アニメックの頃… SPACIAL鼎談

子どものまま大きくなったのが、未だに続いている

(目の前に広げられた「アニメック」のバックナンバーを見つつ……)
氷川 すごいなぁ。「ナニメ」(※1)って表紙に書いてあるよ。定着しなかった言葉ですね(笑)。
出渕 ああ、当時Mちゃんがナニメって言ってたね。
小牧 うん、Mちゃんはナニメ推進派。
氷川 特撮とかアニメを横断する言葉でしたっけ?
出渕 いや、違ったと思う。ダメアニメのことでしょう?
小牧 そう。座標軸がずれたようなアニメのこと。当時は……『宇宙戦艦ヤマトIII』が代表とか書いてるね(笑)。
出渕 今風にいうとトンデモアニメというか、『MUSASHI-GUN道』みたいな楽しみ方をするアニメってことだよね。
氷川 ああ、そうだっけ。
出渕 そういえば、アニメーターがイラストを載せるコーナーがあったでしょう。結城信輝くんがリビドー全開の『ダーティペア』のイラストを描いていて。『ロードス島戦記』の制作中にスタジオにファックスしてあげたら(笑)、「勘弁してくださいよ」って電話がかかってきたことがあったなぁ。

――(笑)。……そろそろ座談をスタートさせようと思うんですが、そもそも出渕さんと氷川さんは、小牧さんといつごろ知り合ったんですか?

氷川 どこから話を始めればいいのか……。『宇宙戦艦ヤマト』放映中に、Wさんという人と僕が文通していたんですよ。当時、怪獣同人誌の「PUFF」(※2)があって、その会員同士の繋がりで。
小牧 当時は文通しかないからね。
出渕 そう。基本、文通ですよ。

氷川 そのころ竹内博さん(※3)が主宰で、当時勤務されてた円谷プロダクションの一室を借りた怪獣・特撮ファンの会合が月イチで日曜日に開かれてたんですね。これが後に月例会を経て同人「怪獣倶楽部」に発展するんですが。'75年の年明け――まだ寒かったころに開かれたその会合にWさんを連れて行ったら、小牧さんがいっしょに来ていたんじゃないかな。
小牧 それって俺が小道具のライフル持って、Wさんがヘルメット被った写真を撮った時だよね。
氷川 そう。あと現在は特殊メイクアーティスト・映画監督であるHさんが怪獣倉庫からウルトラセブンの着ぐるみを引っぱり出して着たはず。今考えると、おおらかな時代ですよね(苦笑)。それで、小牧さんから個人誌というかミニコミ誌(※4)をもらって「ああ、こういうものを作っている人なんだ」と思ったことは覚えている。
出渕 僕が会ったのは、名古屋でしたね。「TRITON」に入ったばかりでその総会みたいのがあるから、って何故か名古屋まで行った時。会員の人の山荘で、いろいろと徹夜で上映をやったんですよ。その時は、こっちはまだ学生ですからね。それが向こうから白衣を着たおじさん(笑)がやってきて、なんかさもこっちを知っているように「ああ、君たち云々」って話しかけてきた。
小牧 当時19歳の大学生つかまえて、おじさんはないだろう(笑)。
出渕 だって印象変わんないもん。
小牧 あれって『海のトリトン』ファンクラブの上映会だっけ?
出渕 違いますよ(笑)。ほんとに、このおじさんは〜。
小牧 だって当時ブッちゃんがいた「トリトン」って『海のトリトン』ファンクラブじゃなかったっけ?
出渕 違いますって。『海のトリトン』には「TFC」ってあったけど、僕は入ってないもん。「トリトン」ていうのは、近藤万里子さんという方が、SFの同人、アニメーションの同人それぞれはあるけれど、どちらとも接点を持つようなものを作りたいって、S-Fマガジンのテレポート欄で呼びかけたサークルなんですよ。僕はそれを読んで、しかも会報が「オリハルコン」っていうところにもキュン(笑)となって参加したんだけど……だから、あれは英字で「TRITON」と書く団体で『海のトリトン』ファンクラブじゃないの。基本、創作誌だったでしょう?
小牧 そうか、そうじゃないのか。じゃあ、その後『海のトリトン』ファンクラブになったんだっけ?
出渕 なってないですよ。後にも先にも。しっかりしてくださいよ。小牧さんがそうだと、僕ら立つ瀬がないんですよ(笑)。
小牧 (苦笑)。じゃあ、それの神奈川県の平塚支部ってのを勝手に立ち上げたのは?
出渕 あれは支部じゃなくて、「TRITON」の神奈川支部の平塚在住組が「平塚町内会」を名乗ったの! 神奈川支部は別にあるの! 今、SF&ファンタジー評論家になった小谷真理(※5)が参加してて、またその小谷も「トリトン」を『海のトリトン』ファンクラブとして発言してるから、誤解が広がっているの。ホントにさぁ、困るよなぁ。
小牧 ああ、そうなんだ。でもブッちゃんが野崎(欣宏)さんと『宇宙戦艦ヤマト』のパーティーで会って、それが業界入りにつながったという話は、間違えずに話してるよ。
出渕 ……小牧さん、それも違ってる。
小牧 ええー。違うの?
出渕 僕、長浜(忠夫)さん自身に、スケッチブックを見てもらったんですよ。野崎さんはその後、設定制作として窓口になった時にお会いして、という感じ。
氷川 ブッちゃんが当時進めていた『エスパリオン』という自主制作の資料を見せたんだよね。
小牧 そうか〜(苦笑)。当時もボケてて2回連続の打合せの1回目が終わったところで、打合せ場所の喫茶店から帰ろうとしたこともあってさ。その時もブッちゃんに、呼び止められたんだよね。なんかさっきも言われたけど、当時からあまり変わってないのかなぁ。
出渕 頼みますよ(笑)。
小牧 うん。……当時のことを思い出すと、私は丹波の山奥が故郷じゃないですか。それが東京へ出てきていろんな人と会うと、同じアニメでも見てるところが違うんだよね。私はストーリーライン主体で覚えていたんだけれど、スタッフリストを書き留めている人間とか、音響ラインだけきちっと書いている人とか、タイムフォーマットを記録しているヤツとか。ああ、すごいなぁと。それでだいぶお互いに勉強したような気がするの。
出渕 僕やってましたよ。再放送を見ながら作画監督と演出と脚本と……。
氷川 あと、美術。
出渕 僕はね、そこで美術じゃなくて、なぜか制作進行をメモしていた(笑)。
氷川 当時はどんなクレジットの人が何をしているかなんてわからないからね。
小牧 で、そういう情報を総合すると合体して見えてくるものがあるんだよね。まあTVアニメも少なかったし、「少年マガジン」と「S-Fマガジン」読んでたら、ほしい情報の80%押さえられるような時代だったんだけど。

