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&A(質疑応答)
 
     
  質問1 手かざしで「光」を受けると、どういうことが起きるのですか?  
  質問2 手かざしができるようになるには、どんな修行がいるのでしょうか?  
  質問3 先祖供養をどう考えていますか?  
  質問4 神様が人間をつくられた目的は何ですか?  
  質問5 この教えに入ると、他の信仰を捨てなくてはいけないのではないですか?  
  質問6 教えのことがよくわかって、ナットクしてから信仰したい。  
  質問7 教団活動のために、家庭のことがおろそかになるのではないですか?  
  質問8 宗教は現実からの逃避ではないですか?  
     
   
 
質問1
 手かざしで「光」を受けると、どういうことが起きるのですか?  
   
 
     生活のあらゆる面で、良い変化が起きてきます。
 まず病気に苦しんでいる人は、本来の生命力が復活してどんどん回復していきます。早い人は数回の手かざしで、長年苦しんだ胃腸病などが良くなっています。また、切り傷などの外傷も、手かざしで嘘(うそ)のように元通りになっています。
 経済的に苦しんでいる人は、知らぬ間に暮らしが楽になっていきます。今まで就職しても人間関係がうまくいかなかったり、会社の倒産にあったり、自分で商売をやっても思うようにいかなかった人が、不思議と運が変わってしまいます。
 夫婦・親子が断絶して波風が絶えなかった家庭は、しだいに温かいものが通いはじめ、理解し合えるように変わってきます。
 不登校、いじめ、校内暴力、青少年の非行犯罪などの教育問題で悩んでいた人は、不思議とそういう現象がなくなり、その悩みから解放されて行きます。
 不幸現象がなくなり運の良い人になれます。
 また手かざしは、人だけでなく、食品や水、動物、機械、家屋、畑など、何にでも施(ほどこ)すことができます。
 手をかざすことによって、死にかけた動物が蘇(よみがえ)ったり、動かなくなった機械や時計が動き出したり、作物の生長ぶりが良くなったり…と、今までの常識では考えられないことが次々と起きています。さらに信じられないでしょうが、同じ災害にあっても、手かざしをしている田畑や家屋などは被害をあまり受けていないのです。
 このように、私たちは連日、信じ難(がた)い奇跡的現象を目の当たりにしております。
 不幸現象の80%は霊障によるものです。手かざしの真の光は霊の世界を浄めて救ってしまいますから、さまざまな不幸現象も消えて行くのです。
 だから、手かざしを知らなかった時とは一転して、明るく希望に満ちた人生を送っていけるのです。
 
 
 
     
 
質問2
 手かざしができるようになるには、どんな修行がいるのでしょうか?  
   
 
     特別な修行は不要です。ただ三日間の研修(講義)を受講し、神様からみ光を賜わるだけでいいのです。はじめは信じられないかもしれませんが、研修を受けて“御み霊”(おみたま)を授かり、手をかざすと、本当に奇跡的な現象がどんどん起きてくるので、信じないわけにはいかなくなるのです。
 昔の聖者や高僧の方々も奇跡を起こしましたが、そこまで行くには、何十年という厳しい修行が必要でした。
 それがなぜ、たった三日間で、奇跡を起こせる業(わざ)ができるようになるのでしょうか?
 人類界は今、大変な時期にさしかかっています。毎日のように交通事故や凶悪犯罪が起こり、病気は奇病・業病(ごうびょう)・慢性化し、環境破壊は地球の至る所で進み、原水爆の恐怖までもが目前に迫っています。その上、政治界や経済界、教育界も危機を迎え、また天候の異常をはじめとして、世界的大地震、大噴火の恐れすら起きています。
 人類の物質文明は行き詰まり、このままでは人類共滅の危機も避けられません。
 そこで神様は人類界を救うために、岡田光玉(おかだこうたま)師を通して、救いの業(わざ)である「真光の業」を人類にお与え下さったのです。長い修行期間をかけていては、とうてい間に合わないので、老若男女、宗門宗派、人種、国境の区別なく、求める人には誰でも、わずか三日間で手かざしができるようにされたのです。
 人類始まって以来の危機が到来している今、一人でも多くの方々が、「真光の業」によって救われ、そしてみずから手をかざし、悩み苦しんでいる人びとを救う大運動を起こしていただきたいのです。
 
 
 
     
 
質問3
 先祖供養をどう考えていますか?  
   
