イエスの惑星BBS

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お持ちの方大歓迎です。
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悪魔の姦計  投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 6月 3日(水)00時21分4秒   返信・引用
  諸氏、おとっつぁん さんの名前はご存じでしょう。この BBSにも何回か投稿されていた異色ある宗教ジャーナリストです。

 その氏が、mixi と言う意見交換サイトの方で、カトリックを批判されています。
  それは、国立施設を使ってなされる故石原裕次郎追悼、宗教式典に何故、カトリックの政教厳格分離派の人々が批判抗議しないかと言う問いかけです。

  氏はそこに、カトリック政教厳格分離派のいい加減さと偏向を見て、厳しく批判なさっています。

 この発言への彦左衛門のコメントは以下のようなものです。ご参考までに、此処に収録してお届けいたします。

 ....................


おとっつぁん さん、

  彼等政教絶対分離主義者たちが、石原裕次郎第二十三回忌の宗教行事が国立施設で行なわれる事に抗議しない、いや抗議できない理由はまだ一つ他にあります。

   実は日本カトリック教会は昨年11月、ペテロ岐部と、その他約110名余の切支丹殉教者が教皇によって福者の栄位に上げられた事を祝って、ミサ聖祭を伴う盛大な宗教行事を殉教地の長崎で行い、それには、
3万を超える信徒が参加しましたが、その場所は市営の公設運動場でした。

  この大祝典を取り仕切ったのは長崎の大司教高見三明師でした。社会司教委員会の会長名で、カトリック教会を代表し、小泉総理の靖国参拝を憲法違反として厳しく批判抗議した当のご本人です。

 地方自治体がその施設を宗教団体に提供し、その便宜を図ることは、現憲法の解釈としては、絶対分離の立場でなくても違憲と認定せざるを得ません。

  現に愛媛県が嘗て靖国神社に玉串料を奉呈したことがありますが、最高裁はこれを違憲としました。

 彦左衛門は、高見師が列福祝賀式典を公営施設を利用して行った事をダブルスタンダードとして厳しく批判します。

 そして、この批判を高見師にも書き送りましたが、彼からは何の返答も釈明もなされていません。

 おとっつぁんさんは、嘗て確か『正論』誌上で、教会のおかしな点を懇切丁寧に指摘したことがありましたが、彼らはこれをも無視黙殺して今日に到っています。それと同じ態度を彦左衛門に対しても採っているわけです。

 いやしくも、日本マスコミのうちで、教会批判がなされているなら、教会はこれに対し、反論なり、弁明なりをしなくてはなりません。

  カトリック教会はカルと集団ではありません。その内部論理は、内部だけに通用するものではなく、日本社会を同時に教化する普辺的妥当性を持つはずです。

 ところが自分たちを批判するものには、いっさい耳を貸さず、無視、黙殺の態度を取り続けてるいるのが、悲しいことに日本の司教たちなのです。

 高見師も、又他の司教さんたちも個人的には、人柄もよく、人格も立派、また堅固な信仰の持ち主で、信徒の指導では誠実熱心な方々です。

  そういう点で、彼らを尊敬する人がいてもそれは不思議ではありません。

 しかしその同じ人々が、社会的、政治的問題では、口幅ったいようですが、彦左衛門のような古狸から見れば、無知、無識、非常識、そして、そうでありながら、信徒を指導できる、日本社会にも警世の発言が出来ると信じていることは、軽率だけでは済みません。

 それは彼らの純情に付け入って、彼らを誑かし、いつしか傲慢の罪を犯させている悪魔の姦計が奏効していると言うことでしょう。
 

教皇のイスラエル訪問時のご発言  投稿者:ノムさん  投稿日:2009年 6月 2日(火)22時18分8秒   返信・引用
  MLとのマルチポストですが、

大船教会の植田眞弘氏による、「教皇様のイスラエル訪問時のご発言」がアップされました。
http://homepage3.nifty.com/yuuryo/jiji/index-jiji.html
http://homepage3.nifty.com/yuuryo/jiji/2009.05.31-israel.html

PDF.ファイルも添付しておりますので、よろしければプリントして下さい。

ちょっと、野村のコメントを付けさせて頂きます。
教皇は次のようにおっしゃっています。

「我々は政冶勢力ではなく霊的勢力でありますが、この霊的勢力は和平交渉の進展に貢献出来る現実の力を持っております。」

「良心とは人間が真理を知覚する能力でありますが、この能力はしばしば私的利害によって阻害されます。この利害から解放し、真理即ち真正なる価値へ最大限心を開かせることが大きな責務であります。真の規範、真の価値を認識させ、私的利害から解放する手助けをするのがカトリック教会の責務であります。そして第三層の力として、理性に対しても我々は働きかけます。即ち、我々が政党ではないという正にその理由から、信仰の光の中で真の規範を見分け、何が和平に貢献するかの理解を助け、理性に訴え真に理性に叶う立場を支持することがより容易となりましょう。それらを我々は既に実行しており、それを今も将来も実行したいと願っております。」

これは、元日の「教皇・平和メッセージ」について私が感じたことが、見当外れでなかったということであると思います。私は下のように記しました。

“教皇のおっしゃっていることは極めて「倫理的」な側面です。「政策」を語っていません。
私たちが気づかなければならないことは、倫理的であるから具体論でないのでなく、倫理面(信仰)によってしか解決しない、とおっしゃっている、そのことと思います。
倫理を語ることによって、何よりの「具体論」なのです。”
http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2009/01/090117.html