――スタッフをメモする文化って、どのあたりがルーツなんですかね?

氷川 それは映画研究で、映画館にノートを持ち込んでスタッフをメモするっていうあたりでしょう。僕の場合は具体的にいうと、池田憲章さんが'74年の暮れぐらいに「怪獣倶楽部」(※6)の月例会で、「皆さん、今見てるものはちゃんと記録に取らないと残らないですよ」って言って、憲章ノートを見せてくれたんだよね。それで衝撃を受けて、メモをとるようになった。
小牧 僕の場合、そういう影響を受けた存在っていうと(鈴木)克伸さん(※7)かなぁ。「テレビランド」かなにかのオリジナルイラスト企画で、ガタがきたグレンダイザーを、グレートマジンガー用の電磁コイルを使って修理するというのがあったの。この修理によって30%強化される、みたいな説明がついていて、そういうのがものすごく好きだった。
氷川 テレビランドのイラストは、緊急脱出用のあの三角や矢印のマーキングを、ブレーンコンドルに描いているんだよね。それは大河原邦男さんよりもずっと早かった。そういう雑誌における設定文化って、プレヒストリー的に鈴木克伸さん、青柳誠さん(※8)の存在があるんですよね。
小牧 私はそれが結構強いなぁ。

――そのあたりも“ガンダムの型式番号を決めた雑誌”「アニメック」のルーツといってよさそうですね。

出渕 克伸さんは当時やっぱり、サークル「テレビっ子」という名前で同人誌を作ってたんですよ。文字同人誌だったんですけど、それをもらった覚えがあるなぁ。
氷川 『鉄腕アトム』から順番にTVアニメのサブタイトルと放送日をすべてリストにしたA5サイズのやつだよね。あれは新聞の縮刷版から全部拾ったらしいけど、あれは一時期のバイブルだったなぁ。

