江戸東京ものがたり・歴史篇(1)



酒井抱一「秋草鶉図」 (山種美術館蔵)。
武蔵野の原風景を装飾的に描いた図。

その1――武蔵野開拓史(1)

武蔵野の原風景

   武蔵野は月に入るべき峰もなし
   尾花が末にかかる白雲
               藤原通方
目に入る限りはどこまでも尾花(すすき)などの草の原が続く、原野のイメージを武蔵野はもっている。江戸時代もこのイメージは変わらず、『江戸名所花暦』の作者岡山鳥(おかさんちょう)も、「むさし野ははてしもなく広きことゆゑに、此処と定めたるところもな」い、と茫漠とした武蔵野の広さを述べている。
風流人たちのイメージはともかく、土地に住む人々にとって、この原野は切り開くべき対象だったのである。
武蔵野の開拓に第一に着手したのは、5世紀から6世紀にかけて、今日の田園調布から野毛にいたる多摩川の河岸段丘上に古墳群を残した、古代の豪族――胸刺(むなさし)国造たちであった。彼らの開拓は、多摩川沿いに進んだものと思われ、多氷(多末、後の多麻郡)・橘花(後の橘樹郡)・倉樔(後の久良郡)――多摩川・鶴見川流域の地が、屯倉として朝廷に献上されている。
    

渡来人による武蔵野開拓

6世紀から7世紀にかけ、この地から遠く離れた朝鮮半島で起きた動乱が、武蔵野にも影響をもたらすことになった。朝鮮半島では、新羅が大きな力をもつようになり、やがて百済・高句麗が滅ぼされることとなった。その結果、これらの国から多くの渡来人が、集団で日本にやってきたのである。
壬申の乱( 672年)後の朝廷は、技術の進んだ彼ら渡来人を、武蔵野開拓に投入する。
たとえば、当初、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野にやってきた、高麗(高句麗)からの渡来人1799人を、武蔵国に新設した高麗郡(現在の埼玉県日高市)に入植させた(霊亀2(716)年)。天平宝字2(758)年)には、新羅郡を新設、74人の渡来人に未開の地を与えた(後に新座郡と改称。現在の埼玉県新座市)。記録には残っていないが、狛江(=高麗江。現在の三鷹市・武蔵野市・調布市・狛江市・川崎市にまたがる広い地域の郷名)の地に渡来人がやってきたのも、同時期のことであろう。
彼らの農業技術(「火田法(かでんほう)」=原野に火をつけ、その後を放牧地や農地とする方法。火は計画的に着けられ、「野火止(のびどめ)」という火の終末予定地に土手を築いた)によって、武蔵野の原野は、泉や湧水などの水に恵まれた地域を中心として、徐々に放牧地や農地と変わっていった。




『江戸名所図会』より「深大寺蕎麦」。名物の蕎麦を食べる人々。

その2――武蔵野開拓史(2)

渡来人の子孫による古寺建立

深大寺蕎麦で有名な深大寺は、天平5(733)年に建立された寺で、武蔵国国分寺よりも創建が古い。深大寺の縁起によれば、「福満という渡来人と思われる人物が、水神・深沙大王の助けを受け、土地の温井長者の娘と結ばれ、生まれた子供が、開祖の満功上人で、深大寺という名前はこの水神に由来する」という。
満功上人は、深大寺のほかに、祇園寺の開祖ともいわれ、墓地には温井氏代々の墓もある。また、祇園寺の近くにある虎狛神社は、満功上人の両親を祀ったという伝説をもつ。
このように、渡来人とその子孫によって、土地の開拓と同時に、新しい信仰である仏教が、民衆の間に普及していったのである。