“教皇が語られるのは「原則」です。それが「宗教者」の役目なのです。「規則」は政治の世界です。そして原則を語る故に、宗教は政治に具体的な影響を与えることができるのです。”
http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2009/01/090127.html

具体論でないが故に、具体的な力(影響力)を持つのです。
教会の役目はそのようなものであると、私ですら分るように、噛んで含めるように、繰り返し繰り返し、教皇は語っておられます。

http://www.nomusan.com/~essay/index-jubilus.html

 

Re: 酒席での会話をそのまま掲示板に書くべきか…?  投稿者:さかば  投稿日:2009年 6月 2日(火)00時03分1秒   返信・引用
  サボテンさん

フォローありがとうございます。
おっしゃるように関西では、同じ組織の人など身近な人を「あいつら、やつら」と
いいますので、親しみを感じての表現ととらえていただければ良いかと思います。

>  酒席での会話は通常オフレコでしょう。

そうですね。問題があれば削除してください>管理人様
その際は、私の思想を変に単純化された記事も削除してください。
酒席で私のことを相談したことと話されたので個人が特定されたので、、、
 

酒席での会話をそのまま掲示板に書くべきか…?  投稿者:サボテン  投稿日:2009年 6月 1日(月)11時20分46秒   返信・引用  編集済
   酒席の上で「あいつら、やつら」という言葉が出てきたとしても、蔑視する言葉ではなくて、雰囲気によっては“親愛の情”が感じられることもあるでしょう。

 でも、標準語を話す人たちは、その人は、普段からそういうもの言いをする人なのかと、受け取るかもしれません。

 酒席での会話は通常オフレコでしょう。

 松浦補佐司教様ですが、聖堂内で、御聖体の前で、高校生を含む信者を前にえんえんと現行内閣批判をされる方ですよ。数年前、「小泉内閣は…、アメリカは…、ブッシュ政権は…」と名指しでの講話を聴いて、幻滅し、職種を間違えた方だなという印象を持ちました。

 ローマンカラーを付けて政治運動のデモに参加する姿を写真で見て、さらに愕然としました。
 

偽りの解放  投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 5月31日(日)22時32分39秒   返信・引用
  ダンボさん曰く:

 カトリックの解放と自由は、罪からの解放であり、「救い」を言います。
この「救い」から外れ、闘争のように、人々の心を荒立てるのは、
本来は「解放」とは呼びません。

  彦左衛門。まことにその通りです。
  彼らはイエスの福音に換えて、かつイエス様の説かれた真の解放を歪曲、
  偽りの解放を説いているのです。
 

すみません  投稿者:さかば  投稿日:2009年 5月31日(日)21時03分8秒   返信・引用
  > 夢の輔さん
まちがえました「夢之介さん」ですね。ごめんなさい。
 

Re: さかば様へ  投稿者:さかば  投稿日:2009年 5月31日(日)20時34分19秒   返信・引用
  > No.3319[元記事へ]

ダンボさん

今まで補佐司教の説教2回と堅信準備講座を1回聞きましたが、
政治的発言はありませんでした。もし、主日のミサで政治的発言があり、
それが自分の考えと違うなら、つらい方がおられることは理解できます。
(個人的にはつまらない説教はいくらでもあるので、なんとも思いませんし、
期待しないようにしています)

解放の神学については、私は議論するつもりはありません。
(そもそも、中身を知らないので、議論できませんし)
その前提で、昨日、夢之介さんにも言ったことを書かせていただきます。
前回、夢之介さんから解放の神学という名前を知り、調べると
Wikipediaにたどり着いたのですが、その内容が言われることと異なっていました。
もし、夢の輔さんの言われることが正しいのなら、Wikipediaのノートで
きちんと議論して、訂正していただくべきだと思います。
 

さかば様へ  投稿者:ダンボ  投稿日:2009年 5月31日(日)19時42分56秒   返信・引用  編集済
  最も、悲惨なランクの小教区信者としては、ひたすら耐え忍んでいます。
教会に行くごとに、ストレスを抱え込むのが分かっていても、
犠牲としてお捧げして、イエス様と一致するために。

教会で、敵・味方などあってはならないというのが理想ですが
現実は、聖職者が分裂のきっかけになるようなことをしていると思います。

聖職者の務めは何でしょうか?
まず、皆の心に、福音を響かせ、福音であふれるほどに満たすことではないでしょうか?
でも、私たちが批判している聖職者は、本来の務めはないがしろにし
信徒の心に不協和音を起こさせることばかりをなさっています。

彼らは、解放の神学から衝突するような教義は、無視した状態です。

カトリックの解放と自由は、罪からの解放であり、「救い」を言います。
この「救い」から外れ、闘争のように、人々の心を荒立てるのは、
本来は「解放」とは呼びません。

さかば様は、教会で、政治・政治家の批判をえんえんと聞きたいですか?
そんなものは、テレビをつければもっと詳しく見れます。

教会は、心を神の愛で満たす場で、
その中から、各々が正義を求める力をいただき、
各自の責任において選択し、実行するんだと思います。

正義のためと言いながら、高位聖職者が指し示すから、その活動をするのなら
神は何のために自由意思を人間に与えたんでしょうか

でも、多くの信徒は、高位聖職者に絶対の信頼を置き、追随しています。

ゆえに、その責任ある立場からの発言は、慎重でなければならないのに・・・

はっきり言って、地位を利用した、軽薄?悪質と見えるような発言は
やめていただきたいというのが私の気持ちです。
 

Re: みなさんに質問及び報告です  投稿者:さかば  投稿日:2009年 5月31日(日)13時05分24秒   返信・引用  編集済
  夢之介さん、みなさん。

