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アメリカよ・新ニッポン論:第3部・平和の未来/5 民間自助の海賊対策

 <世の中ナビ NEWS NAVIGATOR>

 ゲートを通って司令部にたどり着くまでにセキュリティーチェックが3回。1人になれるのはトイレだけ。ロンドン郊外のノースウッド基地内にある欧州連合(EU)海軍作戦司令部での一日は、緊張を強いられる。

 海賊対処で日本郵船から派遣された現役船長の進藤航さん(38)は、警備の厳しさを実感するたびに、「ここは軍施設なんだ」と気を引き締める。

 司令部は小学校の教室二つ分の広さ。中央の大型モニターに常時、アデン湾を民間船舶が航行している様子が表示されている。

 海賊が発生すると、救難信号が出る。直ちに近くを警戒する軍艦に通報し、状況を逐次知らせるのが司令部の主任務だ。多い時は、1日に5~6件のSOSが入る。

 EU各国の軍人約100人が24時間3交代制で勤務。民間人は進藤さんと英国人2人の計3人きり。軍人たちは商船の速度感覚や運用要領をほとんど知らない。用語も微妙に違う。守る軍艦と守られる商船のコミュニケーションを助けるのが、進藤さんたちの役割だ。毎夕5時からの打ち合わせで意見を求められることもある。

 「頼れるのはEU軍しかなかったので、お世話になった恩返しをしたかった。海賊対策の最前線を見て、自社の危機管理にも役立てたい」(進藤さん)

 日本の安全が対米協調一辺倒で守れた時代は終わった。米国が動かなくても、日本独自で国際的に連携しなければ対処できない新たな危機が現に起きている。しかし、対米偏重の政府が手をこまねく間、民間が自助自立の試行を始めていた。

 アデン湾海域は広大で海賊は神出鬼没。司令部の悩みのタネは慢性的な艦艇不足だ。

 「EU軍でも海上自衛隊の能力への評価は高い。早く正式に連携したいと思っている」(同)。だが、日本の議論は、その手前で足踏みしている。

 ◇「外圧」で官邸一変 中国の海軍派遣表明で「一切動くな」が「早くしろ」

 海賊対処の護衛艦派遣は、日本近海の不審船対処を想定した自衛隊法82条(海上警備行動)を根拠にしている。守れるのは日本関係の船だけだ。

 防衛省は当初、「海賊対処は武器使用基準を緩和し、他国船も護衛対象にした新しい法律で行うべきだ」として、82条での派遣には消極的だった。

 しかし、海上保安庁の岩崎貞二長官は昨年10月、国会で「総合的に勘案すると巡視船の派遣は困難」と明言。政府・与党の対応は滞った。野党も関心は薄く、民主党の平田健二参院幹事長は記者会見で「海賊? 漫画とかでしか見たことないが、日本の船が被害を受けたことはあるの」と発言したほどだ。

 ところが昨年12月16日、中国が国連で「海軍派遣」を表明すると事態は一転した。

 政府・与党はとりあえず海上警備行動で出て、海賊新法が成立次第、派遣根拠を切り替える「2段階方式」を目指すようになる。

 海自幹部の証言。「年末まで『一切動くな』と言っていた上からの指示が、年が明けると『早くしろ』に変わった。官邸の念頭にあったのは、間違いなく中国への対抗意識だ」

 同海域は欧州とアジアを結ぶ航路のため、米国は海賊対策にお付き合い程度だったが、1月、多国籍合同任務部隊(CTF)を新たに別編成して積極的に関与しだした。

 「海軍の外洋派遣は500年ぶり」という中国の狙いは、アフリカへの権益確保にあるとみたからだ。海賊対処に姿を借りた「海の覇権争い」という国際政治の力学が働いた。

 憲法が制約する自衛隊派遣はまだしも、とりあえず可能な安全航行のための情報収集にも素っ気なかった日本政府だったが、米中両国の「外圧」を受けると初めて慌てだした。

 ◇政府頼まず、11年前にも インドネシア暴動で社員救出計画

 11年前にも、インドネシアで政府が後手に回る事件があった。

 98年5月14日。ジャカルタで、前年のアジア通貨危機をきっかけにしたスハルト大統領(当時)への抗議活動が暴動に発展。商店は破壊され、道路の車に投石の雨が降った。日本人学校の児童らは帰宅できず校舎で一晩を過ごし、在留邦人は国軍兵士に金を渡し自宅を警護してもらうあり様だった。

 米国は即日、自国民約1万人の保護を宣言し、チャーター機を手配。オランダは翌15日には救出を即行した。これに対し、日本政府はチャーター機や自衛隊機の派遣について「検討している」と繰り返すばかり。決断と手続きにもたつき、邦人約1万3000人に焦りが広がった。

 一刻を争う状況のなか、繊維大手の東洋紡(大阪市)海外事業部長だった滝彰親さん(65)は、独自の社員救出案を立案した。「初めから日本政府に頼る考えはなかった」からだ。

 社員と家族約30人を首都から約120キロ離れたバンドン市の空港に移送し、民間チャーター機で国外に脱出させる計画で、同社トップも即決。小型機を調達し、飛行許可も取り、決行寸前の16日、やっと政府が民間機の臨時便派遣を決めた。

 計画は実行されなかったが、滝さんは「自力脱出する手はずだったことを公表しておけば、その後も責任を恐れて決断しない政府の無責任さを考える議論のきっかけとなったはずだ」と悔やむ。

 当時官房長官だった村岡兼造さん(77)も、結果オーライだったと強調したうえで「大使館は『日本人は襲われない』と分析していて、的確な情報が来なかった。手を尽くしたが、政府の対応が遅れたのは反省すべき点だ」と認めている。

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 12日は2面に掲載します。

毎日新聞 2009年5月11日 東京朝刊

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