武蔵野の特産品

  玉川にさらす手づくりさらさらに
  なにぞこのこのここだ愛しき
多摩川に関する詩歌として最も有名な『万葉集』のこの歌は、手づくりの麻を川でさらし、踏んだりついたりして柔らかくする情景を歌っている。
この布は、古代の物納税「調」に使われた。おそらく、調としての麻布を織る人々の氏神として、布田天神社は始まったのであろう。その縁もあってか、同社には「玉川にさらす手づくり」を描いた絵馬がある。調布や布田という地名も、手づくりの里を思わせるものがある。
この神社の縁起には、広福長者という名前が現れており、深大寺伝説にある温井長者とあわせて、調布周辺の武蔵野開発によって、ある程度の富裕な階層が生まれたことを示している。武蔵野の本格的な開拓は、後の時代を待たなければならないが、8世紀頃までには、泉や湧水などが利用できる、水の便のよい地域には、他の地域には見られない文化が栄えたのである。




大国魂神社参道のケヤキ並木。

その3――武蔵野開拓史(3)

21郡の大国武蔵国

7世紀以降の律令体制下において、武蔵国は、現在の東京都の大部分(隅田川以東の下総国葛飾郡、伊豆諸島――伊豆国賀茂郡を除く)のほかに、埼玉県と神奈川県川崎市・横浜市を含み、陸奥国35郡に次ぐ21郡を数える大国であった。国府は現在の府中市にあり、周辺の国々の国府、相模国国府(最初は神奈川県海老名市周辺)・下総国国府(千葉県市川市)などとの間に官道が延びていた。当初は東山道(中部・関東・東北の山地を中心とする地域)に属していたので、メインルートは、上野国(現在の群馬県)とをつなぐ官道であった。
武蔵国全体で、田は3万5千町歩ほどあり、35万石(約5300トン)ほどの収量であったと思われる。原野の広がる武蔵野には、朝廷の牧場があり、多くの馬が飼われていた。このほかに、武蔵国では銅が採掘された。慶雲5(708)年秩父郡(現在の秩父市)より朝廷に献上された銅によって、年号が和銅と改められ、その銅によって日本最初の貨幣、和銅開珎が鋳造された。
同じころ、武蔵国では養蚕や紙漉き、瓦づくりなども広まり始め、9世紀ごろまでに、耕地や人口も徐々に増加していった。

国庁のあった大国魂神社境内

府中の名は、武蔵国の国府のある場所という意味から生まれている。けれども、国府の中心であった役所(国庁)が府中市のどこにあったかは、つい近年にいたるまでわからなかった。昭和51(1976)年、発掘調査が行われ、当時の官庁に特有の建築物の柱跡や、布目瓦や灯明皿などが出土したことによって、府中市の大国魂神社境内が、武蔵国国庁跡だという説が有力になった。
国府があったころ、武蔵国は中央から遠く離れた「遠国」だったので、中央から派遣される国司(「国」の長官)には兵力をもつことが許されていた。武蔵国は大国であることもあって、150名の兵士を定員としていた。
国庁は2町(約220m)四方で、国司の執務する正殿を中心に、東西に脇殿があったようだ。また、JR南武線分倍河原駅付近には鍛冶屋の集落が、府中税務署付近には、「高倉」という税として収められた米を貯蔵する倉庫があり、ここに働く人々が国庁の仕事を支えていた。
その後、10世紀前半ごろから、国府を設置した政治体制そのものが衰え始め、鎌倉時代の戦乱などによって、完全に忘れさられていくのである。




武蔵国分寺跡の碑(史跡所在地は 東京都国分寺市西元町・東元町)。

その4――武蔵野開拓史(4)

