月13日
第7回 新宿駅一九六八・一九七四 7月13日 7月20日
第8回 乗客たちの反乱 7月20日 7月27日
語り手
原 武史 Hara Takeshi

1962年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、日本経済新聞社に入社し、東京社会部記者として昭和天皇の最晩年を取材。現在は明治学院大学教授、同大学付属研究所長。専攻は日本政治思想史。主な著書に『「民都」大阪対「帝都」東京』(サントリー学芸賞受賞)『大正天皇』(毎日出版文化賞受賞)『鉄道ひとつばなし』『鉄道ひとつばなし2』『滝山コミューン』(講談社ノンフィクション賞受賞)『昭和天皇』(司馬遼太郎賞受賞)など多数。

第1回

鉄道紀行文学の巨人たち

「鉄道紀行文学」とは、「鉄道に乗ること」に重きをおき、それまで「手段」にすぎなかった鉄道を「目的」に変えてしまった紀行文学。それをすぐれた文学にまで高めたのが、鉄道をこよなく愛した三人の作家だ。昭和25年に連載が始まった『阿房列車』シリーズで国内を旅した内田百閨B世界の鉄道を旅し、昭和50年から7年に渡って『南蛮阿房列車』シリーズを書き継いだ阿川弘之。そして、『時刻表2万キロ』でデビューし、平成15年に没するまで、質の高い鉄道紀行を書き続けた宮脇俊三。三者三様の個性や年齢差、論じる鉄道の違いから、戦後の日本の姿が浮かび上がってくる。
第2回

沿線が生んだ思想

特定の鉄道沿線に住むということは、その沿線文化あるいは地域の個性といったものに、実は深く規定されることなのではないか。本人は意識しないままに、そこからものを発想することがあるのではないか―。作家・永井荷風は、戦後、京成電鉄沿線に住んだ。彼がかつて愛し、戦争で焼け野原になってしまった墨東・向島の風景をそこに見出したからだった。同じ頃、高見順は、横須賀線の鎌倉に住んでいた。沿線には占領軍が接収した横須賀港や引き揚げ港となった浦賀港があった。そのため、車内では米兵や引き揚げの軍人や民間人と乗り合わせ、敗戦の現実を目の当たりにした。作家が住んだ鉄道沿線とそれが作品に与えた影響を読み解く。
第3回

鉄道に乗る天皇

明治・大正・昭和の時代を通して、最もあちこちの鉄道に乗ったのは誰かといえば、それは天皇である。明治天皇も、大正天皇も、昭和天皇も御召列車に乗り、じつによく全国を回った。大正天皇と昭和天皇はすでに皇太子の時代に、本州・四国・九州・北海道のすべてにおいて鉄道に乗っている。そしてそれは、大きな国家戦略に基づくものであった。近代日本においては、支配の主体である天皇・皇太子が「行幸啓」を全国レベルで繰り返し、人々の前に身体をさらし、視覚的に意識させることで、人々に自らが「臣民」であることを実感させたのだ。鉄道と天皇の知られざる関係に迫る。
第4回

西の阪急、東の東急

「東急」と「阪急」という東京と大阪を代表する二つの私鉄の比較を通して、東と西の鉄道のあり方の違い、そこに現れている文化の違いについて考える。「阪急(阪急電鉄)」を創業したのは小林一三。「乗客は電車が創造する」と沿線に宝塚歌劇団や百貨店を作り、一大文化圏を作り出した。小林は生涯、反官独立の姿勢を貫き、その徹底ぶりは、今でも駅の乗り換えに表れている。阪急からJRに乗り換えるには、いったん外に出て、切符を買い直さなければならない。一方、「東急(東京急行電鉄)」を創業した五島慶太は、小林の指導をあおぎながらも、徹底して「官」の力を借り、事業を広げていった。阪急・小林、東急・五島の違いを探りながら、東西の文化の違いに迫る。
第5回

私鉄沿線に現れた住宅

戦後、首都圏の住宅事情に転機をもたらしたのは、「団地」の出現だ。関東では1959年(昭和34)、総戸数2700戸をこえる「ひばりが丘団地」が完成。皇太子(現天皇)夫妻も視察に訪れ、その名は全国に知られるようになる。その後、住宅は大規模団地の時代に突入。西武、東武、新京成の私鉄各線の沿線に、総戸数2000戸以上の巨大団地が建設されていく。団地は、火事や地震に強い鉄筋コンクリート製で、ステンレスの流し台や水洗トイレなど、最新式の設備を完備。人々の憧れのまととなった。私鉄沿線に突如現れた「団地」と鉄道の関係を考える。
第6回

都電が消えた日

かつて最大で41系統もの路線が網の目のようにはりめぐらされた東京の市電・都電。戦前、戦後に渡って、その便利さと手軽さで長く都民の足だった。しかし、60年代後半になると急速に姿を消し、72年には荒川線だけが残った。その理由は、モータリゼーションにあったが、地下鉄が発達したことも大きかった。鉄道教授こと、原武史さんは、都電の廃止と地下鉄の発達は、単に交通手段が変わったということだけにはとどまらないと指摘する。都電によって戦前から受け継がれてきた、東京に対する人々の認識そのものが変わってしまった、というのだ。市電・都電が人々に与えた影響について考える。
第7回

新宿駅一九六八・一九七四

東京・新宿駅は、JR、私鉄、地下鉄の計11路線が乗り入れる巨大ターミナル駅だ。この新宿駅、60年代後半から70年代初頭の「政治の季節」、その重要な舞台の一つだった。1967年(昭和42)8月8日、新宿駅構内で貨物車同士が衝突、爆発炎上した。時はヴェトナム戦争の真っ最中。この事故によって、ヴェトナム戦争に向かう米軍機の燃料が、新宿を通って米軍立川基地に運ばれている、という事実が明らかになった。翌年10月には「米タン阻止」闘争が新宿駅で行われ、以後、過激なデモが繰り返された。熱い「政治の季節」に、新宿駅が果たした役割を考える。
第8回

乗客たちの反乱

1973年(昭和48)3月13日朝、国鉄高崎線上尾駅で、サラリーマンたちの「暴動」が起きた。人々は駅舎になだれ込み、ガラスを割り、列車に向かって投石した。なぜ、暴動は起きたのか。当時は、日本の労働運動が高揚し、争議が頻発した時代。しかし、国鉄など国の公共企業体の職員は法により、最も強力な争議行為であるストライキは認められていなかった。そこで、労組が用いた戦術が「順法闘争」だった。通常であれば速度などを柔軟に調整してダイヤを守るところを、逆に法や規程を厳格に守ることにより、結果としてダイヤを混乱させる、という皮肉な戦術で、間引き運転やノロノロ運転で大幅な遅れと混雑を引き起こした。普通のサラリーマンたちを暴動へ駆り立てた「時代」について考える。

TOP

Copyright NHK (Japan Broadcasting Corporation) All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

NHKにおける個人情報保護について | NHK著作権保護 | NHKオンライン 利用上のご注意 | NHKオンライン