(cache) 「愛の道標」〜沖縄「闇フィルム」の時代 「愛の道標」〜沖縄「闇フィルム」の時代


 かつて沖縄で上映された日本映画のフィルムがあるという連絡を、那覇市在住の映画研究家、山里将人氏から受けたのは1998年のことである。外科の開業医であり、地元の興行会社、琉映株式会社の取締役でもある同氏は、それら可燃性フィルムを那覇の中心街、桜坂にある同社の倉庫に保管されていた。同年10月には筆者が現地で実物にあたり、ご寄贈の意思を受けて、不燃化復元のため東京の育映社に送ることにしたのだが、固化して復元不能と判断されたフィルムを除いてみると、残ったのは7タイトル、そのほとんどが断片であった。多くは戦前の時代劇であり、中には画像のクリアな伊藤大輔『御誂治郎吉格子』(1931年)の一部もあったが、脈絡なしに継ぎ合わされたフィルムも混じっており、タイトル確定の不可能なものが続出した。そうした中、唯一、作品全体が復元可能と判断されたのがこの3巻物の教育映画『愛の道標』である。
 それにしても、手がかりの少ない映画である。製作会社「大阪映画人集団」は他に作品を残した形跡がなく、演出の「竹島豊」についても、戦後の大阪で長くPR映画の監督を務め、主な劇場公開映画として2本の女子プロレスの記録映画に関わったという以上の情報は見当たらない。唯一とも言える手がかりが、製作にクレジットされた西原孝の名である。伊藤大輔に私淑して時代劇の演出家となり、1943年、大映作品『護る影』を最後に時代劇から身を引いたこの人物が、戦後、教育映画の世界に入ったことはいくつもの映画事典が記している。1949年7月に完成し1翌年3月19日に松竹系で公開された2という記録が辛うじて見られるこの映画は、西原の初期のプロデュース作品に当たるが彼の作品歴には記されていない。フィルム素材は1949年の4月〜6月期に富士フイルムで製造されており、公開当時のプリントと断定した。

 この映画そのものは、映画史的にはとりたてて論ずべき点の少ない作品である。戦後期の激しい人口増加を背景に、マルサスの「人口の原理」を引用しながら、線画を用いた避妊法の(かなり丁寧な)解説を通じて人口調節の意義を説いている。当時は大手の理研映画など他の短篇プロダクションでも同種の映画3が作られたが、この映画の運命が他と違うのは以下の記事を読むと分かる。

映倫マークのない短篇映画に注意
(…)去る十一月十三日警視廳防犯部保安課が新宿セントラル「愛の道標」、淺草ロック座「若人へのはなむけ」、淺草ロマンス座「限りある子宝」を押収したが、映倫では「愛の道標」は昭二五・二・二七附で映倫マークを與えているので調査したところ、映倫マークのない押収プリントには審査當時なかった煽情的な場面が挿入してある事實を發見したものである。(…)
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 教育映画の利用法としてはいささか逸脱していると言わねばなるまい。劇場公開後2年半以上も経過してから東京の盛り場で非合法的に上映されていたこれら映画たちは、教育映画以上の「機能」を担わされていたわけだ。というより、そもそもこうしたジャンル自体が興味本位の鑑賞の対象になっていたことをこの記事は示している。だが、今般那覇で発見されたフィルムには正式な映倫番号があり、脱衣の女性の胸部を撮影したショットはあるものの、別のフィルムを挿入した形跡、まして「煽情的な場面」などは見られない。だが、なぜ沖縄なのか?

 これらフィルムの発見は、日本映画がまた一つの流通史を形作っていたことの物証となった。当時の沖縄興行界で「闇フィルム」と呼ばれたこれらの映画は、海上の密貿易を通じてもたらされたと伝えられる。1945年、敗戦とともに琉球諸島西端の与那国島と台湾の間に再び国境が引かれると、台湾に疎開していた八重山住民の引き揚げに伴う生活物資の流入は、いつしか密貿易に発展した。沖縄戦で焦土と化した沖縄本島の人々は、横流ししたアメリカ軍物資を密貿易に供することで、生活物資の絶対的な不足をどうにか補っていたのである。また、トカラ列島の北端を横切る北緯30度線に日本との国境が定められたことで、九州・奄美間でも同種の交易が常態化した(1953年12月までは奄美群島もアメリカ占領下)。外部との間に貿易の手段がなかった当時、夥しい量の物資がこれらのルートを通じて流入していたことが知られている5
 山里氏は、1949年に稲垣浩監督の『瞼の母』(1931年)を、1950年に溝口健二監督の『滝の白糸』(1933年)を劇場で観たと克明にメモに残している6。娯楽を根こそぎ奪われた沖縄では戦争を終えてなお無声映画のブームが再燃し、興行主や弁士が地元の長者番付に載るほどの活躍を続けていたという。本土の興行界では考えにくい事態である。前述の『御誂治郎吉格子』も含まれるだろう、こうした無声映画は台湾発の「闇フィルム」であった。一方で日本映画の新作は、大手映画会社の九州支社などから内密にプリントが提供されたという。九州のどこかから人目を忍んで出港し、やがてトカラ列島の沖合で別の船に積み替えられたフィルムは、奄美諸島での上映を経て沖縄に運ばれた7。『愛の道標』も数々の劇映画とともに海の道を踏破してきたのだ。同氏は1950年9月4日、那覇の中央劇場で『産児制限の知識』なる作品が公開されたと記しているが8、もしこれが『愛の道標』と同一だとすると、(フィルムの入手経路は問わないとして)後の東京とは異なる合法上映だったことになる。
 結局、アメリカ軍政府が密貿易の一掃に乗り出すのはその1950年である。ほぼ並行して、軍政府の指令で民間貿易が再開され、日本映画の正式な輸入ルートが開かれることで「闇フィルム」時代は終焉を迎える。同氏の談話によれば、通常、使命を終えた「闇フィルム」は、興行者の手でまた船に積み込まれ沖合で廃棄されたという。海からやってきて、海の藻屑となるフィルムたち。私たちはその生き残りに辛うじて面会している。それは、時代劇から児童教育映画へと転身してゆく西原孝像とは異なる水脈に触れるとともに、法の目さえかいくぐってきた映画の《生命力》に出会う体験でもある。映画史の小さな片隅に見つけてしまった、仄暗い洞窟の奥を見つめながら…。


1 「戰後教育映畫一覽」「キネマ旬報」1950年4月1日号(再建第79号)70頁。
2 「松竹百年史」映像資料篇(松竹株式会社、1996年)111頁。
3 例えば1949年11月完成の理研映画作品『性と幸福』(演出岩堀喜久男)。
4 「ニュース 短篇」欄「キネマ旬報」1953年1月1日号(第53号)137頁。
5 戦後復興期の琉球諸島における密貿易については、石原昌家「空白の沖縄社会史 戦果と密貿易の時代」(晩聲社、2000年)に詳しい。
6 山里将人「静かな反抗 闇映画の熱狂」「日本経済新聞」2001年6月22日文化欄。
7 山里将人「アンヤタサ! 沖縄・戦後の映画1945〜1955」(ニライ社、2001年)25-26 頁。
8 同前71頁。

(2003年、東京国立近代美術館フィルムセンターのニューズレターに発表、一部改稿)

※本稿のオリジナルを発表した後、専門家の方より演出家の竹島豊氏についての貴重な情報が寄せられました。当方の調査不足を補うご指摘でしたので、より正確な記述のため竹島氏に関する記述に加筆させていただきました。

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