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神器―軍艦「橿原」殺人事件―(上)
奥泉光

探偵小説好きの青年が一兵卒として乗船した軍艦「橿原」には、「神器」がひそかに持ち込まれていた――。相次いで起こる変死事件、そして極秘の任務をめぐって錯乱する兵士たちの思いを運んで大海原を進む「橿原」の真の使命とは? 時空を超え、民族を超えたスケールの日本人論、戦争論が展開される、記念碑的純文学長編。

ISBN:978-4-10-391202-6 発売日:2009/01/23

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波 2009年2月号より

[奥泉 光『神器―軍艦「橿原」殺人事件―』刊行記念インタビュー]
語りの多様性が新たな歴史を作る
奥泉 光


語りの多様性が新たな歴史を作る

奥泉光氏の新作長編小説『神器―軍艦「橿原」殺人事件―』(以下『神器』)は、昭和20年の大戦下を舞台に、時空を超え国を超えた壮大な日本論、日本人論が展開される、軍記、ミステリー、そして純文学がミックスされた大作です。さまざまなジャンルを融合させる創作現場のお話を、4つの視点から伺いました。


●軍記小説『神器』の作者に訊く
 ――『神器』では軍艦が舞台になっていますね。
奥泉 そうです。「橿原」という架空の軽巡洋艦が舞台で、ほとんどそこから離れない。最初は戦艦大和にしようかと思ったんですが、それだと史実からあまり離れることはできないので、架空の船を作り出しました。
 ――軍艦を舞台にしたわけは?
奥泉 船というのは、一度海へ出てしまえば、とりあえず外からは切り離されて、一個の小宇宙を形成することになる。世界全体を映し出す強力なメタファーたりえることが作家にとっては大きな魅力だと思います。閉じられた世界のなかで、権力の構造や、ぎりぎりの判断を迫られた人間の運命といったものを、夾雑物なしに露出させやすい。
 小説中で描かれるのは、敗色濃厚になった一九四五年の春、戦艦大和の海上特攻を含む数ヶ月間の出来事――それも乗員四〇〇名くらいの、そんなに大きくない船での出来事にすぎませんが、アジア太平洋戦争の時代だけでなく、戦後からいまに続く世界を大きく映し出すことが目指されています。もっとも、部分が全体を映し出すということ自体は、文学テクストならば当然のことですが。
 しかし、『神器』では、SFや幻想小説の技法を導入することで、「橿原」が実際に他の時空間と繋がる構造を作って、メタファーにとどまらない形で、小説世界を拡張しているところに特徴があるのかなと思います。実際、「橿原」の乗組員は四〇〇人くらいなんですが、読んでいただけばわかるとおり、船にはもう無数といっていい人たちが乗っていますしね(笑)。
 ――奥泉さんの作品には軍隊を舞台にした小説がいくつもありますが、なぜ軍隊の世界に惹かれるのでしょうか。
奥泉 軍隊に惹かれるというより、アジア太平洋戦争を基点にして、我々の生きる時代の問題を考えようとすると、どうしても軍隊が視野に入ってくるということはあると思います。近代以降の日本人の経験のなかで、戦争は最大のものといっていいわけですが、戦争体験と一口にいっても、多くの人にとってそれは軍隊体験であり、銃後体験であるわけですから。
 それから、いわゆる社会の縮図、というのは、ちょっと単純すぎますが、軍隊社会が人間と人間の関係の力学を見えやすい形であらわにする面はあると思います。とりわけ戦時の軍隊は人々がたえず死に直面しているわけで、そういう場所では、人間の運命や、人間の偉大さと卑小さが、振幅をもって描けるということはあるでしょうね。
 ――小説の舞台として「軍隊」にはエネルギーがあるということですね。
奥泉 そういっていいと思います。ただ、自分は軍隊も戦争も直接は体験していないわけで、戦争で亡くなったり、苦労された人たちのことを思うと、非常に僭越な感じはします。しかし、開き直るようですが、死者を生き返らせて語らせたり、他人の内面に勝手に入り込んでいったりする小説というものは、基本的に僭越なジャンルなんですよ。
 これからも太平洋戦争を舞台にした作品はどんどん出てくると思います。出来事との距離が遠くなって、時代小説の感覚で、戦国時代や幕末を舞台にするような感じで書かれるのかもしれない。ただ僕の場合は、連続性の意識から離れられないですから、僭越な感じは抱き続けるでしょうね。信長や秀吉を書いてもあまり僭越には思わないですけど(笑)。