昨日も一言だけ書きましたが、誤解されているのはいやですのできちんと書きます。
夢之介さんが書かれている当事者のさかばと申します。
私の考えは以下のようなものです。

a)夢之介さんの気持ちはわかる
b)私はカトリックである前にイエス・キリストにつながれている
c)聖職者に期待していない(聖変化は必要ですし、良い説教はうれしいです)
d)補佐司教がどうこう言うよりも、救われた話や心が豊かになる話がしたい

対して夢之介さんは

1)あいつらは気に入らん
2)安田講堂で水をかけられたやつら、共産主義者
3)あの立場でするな、年寄りが盲目的に信じる

とのこと。上記に対して、

1)にはa)、
2)には説教を2回聞いた(正確には堅信講座も1回聞いた)分にはそうは思わなかった。それに対して色々言われましたが、感想だったり他の神父の話なので省略します。
3)に関しては、神学的に説明したら

と言いました。基本的に前回も同じようなことを言っています。私自身は神学的にどうだとか、共産主義者であるとか、何をしてるかよりも、心が豊かになることを求めていますので、まったく話があいませんでした。

さいごに「説得が下手だ、シンパだったらちゃんと説明しろ」と言われましたが、そんな風に見られていて心外でした。さらに、ここを見てさらにがっかりです。

敵とか、味方とか、そんな見方をされるのは疲れるので、ここには書きたくない。そう思っていますが、また変なことを書かれてもいやなので、書かせてもらいました。

#無事に帰れたでしょうか?>夢之介さん
 

Re: 正平協のホームページ  投稿者:異邦人ヨハネ  投稿日:2009年 5月31日(日)11時52分31秒   返信・引用
  これ、これ。
サボテンさん、いつもありがとう。

これを見ると、「活動 正義と平和協議会の今日の課題は・・・」として6項目挙げており、
平和への取組み、信教の自由、環境問題、死刑廃止、海外との連携と続き、最後が核問題です。
順序がおかしいという気がしますが、核問題を今日の課題にはしているのですね。
ならば、積極的に対応してほしいものです。
それとも「核問題」の定義が違うのかな。
 

Re: みなさんに質問及び報告です  投稿者:ノムさん  投稿日:2009年 5月31日(日)06時42分15秒   返信・引用  編集済
  > 護憲運動左翼運動に盲目的に活動している人たちを
> また多くの解放の神学に染まった司祭様方を説得できるのでしょうか?

私たちがあの方々を「神学的に」説得する必要はないと思います。
私たちの疑念に対して、あの人たちが「神学的に」私たちを説得する必要(責務)があるのだと思います。それが「聖職者」でしょう?

例えば河野定男氏の、
http://www17.ocn.ne.jp/~antijpj/kohno/kohno2006.07.05.html

これは世俗的な論争でなく、カテキズムや現代世界憲章(即ち神学を基礎にした教会の根本的な教え)に基づいて、説明を求めているのです。質問者の理解する教会の教えからは、この司教の主張とは逆の答えとなる、私が間違っているのならその間違いをカテキズムや現代世界憲章に基づいて正し、教導して下さい、とお願いしているのです。しかし願われた聖職者は、無視しています。おかしくはないですか?

夢之介さんの呑んで話したお相手には、上の河野さんの文章をプリントしてあげたら如何でしょうか。河野さんは「説得」しているのでなく、「質問」しているのです。私の立場も、自分ではそれに近いと思っています。客観的にどう写っているかは自分では分りませんが。

「怠業」と思えるほど遅れた“カテキズムのコンペンディウム”日本語版が、ようやく出版されるそうです。2ヶ月前後先と聞いています。
それも根本的な資料になるでしょう。なぜ日本での出版がここまで遅れたのか、不思議なことです。聖職者の言動がここでの教えと矛盾する疑念がある場合、信徒がその説明を求めたら、誠実に答える義務があります。神学的に説明するのは信徒の役目ではありません。聖職者の役目です。政治的社会的活動は、信徒の役目です。

http://www.nomusan.com/~essay/index-jubilus.html

 

Re: みなさんに質問及び報告です  投稿者:さかば  投稿日:2009年 5月31日(日)00時45分34秒   返信・引用
  > No.3300[元記事へ]

味方か、敵か、それしかないのでしょうか?
 

Re:正平協のホームページ  投稿者:サボテン  投稿日:2009年 5月31日(日)00時30分18秒   返信・引用
  これかな? 私はほとんど見ないですが…。
http://web.mac.com/jccjp/justice_and_peace/home.html
 

正平協のホームページ  投稿者:異邦人ヨハネ  投稿日:2009年 5月30日(土)23時42分55秒   返信・引用
  アクセスしてもエラーになってしまいます。
なぜでしょう?

http://www.jccjp.com/
 

Re: あれれ 遺憾ってなにー笑  投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 5月29日(金)22時37分36秒   返信・引用  編集済
  いや全く、異邦人ヨハネさんのおっしゃる通りですね。

世界最悪の人権否定、無視国家、また戦後60年、教会を迫害して来た無神論的体制の北朝鮮が、あろうことか日本カトリック松浦師とその正平協の尊敬する盟友であり、この盟友に対しては、どうしても、きついことは言えないのが彼らの心事なのでしょう。