商品カタログが、いつの間にか雑誌になって

――じゃあ、その小牧さんが「アニメック」というか、その前身の「マニフィック」を始めた時の印象というのは……。

氷川 どんな印象って、これは小牧さんの雑誌だなぁと。ラポートという会社は、いい意味で酔狂だなぁとか、太っ腹だなぁとか(笑)。
小牧 だって商品カタログのはずが、いつの間にか雑誌っていうことになっていて。だから関わっていた人も、新宿御苑の小牧のトコに行って同人誌作ろうみたいな感じが強かったと思うんだけどな。
出渕 僕もだいたいそんな感じだけど、アプローチがちょっとゲリラ的というか、いわゆる商業誌――「アニメック」も商業誌だけどさ(笑)――ではできないところができる場所だな、とは思ったの。たとえばアニメと特撮がクロスオーバーしている雑誌ってそんなにないし。それで小牧さんに、今度の『ガンダム』は絶対イチオシでプッシュしたほうがいいですよって、小牧さんにものすごく勧めたりしたんだよね。
小牧 ブッちゃんもそうだったけど、あの時は、いろんな人がプッシュしてきたんだよね。
出渕 あとは20号のSF特集(※9)とかも、僕が小牧さんにやりましょうよ、ってもちかけて。今、思うと編集者にも向いていたかもしれない(笑)。(と、20号を探し出して)……ああ、僕も出てる(笑)。これ僕と河森(正治)の初対談じゃないかな。この号では、富野さんと石黒(昇)さんの対談やりましょうよって言ったんだけど、結局できなかったんですよ。あの時にSFっぽいものをやるアニメの監督って富野さんと石黒さんぐらいしかいなかったんで、おもしろいと思ったんだけど。まあ、そんなふうにテーマをベースにして切り口を見つけていくっていうことはできる雑誌だなと。これが「アニメージュ」だと出来ないんだよね。あっちはもっとオフィシャルな感じの情報で出来ている印象だったから。
氷川 ああ、そうそう。実を言えば僕も当時の「アニメージュ」はピンとこないところがあった。オヤジくさいというか、泥臭かったんだよね。確かにジャーナリスティックだけど、「アサヒ芸能」の人たちが作った雑誌だし。(と、手元の21号を開く)……お、21号でも載ってるよ。怪獣世代として。ブッちゃん、なんか準レギュラーみたいだよね(笑)。160ページの柱には「もっと出渕さんをよいしょしましょう」なんて書いてあるし(笑)。
出渕 え、それはそれは、ありがたいことで(笑)。でも、要は他に人がいなかったんですよ、簡単に言えばやってくれそうな人がそんなにいなかったんだと思う。だからのべつまくなし呼ばれてたような。
氷川 8号についている『ガンダム』の折込ポスター(※10)が、ブッちゃんの人生初カラーイラストなんだよね?
出渕 うん、そう。やりたかったけれど、俺がやっていいの? というのはあったよね。あとザクが描ける! と思ったら、資料としてゴッグの設定を渡されて、これでって。でもガッシュでガシガシッと描いたような、かすれた感じを出して、一生懸命当時の安彦(良和)さんの絵のタッチに似せようとしてますね。僕としては、「(ルパン三世)カリオストロの城大事典」(ラポートデラックス5)の扉のモノクロイラスト(※11)。あれは当時としてはかなり宮崎アニメのタッチに似せたつもりだったんだよね。

氷川 そういう意味だと、僕は小牧さんとはずっと知り合いだったわけだけど、「アニメック」にはそんなに書いていないんだよね。「アニメックステーション」(※12)の後期ぐらいで。むしろブッちゃんのほうが、文章の原稿も書いたりしてるわけだし。
小牧 そういえば、『無敵超人ザンボット3』の時に原稿の面倒を見てもらったなぁ。
出渕 『ザンボット』で原稿?
小牧 小牧さんのスタッフリストは漢字が間違えてばっかりだから、俺が書き直しますって修正を入れてくれたじゃない。
出渕 それは添削とか校正じゃないですか。16号の『ガンダム大事典』(※13)で、キャラ編を全部僕が書いたじゃないですか。
氷川 いまだにこのキャラ編の解説文を写して書いたとおぼしき原稿を見かけるんだけど、そんなアナタ、出渕裕の原稿だと心して流用するように(笑)。
出渕 (笑)。このキャラ編で、僕がクラウレ・ハモンってフルネームを初めて書いたんだよね。ハモンって本編だけ見ているとフルネームがわからないんだけど、富野さんのメモを見るとクラウレって書いてあったんで、それを使って。
氷川 設定書にクラウレって入っていなかったっけ? 富野さんが記録全集2巻(※14)の「演出ノォト」で「本名はクラウレ・ハモンという。籍に入っていればハモン・ラルなのだが、変だね?」なんて書いてるから、結果正解だったとは思うけど。
小牧 設定書のほうは、あの文字って飯塚(正夫)さん(※15)が後で書いている可能性もあるからなぁ。
出渕 でもなぜか劇場版ではハモン・ラルなんだよね。これがまた。

