めがひっとのメディア論 by RJQ.JP
  2009年6月1日記載 最新記事リストの戻る
  被害者感情と刑罰の量刑は必ずしも比例してはならない
  道交法改正に関連して、厳罰化に対する動きについて考えてみる。裁判員制度も始まり、裁判員制度の理解を進めてもらうべくテレビドラマも制作されるようになった。民法局のドラマはどうしても大げさな脚本となり、少々うんざり感が沸くが、ともかくここ数年の法改正の動向と刑事裁判の判決を見る限り、厳罰化が加速化しているように思える。

例えば加害者が被害者が死亡したとする。被害者側にしてみれば、身内が死亡した事実は、経緯がどうであれ死亡した事実は変わらない。それが加害者の過失であれ、故意であれ、加害者に対する感情には大きな差は生じないのが普通だ。

では結果主義のみで量刑を決定したらどうなるだろうか。一口に死亡させたといっても、ざっと殺人罪、傷害致死罪、過失致死罪、自殺関与罪など犯罪にも様々存在する。これらは死亡に至らしめた敬意の差によって刑罰にも差がつくことを意味している。中には正当防衛が適用され無罪の場合だってあるだろう。

被害者意識によって罪量に一定の差を設けることは自然だ。一方で同じ程度の犯罪であっても被害者が持つ感情は人であるから差も生じる。仮に過失が完全同一レベルであっても被害者が加害者に対する被害意識に著しい差が生じたら罪の重さも大きく変わるとしたらやはりおかしい。

交通事故の場合は過失によるものが大きい。もちろん酒が入った状態で運転して事故を起こし、人を傷つけるのは言語道断である。被害者側も運転者に対して厳罰を求める感情は自然だ。しかし簡単に懲役刑の量刑が10年から20年へと重く変更することが果たして適切な量刑として認定すべきなのかは別の問題だと考えている。

私は刑務所経験はないが、川本浩司著「私は飲酒運転で刑務所に入りました」を読んで感じたことがある。それは刑務所ではわずか1ヶ月の量刑の違いでも罪人によってはとてつもなく大きな差であるということである。終身刑とか極刑すべきという発言を第三者者やマスコミたちが簡単に口にすることが果たして適切な発言なのか疑問が沸く。

殺人罪のように出所した後に再び犯罪の世界に手を染める確率と違って、少なくとも交通事故による死傷罪に関しては再犯の可能性はゼロに近い。更生する時間を与えるべきだ。加えて加害者は出所しても厳しい社会的制裁が待っている。先日、福岡高等裁判所で判決では地裁で下した判決の業務上過失致死罪の7年から大きく変わり危険運転死傷罪の20年へと変更となった。争点は過失であるのか故意によるものかであったが、それ以上に安易に20年という量刑を罰することが適当であるのかに疑問が残る。

被害者3名も出した加害者はそれ相当の罪を背負わなければならない。被害者からしてみれば加害者に対する感情は計り知れない。故意によって殺害されたのと同じほど憎しみも大きいことは想像できる。しかし、被害者感情を十分考慮しても懲役20年という量刑は重過ぎると思うのは私だけだろうか。被害者感情は一定以上考慮入れるべきだが、被害者意識をすべて量刑に反映させすぎることは非常に危険なことなのだ。他人事と思っている大半の国民も、いつ自分の身に降りかかるかを考えることもないのだろう。

人は感情の動物である。機械のようにはいかない。だからこそ誰しもが犯罪に手を染める可能性はゼロではないことを認知すべきだ。自分は全く関係ないと信じて疑わない者ほど厳罰を求める傾向がある。自分が罰せられる可能性もゼロではないことを忘れてはしないか。まして交通事故は誰もが起こしえる最も身近な犯罪である。厳罰化が行き過ぎると安心して日常生活すらできなくなることをもっと考えるべきである。量刑判断は加害者が起こした罪の度合いを冷静に判断して決定するべきである。
   

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