■企業連続爆破実行犯「30年目の落涙」■
かって「爆弾魔」と呼ばれた男がいた。「下層労働者の解放」という大義のもと、彼は日本という国家に戦争を仕掛けた。しかし、その闘争のなかで、何の罪もない一般市民が巻き添えになって命を奪われたのもまた事実である。懲役18年という刑期を終え、自由を得た彼が今想う「あの闘争」、そして「日本」とは。
昨年1月。東京・池袋芸術劇場では、鐘下辰男脚本・演出の「あるいは友とつどいて」という舞台が上演されていた。70年代中ごろに続発した、左翼活動家による企業爆破事件をモチーフにして書き上げられたものだ。物語はかつて「爆弾魔」「無差別テロリスト」と恐れられた活動家たちの対話劇という形式を使って、事件当時を振り返っていくというもの。『だから教えてくれ 警察が爆弾処理にかかる余裕もなくそれでいて誰も死なないための 誰も傷つけないための時間を』『責任とるんだよ おれたちがやったって 電話がどうのこうのなんて弁護はやめて』『謝罪して それでどうする』『自己批判はすべきじゃない そんなのは敗北だ これは武装闘争だ その武装のための死傷者がでた」
劇中、爆破で一般市民に死傷者が出たことに対する責任をめぐり、メンバーたちが激しい議論を繰り広げる場面。観客席でそのセリフに聞き入っていた丸坊主の男の目から一筋の涙がこぼれた。彼の名前は宇賀神寿一。この作品に登場する政治グループのモデルになった「東アジア反日武装戦線」“さそり”の元メンバーである。
■昭和天皇襲撃も計画していた爆弾グループ■
「涙がぼろぼろ出てきましたよ。爆弾の予告電話をなぜ早くしなかったのかとか、今まで自分がやってきたことに弱気になっちゃいけない、ここで辞めてしまっては死んでいった人間に申し訳ないとか、そういう論争を見てたら、泣けてきました」観劇後、感想を語った宇賀神は目を細めて遥か遠くを見つめていた。彼らが「爆弾魔」と呼ばれた時代からもう30年も経過している。彼のことを語る前に、まずは時代を、そして「東アジア反日武装戦線」という政治グループについて説明しておかねばなるまい。この政治グループは全共闘の敗北過程から登場してきた。60年代後半から、学費値上げ問題などを発端に高揚した学園闘争は68年、全共闘による東大・日大闘争でピークを迎える。しかし、翌69年には大学のバリケードは解体され、闘争に参加し大学に立て篭もっていた学生らは機動隊の圧倒的な暴力の前に排除されていった。ノンセクト・ラジカルといわれた多くの学生は蜘蛛の子を散らすように消え、一般学生の間には「シラケ」が蔓延。一部のセクトは急激に過激化し、武装闘争路線へと走った。「よど号」ハイジャック事件の共産主義者同盟赤軍派と、それを母体としたあさま山荘事件の連合赤軍、ダッカ事件など多数のハイジャックで知られる日本赤軍。過激な武闘路線でこれら赤軍派系と双璧を成したのが、爆弾による企業爆破を行った東アジア反日武装戦線だった。彼らの特徴は自分たちは「都市ゲリラ」と位置づけ、普段は会社などに勤めて一般人として社会生活に溶け込み、爆弾闘争を続けるというもので“狼”“大地の牙”“さそり”という3つの独立した部隊が生まれ、1975〜76年を中心に日本国内で爆弾闘争を敢行する。彼らの起した爆弾テロでもっとも世間を震撼させたのは、“狼”グループが起した三菱重工本社ビル爆破事件だった。前出の鐘下作品で主題とされているのはこの事件である。74年8月30日午後0時45分、三菱重工本社ビル玄関前で2個のペール缶爆弾を爆発させ、死者8人(即死5人)重軽傷者385人を出した。日本史上最悪の被害をもたらした爆弾テロとされる。