  よく分りますよ。
 

Re: あれれ 遺憾ってなにー笑  投稿者:異邦人ヨハネ  投稿日:2009年 5月29日(金)00時31分30秒   返信・引用  編集済
  おつるさん、Rickさん

どの程度強く抗議するかは、抗議の元となった出来事と抗議する相手によって変わってきます。

今回は核実験という大物です。国連安保理も非難決議に向けて動いているくらいです。
なのに、「遺憾」? 出来事の軽重から言ったら最大級の抗議でないとおかしい。
ということは、それを「遺憾」レベルにまで引き下げる要因があったことになります。
それは、抗議する相手が北朝鮮ということしか考えられません。
図らずも、自分たちの正体をさらけ出してしまったと理解していいのかもしれません。
 

あれれ 遺憾ってなにー笑  投稿者:おつる  投稿日:2009年 5月28日(木)20時55分59秒   返信・引用
  Rickさん 教えて下さって、有難うございますー。

今まで 日本やアメリカに対して
    反対します! 強く抗議します。 即時中止してください  強く抗議します
    強く訴えます などといつも声明を出しているくせに

 遺憾の意を表しますって なんだそりゃ笑

しかも 金正日宛てとかも書かず、松浦補佐司教名どころか 事務局長長も書かず
これって、いったい誰にたいしてのパフォーマンスなんでしょね。

もしかして イエスの惑星BBSや2ちゃんねる宛てに
「ちゃんと声明だしたんだから 批判しないでねー」とでも 言ってるかんじー。

http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/874/

 

あれ、北朝鮮宛てのメッセージは?  投稿者:rick  投稿日:2009年 5月28日(木)20時42分16秒   返信・引用  編集済
  現在(28日20:30くらい)、正平協の公式サイトに北朝鮮の核実験について「日本カトリック正義と平和協議会は、5月25日、北朝鮮が朝鮮中央通信を通じて発表した同日の地下核実験実施に対して、遺憾の意を表します。」
とだけ出ていますね・・・北朝鮮宛てのメッセージとか、何も無いのですが。

今後はこの路線でしょうか?日本政府やアメリカに対しても・・・。

それとも、今頃おどおどしながら抗議文を作成されているのでしょうか。
 

◆和田幹男神父様のロザリオの祈りと 聖体賛美式 〜 新型インフルエンザ終結へ  投稿者:おつる  投稿日:2009年 5月28日(木)06時45分6秒   返信・引用
  24日 楽しみにしていた母親の堅信式、北摂大会が延期になりました。
関西、北摂地区や神戸の教会は前の週に ミサが中止になったところも多かったのです。
18日〜24日まで関西のほとんどの学校はお休みで 私も夫も仕事が休みの一週間でした。

その北摂大会中止の24日に 箕面教会では
和田神父様のご提案により ミサを短めにして 新型インフルエンザの蔓延にともない
聖体賛美式と ロザリオの祈りをしました。
悪魔払い 魔除けで使われる詩篇を みんなで唱えました。
 O SalutarisとTantum ergoも全員で歌いました。

詳しくはブログに書いています。
http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/874/

そして次の日から 関西の新型インフルエンザは少しづつ 終息にむかっています。
大阪教区の池永大司教様からは、口での聖体拝領をやめるようメッセージが出ましたが
和田神父様は 口での拝領をさせてくださいました。

余談ですが
台湾問題で NHKへの抗議のデモに30日 大阪で参加します。
大阪は クリスチャンの西村信悟議員の会と日台未来会の連携です。
そして 私以外の カトリックのクリスチャン信徒も 参加予定です。
東京・名古屋・大阪 同時開催で 全国規模の抗議になります。
ちなみに 李登輝さんは カトリックではないけれど
プロテスタント長老派のクリスチャンですが靖国神社にも参拝された方です。
クリックで拡大

http://blog.zaq.ne.jp/otsuru/article/874/

 

解放の神学の誤り  投稿者:ダンボ  投稿日:2009年 5月28日(木)02時47分40秒   返信・引用
  彼らは「解放の神学」の誤りに端を発し、その上に、いろいろな独自のものを付け加えた。

解放の神学に対するメッセージは、教書「自由への自覚」に書かれています。

日本の正平協司教・司祭は、教皇様を完全に無視しているのは、この教書にあるのでは?と思うくらいです。
彼らの口から、教皇様が出るのは、揚げ足とりの時や批判するときだけですから
もう、既にカトリックとは言えないかも。

それから、神学論争は、神学の専門家が為すべきもので、私たちにはその説明を要求する権利があり、彼らには、信徒が理解できるように繰り返し繰り返し説明する義務があるのでは?

