日本への「強制連行」

―「外務省報告書」を中心に―

 まず、日本(内地)への「強制連行」を見てみましょう。

『幻の外務省報告書』

 1993(平成5)年5月17日、NHKは「幻の外務省報告書」を発見、と総合TVのトップニュースで流す一方、夜の番組「クローズアップ現代」でも報じました。
 さらに、8月には「NHKスペシャル」 として「幻の外務省報告書―中国人強制連行の記録―」の放送となり、1994年5月には同じタイトルの本となりました(左写真)。

 NHK報道を追いかけた朝日新聞は、5月19日付けで「『強制連行』の報告書あった」(下写真)との見出しを立てて報じ、また報道各社もそれぞれの見出しのもとで報道しました。

朝日新聞

 終戦直後の1946(昭和21)年初め、外務省は東亜研究所に委託し、中国から日本に連行された中国人について、全国35企業・135ヵ所の事業所 の現地調査を行いました(調査団長は満鉄出身の赤塚正朝)。
 この調査にもとづいて外務省に提出された報告書が「華人労務者就労顛末報告所」で、通称 「事業所報告書」 と呼ばれるものです。
 また、この「事業所報告書」と各種統計をもとに、外務省管理局(平井庄壱調査官)がまとめたものが、「華人労務者就労事情調査報告書」で、これが「外務省報告書」と呼ばれるものです。全5冊646ページ、本文3冊に「別冊」と「要旨」がついています。
 外務省がこのような調査をしたのは、GHQ(占領軍総司令部)の調査に備えておくためだったといいます。
 「外務省報告書」の存在は以前から知られていて、断片的ですが内容はわかっていました。ですが肝心のまとまったものは、「全部焼却したために外務省にはない」(外務省の国会答弁)とのことで、「幻の報告書」といわれてきました。今回NHKが突きとめたのは、東京・銀座の華僑総会が保存していたものでした。

  1  「外務省報告書」が語るもの

 まず、「華人労務者就労事情調査報告」(要旨)の冒頭、「一、移入事情」に書かれている次の文をご覧ください。
 〈 戦争の進展に伴う労務需給の逼迫に対処し、政府は昭和17年11月27日の閣議決定 を以て、華人労務者を移入するの方針を決定せり。・・
 右方針に従い移入せられたる華人労務者は、昭和18年4月より同年11月迄の間に移入せられたる所謂 試験移入 8集団1、411名、及翌昭和19年3月より昭和20年5月に至る間移入せられたる所謂 本格移入 161集団37,524名、総計169集団38、935名 に上れり。・・ 〉

 「華人労務者」の「移入」方針が東条英機内閣の閣議で決定されたというのですから、明らかに国策 といってよいでしょう。また、移入は「試験移入」の段階を経て、「本格移入」となったことがわかります。この約39、000人 (あるいは4万人)という数値が、日本の歴史教科書に「強制連行」数として記述されています。

統計表

 左の統計表は、「移入・死亡・送還及残留数」(一部)を表したもので、国内への移入規模など実態をよく示しています。最上段を見ると、
  移入数 38、935(100%)  死亡数 6,830(17・3%)
 とでています。
 約39000人の移入数自体についてはいろいろな見方があるでしょうが、17.3%という死亡率はおおむね 6人に1人が死亡 した勘定になりますから、いかにも高いことは常識的にわかります。
 2段目はこれらの内訳です。読みにくいでしょうから、書き出しておきます。
 「供出地域」は、
    華北 35,778  華中 2,317  満州 1、020
 死亡内訳は、
   移入途次死亡812  事業場内死亡5,999 送還時及残留中死亡19名
 となっています。
 また、後述する「供出機関」(3段目)別、「供出方法」(4段目)別の「移入数」が5段目にでています。例えば、「華北労工協会」は「行政供出」という方法によって、24、050人、「訓練供出」という方法によって10,677人、合計で34,717人を扱ったということがわかります。
 問題になるのは、「華人労務者」をどのように集めたのか、つまり「供出方法」と、死亡原因が何だったのかということでしょう。