 
     今、私たちが存在するのは、両親、祖父母、ご先祖様あってのものです。ご先祖様が存在したお蔭で、私たちはこの世に生を享(う)けることができたのです。
 ですから、先祖への感謝の表れとして供養するのは子孫としての当然の務めであると考えます。
 また、神様を信仰しているのに、どうして先祖を祀(まつ)るのかと、疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、神様のお祀りが第一に重大なのです。と言って、肉体を持ってこの世に生まれてきた以上、先祖があって今の自分があります。そして、究極は先祖を通して神様につながっているのです。
 私たちに守護霊を付き添わせて下さっているみ仕組みも神様がなさっておられます。昔から「敬神崇祖」(けいしんすうそ)と言いますが、神様とご先祖様への感謝の心を表すために先祖供養が必要なのです。
 神界には宗門宗派はありません。宗教は人間界だけで勝手につくられたものなのです。霊界には宗教つまり宗門宗派に関係のない「霊界の法則」というものがあります。ですから、霊界に行った先祖を祀るのは、その霊界の法則に則った祀り方をしなければなりません。人間が勝手に考えてもダメなのです。
 たとえば、本家で先祖を祀っているから、分家は不要だと考えたり、先祖からの宗旨できちっと祀っているから大丈夫と思っていると、実はそれが間違った祀り方である場合があるのです。
 また、先祖を祀る上で一番大切なのは、「位牌」を作って「食事を供える」ということです。「私の宗教(信仰)は位牌はいらない」という方もいるかもしれませんが、霊界には宗教はないのでそれは通じません。先祖は、位牌を通して、子孫の供えた食物の供養を受け、ひもじい思いをせずに幽界生活が送れるのです。
 人に四六時中付き添っている守護霊がたいがい先祖の代表者であるように、私たちは一人で生活しているようで、実はそうではありません。要するに、自分が先祖と、そして神様とつながっていることを認識した上で、先祖をきちんとお祀りし、そして人の目的である神様の御経綸に参加することが大切です。
 このように先祖の供養は、非常に重大な意味を持ちます。
 
     
     
 
質問4
 神様が人間をつくられた目的は何ですか?  
   
 
     岡田光玉師は、神様からのお言葉として、次のようなことを伝えて下さっています。
 『神様が人間をお創りになられたのは、神様が地球上に用意なさったさまざまな資源を開発させて、神の世界と同じような天国の世を、物質によって地球上につくり出させるのが神様の願いであり目的です。
 「神の世界の写し絵」、つまり天国そのものの神の世界、幸せもののみの世界を、地上にそっくり出現させ、神の子である人びとが幸せに暮らす様子を見るのが、神様の喜びであり、楽しみなのです。そのために、あらゆる万象生物も神の子人類のために繁栄させ、太陽も月も地球もそれぞれ配置してきたのです。』
 神様がそのような目的で人間を創られたことを、われわれは決して忘れてはなりません。
 実は神様には、この目的を成就するための御経綸(ごけいりん)があります。その御経綸は、今まで秘め事とされ明らかにはされていませんでしたが、岡田光玉師によって初めて明らかにされたのです。
 
     
     
 
質問5
 この教えに入ると、他の信仰を捨てなくてはいけないのではないですか?  
   
 
     崇教真光に入っても、他の信仰を捨てる必要はありません。今までの信仰はそのままで、手かざしを受けることができますし、研修も受けられるのです。
 私たちの神向(しんこう:信仰)申し上げる神様は、宇宙創造天地創造の主神様で、「御親元主真光大御神様(みおやもとスまひかりおほみかみさま)」、親しくは「主(ス)の神様」と申し上げております。主の神様は、宇宙全般に神の真の光をあまねく照らしておられますので、私たち崇教真光には、宗門宗派、人種、民族などの区別が全くないのです。「地球は元一つ、世界は元一つ、人類は元一つ、万教の元また一つ」が私たちの理念であります。
 ですから、研修を受ける人の中には、仏教のお坊さんもいれば、キリスト教の神父さんや牧師さんもいれば、神社の神主さんもいらっしゃいます。それぞれの宗教の立場の中で、真光の手かざしによって、病気やその他で苦しんでいる人たちを救って行けばよいのです。教義、教理と関わりなく、手をかざせば奇跡が起きます。その奇跡を通して、霊魂の実在と神の御実在を観念としてでなく肌身で実感することが大切なのです。
 仏教にしてもキリスト教にしても神道やその他の宗教にしても、神様としてはそれぞれの時代に必要があってお出しになったものです。根本のところでは、決してそれぞれは違っていないのです。ところが後世の弟子たちが、勝手に自分たちの考えや理論を付け加えて、時代を経るにしたがい、哲学宗教、観念宗教と化して、救世の霊力も弱くなり、今日のような状態になってしまったのです。今では、かつてあった「救い」も僅(わず)かになってしまいました。
 一方、真光の研修会で教えを聞くと、キリスト教、仏教、その他の教えが実によく理解できます。それは、あらゆる宗教で今まで知らされていなかった根本の教えによって、全ての宗教のナゾが説き明かされていくからです。
 崇教真光は、他宗を排斥(はいせき)しません。全ての人がこの「真光の業」によって神の真の光を真配り、世の人びとを救って下さることを念願としているのです。
 
     
     
