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- 第3回森毅さん「京都の『加減』」
京都大学名誉教授。定年退官後、言論芸能人を自称。
鋭い社会・文化評論で“一刀斎”先生として親しまれる。
72歳。
水のように自由に流れる
「年をとることはいいこと」そう言いきる“一刀斎”の弁舌が冴える。
ファッションに始まり、東西の文化、定年制、
青・中・老年それぞれの「自立」など、話題は次々に広がる。
第3回 |
京都の「加減」 |
「お忙しい」は軽蔑される
=63歳の定年前後に、これからの10年間はこうして行こうとか、そんなこと、考えなかったですか。
全然考えなかった。
全然考えてはいないけど、すごい自由にはなったよ。束縛はないもん。それで僕は結構物好きだから、何でも引き受けたの、最初。
でも、やっぱりきついね、自由人は。だって何でも引き受けたら体壊すがな。実際体壊した。病気になって。
=今回インタビューへのお願いをFAXで流したとき、「お忙しいところ、まことにすみませんが」って書いたら、森さんはFAXのお返事の冒頭で「京都では忙しいのは軽蔑される」って書かれて。「これはやばいな」と思ったんですけどね(笑)。あれは森さんの持論なのですか。でも、忙しいって言わないが故にお仕事の依頼がどんどんあって、それを引き受けすぎて体を壊わされたと。
今はいろんなときに「お忙しいところ」と言うのが普通になってるけれど、あれ、いいことやと思わへんな。京都では忙しいことはマイナスやねん。
「お疲れのところ」が好き
=それは一つの美学ですか。その根拠ってどういうことなんでしょうか。
やっぱり、忙しがらずにゆったりしてるっていう。ゆったりしたことに対する価値観ね。セコセコしないっていう。忙しいっていうのはせっついてて、ゆとりがないみたいじゃない。定年前の壮年時代の価値観でしょ。
人によっては逆に腹立てる人がいるかもわからんけど、「お疲れのところ」って言われるのが僕は好きやな。
=え、好き?
うん。「お疲れのところ、どうもすいません」と言われる方がいい。「お疲れさん」と言われるのと同じ感覚でね。なんかしんどいけど、「しゃあないわ」と言ってやるとかね。そういう方が僕は美学的に好き。年とったら、年寄りに向けてはそう言った方がいいと思うよ。
年取ったらくたびれてるもん、だいたい(笑)。くたびれてることが悪いみたいにして、頑張ったっていい年寄りにならへんもんな。
僕は年寄りのことだから言うと、「老人力」って今評判やけど、若い頃から僕、元気なかったんよ。子供の頃からね。戦争中。あの頃若者は元気ないと駄目でしょ。あんなことを言われると叶わんわけ。
=15年前にお会いしたときと全然変わってないですよ。ずっと一貫してるんですね(笑)。
一番不幸なのはね、風邪ひとつひいたことがなくて、死ぬ前になって大病したりするのが一番不幸よ。若いときはできるだけ病気しといた方がいいの。病気慣れするから(笑)。
若いから元気じゃなきゃいけないっていうより、老後に備えて元気を無くしてますと言った方が老後の備えよ。
=森さんは今京都にお住まいですね。聞いたことがあるのですが、東京の経営者と京都の経営者ではずいぶん違う印象があると。京都の経営者は締めるところは締めたうえで、おっとり、ゆったりしている。それは東京の経営者とはちょっと違う。東京の経営者はそういうゆったり、おっとりの感じはないと。
このスローネットも京都の会社が始めましたが、もちろん全国区で展開をしています。ただ、ちょっとだけ京都っていう所にこだわってみようかなと思ってます。インターネットという情報技術の先端的な内容を発信するのが、京都にある会社ということ。先端の情報技術と、京の雅。その組み合わせの妙を多少は活かしてみようと思っています。森さんご自身は大阪で育って、東京にもいらして、今は京都。
京都の話をしたらキリがなくて……。まあ、僕は京都っていうのは好きなの。三高でちょうど今の17歳から19歳までいたからね。
=多感な時期ですね。
それで京都ものすごい好きなんやけどね。当たってるかどうかわからへんけどね。まあ本物の京都の人に言ったらそんなことないっていうかもわからんけど、一番京都論でわかりやすい話しよか。
京都、大阪、東京
京都と大阪と東京を比較すると、大阪は世話焼きのおばあちゃんっていうのがまだ生き残っててね、人の家の前まで水撒いたり、掃除したりしてね。ありがたいけど鬱陶しいっていう、世話焼きのおばあちゃんタイプっていうのが大阪。まだ生き残ってる。
