アニメックの頃… SPACIAL鼎談

僕らは先人で仕事をしている人がいたわけじゃない

――当時は今みたいにアニメライターや特撮ライターみたいな存在がいなかったわけですよね。

小牧 だから、もともとね、発表の場がないけどおもしろい人たちに場所を提供しているみたいなところがあったの。江古田にあった「まんが画廊」には絵や文章のセミプロみたいな人が集まっていて、声を掛けるだけで本が1冊作れちゃうみたいなところがあったし。でもさすがに月刊化するころになると、皆ちゃんと仕事を持つようになっていたので、なかなかそういうノリでできなくなったところはあったかな。

出渕 当時のアニメブームの中で、アニメを知っている書き手って、森(卓也)さんとかおかだえみこさんとか、それ以前のアニメーションの世界の人ぐらいしかいなかったんですよね。でもそういう方たちだと、当時の気分を切り取れるわけじゃない。だからそういうのがわかる人が駆り出されることになったわけでしょう。
氷川 僕なんかはカメラが使えて、それで児童誌とかでセル画の撮影とかを振られたりしていたから特に思うんだけれど、まず、ライターという職業ありきじゃないんだよね。アニメに関する仕事があって、その中の印刷物関係があってという、そういう大きな枠組みの中に原稿を書く、という仕事もたまたま含まれているんであって、ライターだとか評論家だとかが先にあるわけじゃない。特に僕らは先人で似たような仕事をしている人がいたわけじゃないから、セル撮するにしても、カット袋開けて、タイムシート見て原画に相当するセルは「○印」のついてるものだからそれを選んでとか、自分たちで学びながらやってきたわけで。
小牧 そうそう。いくつかやっているうちにセル単体で借りるよりも、カット袋ごと借りればいいんだ、とかわかってきた。
出渕 それは二人ともミニコミとかを作ってきた経験があるからできたんだよね。
氷川 それからさっき言ったみたいに、わざわざ文通しようとか、「S-Fマガジン」の存在を知って読んでる時点で、『ドラクエ』の勇者に例えればレベル25ぐらいの中ボスは何人か制覇しているレベルなんだよね。
出渕 逆にそこまでしてもコンタクト取りたいというような能力やモチベーションを持った人だけが残ったっていうようなところがある。

――そういう意味では出渕さんも、ファン出身のクリエイターの先駆け的存在ですよね。

出渕 要するに当時って、『宇宙戦艦ヤマト』をターニングポイントにして、メカニック的なものに対する要求度がどんどん高くなっていってた時代なんですよ。でも、それに対応できる人がいないんですよね、現場には。だから外の力を借りるようになって、スタジオぬえさんなんかはその代表格だったわけですよ。その流れの中に僕なんかもいたわけです。
氷川 多分、サンライズが外部からのブレーンを置くという企業文化を持っていたのもあると思うんだ。
出渕 そうですね。ぬえの高千穂(遙)さんなんかそういうポジションだったし。僕の場合は期待された役割は、メカというか怪獣みたいなものについての、要は戦闘シーンのアイデア出しですよね。シナリオには戦闘はたいして書かれているわけじゃないので、絵コンテ前にこんな武器持ってます、こんな戦い方しますみたいなアイデアを出す。それをアニメーターの方が清書すると。まあ、アイデア出しても演出に採用されるのは、少ないんだけどね。

――出渕さんは、最初っからプロでやっていこうと決めていたんですか。

出渕 うーん、映像関係に進みたいとは思っていたけど、画業とかましてやメカデザイナーというふうには考えていなかったんだよね。だから『闘将ダイモス』でデビューして『未来ロボダルタニアス』『無敵ロボトライダーG7』『最強ロボダイオージャ』あたりまでは、まだセミプロ感覚が抜けていなかった。
氷川 当時、『ダルタニアス』のころにね、「大学受験もあるはずなのにどうしたんだ? まだやっているの?」って失礼ながら言ったことがあると思うんだ。蒲田でやってたコミケ会場でさ(笑)。そもそも意外に思う人がいるかもしれないけどね、当時のブッちゃんて、絵は確かに巧かったけど、そのまま絵の仕事につくような人にも見えなかったんだよね。映像関係でもプロデューサーとか監督とかそっちなんじゃないかと。