全国でも最大規模の国分寺

国府が府中に置かれてから、100年ほどたったころ、聖武天皇の詔によって各国の国府所在地に僧寺と尼寺を設置することになった。いわゆる、国分寺と国分尼寺である。
現在、国分寺市に医王山最勝院国分寺という寺があるが、天平13(741)年建立された本来の武蔵国国分寺は、この寺の南約 1.5キロメートルの地にあった。大国武蔵国にふさわしく、 380m四方の寺域に多くの建築物をもつ、全国の国分寺の中でも最大規模の寺院であった。
国によっては、財政不足から私寺を国分寺に定めたところもあり、このような大規模な寺院を建設することができたのは、武蔵国がこの時代までに、経済的にも、文化的にも、かなりの発展を示したことを表しているのではないだろうか。
中でも、金堂は間口約36m、奥行約17mという大きなもので、金堂の北には間口約28m、奥行約16mの講堂が、金堂と講堂の中間の左右には、鐘楼と経蔵が建っていた。また、金堂の東南東には七重塔がそびえたっていた。この塔を含めて、多くの建築物は、14世紀、新田義貞の鎌倉攻めの際の戦火で炎上したといわれる。
その後、国分寺跡は畑地となったが、辺りに散らばる瓦の破片を持ち帰ると、その家に災いが起きるという俗信があったためか、近年まで多く残っていたという。現在の国分寺境内にある国分寺市文化財保存館には、瓦の破片が保存されている。これらの瓦の中には、武蔵国の各郡、那珂郡・比企郡・秩父郡・大里郡・豊島郡・埼玉郡・荏原郡などの製作であることを示す文字が彫られているものがあり、武蔵国の多くの人々が国分寺の建設に携わったことを今に伝えている。

湧水により可能になった定住

武蔵野台地は、厚く関東ローム層に覆われ、保水性が悪く乾燥しやすい、人が定住するには不適な土地であった。したがって、三宝池や善福寺池、井頭池などの湧水によってつくられた池や、そこから流れ出る小河川は、武蔵野に暮らす人々にとって、たいへん貴重な水源であった。これらの地域に、比較的古くから人が住み着いていたことは、三宝池に残る豊島氏の滅亡伝説からも知ることができる。
文明9(1477)年、太田道灌と江古田・沼袋で戦った、石神井城の城主豊島泰経は敗北、愛馬に先祖伝来の黄金の鞍をつけたまま、城の北にある三宝寺池に沈んだ。その後も、晴れた日には黄金の鞍が日の光にあたって、まばゆく輝くのが見えるという。
石神井城は鎌倉末期に豊島氏によって築かれたものだというから、そのころから、三宝池は貴重な役割を果していたことがわかる。




上水の源流の一つ、井の頭池。
広重『名所雪月花』より。

その5――武蔵野開拓史(5)

上水と武蔵野の新田開発

天正18年(1590)8月1日に、徳川家康は江戸に入国する。それに先立つこと約半月の7月12日には、家康は家臣の大久保藤五郎忠行に、江戸における飲料水の確保を命ずる。大久保は、井頭池や善福寺池、妙正寺池などから神田川にいたる水路を整備し、江戸の東北部に給水した。これが「小石川上水」である。
その後、小石川上水は徐々に広げられ、寛永2年(1625)に本格的な上水として完成、神田上水と呼ばれる。神田上水は、井頭池からの流れを本流とし、善福寺池から流れる善福寺川、妙正寺池から流れる妙正寺川を、合わせて小石川にいたる水路である。
一方、家康の入国以来、武蔵野の開発が進められ、多くの新田が開かれた。神田上水は、途中の村々へも分水され、中でも、野火止用水・砂川分水・小川分水などは、特に武蔵野の新田に飲料水を供給するためにつくられたものである。
その後も武蔵野開発は進み、享保期(1716〜36)には、新たに82か村がつくられ、武蔵野の荒野はほぼ消滅したのである。この地に住むようになった人々は、畑をつくるだけなく、冬の強い季節風を防ぐためや、落葉を肥料の材料とするため、燃料としての薪を確保するために、樹木が植えられた。このようにして、武蔵野の約2〜3割が雑木林になった

武蔵野台地に広がる畑作地帯

正保年間(1644〜48)中野区内の村は、田が約 834石、畑が約1329石と畑が約60%を占め、畑では、大根・茄子・人参・蕎麦・芋・白瓜・柿などがつくられていた。
杉並区の村々は、幕末まで大麦・小麦・稗・蕎麦が中心の「穀百姓」の農家がほとんどだった。文化・文政(1804〜30)ごろから、農閑期の作業として、大根・芋・ごぼう・茄子・瓜・唐辛子・胡椒・柿・粟・菜種・えごまなどを江戸の青物問屋に出荷するようになる。
時代はやや下がり明治になってからの姿ではあるが、徳富蘆花『みみずのたわごと』で、北多摩郡千歳村(現在の世田谷区粕谷)の畑作農村のようすを見てみよう。この記述のほとんどは、江戸時代とさほど変わっていないはずである。
「彼の家の下なる浅い横長の谷は畑が重で、田は少しあるが、此入江から本田圃に出る長江の流るゝ様に田が連なって居る。まだ北風の寒い頃、子を負った跣足の女の子が、小目籠(めかい)と庖刀をもって、芹、嫁菜、薺、野蒜、蓬、蒲公英などを摘みに来る。紫雲英が咲く。」