  @  供出方法

 まず、各事業所が必要とする人数を厚生省に申請、厚生省は軍需省などと協議のうえ人数を決定します。そこで、華北労工協会 を中心とする現地の「供出機関」が「華人労務者」を集めるという順序です。
 「華人労務者」をどのようにして集めたのか、「外務省報告書」は以下のように説明しています。
 〈 此等の供出方法は特別供出、自由募集、訓練生供出、及行政供出の4方法 なるところ、右の内華北運輸、福昌華工及国民政府機関扱のものは、何れも特別供出に係るものにして、2,763名を数え、荷役造船等の経験を有する華工を中心として編成せられ、素質最も良好なるのみならず死亡率亦低し。
 日華労務協会扱のもの1,455名は何れも自由募集に依るものにして素質特に不良とは認められざるも死亡率他機関扱のものに比し最も高し。
 華北労工協会扱いものは其の約3分の1に当たる10,677名は訓練生供出にして大部分は元俘虜、帰順兵、土匪、囚人 を訓練したるもの。
 他の約3分の2即ち24、050名は行政供出に係るものにして華北政務委員会の行政命令に基づく割当てに応じ、都市郷村より半強制的に供出せしめたるもの。
 此等 華北労工協会扱のもの 就中(なかんずく)行政供出にかヽるものは年令、健康、能力等何れの点よりするも 素質特に悪く死亡率も亦高し。

 「特別供出」 は、華北運輸など供出機関に在籍する労働者を日本内地に振り向けたわけですから、さほど問題にはならないでしょう。また、「自由募集」 も条件を示して希望者を募ったのですから、同様と考えられます。
 「訓練供出」 は俘虜、帰順兵などで、一般良民として釈放しても問題ない、あるいは微罪者を華北労工協会がもらい受け、同協会の「労工訓練所」で訓練するというものです。この訓練所における扱いがあまりに酷いというか、残酷というか種々の問題が指摘されています。
 この実態について調べたことはありませんが、一つだけ書いておきます。それは、告発するものの多く(ほとんど?)が中国抑留者という事実です。一例をあげれば、『天皇の軍隊』(朝日文庫)における難波博です。彼は「運河決壊」と「コレラ菌散布」事件の証言者でもありました。
 また、満州各地の鉱山などに、八路軍の俘虜が送られていた事実があります。この俘虜についての取り扱いが間接的ながら、参考になるかもしれません。
   次の「華北労工協会」による「行政供出」はもっとも人数が多く、また問題になるところです。「外務省報告書」は次のように書いています
 〈 供出の過半を占むる行政供出は、頭数を揃うることのみに堕し、体質、労働意欲其他に付、多くの問題を包蔵する危険あり。(中略)
 何故に斯る危険ある行政供出を選びたるか。当時の実情を見るに移入の主目標たりし元俘虜、帰順兵、囚人等の供出は当初の見透に比し遥かに少く、 (中略)華北自体の需要を充すすら困難を来しつつありし実情に加え、華北の豊作、物価高、治安悪化は供出の困難に拍車を掛け、其他供出網の不整備及移入の為華北に進出せる業者の性急なる所要数獲得企図は、不完全なる供出網下に劣悪なる華工を半強制的 に供出せざるを得ざるに至らしめたり。 〉

 「半強制的」とありますが、実態は「強制的」にきわめて近いところにあったのだろうと思います。戦況悪化というあせりが背景にあったのでしょうが、非難されて仕方のないことでしょう。
 元俘虜などが「見透に比し遥かに少く」 という点は注目に値すると思います。中国がいう膨大な数値(連行数)と実数がいかに乖離しているか、説明していると思えるからです。(まだ書いておりませんが、「満州への強制連行」「その他の万人坑」にも関連してきます)

  A  花岡事件

 内地に連行された中国人の17.3%という高死亡率、死亡者6,830名の死亡原因の内訳を見ておきましょう。死亡原因は 疾病、傷害、その他 と大きく3分類されていてます。
 まず「疾病」ですが、次のようになっています。
  伝染性疾患 1,962  一般疾病 3、899  不明 583  合計6,434名
 「傷害」は
   公傷 267  私傷55  合計 322名
 となっていて、私傷(55名)には「私傷死中35名は戦災死」と備考がついています。
 「その他」は
   自殺 41  他殺33  合計74名
 となっています。他殺(33名)に「何れも華人相互の殺害」と備考に書かれています。

 敗戦も近い1945(昭和20)年6月、135の事業所のひとつ、鹿島組経営の花岡鉱山・花岡出張所(秋田県大館市=旧花岡町)に河川工事のために連行されてきた中国人数十名が、過酷な労働などに耐えかねて反乱を起こし、日本人補導員4名ほかを殺害、逃亡する事件が発生しました。
 捜査のすえ、全員が連れもどされ、拷問などによって113人が死亡しています。花岡出張所には986人 が連行されていましたので、この事件の犠牲者をふくめ、418人、率にして約42% もの死者を出したことになります。
 花岡事件は強制連行の象徴として、また異常な高死亡率を出した過酷な労働実態を象徴するものとして、中学の教科書にも取りあげられています。この事件をもって全体を規定することはできないにしても、その状況の一端を知ることができます。

