ここのコメント欄は、800字以内とかの制限があって、きわめて使いづらい。安冨さんも、不便だろうから、池田さんに連絡して投稿資格を復活させたらどうですか。
以下は、再度のコメントに対する感想です。
説明していただいた『「経済は複雑系」だとすると、「応用ミクロ」というような手法は成立しないはずだというロジック』は、先に「分かるようで」と書いていたように想像の範囲内のものですが、やはり「全く分かりません」(正確には、全く納得できない)。
以下は、再度のコメントに対する感想です。
説明していただいた『「経済は複雑系」だとすると、「応用ミクロ」というような手法は成立しないはずだというロジック』は、先に「分かるようで」と書いていたように想像の範囲内のものですが、やはり「全く分かりません」(正確には、全く納得できない)。
総じて、現実は(1)〜(5)のような特徴をもっているのに、理論の側が((1)を除いて)そうした特徴に対応していないからダメだといっているようにしか聞こえない。しかし、現実をありのままに表現することなんかできるわけがないし、する必要もない。むしろ「実物大の地図」は役に立たない以上、理論というのはなにがしら非現実的なものでしかない。
例えば、現実の自動車は、多種多様な素材から構成され、内部に複雑な動力と制御の機構をもっている。その自動車の形状を樹脂という単一の素材で写し取っただけで、内部は空洞のプラモデルは、成立しない、あるいは意義がないんですかね。プラモデルでは、現実の自動車では多種多様な要素が関わっているという点は表現できていないのは確かですが、だから有用ではないということにはならない。形状による空気抵抗の違いを調べたりする目的からは、プラモデルでも立派に役に立つ。
同様に、現実の関係性が非線形だからといって、線形近似がいかなる場合にも意味がないということには全くならない。要は、理論の限界を踏まえて、誤差が大きくなり過ぎない範囲で運用していくということですね。このうまく運用するという部分には、科学というよりもアートの要素(人間の暗黙力?)が入りますから、「経済学者が5人いると、6つの異なった意見を聞かされる」ということになります(ケインズは、1人で2つの異なった意見を言うから(笑い))。
ひょっとすると、安冨さんは Grand Theory でないと Theory とはいえないと思っているのではないかな? しかし、前にも書いたように、応用ミクロの手法で論文を書いている人が山ほどいるわけで、もしそうした人達の営みの成果に全く意義のある知見が含まれていないと断じるとしたら、それはひどく「傲慢な態度」というしかない。逆に、(ゴミみたいな議論もいっぱいあるけれども)意義のある知見も含まれていると認めるなら、「応用ミクロ」みたいな手法も成立するということになる。どちらかな?
なお、「無時間的なミクロ経済学的アプローチ」という表現は、いただけないな。やっはり現代経済学のことを本当はよく知らないんだと邪推させます。学部レベルで教えられているミクロ経済学は、静学的な枠組みで確かに無時間的なものだけれども、それって初級かせいぜい中級の議論でしょう。そのレベルでイメージを固定化させていてはいけない。時間軸の入った動学モデルも実際に山ほどあるのだから、せめて「時間の取り扱いが無機質的で機械的なミクロ経済学的アプローチ」というくらいは言ってもらわないと話にならない。
また、[★続き]以下で書かれていることについては、やはりスタンスの正当性になんかに関心はないと言わざるを得ないですね。人間の認識が理論負荷的なものでしかないことくらい知っています(そんなことも知らないとまで見くびられているとは思いませんが...)が、前置きだけでなく、「だとしたらなんぼのものか」を示さないと意味がない。
悪いけれども「ここがロドスだ、ここで跳べ!」という感じで、跳躍に当たっての姿勢の善しわるしのうんちく話につきあう気はありません。それよりもどれだけ跳べたか(「有効な思弁」を実際に提示し得ているか)の方が重要だというのが、事実の問題を重視し、思弁的なことには無関心といった私の趣旨です(姿勢が正しくないと遠くまで跳べないはずだという一般論は分かっています−念のために)。