 

 

ファン活動の熱気が成熟へと歩みを進めた'70年代半ば。それはファンがメディアの中に入り、送り手となっていく第二ステージへと続いていたのだ。――『アニメック』を生んだ時代【後編】へ続く!

後編へ

小牧雅伸(こまき・まさのぶ)

カルト的な人気を誇った「月刊アニメック」の元編集長。アニメック休刊後は、ラポート編集部編集局長としてムックとコミックスを編集。現在は編集プロダクション、スタジオ小牧主宰。城西国際大学メディア学部講師も兼任。トルネードベースに1年にわたり連載された「アニメックの頃…」がこの程終了した。

出渕 裕(いづぶち・ゆたか)

1978年に『闘将ダイモス』でデビュー。実写・アニメを問わずメカニックやクリチャーデザインを数多く手がける。代表作は『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』や『機動警察パトレイバー』『科学戦隊ダイナマン』など。『ラーゼフォン』で初監督を務める。この度「出渕裕画集30周年記念画集IIIX」(徳間書店)が発売。

氷川竜介(ひかわ・りゅうすけ)

1977年よりライターとして活躍。アニメ、特撮を独自の観点で分析する映像評論家。2001年に電機系メーカーより独立して文筆専業に。著作は「20年目のザンボット3」「フィルムとしてのガンダム」「世紀末アニメ熱論」「アキラ・アーカイヴ」など多数。「アニメック」には中谷達也の名義で執筆参加していた。

※1 ナニメ

アニメック21号

「本来あるべき姿のアニメが位相ずれして“カニメ”とか“サニメ”になっていく。それはそれで面白いなぁと思えるギリギリが“ナニメ”。『ヘニメ』になるとスタジオごと燃やしてしまえという恐ろしい論理を展開していた――と記憶する」(小牧)

※2 PUFF

S-Fマガジン投稿欄「テレポート」への当初をきっかけに結成された怪獣・特撮映画サークル。中島紳介、故・富沢雅彦らが参加していた。

※3 竹内 博

特撮映画研究家。編著に「完全増補 円谷英二の映像世界」(共編、実業之日本社)、「OHの肖像」(飛鳥新社)など。「怪獣倶楽部」設立についてのいきさつは竹内の著書「元祖怪獣少年の日本特撮映画研究四十年」(実業之日本社)に詳しい。

※4 ミニコミ誌

「文通相手が増えすぎ、80パーセントの近況報告は重なるので、ハガキに謄写版で刷って、下段1/3に私信を書いたのが始まり。毎週のように集会があり、月イチでイベントがあると報告する内容が増えすぎて。やがてA4一枚にギッシリ書くようになった。喫茶店で書いているとイラストを落書きしてくれる人も増え、バラエティ豊かになった。基本的に身内用の内容なので、一般の人が読むと意味不明な内容も多い。私の工業英会話の教科書にヤマトFCの会長が描いたエロ落書きを転載した時は怒られた」(小牧)

※5 小谷真理

SF&ファンタジー評論家。小谷氏が1978年の日本SF大会で行った『海のトリトン』の主人公・トリトンのコスプレが、日本で最初のものと言われている。主な著作に「女性状無意識」、「聖母エヴァンゲリオン」などがある。

※6 怪獣倶楽部

竹内博の主宰する怪獣映画研究グループ。その設立の狙いについて竹内は「元祖怪獣少年の日本特撮映画研究四十年」(実業之日本社)で「同人誌を通じて研究家や評論家を育てよう」と述懐している。

※7 鈴木克伸

その後、「アニメージュ」編集部を経て学研の漫画誌「ノーラ」創刊時にヘッドハンティングされる。現在学研歴史部の編集長。「我々よりプロになった時期が早く、面倒見の良い人柄から今も多くの編集者やライターがアドバイスを受けている。主宰同人誌「サークルテレビッ子」の完全リストシリーズはアニメ雑誌のない頃はバイブルであった」(小牧)

