パイプ町
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はっぱ先生の論評の論評
CATEGORY[未選択]
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猫型ロボットだった少年が未来からきて
スペースシャトル【チャレンジャー号】の搭乗員
【エリソン・オニヅカさん】の体を操って
爆発事故を起こす話を描いた空想SF小説です。
文中には、無駄な説明が多々あり、
また知識を誇示している印象を受ける記述が多々あり
虚栄心旺盛な作者の素顔を窺い知ることができます。
このために読者が大変不愉快な気持ちになる
駄作と萎縮しており非常に残念に思います。
作者の麻生新奈は、後書きで
<<私のようなヘタレ・アマチュアSF書き>>
と自分について書いております。
しかしこの人を【ヘタレ】ではなく
他人の考えを察して、感じ取る感性が欠如した
視野の狭い人間だとみなしております。<麻生新奈作品レポートより>
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はっぱ先生の論評である。まあ論評というよりも個人攻撃を目的とした作品への侮蔑の言なんだけども。
論評の論評を行う。
論評は、平成21年5月30日現在、『小学生には見せたくない麻生新奈』と題されたブログの中の「宇宙人(スペーシアン)になりたかった。 」という記事から引用した。
まずこの論評は非常に読みづらい。
他人に向けて何かものを書くという基本ができていない文章である。
段落1--------------------------------------------
猫型ロボットだった少年が未来からきて
スペースシャトル【チャレンジャー号】の搭乗員
【エリソン・オニヅカさん】の体を操って
爆発事故を起こす話を描いた空想SF小説です。
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意味のつなげ方が迂回的であり冗長である。一読して内容を判別しがたい。一文につなげなおしてみよう。
猫型ロボットだった少年が未来からきてスペースシャトル【チャレンジャー号】の搭乗員【エリソン・オニヅカさん】の体を操って爆発事故を起こす話を描いた空想SF小説です。
微笑を禁じ得ないほど酷い一文である。論評の筆者の文体は、まず主語を置かない。この作品は、という大前提を置かない。まず、自明のものを略すという癖が、筆者には見られる。しかし筆者にとり自明のことが、他者にとり自明のことであるとは全く限らない。のみならず、複雑な構文の場合にはまず大上段に構えてでも「これは、何である」という主従の断り書きがいる。筆者には客観性の欠如が見られる。まよろしい、どれほど酷いかレッツ解剖だ。
主述を抜き出して単純化する。
少年(元ネコ型ロボット) が きて 操って 起こす 描いた小説である
(主節 従節 従節 従節 従節)従節
従節の連続が鈍重である。主節に従節を連用形で並立してつないでいるために、読者は、乾電池の並列つなぎじみて、意味を並行して覚えておかなければならないストレスがかかる。
のみならずその連続体によって構成される主節を、またも従節につなげる醜い構造をとる。不完全な入れ子の構造を形成する最後の従節は不要である。この粘着質で鈍重な階層構造が、意味の通りの悪さを産んでいる。
段落2----------------------------------------------
文中には、無駄な説明が多々あり、
また知識を誇示している印象を受ける記述が多々あり
虚栄心旺盛な作者の素顔を窺い知ることができます。
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論評において、筆者が、作品の中にある表現を、無駄な説明と述べるのならば、筆者はそれを証明しなければならない。それでなければ、その記述は、ただの主観にすぎないのだ。論評のごとく筆者がそう感じたのであるならば、その感覚は、万人を納得させうる普遍性のある欠点から生じたものであるか、それとも自らの知的土台の欠如から生成される無理解と、未発達な価値観、および主観からそう感じるに過ぎないのか、筆者はそれを自問しなければならない。
知識を誇示していると筆者が感じているのならば、その内容に相当している箇所を、原典から引用して、論じなければならない。その過程の吟味を経て後、他者は初めて納得するのだ。筆者は自分一人だけで納得した内容を傲慢にも普遍的事実として取り扱い、展開している。
論評の筆者よ、君は指摘しているにすぎない。それは論理による火入れを済ませないただの主観だ。我々を納得させるだけの論をなぜ提示しないのか? 誰が見ようとも、この指摘内容は普遍的事実として認められることはない。
論評の筆者よ、さらにこの、君から見た主観からの欠点を演繹し、君は、作者本人が虚栄心旺盛だと断じているが、それは何故そう思えるのか? それは君のミスリードではないとなぜ断言できるのか? 無駄な説明と知識の誇示とを虚栄心に結びつけるのならば、それはただ単に、作品の内容を君が理解できていないから、その劣等感が作者の虚栄心として君の心に映じられたのではないか?