教導は聖職者にのみ与えられた職務ですから。

「もう、それの答えはしたはず・・・」などと切り捨てるのは もってのほかで
質問者が理解できるように説明するのが、仕事だと思います。

でも、彼らの活動によって教会内にひずみが出てしまっている現在、私たちは信徒として神の救いのご計画に参与するよう招かれていますから、自分たちのタレントで、誤りを指摘し、他の人が影響されないように働くのは、当然のことと思います。

ちなみに「自由の自覚」についてのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore/1553503.html
http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore/1553835.html
http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore/1554413.html
http://blogs.yahoo.co.jp/st_cuore/1554453.html
 

神学論争  投稿者:おつる  投稿日:2009年 5月28日(木)02時07分46秒   返信・引用
  吉祥寺五右衛門さん、彦左衛門 さん、異邦人ヨハネさんのおっしゃる通りだと思います。
私にはみなさんのような知識はないのですが、 以前に正平教の大会で松浦補佐司教に
いろいろ質問して論争になった時に、「聖書のどこに書いてあるんですか?」という質問に
イエス様の無抵抗をガンジー、キング牧師という人間と同列に並べて、福音にそって私は活動してると主張されるのを聞いて、

ああ、創価学会の人が、池田会長とガンジー、キング牧師と並べてGKIと言ってるのと
似てるなあと思いました。

それと エホバの証人とか統一教会とか、モルモン教とかの新興宗教の人が
私たちの行動は聖書に基づいていると、いくら論争しても相容れないのと同じで
論争しても平行線だなと、私の感覚的な感想ですが、そう思いました。
エホバの証人の人にいくら説得しても輸血を受け入れないのと同じで
それが聖書に基づいていると信じ込んでいる人には、無理です。

オウム真理教に洗脳された信者の洗脳を解くには、キリスト教などの教えを真剣に
逆洗脳しなければ無理だそうですし、日教組の人を脱退させるには、
逆の洗脳をしないと無理です。

レスリングとボクシングはとてもわかりやすいたとえだと思います。
教皇様はサッカーの大ファンで、バイエルン・ミュンヘンのファンですが、
アメリカンフットボールとサッカーとたとえてもおもしろいです。
ボールを手で持って走っているアメフトの人が自分はルールに基づいてやってるんだと
耳を貸さい場合、いくら(教皇様の愛する)サッカーのルールを説明しても無理です。
そういえば多くのアメリカ人はアメフトや野球にこだわり、サッカーに興味が
ありませんが、サッカーに興味がない人にサッカーの素晴らしさを伝えても無理です。

夢之介さんと飲む方が、正平協やM司教補佐が聖書に基づいた神学に基づいた平和の思想でありイエスの教えそのものと信じこんでいる時点で、「神学」がわかっていないし
洗脳されきっている人だと思いますので、話をしても無理だと思います。

北朝鮮、朝鮮総連やバウネット、日教組など、カトリックの神学とまったくそぐわない
団体、共産主義者と正平協やM司教補佐の思想や行動が同じだという点について
これは「神学」で説明できないのでは?? そしてその癒着した関係は??
正平協やM司教補佐が「神学」に基づいているなら
いつも同じ主張をしているチュチェ思想や共産党や日教組や北朝鮮や中国共産党が
すべて「神学」やイエス様に基づいていることになっちゃいます。変です。
 

神学にも聖書にも反する松浦師  投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 5月28日(木)00時54分23秒   返信・引用  編集済
    夢之介さん、松浦師は、自分たちの言動は聖書とカトリック神学の平和思想に基づく実践だと強弁して、聖書や、神学に疎い一般信者を誑かしているんじゃないでしょうか。とんでも無いことですよ。

  カトリック神学といっても、吉祥寺五右衛門さんがいみじくも、かつ適切に指摘しているように、全部が全部同じではありません。それどころかバティカンが認めない解放の神学、革命の神学もあれば、時代思想に浸潤されたフェミニズム神学もあります。

  教会が公認していない思想的立場に、あたかも権威があるかのように、カトリック『神学』と言う衣装をまとわせることは、信徒の無知に乗じ、これを欺き、誤導する大罪です。

 松浦師のやっていることはそういうことです。

 カトリックには、アウグスティーヌス以来の正戦論とも言うものがあります。これは、不当な暴力や攻撃を受けた国家には正当防衛の権利が生じ、軍事的、強力的手段によって反撃し、自らの存立と安全を守ることが許されるとする神学的教説です。勿論、この権利の成立については、彼によって厳しい条件が付けられていますが。

  この正戦論はカトリック公認の神学的教説として、教会によって受け継がれてきているものです。従って、憲法9条のような、国家による軍事的手段による正当防衛さえ否定している立場は、伝統的、かつ教会公認の『神学』との間に整合性を持ちません。

  従って日本の司教さんたちのマジョリティが参加している、『九条和の会』なるものは、明らかに、教会の伝統と基本的立場に反するものです。

  さてしかし、松浦師は、教会の伝統的神学とその立場はどうであれ、自分たちの絶対平和論は、聖書に基づくもの、イエスの平和思想を継承するものだと言うかもしれません。

  しかし福音書から知られるキリストの平和論は、決して、正平協や松浦師の平和論を支持するものではありません。いや、彼らの立場と言動は、全く主イエスの平和思想を誤解、曲解したもので、彼らがそれに固執していることは、信徒を誤導する大罪です。

  このことについては、嘗て、おとつぁんさんと彦左衛門がこのBBSで対話したことがありますので。長文になりますが、以下をご覧下さい。


  .......................