※8 青柳 誠

石森章太郎ファンクラブの会長で、後に石森プロスタッフに。名編集者にして、名プロデューサーでもあり、多くの仕掛けを連発。各雑誌の版権窓口としてお世話になった編集者、ライターも多い。石森プロと東映によるプロデュース会社Y&Kでは秋野紅葉というペンネームで『超電磁マシーン ボルテスV』『闘将ダイモス』『未来ロボ ダルタニアス』『宇宙大帝ゴッドシグマ』などの企画に携わる。サンライズが制作協力でなくなっても出渕裕がデザイナーで残ったのは、Y&Kとしての青柳の仕切りが継続したことによるもの。後に石森プロを退社し、扶桑社に移る。
「テレビランド」(徳間書店)の1975年ごろの増刊号で始めて各社・各原作者の枠組みを超えた網羅的なロボットアニメの特集が掲載。そこで全長や重量などの「設定」が決められたが、このほとんどは青柳が決めたものだという。その後連綿と続くスペック主義やスーパーロボット文化の源流に位置する人。

※9 SF特集

※10 折込ポスター

©創通・サンライズ

※11 モノクロイラスト

©モンキー・パンチ/TMS・NTV

※12 アニメックステーション

「アニメック」連載のアニメ時評コーナー。中島紳介、氷川竜介(中谷達也名義)、會川昇(当時・会川)、中村学、鳴海丈らが執筆。カットはゆうきまさみが担当していた。「月刊化した時に、池田憲章さんの『特撮ヒーロー列伝』を毎月載せるのは苦しい、と。それで中島紳介さんが入れ替わりにアニメ時評を書くということだったんだけれど、これも一人ではしんどいということであの形になったんですよ」(小牧)
「しんどいということもあったとは思いますが、中島さんは“なるべくいろんな人に書いてもらって幅を広げたい”と僕には言っていました。つまり、書き手の多様性みたいなものをプロデュースしたいという思惑があったんだと思います。結局、書ける人ってそうはいない、どうやって育てるんだというその宿題は、連綿と続いて今でも残っているように思いますね」(氷川)

※13 ガンダム大事典

※14 記録全集2巻

『機動戦士ガンダム』全43話を5巻構成で紹介する豪華本。フィルムストーリー、設定資料だけでなくメインスタッフの寄稿など、さまざまな資料が収録されていた。日本サンライズ(現・サンライズ)刊。

※15 飯塚正夫

元サンライズ資料室長。設定資料上の各キャラ、メカなどの名前は飯塚さんの手によって記されていて、その独特の書体は「イイヅカ文字」としてファンに親しまれている。サンライズ黎明期には企画室メンバーとして『機動戦士ガンダム』ほかさまざまな企画の立ち上げにも関わった。「引退後に聞いた話では、小学校の先生がそれぞれの生徒の特徴を引き出す人で、病弱だった氏が学校図書等のラベル書きを担当して褒められたのがきっかけ。以後教科書体に近い読み易い文字を会得していく。虫プロ時代の膨大な資料も、飯塚さんが担当した物はきちんと整理されており、虫プロ関連のムックを編集する時に大変助かった。サンライズで一番最初にしたのはアメリカの警察が使うような証拠書類保管の巨大なキャビネットを購入したこと。独自の整理スキルで、サンライズ全作品の資料を分類保管した功績は大きい」(小牧)
「出渕くんと氷川が共同で『勇者ライディーン』の同人誌を出そうと試みたことがあり、当時は平屋だった資料室に設定資料を借りに行って、めちゃくちゃ怒られたのが初対面。要するに礼儀をわきまえていなかったということだけど、後に出渕くん一人で謝りに行って、なんと安彦良和さんの生原稿を借りられたのは素晴らしかった。色鉛筆の線がきれいだったので、カラーで撮影しておけば良かったと後悔。当時研究に研究を重ね、鉛筆の線がハーフトーンで一番きれいに取れるコピー機を発見し、いっしょにとったのも懐かしい思い出。それ以後も飯塚さんにはお世話になりっぱなしだが、“とりあえず飯塚さんに怒られる”というのは、後に世代を超えてアニメライターの通過儀礼のようになっていったと聞いて、その初期という点である意味光栄に感じている」(氷川)