出渕 せめて5年間絵を描く仕事が続けばいいだろうというぐらいの気分はあったの。そうすると若くて巧いヤツがもっと出てくるだろうと。その間にコネクションができたら、演出に行くなり、制作に行くなりしようかなと。それに、進学については当時いろいろ考えましたよ。でも氷川さんと違って、サラリーマン生活に向いていないのは確実だし、今目の前にあるチャンスが、大学卒業してまた巡ってくるか、といえばわからないわけで。ならば今のチャンスを生かしていこうと思って、こういう人生になった。
小牧 僕は編集したり文字書くのがやっとだから、絵描きっていうのはもう別次元の生物、特別な存在として見えるんだよね。
出渕 そこは僕ね、意外と、絵描きは偉いっていう認識がなかったから続けられたというのはあるかもしれない。絵も好きなんだけれど、一番好きなのはドラマ、感情のひだを表現するところで、絵はその手段だと思っていたから。

――小牧さんの場合は、どうですか? 覚悟してプロになったのか、それともなっちゃったという感じなのか。

小牧 なんというか、追われているうちになっちゃったっていう感じでしょう。それで逃げられなくなっちゃったというか。
出渕 小牧さんは、就職とかどう考えてたんですか?
小牧 当時はアルバイトの延長みたいな学生編集長で、自分の好きなものを特集できてうれしい、ぐらいの感じだったんだけれど、だんだん忙しくてなってそんなの考えている余裕もなかったなぁ。だから就職したっていう意識も薄いまま、それで気がつくと、現在に至るというか。

――そのあたりは「アニメック」の雰囲気にもずいぶんと出ているような気がします。

氷川 あの、「アニメック」って誤植が多かったんだよね。にもかかわらずほかの媒体の誤植を笑う「××(チョメチョメ)コーナー」があるという。
小牧 あれはひどいよね(苦笑)。
氷川 ひとつ印象的だったのが『機動戦士Zガンダム』のシャアのセリフ。「こなそくー!」って書かれていたんで、何だろうって考えて、自分では「こなくそ!」だと決めてかかってたの。そうしたら本編(第10話「再会」)をみたら「姑息(こそく)な!」だったという(笑)。
小牧 もう誤植王だったからね。一番ヒドイのが、ラポートの綴り(RAPPORT)のPが一つ抜けていたこともあった。「うわ、すごいわ、ロゴで“P”が抜けてるよ」って。
出渕 いや、そんな他人事みたいに。あなたの雑誌じゃないですか。
小牧 一応目は通しているけど、なんかうちの編集部はざるどころじゃないね、ワクだね、それじゃ何枚重ねても素通りだよねって。
出渕 だからさ、小牧さんは、そうやって笑い話にしちゃうんだよ。ちゃんと体制組まなきゃ。
小牧 いや、体制組んだよ。文章に関わっていないほかの部署の人に読ませて。
出渕 それでどうだったんです。
小牧 いや、それが面白がって読んじゃって、見つけてくれないの。「お前、校正って面白がって読んでちゃダメなんだよ」って説教しても変わらないんだよ。
出渕 ああ、また笑い話になってる……。

自分が見たいものを作っていた

――「アニメック」が一番売れていたのはいつになるんですか?

小牧 ええとね、確か'85年の新年号だったと思うけれど、125,000部。あれがトップだと思いますよ。これ実売だからね。
出渕 雑誌で?
小牧 当時はだいたい実売部数の3倍ぐらいを発行部数として営業とかで使うのが当たり前だったんだけれど、「アニメック」は正味の数字でやってたの。だから、広告をもっととる方向でやっていけば、まだまだ続けられたと思うんだよね。それが社長が言うんですよ。会社の分析の結果、'87年以降はゼロサム成長になる、と。そうなると現状のままでいくと足もとをすくわれるから、事業を縮小してギリギリのところでやったほうがいいだろうと。それで「アニメック」の休刊が決まったわけだけれど、そうしたあたりからバブルが絶頂期に入っていって、ろくなコンテンツがないようなものでもバンバン売れるようになって。うちの編集部でも、旧刊の再販とかすると売れるんですよ。社長は、いや本来はこんなに金が回る時期ではなく、ゼロ成長のはずなんだけど、とは言ってたけれど。そのあたりはなんか納得できないというか。