 
質問6
 教えのことがよくわかって、ナットクしてから信仰したい。  
   
 
     「ごもっとも」と言いたいところですが、その考え方でいくと、たとえばある大学のある学部に興味を持った場合、そこの入学試験を受ける前に、その学部で教えている内容を一通り知って、納得したら試験を受けるというのと同じではないでしょうか。入る前にわかるくらいなら、入学する必要はないと思われます。
 もしかすると、あなたは、そんな厳密なことを言おうとしているのではない、アウトラインを知りたいだけだということかもしれませんが、そのアウトラインが初級研修の三日間なのです。
 「三日間なんて……一日や二日ではだめなのかしら」と思う人もいるかもしれませんが、たとえば、映画でも前編と中編と後編があれば、前編だけ見ても、あるいは中編と後編だけ見ても全般がわからないように、三日間なら三日間というものを聞かないとわからないのです。
 特に、説かれているお話は、今まで聞いたこともない、おそらくかつての聖者聖雄も説かれなかった前人未踏(ぜんじんみとう)の教えですから、すぐには理解できないと思います。納得するのに時間がかかるでしょう。皆さんの人生観、社会観を180度転回して聞いていただかないといけないと思います。
 しかも、崇教真光の教えは、理論理屈より実践が主体です。「手かざし」という人救いの業の実践によって教えの本質をより明確に把握(はあく)できます。
 真光の手かざしによって、病気が良くなり経済的な救いが得られ争いもなく災厄に見舞われない生活へと切り換わります。その驚くべき奇跡を通して、神の御実在と神の大愛を身をもって実感できるのです。
 「理論理屈よりもまず体験を」と申し上げたいと思います。真光の手かざしは、神様を信じていない人でも誰でも受けることができるのです。
 
     
     
 
質問7
 教団活動のために、家庭のことがおろそかになるのではないですか?
 
   
 
     教団活動のために、家庭のことをおろそかにしている人がいたとすれば、それは誤った神向(しんこう:信仰)をしている人です。
 なぜなら、私たちは、「教えを生活に活かしていくことが大切である。教えと生活は一体とならなくてはならないと教えられているからです。つまり、「日々の生活の中に教えを実践していく」ことが、私たちの生きた行なのです。
 私たちは自分の与えられた場所で、心から感謝して最善を尽くすことが大切です。自分の与えられた家庭で、職場で、学校で、最高の努力をし、さらに教えを実践していくこと、たとえば感謝、心の下座、ス直、陰徳、物尊(物を大切に使う)、親切、利他愛等の実践をすることが、神様の望んでおられることなのです。
 家庭を放ったまま、仕事も休業のままでご奉仕に出ても、それは正しい神向とは言えません。神様はお喜びにはなりません。ご主人がキチンとお仕事をしなければ、生活が安定しなくなるのと同じように、主婦が家庭のことをキチンとしなければ、家の中は乱れてきます。家庭の一人一人が、それぞれの任務を全(まっと)うしなければ、家庭は崩壊してしまうのです。
 神様は、人類界が愛和していくことを切望していらっしゃいます。特に現代社会においては、人類がお互いに協力し合い助け合って、地球環境の危機をはじめとする様々な問題を克服していかなくてはなりません。
 社会や国家は、家庭の集まりで成り立っています。つまり、社会の基本単位である家庭が愛和でなければ、世界の愛和は決して実現しません。いくら立派な家を建てても、土台がしっかりしていなければ、結局倒れてしまうように、外でいくら良いことをしても、家のことをキチンとしていなければ、愛和の家庭は実現できないのです。それでは、神様はお喜びにはなりません。神向している意味もありません。まず自分自身が家庭において「光の人」となり、夫婦、親子、兄弟が仲良く暮らせるようになってこそ、世界平和の基盤ができ上がってくるのです。
 また、昨今の非行やいじめ等の教育上の問題も、家庭の問題に起因することが多く、愛和の家庭を築くことが全ての基礎になることをよくご理解いただきたいのです。
 
     
     
 
質問8
 宗教は現実からの逃避ではないですか?
 
   
 
     今までの宗教のイメージからいきますと、現実世界から退いて、信仰の中に引きこもってしまうといった感じがありました。そのために、宗教は現実からの逃避(とうひ)という考え方が出てきたのでしょう。しかし、崇教真光は、決してそのようなものではありません。
 私たちは「生活の中に教えを実践する」ことが大事だと教えられています。私たちはそれを「生活即神向」と言っております。それが、神性化を目標とする私たちの生きた行なのです。つまり“光の人”となり、“社会の光”“地域の光”となるために、現実の日常生活の中で日々み教えを実践していくことに主眼をおいています。決して現実からの逃避ではありません。さらに、私たちは「手かざし」ができます。これは、現実に悩み苦しんでいる人びとを、苦しみから救うという現実への積極的な働きかけです。現実から逃げるのではなく、現実にしっかりと目を向け、さらに見えない世界にまでも目を向け、不幸の原因を解消していく、そこに崇教真光の本質があります。
 また、宗教はお年寄りのやることだと思っている方も多いのかもしれませんが、崇教真光は決してそうではありません。なぜなら、若い人が多いことも、崇教真光の特色の一つに挙げられるからです。若い人たちも光の若人を目指して、学業や生業、現実の社会生活の中でみ教えの実践に励んでいます。
 
       
     
     
     
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