  正当防衛の否認 司教たちの迷妄  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 4月 3日(木)

   おとっつぁんさんへ。

  小生メールお読みくださって、ご意見くださってありがたし。

   >「憲法教」の宣教師たちは「殺してはならない」という第5戒については口角泡を飛ばして訴えていますが、カテキズムが正当防衛を認め、四つの条件の下に防衛戦争を肯定していることについては沈黙しています。

  彦:全くその通りです。彼らは、『殺してはならない』という十戒の掟、そして、イエスの平和の福音を全く誤解、いや曲解して、正当防衛を否定し、北や中国のような悪魔的侵略国家の政治的益と野望に奉仕しているのです。

  イエスは確かに平和と赦しをお説きになりました。しかしその平和と許しは、福音書を読んでいれば一目瞭然、人格的なつながりを持つもの同士の間を律すべき、新しい福音的倫理です。
  つまり我々親子兄弟、夫婦、友人、隣人、同じ村の衆、そしてその延長上にある、心と心が原則的に通い合う可能性のある人間関係を前提としているのです。

  しかしこの福音的倫理は、そのまま、我々の人間関係の別の側面である、社会的、社会法的関係、あるいは、国際的、国際法的関係に妥当するものではありません。

 (小生、嘗て聖書学者の端くれでもあったので、このこと確言できます。いや何も小生がそれを言い出さなくても、それは余りにも自明なので、カトリックの伝統的神学でも、また司祭養成のための倫理神学書でも、この区別は前提となっています。余りにも自明だから、それはそれとして、論じられてないだけです)。

 我々は、親子兄弟、夫婦、友人、知己の間でも、角突合せ、我を張り、相手の非を鳴らし、怒り、罵倒し、果は憎しみをたぎらせ、遂には、暴力を行使し、殺しあいにさえ発展することがあるのです。

 イエスは弟子たちに 「七度を七十倍するまで許しなさい」(マタイ18,22))とおっしゃった。また「汝の目の中の梁から先ず取り除け」(マタイ7,5)とも、「右の頬を殴られたら左の頬を出しなさい」(マタイ5,39)ともおっしゃられた。

全てこれら、そしてこれに類する愛と許しの倫理は、人格者同士の間に適用されるものだ。
そして、新しい、神の国と言っていい人間関係を実現、創造していく倫理だ。

 しかしそれはそのまま社会的関係に適用は出来ない。 右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさいとおっしゃったからと言って、イエスは、我々に、強盗に隠していた金庫まで開けて、お金を出すべきだと命じているわけではあるまい。

 9.11で貿易ビルを破壊され、数千人の犠牲を出したアメリカに対して、イエスはさらにペンタゴン、ホワイトハウスまでテロリストに破壊して貰えと命じているわけではあるまい。
  汝の敵を愛せ(マタイ5,44)、七度を七十倍するまで許せ、とイエスはおっしゃっているが、それは、社会的犯罪者を愛し、許し、彼等が何時までもし放題の事をするのを、許せ、そして、警察などは取っ払え、刑法も廃止せよとイエスがお命じになっている事なのだろうか。

 まさか。 カトリックの教父、神学者は、イエスの福音の倫理とは別に人間社会を総体的に成り立たせる、もう一個の倫理体系、そして福音の倫理の働く場を確保するためにこそ必要なもう一つの「場の倫理}がいかにあるべきかを探求、研究してきた。それは自然法的倫理とも言うべきものだ。

  そしてこの「倫理」に基づいて、おとっつぁんさんの言うように教会は、そのカテキズムの中で正当防衛つまり、外部からの不法、不当な侵略に対する国家、国民の防衛の権利、反撃権を原則的に認めた上で、しかしなお、その正当防衛の成り立つ条件を厳格に規定することに努めて来た。

 ところが、正平協と松浦と、そしてまことに残念ながら、吾らの司教たちは、一切の正当防衛権を否認、正当防衛をも、暴力に暴力を以って報復することであり、イエスの平和の福音に反することとして非難する。そして正当防衛としての軍事力行使だけでなく、国際的なテロ阻止のための国際的協力としての警察的行動にも、それを暴力は平和を齎さないとして非難している。

 もうただ呆れてものも言えない。



 何というお粗末な、そして不勉強な議論、世界のカトリックの中で、そういう事を言っているのは、日本の司教たちだけ。
 

Re: 歯切れの悪い回答ですが・・・  投稿者:異邦人ヨハネ  投稿日:2009年 5月28日(木)00時24分22秒   返信・引用
  吉祥寺五右衛門さん

>  キリストによって示された神の存在を信じること以外に他には何も共通点がないといっては極論でしょうか。

いいえ、極論ではないと思います。
もっと恐ろしい極論も考えられるからです。
 

Re: 殉教者列福祭典  投稿者:異邦人ヨハネ  投稿日:2009年 5月27日(水)23時59分33秒   返信・引用
  彦左衛門さん

「日本人の感性を無視し、自分たちだけの信仰論理によって行動するだけならば、それは果たして宣教にとってプラスになっているでしょうか」との問いかけに対しては否と答えますが、この問いと列福祭典を大々的に祭典を挙行することの是非との間にどのような関係があるのか理解できません。戦後生まれだからでしょうか。

「三万の信徒を集めて」というところも、「島原の乱における女子供を含む三万以上の人民虐殺」と呼応して、三万という数字を問題にされているのでしょうか。

いつもの彦左衛門さんの投稿はよく分かるのですが、今回のはどう理解したらよいのか分からず、戸惑っています。

彦左衛門さんの思いをもう少し詳しく説明していただけると、よろしいのではないでしょうか。
 

カエサルの世界の問題はカエサルの世界のルールで  投稿者:異邦人ヨハネ  投稿日:2009年 5月27日(水)23時25分54秒   返信・引用  編集済
  信者がいかに正論を述べても神学論争で説得できなければ駄目だから、
神学論争を受けて立つ必要があるというのは、ちょっと疑問です。