  2  「労工狩り」との関連

  @  「労工狩り」を事実とした根拠

 「多くの戦史が伝えるところによれば、当時の状況は次のようだった」 とし、「三光作戦」の説明につづけて、次のように書いています。
  〈 同じ時期に、後に「労工狩り」と呼ばれた軍による行動 も展開されていた。「労工」とは労働者のことで、労働者集めの人狩りのことを指す。当初集められた中国人は「満州国」、いまの中国東北部や華北の日本軍が接収した工場や鉱山などへ連行され、使役された。日本への強制連行も、この「労工狩り」と深く関係している ものと考えられる。 〉

 まず、「労工狩り」の意味がきわめて不鮮明です。まず、「多くの戦史」が「労工狩り」について伝えていると書いていますが、具体的に「戦史」とは何を指すのでしょう。依拠する具体的な「戦史」の名があがっていません。ですが、中国抑留者の「手記」や「供述書」、それに「帰国後の証言」に依っていると考えて、まず間違いないところです。すでに、記したように、「労工狩り」証言というのは中国抑留者に限られているといっていいからです。
 「労工狩り」という言葉の出所は、大木仲治の「手記」からでしょうが、大木が実行したという「労工狩り」は1941(昭和16)年のことですから、閣議決定よりずっと前のことになります。つまり、手記「労工狩り」が“資料”として引用につぐ引用のうちに、「労工狩り」が事実として市民権を得てしまったというわけです。
 また、NHKは「中帰連」を取材の上で、「戦犯たちの告白―撫順・太原戦犯管理所1062人の手記」 を 放送したのは1992(平成4)年8月のことでした。内容は10人の会員が登場しては、各々過去を懺悔したものでした。
 また、代表者が訪中し、日本軍の悪逆ぶりを非難する現地住民を前に頭を下げる場面もでてきます。現地とは山東省の臨清、コレラ菌散布事件があったという独歩44大隊の駐留地などです。この一行に小島隆男中尉(終戦時大尉)らが加わっていました。
 ホンコンで出版された『覚醒―日本戦犯改造紀実―』(長城文化出版公司、1991年)に次の記述があります。
 〈 1989年7月、「中帰連」は 高橋哲郎を団長とする4名の会員とNHKテレビ局の記者2人を中国に派遣 した。彼らは戦犯管理所と山東省を訪れ、『戦犯たちの告白』というテーマのドキュメンタリーを撮影した。 〉

 これにより、「中帰連」および中国側がNHKをどう位置づけていたか、また両者の関係が読みとれます。
 この番組の視聴率は12%といいますから約1000万人が見たことになります。そのうえ、再放送、再々放送とつづきましたので、「中帰連」が誇示するように、中帰連の知名度が一気にあがったのです。
 つまり、NHKの主要な取材源は、この頃から「中帰連」に大きく傾いていたのです。ですから、NHKは「労工狩り」について、中国抑留者以外の“関係者”から裏づけをとろうとした、あるいはとったという形跡はまったくないのも、むしろ当然のことなのです。

  A  猪瀬建造「証言」

 この本に、独混5旅(第12軍)・第19大隊に所属した猪瀬建造 (1943=昭和18年入隊)の証言がでてきますので、紹介しておきます。
 「 猪瀬さんは『討伐』について、次のように説明している。」として、以下のごとく記述されています。
 〈 「討伐」というのは、それぞれの部隊の上官の判断に基づいて行なわれていた小規模な軍事行動であり、敵の奇襲攻撃の危険が迫っているという判断が下されたときに、そのつど行われた。それは、北支那派遣軍の中枢からの命令により組織的に展開された作戦ではなく、各部隊が、駐屯地の周囲の治安を維持するために、余儀なく行っていた行動であったという。すなわち、軍による強制連行は、あくまでそれぞれの部隊の独自の判断に基づく「討伐」の結果、捕虜となった人たちの連行であった。
 猪瀬さんの話から、 強制連行は北支那派遣軍が軍をあげて行っていたのではなく、「討伐」という小規模な軍事行動から生まれた副産物であった ことがわかる。〉

 この説明は、当たっていると思います。日本軍側にすれば、八路軍の兵士と農民との区別がつきませんし、現に女性も子どもも、いきなり日本兵に対して発砲してくることが少なくありませんでした。「討伐」はこのような危険と背中合わせだったのです。ですから、敵意のない農民が巻き添えになって連行されたであろうことは、容易に想像のつくところです。
 このような「証言」を記述しながら、一方で、「多くの戦史が伝えるところによれば」という説明のみで、「労工狩り」を事実としているのは、NHKの先入観、スタンス がどのようなものなのか、わかろうというものです。
 なお、猪瀬は中国抑留者ではありません。

2006年11月 1日より掲載


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