JR三鷹駅北口にある、国木田独歩の詩碑。
「山林に自由存す」と書かれている。

その6――武蔵野開拓史(6)

国木田独歩の武蔵野

『武蔵野』という有名なエッセイに、独歩は次のように書いている。
「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といって宜い。即ち木は重に楢の類で冬は悉く落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野一斉に行われて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑陰に紅葉に、様々の光景を呈するその妙は一寸西国地方又た東北の者には解し兼ねるのである。」
独歩は明治29(1896)年の初秋から翌年の初春まで、「渋谷村の小さな茅屋に住」んでいて、「中野あたり、或は渋谷、世田ケ谷、又は小金井の奥の林」を散策した折りの経験を、『武蔵野』という小品にまとめた。上に引用した景色が、今日の代々木公園付近でも見られたというのは、今日のわれわれにとって、思いがけないことであろう。
このような武蔵野の雑木林は、人工的な新田開発によるもので、武蔵野の原風景は、独歩も書いているような「萱原のはてなき光景」だったのである。




京王電気軌道「13型」車輛。大正5(1916)年に登場した4輪単車。

その7――武蔵野開拓史(7)

ますます増大する野菜生産(1)

このように江戸時代からさほどの変化を見せていないような近郊農村も、明治38(1905)年ごろから、大きな変化を遂げていく。
江戸時代において、江戸市民のための野菜づくりが農閑期の大きなしごとであり、ほとんど唯一の現金収入の手段でもあった。けれども、東京の人口が急激に増加することによって、野菜の需要が増し、農村にとって野菜づくりは、江戸時代よりも、はるかに重要なものとなってきたのである。
もちろん、交通機関の発達により、神奈川県・千葉県・埼玉県など近県からも、野菜が運ばれるようになったのだが、新鮮さという点で、東京の近郊農村は野菜づくりを拡大していくことができた。その結果として、麦畑は野菜畑に、雑木林は筍採取のための竹林に変わっていく。この変化のようすを、徳富蘆花『みみずのたわごと』では、
「筍は出さかりで、孟宗藪を有つ家は、朝々早起きが楽しみだ。肥料もかゝるが1反80円から100 円にもなるので、雑木山は追々孟宗藪に化けて行く。」
と述べている。
ちなみに、明治45(1912)年の東京近郊農村の野菜作付面積を 100とすると、大正6(1917)年には 127、大正11(1922)年には 138、と急激な増加を示している。

鉄道の開通と近郊農村

近郊農村を、さらに変貌させていったのが、郊外鉄道の開通である。
例えば先に触れた『みみずのたわごと』の千歳村には、京王電気軌道線(現在の京王電鉄)が進出してくる。
「新宿八王子間の電車線路工事が始まって、大勢の土方が入り込み、村は連日戒厳令の下にでも住む様に兢々として居る。」
「東京の寺や墓地でも引張って来て少しは電鉄沿線の景気をつけると共に買った敷地を売りつけて一儲けする。(中略)大きな地主で些(すこし)派手にやって居る者に借金が無い者は殆どない。二十万坪買収は金に渇き切った其或人々にとって、旱天に夕立の福音であった。」
京王電気軌道線が、新宿−調布間を全通したのは、大正4(1915)年のことであった。近郊農村に郊外鉄道が敷設されることによって、農村地域は徐々にサラリーマン層の住宅地域へと変わっていくのである。その傾向を完全に定着させたのが、大正12(1923)年の関東大震災であった。


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