平和の思想に基づく行動だとしても、それが政治活動ならば、
政治の世界の力学、法則に左右され、また評価されるでしょう。

しかし、政治の世界で議論しても負けることは分かっているので、
神学論争に持ち込む、というか逃げ込むのではないでしょうか。
そこなら負けることはないからです。
 

歯切れの悪い回答ですが・・・  投稿者:吉祥寺五右衛門  投稿日:2009年 5月27日(水)18時14分48秒   返信・引用  編集済
   夢之介さん、こんにちは。

 たしかに彼らの言うことにも一理あると思います。一部の聖職者が唱導する空理空論の平和論に対し、教養のある一般信徒は社会常識でもって立ち向かう傾向があります。「そんなのは絵に描いた餅だ。現実には・・・」というような切り口で反論します。しかし、「(カトリックの)宗教的見地に立った価値観は世間一般のそれと相容れない」という万能の口実で切り返されてしまいます。

 となれば神学的な議論で勝負するしかなくなりますが、ここに大きな問題があります。ひと口に神学といっても白、黒、グレーがあります。白はカトリック教会が2000年をかけて構築してきた伝統的、正統的な神学です。黒は過激な解放の神学に代表されるような「神学という名を借りたイデオロギー」を指し、聖座の介入は必至です。グレーは温和な解放の神学がその典型ですが、方向性としては黒に限りなく近いものの、従来の神学との接点、整合性を必死に模索しているところに唯一の救いがあります。しかし、どの理論も強引にこじつけている印象が拭えず、私はとても承服する気持ちにはなれません。

 日本の正平協はグレーゾーンの神学(十分に認知されていないもの)に立脚した活動をしているように見えます。ベースとなる神学が違うわけですから神学的な議論も平行線に終わるでしょう。

 たとえば、我々が教父神学、霊性神学のような白の神学を持ち出しても、正平協関係者はフェミニスト神学のような未完成なもの、教会内で十分に認知されているとは言い難いグレー神学を持ち出してくるのは目に見えています。これはレスリングとボクシングほどの違いがありますので、同じ土俵(リング?)で戦うことは事実上不可能です。それとも猪木・アリ戦のように、寝転がって膠着状態の中で試合を続けましょうか?

 昨今のカトリック教会にはカトリックの教えとは似て非なる思想をもった司祭が少なくないように思います。司祭ですからミサは立てます。聖変化の時、通常の司祭はアダムから始まる原罪、それ以降の人間の苦悩の歴史、イエズス・キリストによる贖いの業に思いを巡らしながら全人類の霊的救済を願って2000年前のキリストの十字架上の犠牲を祭壇の上で再現させます。しかし、一部の司祭は全然違ったことを考えてこの瞬間を過ごすように思えてなりません。山谷とか釜が崎で不幸な生活をしている人々が物質的に救済されるように願う人もいるでしょうし、憲法九条が存続するようにと願ってホスチアを上げる人もいるでしょう。

 キリストによって示された神の存在を信じること以外に他には何も共通点がないといっては極論でしょうか。
 

みなさんに質問及び報告です  投稿者:夢之介  投稿日:2009年 5月27日(水)12時41分24秒   返信・引用
  この前、大阪教区司教補佐に好意的な方と二人で飲む機会がありました。
その方はだからといって護憲派でもないしどちらかといえば改憲派に近い
人です。ただ正平協やM司教補佐の意見も解るとおっしゃる。

なぜなら彼らが言うのは、聖書に基づいた神学に基づいた平和の思想であり
イエスの教えそのものだから自分としても、平和を求めるという部分で頷ける
のだそうです。

そしてこの掲示板もご存知で、自分が書き込むところではないとおっしゃる。
彼が言うにはいかに正論を伸べようが神学論争で彼らを説得できないと駄目だ
そうです。

まあ「俺は神学の知識はないけどそれが充分ある人は一杯いる。」と言って
おいたのですが、みなさんのご意見を伺いたいのは、彼の言う神学論争となった
場合、護憲運動左翼運動に盲目的に活動している人たちをまた多くの解放の神学
に染まった司祭様方を説得できるのでしょうか?

次に彼と会う機会にそれなりに彼を「なるほど」と言わせるものはないでしょうか?
教えていただけませんか?
月末にまた会う機会があって、これまで考えてきましたが自分なりに彼をあっと言わ
せる問答が思いつきませんでした。

どうかみなさんよろしくお願いします。

ついでにお願い:個人名何処の誰かはっきりわかるような批判についてはどうか
        所謂荒らしよけのため、ご配慮お願いします。
 

殉教者列福祭典  投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 5月27日(水)01時14分29秒   返信・引用  編集済
   皆様、勿論昨年11月長崎で、市の公営運動場を借りきって、切支丹殉教者列福のカトリック教会祭典が三万の信徒を集めて行われた事をご存知でしょう。

 彦左衛門、我らの信仰の祖先、そして鑑みというべき殉教者列福に感動しています。
しかし、同時にこの大々的な列福祭典の挙行に、なお一抹の、いや自分でも否定し難い、かなり大きなこだわりがあることを否定できません。

 これについて皆様のご意見、ご叱正をいただければ幸甚。

  そのこだわりの一つは、勿論、かねて政教分離には神経質なくらい厳しいカトリックが、他方、市民の税金で建てられた、公営の施設を利用して、宗教的行事を行うことは、政教分離に反する矛盾じゃないかと言うことですが、これ以外にもこだわりがあるのです。

 それは彦左衛門、幼児洗礼ではないにせよ、皆様が生まれる前からの、少なくとも、物心着く前からの確信的カトリックでありながら、同時に紛いもない日本人であり、日本人的感性の所有者であることに関係しています。