――でもちょうど'86年から'87年にかけては、アニメ誌が次々となくなる時期でした。

氷川 僕は'83年に入社して、'86年は入社3年目で、工場に何ヵ月も詰めるような生活をしていたんだよね。その中で月イチで「アニメック」の「アニメックステーション」とかの原稿を書いていて。ただものすごく時間が限られているから、翌朝までにポストに投函しないと落ちます、みたいな状況で。そんな猛烈な状態でボロボロなところに、富沢雅彦さん(※16)も亡くなるという哀しくも象徴的な出来事もあってね。そういう中で、アメリカに長期出張を命じられて、その着任が忘れもしない'87年1月4日。三が日に出社して荷造りしてんですよ(笑)。そういうギリギリの時に「アニメック」の休刊を知って、なんだかある節目を迎えたような、放心した気分にはなったことを覚えてますね。「ああ、アニメックまでもが無くなっちゃうんだ。もう何もかもだな。でも、しばらく日本にはいないからいいか」みたいな気分で。
出渕 ちょうどそのころって、富野さんなんかにしても、『ガンダム』以降、新しいことをやろうとしてきたけど、結局『ガンダム』に戻らざるを得なくなった時期で。OVAのほうも、スポンサーがいなくて好きなことができる! っていざ作ってみたら、あまりおもしろくなかったりして、そういう状況が段々明らかになっていった時なんだよね。
小牧 だから「アニメック」が休刊して、ほっとしたことの一つは、'86年から'87年にかけて雨後の竹の子のようにリリースされたOVA、あれを見なくていいということ。これからは好きな作品だけ見ればいいって。
氷川 これは「歴史のIF」として思うんだけれど、「アニメック」がもう1年もちこたえたら『機動警察パトレイバー』がリリースされるわけだから、『パトレイバー』人気でガンダムのときみたいに盛り返すことができたんじゃない?
小牧 まだ決定稿になる前の特車二課の制服姿の野明のイラストは描いてもらったけどね。
出渕 あれは本当にプレの段階のものだったけどね。うーん、どうだったんだろうなぁ。

小牧 だから、こうやって振り返ってみると、「アニメック」って時代が生んだ本だな、ってものすごく思うんですよ。だからあの当時、映像関係に興味のあった人は多かれ少なかれ、関わっていたりするわけで。だから別に僕でなくても、ああいう雑誌になったんじゃないかと思ったりするんだよね。
氷川 それは違うと思うなぁ。完全に小牧さんという編集長の個性が出ている雑誌だったと思いますよ。
出渕 たとえば小牧さんじゃない人が、ラポートに入って、「アニメック」の編集長だったとして、普通にもう何号かやって消えてますよ。あの時の民意をくみ取れずに。
小牧 民意というか、自分が見たいものを作っていたっていうのもあるわけで。だから自分が意識して組み立ててああいうものが作れないかとは思うんだよね。
出渕 そっちの話になるとさ、ちょっと厳しい言い方になるかもしれないけど、今の小牧さんには編集者として新しいなにかにチャレンジしてほしいんだよね、僕は。今までの話を聞いていてもそうなんだけれど、良くも悪くもファン気質なんですよね、小牧さんは。だから、いい本作るぞ、好きだぞということに加えて、その本をビジネス的に勝てるように仕掛けるとか、新しいアニメじゃない「好きなアニメ」を軸に切り口を考えるとか。そこのところはね、強く望みたいところではある。もっとセルフプロデュースしてくださいよ。
小牧 うーん。そうかぁ。言いたいことはわかる。

――「アニメック」って、結局どういう雑誌だったんでしょうかね?

出渕 うーん、角川書店幹部養成所?
氷川 うわぁ(苦笑)。いうなれば、「角の穴」?
小牧 まあ、社長の井上伸一郎氏からして、そうだからねぇ。
出渕 いや、もうちょっと真面目にいうと、小牧さんの大規模同人誌、かな。もちろん同人誌じゃないんだけれど、同人誌っぽいハードなところと、ゆるいところが同居していて、それが関わりやすい雰囲気につながっていたのは間違いない。

――氷川さんはどうですか?

氷川 自分がこれまで関わったメディアをざっとおさらいすると、実はアニメと特撮がクロスオーバーした雑誌ってほとんどないんですよ。「アニメック」を除けば「ランデヴー」(※17)ぐらいで。あとは僕は関わっていないけれど「B-CLUB」(※18)がそうだったけど。たとえば「宇宙船」(※19)の創刊号にはアニメの記事があったんだけれど、アニメの記事なんか載せるなって読者からいわれて、早々に撤退したりこともあったりで。そういう意味では「アニメック」っておもしろいと思ったことについて間口が広かった。
小牧 それはやっぱり、みんなの間に共通言語があったんですよ。共通言語があったから、今まで全然実績がない人でも、こういうのやったら面白いと思うんですよって主張があって、話が通じたら任せちゃったからね。
氷川 だけど今はね、情報の総量が多すぎで、うかつに間口を広くとると応分にダメなものも一杯入ってくるから、「これはダメ、あれはダメ」ってどんどん切り捨てて、そもそも受け手が間口を狭くとろうとしていて、雑誌もそれに合わせてる時代なんですよ。それは成熟した産業の典型的な構図で、否定はできないんだけど、それをもう一度広げるには、「アニメック」的な横断的な価値観というのは重要なんじゃないかと思うんですよ。そういうふうに視線を持つと「アニメック」について考えることが、未来にもつながるように思いますね。……ところでずっと小牧さんに聞こうと思っていたんですが、なんで最初に「マニフィック」っていう名前をつけたんですか?
小牧 あれは『美女と野獣』の馬から取ったんじゃなかったっけ。
出渕 だから、あれでしょ、馬に「マニフィック、マニフィック」って語りかけると……。
小牧 ……必ず正しい場所に連れて行くという。
氷川 それで僕らは、道を誤ってしまったのか(笑)。
小牧 それはあるかもしれない(笑)。
出渕 (笑)。いやぁ、ここは案外、正しい場所だったのかもしれないですよ。
小牧 うーん、そればっかりは、なんともいいようがないなぁ。
氷川 まあ、会った時には30年もつきあうと思わなかった人と、今こうして話ができること自体が奇跡みたいなもんだから、そう悪い場所ではなかったんじゃないかな(笑)。

