TV DVD-BOXプロジェクト発進! 監修:西崎義展 発売:バンダイビジュアル 2008年2月22日発売予定

INTERVIEWS

#03 芦田豊雄

part 2

アニメが時代を変えた瞬間に立ち会えた気がします

──『ヤマト』は、再放送から人気に火がつきましたが、そのときはどんな感想を持ちましたか?

芦田 そのときは「ふーん」という感じでした(笑)。

──すでに終わった作品ということで、醒めた感じだったのでしょうか。

芦田 いや、そういうことではなくて、『ヤマト』のあとは『サイボーグ009』(※13)とか『ヤッターマン』(※14)をやっていて、現実に目の前にある仕事をこなしていくのに精一杯で、『ヤマト』どころじゃなかったです。

──劇場版が公開されて、社会現象ともいえるブームになりました。アニメ業界をとりまく環境が変わったと思いますが。

芦田 確かにそうですね。『ヤマト』のいちばんの功績は、オタクと言われる人たちを生んだ作品です。そういう意味では偉大ですよ。つまり、アニメは人が作っているんだということをリアルに認識させた作品だったのです。

──アニメの裏側に作る人がいるということですね。それまでは「テレビまんが」と言われたものが、「アニメーション」「アニメ」と呼び名が変わりました。

芦田 あ、そうそう。ファンがスタジオ内にうろうろし始めましたよ、あの頃。

──スタジオの中に!?

芦田 見学したいって言ってきましたよ、毎日のようにね。あるとき、なんか朝早く来てるなあと思っていたら、掃除してたりしてましたからね(笑)。ほぼ同じ頃に、アフレコスタジオにも声優さんの出待ちをするファンも出てきた。そういう人たちが増えてくると、その中にボスが出てきて仕切るようになってきた(笑)。ですから、アニメの発展は彼らなしにはあり得なかったんです。

──『ヤマト』は、ファンクラブ(※15)ができたり、同人誌(※16)がたくさん作られたりしましたが、芦田さんもそういう人たちから取材させてほしいと言われたことはありましたか?

芦田 ありましたね。作画監督ファンという人から取材を受けたことがありますよ。

──まさに時代が変わったというか。

芦田 ええ。完全に新しい文化ができたという気がします。そういえば昔、台湾に行ったことがあったんですけど、向こうの国立大学で、コミケやコスプレ大会をやっているのを見ました。国立大学ですよ。外国に行くと、アニメは新しい文化、お洒落な文化になってしまうわけですから、世界中にオタクが誕生するという画期的な状況になりました(笑)。

──芦田さんはその画期的な状況を作った方のおひとりですね。

芦田 結果的にね、そうなったんです。私は、それまでのアニメでは常識だったことを、「本当は違うだろ?」という意識を持ってやってきただけなんです。それは『ヤマト』に限らず、たとえば『銀河漂流バイファム』(※17)の場合、SFという設定なのに普通の服を着せました。それまでのSFってみんなビニール製のピチピチしたスーツみたいなのを着てたじゃないですか(笑)。

──そうですね。あとマフラーをしていたりとか。

芦田 あれって生活しにくいと思いませんか(笑)。やっぱり普通の服を着るよな、と思って設定しましたから。『ヤマト』も同じですよ。

──『ヤマト』で岩が剥がれるシーンもそこにつながるわけですね。常識を破ったアニメ作りが、ファンの心をつかんだのではないかと思います。

芦田 『ヤマト』を見た人たちは、随所でそれを感じているはずなんです。劇場版が公開されたとき、お客さんたちが徹夜して並びましたよね。おそらく同じ場所に、いま玩具メーカーの部長をやっている人とか、出版社で編集長をしている人とかがいたんじゃないですかね。もちろん、いまアニメーターとして活躍している人たちも同じ場所にいて、同じ空気を吸っていた可能性が高いと思うんです。そういう人たちがアニメ業界に貢献しているわけですから、『ヤマト』という作品の影響はやはり大きいと思います。

──『ヤマト』を作っていた頃と現在では、アニメの制作状況は変わりましたか?

