僕らは先人で仕事をしている人がいたわけじゃない――当時は今みたいにアニメライターや特撮ライターみたいな存在がいなかったわけですよね。 小牧 だから、もともとね、発表の場がないけどおもしろい人たちに場所を提供しているみたいなところがあったの。江古田にあった「まんが画廊」には絵や文章のセミプロみたいな人が集まっていて、声を掛けるだけで本が1冊作れちゃうみたいなところがあったし。でもさすがに月刊化するころになると、皆ちゃんと仕事を持つようになっていたので、なかなかそういうノリでできなくなったところはあったかな。 出渕 当時のアニメブームの中で、アニメを知っている書き手って、森(卓也)さんとかおかだえみこさんとか、それ以前のアニメーションの世界の人ぐらいしかいなかったんですよね。でもそういう方たちだと、当時の気分を切り取れるわけじゃない。だからそういうのがわかる人が駆り出されることになったわけでしょう。 ――そういう意味では出渕さんも、ファン出身のクリエイターの先駆け的存在ですよね。 出渕 要するに当時って、『宇宙戦艦ヤマト』をターニングポイントにして、メカニック的なものに対する要求度がどんどん高くなっていってた時代なんですよ。でも、それに対応できる人がいないんですよね、現場には。だから外の力を借りるようになって、スタジオぬえさんなんかはその代表格だったわけですよ。その流れの中に僕なんかもいたわけです。 ――出渕さんは、最初っからプロでやっていこうと決めていたんですか。 出渕 うーん、映像関係に進みたいとは思っていたけど、画業とかましてやメカデザイナーというふうには考えていなかったんだよね。だから『闘将ダイモス』でデビューして『未来ロボダルタニアス』『無敵ロボトライダーG7』『最強ロボダイオージャ』あたりまでは、まだセミプロ感覚が抜けていなかった。 出渕 せめて5年間絵を描く仕事が続けばいいだろうというぐらいの気分はあったの。そうすると若くて巧いヤツがもっと出てくるだろうと。その間にコネクションができたら、演出に行くなり、制作に行くなりしようかなと。それに、進学については当時いろいろ考えましたよ。でも氷川さんと違って、サラリーマン生活に向いていないのは確実だし、今目の前にあるチャンスが、大学卒業してまた巡ってくるか、といえばわからないわけで。ならば今のチャンスを生かしていこうと思って、こういう人生になった。 ――小牧さんの場合は、どうですか? 覚悟してプロになったのか、それともなっちゃったという感じなのか。 小牧 なんというか、追われているうちになっちゃったっていう感じでしょう。それで逃げられなくなっちゃったというか。 ――そのあたりは「アニメック」の雰囲気にもずいぶんと出ているような気がします。 氷川 あの、「アニメック」って誤植が多かったんだよね。にもかかわらずほかの媒体の誤植を笑う「××(チョメチョメ)コーナー」があるという。 自分が見たいものを作っていた――「アニメック」が一番売れていたのはいつになるんですか? 小牧 ええとね、確か'85年の新年号だったと思うけれど、125,000部。あれがトップだと思いますよ。これ実売だからね。 ――でもちょうど'86年から'87年にかけては、アニメ誌が次々となくなる時期でした。 氷川 僕は'83年に入社して、'86年は入社3年目で、工場に何ヵ月も詰めるような生活をしていたんだよね。その中で月イチで「アニメック」の「アニメックステーション」とかの原稿を書いていて。ただものすごく時間が限られているから、翌朝までにポストに投函しないと落ちます、みたいな状況で。そんな猛烈な状態でボロボロなところに、富沢雅彦さん(※16)も亡くなるという哀しくも象徴的な出来事もあってね。そういう中で、アメリカに長期出張を命じられて、その着任が忘れもしない'87年1月4日。三が日に出社して荷造りしてんですよ(笑)。そういうギリギリの時に「アニメック」の休刊を知って、なんだかある節目を迎えたような、放心した気分にはなったことを覚えてますね。「ああ、アニメックまでもが無くなっちゃうんだ。もう何もかもだな。でも、しばらく日本にはいないからいいか」みたいな気分で。 小牧 だから、こうやって振り返ってみると、「アニメック」って時代が生んだ本だな、ってものすごく思うんですよ。