【了】

 

小牧雅伸(こまき・まさのぶ)

カルト的な人気を誇った「月刊アニメック」の元編集長。アニメック休刊後は、ラポート編集部編集局長としてムックとコミックスを編集。現在は編集プロダクション、スタジオ小牧主宰。城西国際大学メディア学部講師も兼任。トルネードベースに1年にわたり連載された「アニメックの頃…」がこの程終了した。

出渕 裕(いづぶち・ゆたか)

1978年に『闘将ダイモス』でデビュー。実写・アニメを問わずメカニックやクリチャーデザインを数多く手がける。代表作は『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』や『機動警察パトレイバー』『科学戦隊ダイナマン』など。『ラーゼフォン』で初監督を務める。この度「出渕裕画集30周年記念画集IIIX」(徳間書店)が発売。

氷川竜介(ひかわ・りゅうすけ)

1977年よりライターとして活躍。アニメ、特撮を独自の観点で分析する映像評論家。2001年に電機系メーカーより独立して文筆専業に。著作は「20年目のザンボット3」「フィルムとしてのガンダム」「世紀末アニメ熱論」「アキラ・アーカイヴ」など多数。「アニメック」には中谷達也の名義で執筆参加していた。

※16 富沢雅彦

「怪獣同人誌から出発した「PUFF」の第2期を中島紳介と共同で編集、後に単独で編集するようになる。軽妙なレトリックを入り口に、自分の好きなSFや少女漫画、あるいは評論などを横断的に取り入れ、引用しながらクロスオーバー的に対象を語り尽くし、ある種の幻惑感・酩酊感を読者に覚えさせる魅力的な名文の書き手であった。「PUFF」が怪獣映画オンリーからアニメも含めた多種多様なカルチャー同人誌になっていったのも一種の必然であろう。その時期、富沢雅彦氏の文章スタイルや価値観の影響はかなり大きいものがあった。実の姉がアニドウで「FILM 1/24」を手がけた五味洋子(旧姓:富沢)というのは、あまりにも出来すぎ。上京し、専業ライターとして「COMIC BOX」(ふゅーじょんぷろだくと)を中心に活動。コミケットの同人誌からハイライトを編纂した「美少女症候群」は伝説的なアンソロジーであった。惜しまれつつも、1986年11月に病死。その壮絶な生き様は浅羽通明氏が千野光郎名義でルポルタージュ「殉教者・富沢雅彦へのレクイエム」(「おたくの本」(別冊宝島)に収録)としてまとめている。氷川も取材を受け、浅羽氏の評論集「天使の王国」(JICC出版局)にも収録されたはず。富沢さんの生前の文章は単行本「不滅のスーパーロボット大全」(赤星政尚編/二見書房刊)で読むことができる」(氷川)

※17 ランデヴー

1977年創刊。「OUT」の増刊で、アニメ、特撮、SF、コミックをより中心に取り上げる編集方針だった。6号で休刊。

※18 B-CLUB

1985年隔月刊で創刊。後に月刊に移行。「「アニメック」も終刊間際に押井監督の実写第1作『紅い眼鏡』の記事が載っていたと思うんだけれど、「B-CLUB」も同時に取り上げていた。『紅い眼鏡』は、アニメ系人脈と特撮系人脈が入り交じったりして、『パトレイバー』やそれ以外の作品の人脈の結節点になっている作品。そこに反応したのが「アニメック」と「B-CLUB」だったというのはポイントだと思う」(氷川)

※19 宇宙船

1980年に朝日ソノラマが創刊した特撮雑誌。'05年に休刊するも、ホビージャパンが商標を取得し、現在'08年4月の再刊を進めている。