芦田 変わったという意味では、デジタルで作るようになったのがいちばん変わったところですね。でも、あとは変わらないですよ。絵コンテや原画は手で描かないといけないですからね。私自身、3Dアニメーションはアメリカで、2Dアニメーションは日本という棲み分けがいいと思っています。そういう意味で、私たちが作っている2Dアニメーションは不滅であってほしいですね。

──いまの若いアニメーターに、どういうアニメを作ってほしいと思いますか?

芦田 ハリウッド映画は、世界中に文字の読めない人がたくさんいる中で、字幕が読めなかったり、英語が理解できなくても内容がわかりますよね。だから世界的なビジネスが成り立っている。アニメもそうならないといけないと思います。ですから、ハリウッド映画とは違った形で、世界中の子供から大人まで支持されるようなアニメを作ってほしい。

──2Dアニメーションで世界中の人たちを喜ばせたいということですね。

芦田 いまね、おそらく30代より下の世代って、100パーセント近くの人が絵を描けるんですよ。多少の上手い下手はあるけど、たとえば「可愛い猫の絵を描いて」って言うと、みんな描きますよ。そういう民族というのは、世界中で日本だけなんです。この民族性を捨てるべきじゃないと思いますよ。そうした民族を作ったのはアニメのおかげなんです。

──ひいては『ヤマト』のおかげかもしれませんね。そうした偉大な作品である『ヤマト』ですが、まだ見ていない若い人たちに、どう見てもらいたいと思いますか?

芦田 見たら絶対面白いはずですよ。私自身のことで言うと、制作状況は大変だったですけど、苦しかったとか辛かったというのは忘れてしまいました(笑)。スタッフはすごく厚遇してくれましたしね。そういう作品に関わることができて感謝しています。

──どうもありがとうございました。

 

※13 『サイボーグ009』
1979年に放映された、石森(石ノ森)章太郎原作のアニメ化。テレビシリーズとしては第2作にあたる。芦田氏はアニメーション・キャラクター、総作画監督をつとめている。

※14 『ヤッターマン』
1977年からフジテレビ系列で放映された「タイムボカンシリーズ」の第2弾。芦田氏が担当したのは作画監督と演出。現在、第2作が日本テレビ系列で放映中。

※15 ファンクラブ
1975年頃から全国各地にヤマトの私設ファンクラブが結成された。代表的なファンクラブに、大学生が中心となって作られた「コスモバトルシップ・ヤマト・ラボラトリー」(通称・ヤマトラボ)や、そのスタッフが再結成した「コスモ・バトルシップ・ヤマト・アソシエイション」(通称Y・A)などがある。本サイトのブログで「あの頃ヤマトがすべてだった」を執筆している小牧雅伸氏は、このファンクラブの出身である。

※16 同人誌
上記のヤマト・ラボが発行した「ヤマト新聞」「ヤマトBOOKS」。Y・Aが発行した情報誌「ヤマトらんど」などがあり、当時、ヤマトの情報を求めていたファンの大きな支持を得た。

※17 『銀河漂流バイファム』
1983年に毎日放送系列で放映された富野由悠季原案のロボットアニメ。ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』をモチーフにしており、大人のキャラクターがほとんど出ない作品である。芦田氏はキャラクターデザインを担当。

イラスト:芦田豊雄

PROFILE
芦田豊雄 (あしだ とよお)
1944年東京都出身。TCJ動画センター(現・エイケン)に入社してアニメーターとしてのキャリアをスタートさせる。『忍風カムイ外伝』などの作画をおこなったあと、虫プロダクションに移動。『ムーミン』『ワンサくん』などの作画を手掛ける。虫プロダクション倒産後、フリーとして『宇宙戦艦ヤマト』に参加。76年にスタジオライブを設立し、『魔法のプリンセスミンキーモモ』『銀河漂流バイファム』『魔神英雄伝ワタル』のキャラクターデザインを担当する。また、『北斗の拳』のシリーズディレクターを務めるなど、演出やプロデュースの分野でも才能を発揮している。

 

 

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