 殉教者の存在は、教会とその信仰にとっては、紛いもない誇りであり、励ましです。
しかし、徳川政権による惨烈、無道な切支丹迫害は、日本歴史における最大の汚点であり、
特に所謂島原の乱における女子供を含む三万以上の人民虐殺は、日本どころか世界の歴史にも例のない残虐な暴挙です。

  この日本歴史上の汚点は、多くの日本人が知らないか、知っていても忘れていることです。それでいいものかどうかという難しい論議は別として、

  長崎教区で行われた、大々的な祭典は、暗黙のうちに日本人の良心にメスを入れると同時に、日本歴史の汚点をあばき、間接的にせよ、これに対する非難となっている事を否定できません。

  日本人としての彦左衛門は、矢張りそれをすんなりと受け入れ難いのです。今更、そんな日本人の過去の罪を暴く様なこと、良心のキズに指を突っ込むようなことは止めてもらいたいと思うわけです。

 もし、日本人の感性を無視し、自分たちだけの信仰論理によって行動するだけならば、それは果たして宣教にとってプラスになっているでしょうか。

  勿論列福祭典そのものに日本人が反対することはないでしようが。

 問題は、三万の信徒を集めて、大々的に祭典を挙行することにあるのです。
 

松浦師と他の司教との区別  投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 5月25日(月)21時32分23秒   返信・引用  編集済
    小生彦左衛門、数年来、司教、聖職の偏向した政治的言動には、厳しい批判を続けて参りましたが、この人たちの、軽率、杜撰、それでいて、それが世を正す自分たちの予言職遂行だと信じている思い上がりを見ると、日本の教会は、今病んでいると思わざるを得ません。

  しかしここで、一つ矢張り言っておかなければならないことがあると思います。

  それは、正平協松浦司教と他の司教との区別です。松浦師は、はっきり言って、教会が罹患している病気の根源であり、もう一つ言わせて貰えれば、悪魔に操られて、知ってか知らずか、教会の病の病原体そのものとして働いている存在です。

  これに対して、他の司教さん方は、その無知、無見識、不用意、不注意のため病気に罹患してしまった、いわば、病原体の被害者、犠牲者でしょう。

 新型インフルで言えば、病原体ウイルスそのものと罹患、感染した患者さんとの違いです。

 しかし新型インフルは発病しても、一週間内外で治癒しているのに、司教さんたちの軽率な、かつ本来の職務権限から逸脱した言動は、ずっと続いているところを見ると、司教たちの罹患している病気は、むしろエーズに喩えたほうが適切かも知れません。

 そのときは、正平協と松浦師は、司教たちの、不注意、不用意に付け込んで、教会に侵入した、エーズ病原体ウイルスそのものと言うことになります。

  もしそうであれば、教会が罹患しているエーズとも言うべき病気の治癒は、困難、かつ長期を要することにならざるを得ないでしょう。

 しかし、教会をよくするためには、わがBBSで活躍されている諸氏は、どんなことがあっても、ひるむことなく批判的活動を続けていただきたいと存じます。

  たとえ松浦師の改心は絶望的でも、彦左衛門の知る限り、本来人格、信仰共に立派な、他の司教さん聖職の方々には、なお立ち戻りは不可能ではないと思うからです。
 

正平協の地獄行きを止めることは出来るだろうか  投稿者:彦左衛門  投稿日:2009年 5月25日(月)18時31分32秒   返信・引用  編集済
    北朝鮮は核実験を又やってのけた。この北と連携しているのが、日本カトリックの正平協。彼らは、これまで、多くの非違を行ってきたが、此処にいたって、その悪魔的実態を最早隠すことは出来ないだろう。

  北朝鮮の日本における利益代表朝鮮総連の立場に同調し、これまでその線に沿っての言動を繰り返してきたのが彼らだ。

  拉致問題では、今に至るまで、それは単なる風説に過ぎない、それより日朝国交再開を急げ、と言う当初の主張を撤回していない。

 それどころか、昨年年初には、武者小路公秀を態々引っ張ってきて、司教社会問題研究集会の講師としている。武者は今更言うまでもなく、北朝鮮の政治体制とその思想の礼賛者であり、チュチェ思想の日本における普及に努めている男だ。

 こういう男を重用していることは、多かれ少なかれ、世界最悪の独裁、非人道国家北朝鮮、そして戦後キリスト教を迫害、多くの殉教者が出ている悪魔的体制に同調するもので、世界人類と日本と、いやそれ以上に、神と教会と殉教者と善良な信徒を裏切る行為だ。

 彦はこれまで、正平協はもとより、これをを容認して野放しにしている司教たちにも批判を書き送っているが、彼らは無視、黙殺、無回答、彦は、その限りにおいて、彼らを弾劾して止まない。余りに彼らは信徒を舐めているとしか思えない。

 いやそんなことでは日本社会から不信と軽侮を受けるだけで、宣教なんて問題にならないのではないか。

 この人々、特に松浦と正平協がもしこれまでどおり一遍の反省も示さなければ、彼らは悉く地獄行きだろう。

 これまで一所懸命そうならないよう祈っては来たが、もう絶望感の方が支配的になりつつある。
 

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天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように
御国がきますように
御心が天に行われるとおり地にも行われますように
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
私たちの罪をお許しください
私たちも人を許します
私たちを誘惑に陥らせず
悪からお救いください
 アーメン


   
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