 格闘家、桜庭和志とおどける百瀬氏。ピストルと札束が彼を象徴する |
誰もコトの真相を書かないので、敢えて書く。
長く、兄淑してきた百瀬博教(ももせ・ひろみち)氏が27日、亡くなった。同日未明、東京・南青山の自宅浴室で意識を失っているのを知人が見つけ、病院に運ばれたが、同日午後3時半ごろに死亡が確認された。67歳だった−。
「高須! オレと付き合うのは作家としてか、それともヤクザとしてか−。旗色をしっかり決めて付き合えよ」
そう彼が言ったのは、1993年春。女優、白都真理写真集「情事」(荒木経惟撮影、KKベストセラーズ)の発売直後、刷り上がったばかりの本を持参した時だった。
私は間髪入れず、「もちろん、作家として、です」と答えた。
あれから15年。私は兄のように淑し、格闘技界、芸能界の後ろ盾として百瀬“先生”と濃い付き合いをさせていただいた。
96年、私が処女エッセー「美女が脱ぐ瞬間(とき)」(リム出版)を上梓する時には、本の帯に推薦文を寄せてくれ、「ついでだけど、オレの親友のイラストレーター、安西水丸に表紙デザインを依頼してやるよ。処女作だ、めでたいからな」と、豪腕を奮ってくれた。
当時、世間は私を、「女優、藤田朋子をダマして脱がせた男」と天下の悪徳プロデューサーと見ていた。
そんなことにも、「無名より、悪名だ」と私の背中を押してくれたのも百瀬兄だった−。
今の私の立ち位置、その礎を築いてもくれた。
総合格闘技「PRIDE」に彼が関わる時、「高須、文化人をリングサイドに集めろ!」と言い、日本ではなじみが薄い寝技のルールを、彼ら文化人、有名人を通して広めていき、人気が盛り上がった。
野村沙知代が、バッシングを受けるさなかに、「イノキボンバイエ」の大舞台、そのリングサイドにサッチーを座らせてくれたのも彼だ。
強面の半面、生粋の江戸っ子らしく、私の横着な願い事もさらりとやってのけてくれた。
「先生、相談が…」と訪ねると、いつも、「いくらいるんだ?」と帯封のついた札束を準備し、「返せよ…」と言いながら、手元不如意の私を応援してくれた。
私は、巷間、“PRIDEの怪人”と呼ばれたビジネス上の百瀬のことはよく知らない。当然、その“裏人脈”も知らない。
しかし、作家、百瀬博教は、芸能・出版界にあっては、「高須は手元不如意でも、江戸的なあいさつがきっちりできる男だ」と私をひいきにしてくれたのだ。
顔面に強烈なパンチを浴びたり、人前で面罵されたこともあった。しかし、この私が生涯、ケツを割った男は唯一彼だけだ。
映画を愛し、相撲を愛し、そして東京を愛した最後の昭和の文人。
私の「人たらしの極意」は彼の直伝だ。
私は“百瀬二世”と呼ばれたい。合掌。(出版プロデューサー)
■高須基仁の“百花繚乱”独り言=http://plaza.rakuten.co.jp/takasumotoji
ZAKZAK 2008/01/31