●日本論小説『神器』の作者に訊く
 ――六十年以上前に終結した「戦争」というもの、過去というものを、いま考える意味とは何でしょうか。
奥泉 歴史というのは、もちろん固定的なものではなく、それが語られる「いま」の観点にしたがって変容していくわけです。といって、過去の歴史は「いま」が作り出したただの「物語」でもないはずだ。となると、歴史とは何なのか? このことを僕も少しずつは考えていますが、答えはまだありません。
 二十世紀の後半は、多くの国家で歴史がイデオロギーに染め上げられ、捏造が平気で行われたりした。その結果、歴史自体が信用を失ってしまった。歴史とは、要するに、国家や民族のアイデンティティーの「物語」であり、神話と同じく、真実性など必要ないんだという露骨な立場もでてきた。歴史は所詮は虚構だというわけです。もちろん、歴史は虚構性と無縁ではありえない。しかし単純に虚構であるともいえないはずです。歴史と虚構の関係は、いま最も考えられるべき問題だろうと思います。
 ――歴史叙述ではなく、小説で過去を描くことを選ぶのはどうしてでしょうか?
奥泉 もちろんたまたま小説家としてキャリアを積んできたからなわけですが、虚構の問題を、歴史学を横目で眺めつつ、小説というジャンルのなかで考えたい気持ちはありますね。小説と歴史叙述は重なりあう部分が非常に大きい。むろん虚構にどう関わるかというスタンスには大きな違いがあります。小説は最初から虚構であって、しかし一種の真実性は必要になる。いわゆるリアリティーということになるんでしょうが、これは歴史叙述の真実性とは違うけれど、小説もやはりただの「物語」ではないのは間違いない。歴史叙述にはない小説の有力な方法を一つあげるなら、複数の「物語」がせめぎあう場を作り出すことで、単一の「物語」から逃れ出るという方法があげられる。複数の「物語」を担った複数の「語り」を組織できるのは、小説というジャンルの一番の武器だと思います。
 ――『神器』では、現代の若者の語り口が効果的に使われています。この語り口を導入されたことでどのような手ごたえを感じましたか。
奥泉 彼は小説の中盤から登場するんですが、現代の若者の語り口でもって戦争時代の出来事を語らせることで、批評的なふくらみが大きくなったと思います。書いているうちに、ああいう人物、というか、語りが、どうしても欲しくなったんですね。それで、書いていたら、どんどん膨らんできた。そういうのは、長編を書く一つの醍醐味ですよね。結果的には、他の語りとは全然異質な語り口がおかれることで、全体の響きがぶあつくなったし、イロニーやユーモアも発動しやすくなった。思想のぶつかりあいという面でも、色彩が豊かになったんじゃないかと思います。小説では、語りの文体は一つの思想ですから。
 ――それは、戦争や日本人を考え直す上で、実に効果的だったと思いますが。
奥泉 だといいですが。しかし、たとえば話を戦争に限ってみても、アジア太平洋戦争と、現在の戦争は大きく違ってきている。もちろん今後、国民国家同士の総力戦が絶対に起こらないとはいえませんが、いまは、アメリカのいう「テロとの戦い」のような形の戦争が普通になって、そこでは正規軍よりむしろ傭兵、つまり民間軍事会社が戦争を請け負ったりしている。そういう世界に私たちは生きているわけで、そうした自分たちのおかれた場所、というか状況を含めて、歴史を大きく捉えていくには、語りの多様性、多層性はどうしても要請される。
 戦争の形態はどんどん変化して、色々な常識も変わっていくわけですが、しかし一方で、日本人が戦争を捉えたり考えたりする場合、やはり二十世紀なかばに起こった、あのアジア太平洋戦争の経験を抜きにしては考えられないんじゃないかと思います。あの戦争については、体験者によるたくさんの語りが出てきていますが、むしろあの戦争が語られるべきなのは、いまからだと思いますね。歴史は出来事を直接体験しなかった人々が作るものなんですよ。体験から経験へ、というふうにいってもいいかもしれない。とにかく、あの戦争について語ることが、同時にいまの戦争を語ることになる、というのが小説の理想だし、そのためには、繰りかえしになりますが、語りの多様性がなければならない。戦争の直接体験者には思いもよらないような、まったく語られたことのない形で戦争が語られる。そのことが、いままでとは違う歴史のイメージを作り出す。一つの「物語」や語りに閉じ込められた歴史を解放する可能性があるんだと思いますね。
 それに、いままで語られたことのない形で何かが語られるというのは、それだけで単純に面白い。そこは小説を読んだり書いたりする喜びの一番大きい部分じゃないですか。