この事件で使われた爆弾というのは、同月14日に鉄橋爆破によって昭和天皇を列車ごと爆殺しようとした「虹作戦」が未遂に終わったとき、使用しなかったものを転用したという。この三菱重工爆破事件に関わった“狼”グループの大道寺将司と片岡利明には死刑判決が確定している。三菱重工を皮切りに各グループは10月14日三井物産本社、12月10日大成建設本社、翌75年2月28日間組本社など連続爆破事件を起こしていった。間組の他、鹿島建設を爆破したのが、宇賀神が所属していた“さそり”である。75年5月19日、警視庁公安部により、大道寺将司ら7名が一斉逮捕される。宇賀神寿一は捜査の手を逃れ、ひとり逃走生活を続けた。身を隠すこと7年。東京・板橋区内の路上で彼が逮捕されたのは82年7月12日のことだった。
■“柔道一直線少年”が感じた「差別」■
1952年生まれの宇賀神は中学から明治学院に入学。ミッションスクールであったことから、キリスト教の説く「隣人愛」の観念に感化され、いじめや差別の問題を意識するようになった。教会へは3年間通った。それなりにわんぱくであった小学生時代に勉強のできない子をいじめた苦い経験を反省し、「加害者」としての自己認識が芽生えた。無論、それは否定されるべきものとしてであった。そんな背景もあったのか、成長するにつれ彼は「差別」という言葉に敏感になっていた。中学生になって、社会科の授業で自由なテーマで作文を書くという課題が出たときには「人種差別」をテーマに選んだという。「当時わたしは『これが世界だ』(TBS系)とというテレビ番組を毎回観ていたのですが、公民権運動のことがよく採り上げられていました。あるとき、インタビュアーが白人の主婦に『あなたは黒人についてどう思っていますか?』と質問すると、その主婦は『黒人がこの町に来ると汚くなるから来てもらいたくない』と答える場面がありました。わたしはなぜ同じ人間なのに差別され、迫害されなければならないのか、という憤りが涌いてきてその気持ちを書き綴りました。教師はその作文をかなり誉めてくれました」68年4月、明治学院高校に進学。当時人気を博していた『柔道一直線』(TBS系)の影響を浮け、柔道部に入部。時を同じくして、全世界でベトナム反戦運動が巻き起こり、日本国内でも学園闘争が全国の大学、高校で盛り上がりを見せていたが、まだ宇賀神は政治的なことより、柔道の技を磨くことの方に興味があった。ところが、米軍の暴力的土地接収と戦う伊江島の住民の抵抗を描いた『沖縄』という映画を見たことにより、沖縄問題に興味を持つことになる。アルバイトをして旅費を貯め、当時まだ米軍政下だった沖縄に「特別渡航許可証」をつくり渡る。そこで彼が目にしたのは次のような光景だった。「嘉手納基地で見たものは、おびただしい数のB52戦略爆撃機の大きな尾翼でした。今まさに人間を襲わんとしているサメの背ビレのようにそそり立って群れていました」このB52すべてが爆弾を一杯詰め込んで、何の罪もないベトナムの人々の生活と命を奪うかと思うと、なんともやりきれなかった。
やがて「差別」とはいったい何かということを考えはじめた宇賀神はひとりで「部落研究会」を作るようになり、同時に「闘争」に目覚め、ベトナム反戦闘争、成田・三里塚闘争に参加する。そして、エスカレーター式に進学した明治学院大学でもやはり待っていたのは学費値上げ闘争であった。
そんな闘争に明け暮れつつも、高校時代に目覚めた「部落解放運動」も続けていた。夏休みになると、荒川区にある被差別部落の皮革工場で働いた。しかし、そこで目にしたのは厳しい現実だった。同じ工場内で働いている在日朝鮮人たちが「汚い」などと差別されていたのだ。彼の言葉を借りれば「弱者がより弱者へ矛盾を転嫁していくこと」に絶望にも似た落胆を感じた。〜つづく〜 文 竹内一晴