だからあの当時、映像関係に興味のあった人は多かれ少なかれ、関わっていたりするわけで。だから別に僕でなくても、ああいう雑誌になったんじゃないかと思ったりするんだよね。 ――「アニメック」って、結局どういう雑誌だったんでしょうかね? 出渕 うーん、角川書店幹部養成所? ――氷川さんはどうですか? 氷川 自分がこれまで関わったメディアをざっとおさらいすると、実はアニメと特撮がクロスオーバーした雑誌ってほとんどないんですよ。「アニメック」を除けば「ランデヴー」(※17)ぐらいで。あとは僕は関わっていないけれど「B-CLUB」(※18)がそうだったけど。たとえば「宇宙船」(※19)の創刊号にはアニメの記事があったんだけれど、アニメの記事なんか載せるなって読者からいわれて、早々に撤退したりこともあったりで。そういう意味では「アニメック」っておもしろいと思ったことについて間口が広かった。 【了】
小牧雅伸(こまき・まさのぶ)カルト的な人気を誇った「月刊アニメック」の元編集長。アニメック休刊後は、ラポート編集部編集局長としてムックとコミックスを編集。現在は編集プロダクション、スタジオ小牧主宰。城西国際大学メディア学部講師も兼任。トルネードベースに1年にわたり連載された「アニメックの頃…」がこの程終了した。 出渕 裕(いづぶち・ゆたか)1978年に『闘将ダイモス』でデビュー。実写・アニメを問わずメカニックやクリチャーデザインを数多く手がける。代表作は『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』や『機動警察パトレイバー』『科学戦隊ダイナマン』など。『ラーゼフォン』で初監督を務める。この度「出渕裕画集30周年記念画集IIIX」(徳間書店)が発売。 氷川竜介(ひかわ・りゅうすけ)1977年よりライターとして活躍。アニメ、特撮を独自の観点で分析する映像評論家。2001年に電機系メーカーより独立して文筆専業に。著作は「20年目のザンボット3」「フィルムとしてのガンダム」「世紀末アニメ熱論」「アキラ・アーカイヴ」など多数。「アニメック」には中谷達也の名義で執筆参加していた。 ※16 富沢雅彦「怪獣同人誌から出発した「PUFF」の第2期を中島紳介と共同で編集、後に単独で編集するようになる。軽妙なレトリックを入り口に、自分の好きなSFや少女漫画、あるいは評論などを横断的に取り入れ、引用しながらクロスオーバー的に対象を語り尽くし、ある種の幻惑感・酩酊感を読者に覚えさせる魅力的な名文の書き手であった。「PUFF」が怪獣映画オンリーからアニメも含めた多種多様なカルチャー同人誌になっていったのも一種の必然であろう。その時期、富沢雅彦氏の文章スタイルや価値観の影響はかなり大きいものがあった。実の姉がアニドウで「FILM 1/24」を手がけた五味洋子(旧姓:富沢)というのは、あまりにも出来すぎ。上京し、専業ライターとして「COMIC BOX」(ふゅーじょんぷろだくと)を中心に活動。コミケットの同人誌からハイライトを編纂した「美少女症候群」は伝説的なアンソロジーであった。惜しまれつつも、1986年11月に病死。その壮絶な生き様は浅羽通明氏が千野光郎名義でルポルタージュ「殉教者・富沢雅彦へのレクイエム」(「おたくの本」(別冊宝島)に収録)としてまとめている。氷川も取材を受け、浅羽氏の評論集「天使の王国」(JICC出版局)にも収録されたはず。富沢さんの生前の文章は単行本「不滅のスーパーロボット大全」(赤星政尚編/二見書房刊)で読むことができる」(氷川) ※17 ランデヴー1977年創刊。「OUT」の増刊で、アニメ、特撮、SF、コミックをより中心に取り上げる編集方針だった。6号で休刊。 ※18 B-CLUB1985年隔月刊で創刊。後に月刊に移行。「「アニメック」も終刊間際に押井監督の実写第1作『紅い眼鏡』の記事が載っていたと思うんだけれど、「B-CLUB」も同時に取り上げていた。『紅い眼鏡』は、アニメ系人脈と特撮系人脈が入り交じったりして、『パトレイバー』やそれ以外の作品の人脈の結節点になっている作品。そこに反応したのが「アニメック」と「B-CLUB」だったというのはポイントだと思う」(氷川) ※19 宇宙船1980年に朝日ソノラマが創刊した特撮雑誌。'05年に休刊するも、ホビージャパンが商標を取得し、現在'08年4月の再刊を進めている。 |