例えば、現実の自動車は、多種多様な素材から構成され、内部に複雑な動力と制御の機構をもっている。その自動車の形状を樹脂という単一の素材で写し取っただけで、内部は空洞のプラモデルは、成立しない、あるいは意義がないんですかね。プラモデルでは、現実の自動車では多種多様な要素が関わっているという点は表現できていないのは確かですが、だから有用ではないということにはならない。形状による空気抵抗の違いを調べたりする目的からは、プラモデルでも立派に役に立つ。
同様に、現実の関係性が非線形だからといって、線形近似がいかなる場合にも意味がないということには全くならない。要は、理論の限界を踏まえて、誤差が大きくなり過ぎない範囲で運用していくということですね。このうまく運用するという部分には、科学というよりもアートの要素(人間の暗黙力?)が入りますから、「経済学者が5人いると、6つの異なった意見を聞かされる」ということになります(ケインズは、1人で2つの異なった意見を言うから(笑い))。
ひょっとすると、安冨さんは Grand Theory でないと Theory とはいえないと思っているのではないかな? しかし、前にも書いたように、応用ミクロの手法で論文を書いている人が山ほどいるわけで、もしそうした人達の営みの成果に全く意義のある知見が含まれていないと断じるとしたら、それはひどく「傲慢な態度」というしかない。逆に、(ゴミみたいな議論もいっぱいあるけれども)意義のある知見も含まれていると認めるなら、「応用ミクロ」みたいな手法も成立するということになる。どちらかな?
なお、「無時間的なミクロ経済学的アプローチ」という表現は、いただけないな。やっはり現代経済学のことを本当はよく知らないんだと邪推させます。学部レベルで教えられているミクロ経済学は、静学的な枠組みで確かに無時間的なものだけれども、それって初級かせいぜい中級の議論でしょう。そのレベルでイメージを固定化させていてはいけない。時間軸の入った動学モデルも実際に山ほどあるのだから、せめて「時間の取り扱いが無機質的で機械的なミクロ経済学的アプローチ」というくらいは言ってもらわないと話にならない。
また、[★続き]以下で書かれていることについては、やはりスタンスの正当性になんかに関心はないと言わざるを得ないですね。人間の認識が理論負荷的なものでしかないことくらい知っています(そんなことも知らないとまで見くびられているとは思いませんが...)が、前置きだけでなく、「だとしたらなんぼのものか」を示さないと意味がない。
悪いけれども「ここがロドスだ、ここで跳べ!」という感じで、跳躍に当たっての姿勢の善しわるしのうんちく話につきあう気はありません。それよりもどれだけ跳べたか(「有効な思弁」を実際に提示し得ているか)の方が重要だというのが、事実の問題を重視し、思弁的なことには無関心といった私の趣旨です(姿勢が正しくないと遠くまで跳べないはずだという一般論は分かっています−念のために)。
現代の先端科学は、このような科学的ニヒリズム(モダーン思考)によって、科学の進歩が妨げられていることに気づき始めていて、他の科学などは、新しい思考による展開が始まっています。(スーパーストリングス論、人類学など)
経済学が科学にとどまろうとするなら、この新思考を取り入れなければ、将来的に本当に科学ではなくなりますし、反対に、新思考を取り入れやすいのも経済学なので、経済学が科学の最先端になる可能性もあります。
科学は検証、実証で理論として認められる、つまり「安全」が特徴なのですが、経済学では、「安全」な検証、実証は不可能なので、サブプライムローン理論では実証を現実で行なって、失敗してしまった訳です。つまり、最もラジカルな科学とも言えるわけで、例えば環境問題にしても、地球温暖化が進めば地球が壊れる。とどれだけ叫んでみても、本当に地球が壊れるのかどうか検証、実証が不可能である。つまりこれを科学的ニヒリズムと言います。このままでは、人類の未来にとって、科学的思考が最も危険な思考になる可能性も考えられます。