どちらにせよ、論評の筆者の論の広げ方を観るに、むしろ論評の筆者の知的世界の狭量さと知的操作の幼稚さを憫笑せざるを得ない。
段落3----------------------------------------------
このために読者が大変不愉快な気持ちになる
駄作と萎縮しており非常に残念に思います。
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これまた負の方向に傑作と言わざるを得ない。
何者が「委縮」しているのか? このセンテンスには主語がないために、意味全体を取りづらいうえ、この「委縮」の文字で完全に意味が散乱する。我々はこの論評の一文を読んでこそ不愉快になるというものだ。まず、意味すら通じない文面を臆せずに掲載し、それをもって明敏たるべき評と目するその神経こそ、身の程を知るべしと言わざるを得ない。
論評の作者の、いつもの文体ならば「認識」の文字が来るはずである。また、段落2全体へかかる「このために」を見るとき、しかし何故に「このために」筆者が不愉快になるのか、我々には理解できない。段落2では、作者にはわかっている自己にのみ周知の事実を、論評の読者に対し説明することなく、事実の内容を記述することなく、また論じて証明することなく結果のみを提示している。そのために我々は、階段を飛ばされて提示された、論評の筆者の主観を信用しない。
段落4----------------------------------------------
作者の麻生新奈は、後書きで
<<私のようなヘタレ・アマチュアSF書き>>
と自分について書いております。
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段落の第4はまあどうでもいいだろう。それは麻生氏の態度を示した文だ。他者にへりくだって見せる寛容な態度を許さない読者もいるが。
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しかしこの人を【ヘタレ】ではなく
他人の考えを察して、感じ取る感性が欠如した
視野の狭い人間だとみなしております。<麻生新奈作品レポートより>
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この段落にも主格が欠如している。なぜ、「私は、」と、説明する「我」を前面に打ち立て、自己を、客観的に、他者の判断の前に晒さないのか? 論評の筆者にとって自明であることが記事の読者にとって自明であるとなぜわかるのかね? まあそれだけで酷い文になるわけではないので勘弁しよう、問題はこの文章が結部たるべき強い結論たりえないことだ。
「他人の考えを察して、感じ取る感性が欠如した視野の狭い人間だとみなしております。」
誰が? 主格の不在によって一瞬、記事の読者は考え込まざるを得ない。数秒たって、ああ、筆者にとってか、とようやくわかることができる。
しかしわかったところでこれは主観の押し付けにすぎない。さらに言うなら、自明を前提として主格を省略し、その結果、意味が非常にわかりにくくなっていることを顧みられない精神性のほうを疑わざるを得ない。客観性が欠如している。論からも客観性が欠如している。
筆者よ、君があることを感じているところで、他者がそうだとは全く限らない。筆者よ、君がそうだから、だからなんだと言うんだ? 君は、自分がこう言えば他者にたやすく通じるとでも考えているのか? 他人の考えを察して、感じ取る感性が欠如しているのは筆者のほうではないのか?
何かを自明として扱うことは、その自明さを証明するものではない。単なる自己撞着に終わるのだ。この論評全体が自己撞着そのものだ。
全体を観て感想を述べなければならない。
これは厳密にいえば評ですらない、なぜならこれは芸術のために奉仕するという態度を捨てたほかの何かだからである。この論評の中に、作者の人格と技量、さらに作品の体験を否定する以外の言が見られるだろうか? 作品に対して、あるものはあるないものはないと書くものが評である。この論評の中に、真摯に人間の精神性を掘り下げようとした形跡は見当たらない。そもそも、この感想の薄さから見るに、筆者が作品全体を親身に読んだかどうかすら疑わしい。
見られるものといえば、自らの悪意を精錬して取り出した、愚劣な思考の結果を、未熟な手法によって開陳した惨憺たる代物である。この論評は評ではなく、論評じみた罵倒である。削除を要求する。
筆者には、ことによればこの戯けた論評をシリーズ化する意図があるのかもしれないが、その場合には、もれなく私が論評を評するので楽しみにしているとよいだろう。
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