●ミステリー小説『神器』の作者に訊く
 ――現在でもミステリーの世界は数多くの読者を持っています。その魅力はどこにあるのでしょうか。
奥泉 謎解きの興味が読者を飽きさせずに引っ張って行くところは当然大きいでしょうね。どんなに下らないミステリーでも、とりあえず謎を追うことで読めたりしますから。非常につまらない謎でも、とりあえず解かれれば最小限のカタルシスはあるし(笑)。それに、ミステリーのスタイルをとることで、これはエンターテイメントであるというサインが出せることもある。商品として小説を出す以上、小説は広い意味でエンターテイメントでなければならないわけで、ミステリーは娯楽性の分かりやすい印といえるかもしれません。ここ数十年、良質のミステリーが日本語で多く書かれたことも大きい。
 もちろん、ミステリーだけがエンターテイメントではないし、小説の面白さ自体はもっと幅のあるものです。逆に、作者が謎の解決をあらかじめ知りながら、読者にわざと伏せておくことが、テクストの力を弱めてしまう可能性もあるでしょうね。
 ――『神器』は最初からミステリーとして構想されたんでしょうか?
奥泉 『神器』は長編ということもあり、小説を推進するエンジンとしてミステリーの力を借りようと最初から考えていました。というか、ミステリーに限らず、SFでもファンタジーでもなんでも、もう使えるものはなんでも使うという感じですね。そういう雑種性も小説というジャンルの特徴であり、武器ですから。まあ、僕自身、ミステリーやSFが好きだっていうのはありますね。ミステリーとしての筋は最低限通したつもりですが、しかし、最初にミステリーとして提出された謎なんかふっとんでしまうような、巨大な謎に小説世界が巻き込まれて、ぐいぐい熱を帯び渦を巻いて行く、というのが一番狙ったところではありますね。うまくいっているかどうかは、読んでみてもらうしかないわけですが。

●純文学小説『神器』の作者に訊く
 ――このところ『神器』と同じく、純文学の小説に長編が多くなっています。これは作者の側から考えるとどのような現象なのでしょうか。
奥泉 書く側からいうと、ワードプロセッサーという筆記具の普及はあると思います。長い文書の管理が楽ですから。それと、短編が書きにくくなっていることもあるかもしれない。誰だったか忘れましたが、昔、短編は借景を使って庭をつくるようなものだといった批評家がいましたが、たしかに日本語の近代文学がいちおう完成した段階で、短編小説は多く書かれ、文学の主流になった。風景や人情に対する共通感覚が借景になって、短編が書きやすくなったからだと思います。現在も共通感覚がなくなったわけじゃありませんが、それを疑う、というか批評的に接するスタンスの作家が増えてきた。
 借景をなるべく使わずに書こうとすると、一つの世界を自前で作らなければならないから、どうしても長くなる傾向があると思います。僕も、書き割りでもペンキ絵でもいいから、とにかく全部自前で行きたいと考える方なんで。ただ、短編でもって共通感覚に鮮やかに斬り込んでいくような作品や、自律した宇宙をなすような作品はあると思うし、書いてみたい気持ちはありますね。
 ――『神器』は、純文学の大作であると同時に、さまざまなジャンルがミックスされた作品になっています。奥泉さんはデビューの頃から追究されてきたこの方法を、いまどんな風に考えていらっしゃいますか。
奥泉 さまざまなジャンルが開発してきた技法やアイデアをどんどん取り入れて作品を作っていきたいという気持ちはずっと持っていたし、いまも同じです。さっきもいいましたが、雑多であることは小説というジャンルの大きな魅力だし、武器ですから。純文学という言い方がリアリティーを持った歴史的な文脈はあったんだと思います。でも、いまはないと思いますね。「物語」に対する批評性や方法意識に貫かれた方向にあるものを純文学と呼ぶとしたら、それはむしろ不純文学と呼ぶべきなんじゃないか。
 小説は一種のコラージュなんだというのは、デビューのときから直感していたんですけど、結局は、ポストモダンということですよね。さまざまな技法が歴史的な遠近法から離れて横並びになるというのは、ポストモダンの大きな特徴ですから。そういう意味でいうと、近代文学は僕のなかですでに終わっていたわけで、八〇年代の当時、小説はむしろポストモダンのジャンルだというふうに僕には見えていた。その一方で、僕は、本格的な近代小説を日本語で書きたいなんて考えてもいて、しかし、かりに僕が「近代小説」を書いたとして、それもやはりポストモダンの方法のなかでやるしかないんだと思います。モダンジャズでいえば、フリージャズのムーブメントのあとで、またスタンダードのピアノトリオを演るようなものかもしれません。
 ――『神器』では語りに様々な工夫が凝らされていますね。
奥泉 これもさっきいいましたが、多様な語りを組織できるのが長編小説の強みですから。『神器』では、最初は一人称でスタートして、途中から三人称が出て、視点人物も入れ替わる。さらに戯曲スタイルの章も差し挟まれる。『白鯨』のスタイルですね。主人公の名前とか、全体に『白鯨』が先行テクストとして使われているのは、読めばすぐに分かると思います。考えてみると、『白鯨』はきわめてポストモダン的な作品として二十世紀に再評価されたわけで、ちょっと感慨がありますね。もちろん、意識されている先行テクストは『白鯨』だけじゃありません。まあ、そういうことは、書き手があまりいうべきことじゃありませんが。
 単に色々な人称が使われるだけではなく、語りと対象の距離を流動的にしたり、随所でパロディーを使ったりと、様々な技法を試しています。まあ、いま持てる技術は惜しみなく投入したかな。それでこの程度かといわれると辛いですけど(笑)。しかし、わりと面白いと思いますよ。自分で読んでみて面白いですから(笑)。楽しんで読んでいただけるとは思うんですが。もちろん詰まらないと思うものを人様に読ませるわけにはいきませんからね。

(おくいずみ・ひかる 作家)

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