ところが東京へ行くとそれが近代化されて、自分の責任範囲だけは確実にやって、人の所まではやらないっていう。気楽やけども冷たいっていう。
京都はどうや、って京都の人に聞いたらね、「人の所までする? そんな厚かましいことまでしたらいかん。自分の所だけ? そんな冷たいのもいかん」って。で、どないしたらいいねんって聞いたら「つい弾みでちょっとやるんや」と。その弾みの加減がデリケートでね。そのときの状況によって、選ぶんやって。それ考えてやると鬱陶しいで。本来そうやと思うけどね、杉本秀太郎(京都女子大教授、エッセイスト)なんてのは、家の前で水を撒くときの姿と、隣の家の前で水を撒く姿は型が違うんやって。それは自然に何となく違ってくるって(笑)。
=微妙なところですね。他者との距離の取り方の問題ですかね。
よく言ったら大阪は本音の街でね。何でも本音で言うってね。東京はタテマエの街で、京都はトコトン本音とタテマエの二本。
例えばね、京都生まれ京都育ちの奴っていうのは、ほんまに俺の言うことに賛成してるのかいなっていうのはよくわからんかったで、ずっと(笑)。
=二本立て(笑)。
それでよく言われるでしょ。京のお茶漬けとか。「ブブ漬けでもどうぞ」って。あれ場合によってはほんとうに食べていってもいいのよ。
=いいんですか。
うん、いいこともあるの。そのときの状況で判断せんといかんの。
断るときに「考えときまっさ」と言うのも、そのときの状況とニュアンスで判断せんといかんわね。はっきりノーではないんだな。
=前後の文脈で判断するんですね。
京都の言葉は二重
僕、お酒飲まへんやろ。それでいつか祗園のお茶屋のおばあちゃんと会ってね。「うちはお茶屋どすさかいにな。これは京のブブ漬けと違うてほんまのことでっせ」言って、「ちょっとくたびれたときはうち来てお茶でも飲んで行っとくなはれ」って(笑)。
お茶屋にちょっと喉乾いたからお茶飲ませてって行かれへんやんか(笑)。そやけどあれ、行ったらちゃんとよかったんやね。だからブブ漬けとかね、ああいうのなんか言葉が二重性があるの。
「お忙しい」とかみんなそうでしょ。例えば「こうとな」って言葉ってあるでしょ。ちょっと品がいいというか。あれ悪口で言うこともあるしね。誉め言葉で言うこともあるしね。二重になってることがある。「ハンナリ」もそうでしょ。
=ハンナリもそうなんですか。いいときだけじゃないんですか。
うん。裏があることがしょっちゅうあるよ。だから京都の人と付き合うの、かなわんで(笑)。
=結構屈折してるわけですかね。
もともと本音とタテマエの二本立だからね。選挙のときに運動する人がみんな困りよるよね。共産党の人が来てどうかと言ったらハイハイと言うし。自民党の人が来たらハイハイ言うし。ときには両方のポスター貼ってあったりね。どこに投票したか本人にしかわからないという。難儀やで、そりゃ。票読みができん街よ。
=でも美意識はやっぱりすごいですよね。
それから東京との違いで、おやと思うのは、東京はなんでも行列したがるでしょ。で、行列すると平等に金払ったからモノ買えて当然みたいなものでしょ。京都の一見さんお断りというのは、一見さんでも上手いこといくと、ええとこ行ったりするの。別に京大教授とかそんなん関係ないのよ。付き合いの関係が上手いことできればいいの。京都は並びさえすればモノが買えるというのは野蛮やと思ってるで。それぐらいやったら並ばんでも買える方法を考えようというのが京都よ。そこのおばあちゃんと仲よくするとか(笑)。
大阪の人がかえって嫌がる。大阪は本音でやりたがるから。京都はどこまで行っても本音が見えない。
おじいちゃん・おばあちゃん原理
=もしかすると森さんと合うんでしょうかね、京都は。
京都の影響は大きいと思うな。
父親の存在っていうのは社会提起型なの。それで母親の存在ってのは文化的伝統みたいでしょ。ところがどうも京都ってのは、おじいちゃん、おばあちゃん原理よ。若い奴が勝手なことをして、当然お父さん、お母さんがたしなめたりすると、おじいちゃんかおばあちゃんが出てきて、「あんた、そない言うけど、あんたも若い頃はな」っていう。ちょっと距離を置いて冷たくっていう。
ちょっとイケズに、おじいさんが孫を甘やかすというのでもなくという。そういう関係ね。結構おじいちゃん、おばあちゃんが威張ってるよ。壮年であることが価値でないという。
(つづく)
森毅さん (全4回)
- 第1回森毅さん「『ゆったりしてええな』と」
- 第2回森毅さん「青年の自立と老年の自立」
- 第3回森毅さん「京都の『加減』」
- 第4回森毅さん「珍説『忠臣蔵』」